2010年1月30日 (土)

戦国インテリジェンス―海域アジアをめぐる諜報戦―(6)

かなり間が開いてしまいましたが、【こちら】のつづきです。

明の島津氏懐柔工作
明側は豊臣政権に反発する島津氏に目をつけました。1595年(万暦23、文禄4)に福建巡撫となった金学曽(きんがくそう)は諜報員として劉可賢を日本に派遣し、さらに1598年4月には漳州の儒生・林震虩(りんしんげき)を海商に変装させ、工作活動のため薩摩へ派遣しました。林は許儀後郭国安に接触し、持参した銀800両を与えて島津氏が豊臣政権より離脱するよう説得しています(『錦渓日記』)。

許儀後らに提案した計画とは、明軍の精鋭100万で朝鮮を奪還した後、対馬・壱岐に渡海し、さらに琉球やシャム(タイ)、安南・交趾(ベトナム)、さらにポルトガルなどの諸国が兵船1万余で薩摩から日本へ侵攻するという驚くべきものでした。島津氏はその先導役をするということです。実際に島津氏が秀吉に反旗をひるがえす可能性はほとんどありませんでしたが、林の意を受けた許儀後・郭国安は島津義弘の在陣する朝鮮慶尚道の泗川へ向かい、説得活動に当たったといいます。

許儀後はさらに福建の明軍2万が薩摩から上陸し、島津軍4万と共同して秀吉を討つ計画を提案したようです(『徐文定公集』)。実際に許孚遠は1594年に軍船2000隻、兵20万で日本へ侵攻する計画を明朝廷に上奏しており、また朝貢国シャムからの援軍を対日戦に投入する案を兵部尚書の石星は本気で検討し(『万暦野獲編』)、またシャム側も援軍を申し出ていました。

日本軍と明・朝鮮軍との間で実際に戦闘が行われていたのは朝鮮半島でしたが、この戦いは秀吉が大陸の明を征服するための全面戦争(「唐入り」)であって、南の中国沿岸から東シナ海地域は決して無関係というわけではありませんでした。

琉球の鄭迵陳申は「秀吉は在日明人を先導役に南京・浙江・福建から侵攻する計画である」との情報を明にもたらしたように、福建をはじめとした中国沿岸の人々にとって秀吉の侵攻は目の前の脅威としてとらえられました。それはかつての「嘉靖大倭寇」の記憶と重なり、その悪夢を呼び覚ますものでもありました。別働隊がいつ中国本土に直接来襲するかわからない緊迫した状況で、明は1567年以来解除していた海禁政策を一時復活し、沿岸地帯の軍備強化が提起されるようになります。

「関白」来襲の噂
また秀吉の朝鮮出兵に合わせるかのように、琉球の漂着民を「倭人」と誤認する事件も続出しています。これは明側が日本への警戒から、漂着民を忠順な朝貢国の「琉球人」と敵対する「倭人」とに判断する必要が生まれ、当時の海域と境界で生きる「所属が曖昧な人々」をも強引に峻別することにより、引き起こされたものでした。

江南では秀吉への関心が高まり、多くの人々の関心事となります。秀吉中国人説が当時有力視され、はては秀吉の正体は「蛟(みずち)」という化け物であるとの風説が出回り、こうした題材の物語(『斬蛟記』)が大反響を呼びました。太倉(上海と蘇州の間に位置)では秀吉来襲に備えて拳法自慢を集め、軍事教練の真似事を行う名門の子弟たちもいたといいいます。明の人々にとって「関白来襲」の衝撃はそれだけ大きかったのです。

1598年、豊臣秀吉の死によって朝鮮半島の日本軍は撤退、こうして東アジアを巻き込んだ動乱は終結し、秀吉の野望ははかなくも消えました。この戦争は朝鮮半島に限定されたものではなく、環東シナ海世界ではとくに「情報」による戦いが行われていたことを忘れてはならないでしょう。

参考文献:上里隆史『琉日戦争一六〇九』、長節子『中世国境海域の倭と朝鮮』、中砂明徳『江南』、渡辺美季「琉球人か倭人か」(『史学雑誌』116編10号)

(おわり)

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2010年1月16日 (土)

島津侵攻秘話(6)

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2009年がすぎましたが、まだ「2009年度」内ということで(笑)、島津軍の琉球侵攻にまつわるお話を続けたいと思います。

細川藤孝が送った歌
1609年、島津軍の琉球侵攻に際し、細川幽斎(藤孝)は島津義久に次のような歌を送ったといいます。

いはふとも義久敷のあらなみに 島津たひしてゆけや琉球

「義久」と「好し久しき」、「島津たひ(旅)」と「島伝い」をそれぞれかけています。

細川幽斎は豊臣政権時、石田三成とともに秀吉と島津氏の間をとりもった取次役をしていました。秀吉の対琉球政策にもかかわっていた人物です。こうした縁から幽斎は義久に歌を送ったと考えられます。

