戦国インテリジェンス―海域アジアをめぐる諜報戦―(6)
かなり間が開いてしまいましたが、【こちら】のつづきです。
明の島津氏懐柔工作
明側は豊臣政権に反発する島津氏に目をつけました。1595年(万暦23、文禄4)に福建巡撫となった金学曽(きんがくそう)は諜報員として劉可賢を日本に派遣し、さらに1598年4月には漳州の儒生・林震虩(りんしんげき)を海商に変装させ、工作活動のため薩摩へ派遣しました。林は許儀後・郭国安に接触し、持参した銀800両を与えて島津氏が豊臣政権より離脱するよう説得しています(『錦渓日記』)。
許儀後らに提案した計画とは、明軍の精鋭100万で朝鮮を奪還した後、対馬・壱岐に渡海し、さらに琉球やシャム(タイ)、安南・交趾(ベトナム)、さらにポルトガルなどの諸国が兵船1万余で薩摩から日本へ侵攻するという驚くべきものでした。島津氏はその先導役をするということです。実際に島津氏が秀吉に反旗をひるがえす可能性はほとんどありませんでしたが、林の意を受けた許儀後・郭国安は島津義弘の在陣する朝鮮慶尚道の泗川へ向かい、説得活動に当たったといいます。
許儀後はさらに福建の明軍2万が薩摩から上陸し、島津軍4万と共同して秀吉を討つ計画を提案したようです(『徐文定公集』)。実際に許孚遠は1594年に軍船2000隻、兵20万で日本へ侵攻する計画を明朝廷に上奏しており、また朝貢国シャムからの援軍を対日戦に投入する案を兵部尚書の石星は本気で検討し(『万暦野獲編』)、またシャム側も援軍を申し出ていました。
日本軍と明・朝鮮軍との間で実際に戦闘が行われていたのは朝鮮半島でしたが、この戦いは秀吉が大陸の明を征服するための全面戦争(「唐入り」)であって、南の中国沿岸から東シナ海地域は決して無関係というわけではありませんでした。
琉球の鄭迵と陳申は「秀吉は在日明人を先導役に南京・浙江・福建から侵攻する計画である」との情報を明にもたらしたように、福建をはじめとした中国沿岸の人々にとって秀吉の侵攻は目の前の脅威としてとらえられました。それはかつての「嘉靖大倭寇」の記憶と重なり、その悪夢を呼び覚ますものでもありました。別働隊がいつ中国本土に直接来襲するかわからない緊迫した状況で、明は1567年以来解除していた海禁政策を一時復活し、沿岸地帯の軍備強化が提起されるようになります。
「関白」来襲の噂
また秀吉の朝鮮出兵に合わせるかのように、琉球の漂着民を「倭人」と誤認する事件も続出しています。これは明側が日本への警戒から、漂着民を忠順な朝貢国の「琉球人」と敵対する「倭人」とに判断する必要が生まれ、当時の海域と境界で生きる「所属が曖昧な人々」をも強引に峻別することにより、引き起こされたものでした。
江南では秀吉への関心が高まり、多くの人々の関心事となります。秀吉中国人説が当時有力視され、はては秀吉の正体は「蛟(みずち)」という化け物であるとの風説が出回り、こうした題材の物語(『斬蛟記』)が大反響を呼びました。太倉(上海と蘇州の間に位置)では秀吉来襲に備えて拳法自慢を集め、軍事教練の真似事を行う名門の子弟たちもいたといいいます。明の人々にとって「関白来襲」の衝撃はそれだけ大きかったのです。
1598年、豊臣秀吉の死によって朝鮮半島の日本軍は撤退、こうして東アジアを巻き込んだ動乱は終結し、秀吉の野望ははかなくも消えました。この戦争は朝鮮半島に限定されたものではなく、環東シナ海世界ではとくに「情報」による戦いが行われていたことを忘れてはならないでしょう。
参考文献:上里隆史『琉日戦争一六〇九』、長節子『中世国境海域の倭と朝鮮』、中砂明徳『江南』、渡辺美季「琉球人か倭人か」(『史学雑誌』116編10号)
(おわり)