また義久は琉球侵攻について次のような句も詠んでいます(『旧記雑録』)。

むかふ風あらぬは梅のにほひかな

「向かい風(が吹いた)。(そのせいで)思いもよらず梅のにおいがこちらに漂ってきた(思いもよらずめでたい)」 ほどの意味と考えられます(沖縄短歌界のホープ、屋良健一郎氏のご教示による)。船団の出帆にかけているのでしょうか。

こうした文学作品から島津侵攻事件をひもといていくと、新たな事実が明らかになるかもしれませんね。

参考文献:『真境名安興全集』3巻

【画像】島津の船団が出航した鹿児島山川港。

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2009年10月31日 (土)

島津侵攻秘話(5)

琉球に侵攻した島津軍の強さ

1609年に琉球を襲った島津氏の軍勢。その強さは戦国日本のなかでもトップクラスに入るものでした。ある人は「琉球はたった3000人の軍勢にやられた」と言います。たしかに兵数が勝敗に影響するのはそうなのですが、戦争は単純な数の勝負で決まるわけではありませんし、島津兵3000人が本当に「たったこれだけ」と言えるのかは、検討の余地があります。

琉球侵攻からさかのぼること11年前の1598年。豊臣秀吉の明征服戦争で朝鮮半島へ出兵した島津義弘・忠恒(家久)らは、慶尚道の泗川(サチョン)において明・朝鮮連合軍と激突します。董一元率いる兵数20万と号した明の主力軍です(実際には3万7000ほどだったとも)。対して泗川倭城に籠もる島津軍は5000にも満たない兵数です。しかもこの軍勢は独立した5つの寄せ集め軍団で成り立っていました。

10月、明・朝鮮軍が泗川倭城を攻撃します。義弘らは押し寄せる敵を鉄砲で撃退し、さらに明軍の大砲の火薬が誤爆すると、混乱する明軍の中へ島津軍が突撃しました。義弘・忠恒も自ら敵兵を討ち取る激戦となり、やがて明・朝鮮軍の全面的な敗走となりました。圧倒的に不利な戦況をくつがえしての島津軍の大勝利です。これが有名な「泗川の戦い」です。

この日討ち取られた明・朝鮮軍の兵士は実に3万余にものぼったといいます。この戦いによって明軍の主力を殲滅した島津軍は、明・朝鮮の人々から「鬼石曼子(グイシイマンズ)」と呼ばれ恐れられました。日本でも五大老・五奉行ら豊臣政権の首脳部は、日本軍10万の撤退成功は泗川での島津軍の勝利にあるとして、最大級の賛辞を贈っています。

ちなみに泗川の戦いでは、琉球侵攻軍の大将となるあの樺山久高も参加しています。この時、久高は激戦のなかで身長6尺(180センチあまり)の江南出身の明兵と格闘となりました。豪腕の明兵に対し、力不足の久高は組み伏せられ危険な状態となりましたが、家来の田実三之丞という者が駆けつけ鎗で明兵の顔を突き、ひるんだその隙に久高が明兵の首を掻き斬ったといいます(『本藩人物誌』)。危うく久高は討ち死にするところでした。

島津軍の琉球侵攻にはこうした歴戦の猛者が揃っていたのです。琉球には4000人ほどの軍事組織が存在したとはいえ、戦慣れしておらず装備も劣り、島津兵は3000人でも充分な数でした。

島津軍と琉球軍の戦いを、あえてわかりやすく現代に例えていえば、グリーンベレー・デルタフォースなど米軍の特殊部隊3000人と沖縄の警察官4000人が戦うようなものだったといえます。この場合、「沖縄県警は米軍の特殊部隊たった3000人に敗れた」とは決して言うことはできないように、「島津軍たった3000」とは言えないように思います。

参考文献:山本博文『島津義弘の賭け』、村井章介「島津史料からみた泗川の戦い」(『歴史学研究』736号)

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2009年10月 8日 (木)

島津侵攻秘話(4)

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おかゆを流したのはなぜ
1609年の島津軍侵攻は琉球がこれまで経験したことない、大きな「いくさ」でした。琉球で平和に暮らしていた人々は、この外からの脅威に対してどのように対応したのでしょうか。

1609年3月に薩摩の山川港を出発した3000人の島津軍は、那覇をめざして奄美諸島を南下していきます。琉球側は手をこまねいていたのではなく、徳之島に軍勢を集めて防ごうとしました。ここでは刀や弓矢を持った兵士だけではなく、村の人たちもそれぞれの家からある「武器」を持って出てきました。

その「武器」とは、グツグツと煮た粟(あわ)のおかゆです。人々はこのおかゆを道や坂に流すという奇妙な行動に出ます。徳之島の人にとって、この行為はれっきとした戦闘行為でした。実は、奄美では粟のおかゆは悪霊を払う力を持つと信じられており、たとえば奄美大島の名瀬では神女(ノロ)が村の背後にある拝み山で粟のおかゆを流し、悪霊から村を守る儀式を行っていたそうです。つまり、彼らは侵入してくる島津軍を悪霊と同じように考え、普段の生活で行われてきた方法で、外敵を撃退しようとしたのです。

また神女たちの神歌を集めた歌謡集(『おもろさうし』)には、侵入してきた「大和前坊主(やまと・まえぼじゃ。チョンマゲの武士を馬鹿にした言葉)」をニライ・カナイの底へ沈めよ、と歌ったものがあります。沖縄には海のかなたにニライ・カナイという別世界が存在すると信じられていて、そこからは幸せだけでなく災いももたらされると考えられていました。

沖縄の年中行事には「アブシバレー(畦払い)」という、農耕の害虫などを小船に乗せて海へ流すという儀式がありますが、これはニライ・カナイから来た災い(害虫)を元の世界へ戻そうとするものです。つまり、神女たちは侵入してきた日本の武士たちを害虫と同じように扱い、海の向こうへ追い返そうとしたのです。

当時の琉球では、神女の霊力は実際の戦闘力と同じ力があるとかたく信じられていました。ある石碑には「沖縄は聞得大君(ノロの頂点にいる女性)の霊力で守られている」と記されています。実際には島津軍に何のダメージも与えられませんでしたが、琉球の人々は日常生活の儀式を応用して、外敵に対抗しようとしたわけです。これも生活の知恵といえばそうなのかもしれませんね。

参考文献:波照間永吉編『琉球の歴史と文化―『おもろさうし』の世界―』

※【画像】今帰仁崎山の神アシャギ。ノロが神々を招いて祭祀を行った。

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2009年9月17日 (木)

島津侵攻秘話(3)

死刑になった名護親方

1614年、中国(明朝)に向かった琉球の使節は、皇帝にこう述べました。

「名護親方は使命を汚した罪により、死刑にしておきました」

名護親方と言えば当時の三司官、名護親方良豊(馬良弼)のことです。しかも名護は実際には死刑になってはいません。なぜ琉球はこうしたウソをついたのでしょうか。そして名護はいったい何をしでかしたのでしょうか。

1609年に琉球を征服した島津氏でしたが、なぜ琉球を攻めたかというと、それは島津氏のさらに上にいる徳川政権が日明の国交回復を琉球を仲介させようとしたことが一番の原因でした。秀吉の朝鮮出兵で日明の国交は断絶しており、家康はどうにか関係を修復して明との貿易を行いたかったからです。

琉球が征服されると、徳川政権は島津氏に命じて日明関係の回復と貿易の復活を琉球に交渉させようとします。これを受けて島津家久は、明への3つの提案を作成します。その内容は、

(1)どこかの辺境の島で日明が出会い貿易を行う、(2)毎年中国より商船を琉球に渡航させ日明貿易の中継地とする、(3)日明両国が相互に使節船を派遣する。この三つの中から一つを明は選択せよ。もし拒否すれば、中国に日本から軍勢を派遣し、街を破壊し人々を殺戮する。

というもの。完全に脅迫です。

琉球は名護親方が使節となって、1612年にこの書簡を明朝へ提出しましたが、これが大問題となります。この時の琉球使節には日本人(おそらく薩摩の人間)も混じっており、荷物検査に刀をふりかざし反抗するというトラブルも起こしました。明朝は島津軍の征服で琉球が日本に操られていることを見抜き、本来は2年に1度の朝貢のところを、10年後にまた来い、と事実上の朝貢停止措置に出たのです。日本の交渉は失敗に終わりました。

10年後の朝貢を命じられた琉球でしたが、これに慌てた王府は、元通りの朝貢に戻すことをお願いしに明朝へ行きます。実は、名護親方はこうしたなかで、不届きな脅迫文を届けたすべての責任を負わされ、王府は処刑したと報告することで問題の沈静化をはかったわけです。とはいえ、名護親方は実際には何の罪に問われていないので、あくまでも明に向けてのポーズだったことがわかります。

ちなみに琉球は何度も旧来通りの朝貢回復をお願いするついでに、ちゃっかり貿易を行っています。なので結局、実質的に中国貿易は継続して行われていたわけです。したたかな琉球のやり方がよくわかりますね。

参考文献:渡辺美季「御取合400年―琉球・沖縄歴史再考6」(「沖縄タイムス」2009年2月26日)、上原兼善『島津氏の琉球侵略』

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2009年9月10日 (木)

島津侵攻秘話(2)

琉球に贈られた狩野派の屏風

島津氏が琉球へ外交圧力をかけていくきっかけとなったのが、1575年の「綾船(あやぶね)一件」と呼ばれる事件です。島津義久の家督相続を祝う「綾船」を琉球が派遣した際、島津氏が強硬な態度でさまざまな要求を突きつけ、その要求を呑ませようとした事件です。「綾船」とは琉球の正式な使節船のことで、「綾(あや)」とは琉球語で「あざやかな、飾られた」という意味。首里城の坊門(飾りの門)である守礼門が「綾門(あやじょう)」と呼ばれていることからもわかります。

それまでの琉球と島津氏の関係は、基本的に対等な関係でした。ところが、島津氏が南九州を統一し勢力を拡大するようになると、琉球へ向かう船の統制をはかろうとして、琉球王府に島津氏の発行した印判(渡航許可証)を持たない商船を受け入れないよう強制します。しかし、たくさんの商船を招致することで成り立っていた琉球にとって渡航規制をすることは死活問題です。琉球は島津氏のたび重なる要求を黙殺していましたが、「綾船一件」でしぶしぶ島津氏の要求を呑むことになりました。

両者の関係が悪化するなか、島津氏老中の伊集院忠棟は狩野法眼(ほうげん)に直接注文して描かせた屏風を琉球の円覚寺にプレゼントし、円覚寺のほうから琉球国王へその仲を取り次ぐように依頼しました。依頼の手紙と屏風はトカラ列島の海上勢力であった七島衆によって運ばれています。

円覚寺は琉球最大の寺院で、単なる宗教施設ではなく対日外交担当部局としての役割も果たしていました。さらに当時の円覚寺には島津義久が幼少の頃、薩摩で教えを受けていた僧侶もいました。島津氏との個人的な関係も持っていたわけで、こうしたつながりから忠棟は円覚寺へ手紙を送ったのです。

狩野派といえば当時の日本で将軍家や諸大名から珍重された画家の一派です。その絵が琉球の円覚寺にも存在したことになります。残念ながらこの屏風は現存していないので、どのようなものだったかはわかりませんが、伊集院忠棟はこうした高価な美術品を贈ることによって、琉球との交渉の糸口を探ろうとしたのです。

参考文献:深瀬公一郎「十六・十七世紀における琉球・南九州地域と海商」(『史観』157冊)

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2009年9月 3日 (木)

島津侵攻秘話(1)

今年は薩摩島津軍が琉球へ侵攻してからちょうど400周年です。この歴史的事件は比較的有名なのですが、詳細を知る人はあまり多くないと思います。そこで今回から数回に分けて、琉球侵攻事件にまつわるお話を紹介していきたいと思います。

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薩摩の尚寧、東に祈る
1609年、島津軍3000が琉球を襲い、占領しました。尚寧王は降伏し、4月5日に首里城を明け渡すことになりました。やがて島津軍の大将・樺山久高は尚寧王に、「薩摩へ渡って(島津家久に)御礼をしなければならない」と日本へ渡航するよう強制します。琉球の王が他国へ渡るなど前代未聞です。しかし敗れた王にこれを拒否する権利はありませんでした。

5月15日、島津軍とともに尚寧王と供の者100人あまりが鹿児島へ向けて那覇港を発ちました。やがて一行は薩摩の山川港を経て、島津家久のいる鹿児島へ到着しました。鹿児島では新造の屋敷が用意されていて、尚寧王はしばらくそこに滞在していました。

そして年明けて1610年。新年を異国で迎えた尚寧王は、元旦にある祈りを行います。その様子を伝えた『喜安日記』にはこう書かれています。

正月三が日は尚寧王のもとに誰も訪れてこなかったが、朝の御拝を東方に向いて祈られた

この行為は今まで注目されてきませんでしたが、非常に興味深いものです。尚寧王はただ気まぐれに祈っていたのではありません。

古琉球では、元旦に首里城正殿前の御庭で「朝拝御規式(ちょうはいおきしき)」と呼ばれる、王国の年中儀礼のなかで最大のイベントが行われていました。これは御庭に諸官一同・諸山の長老(和尚)が整列し、その年の吉方(恵方)に向かって祈る儀式です(近世には北方に固定)。中国系の音楽が流れ鮮やかな旗・儀仗で飾られた荘厳なものでした。

しかしこの年、王は鹿児島へ連行されていたので儀式が行えません。そこで囚われの王は臨時的にたった一人で祈りを行っていたのです。東方に祈ったというのは、あるいは東方海上に存在すると考えられた別世界「ニライ・カナイ」の方角に向けてのものだったかもしれません。

王は太陽(てだ)の化身とされ、その力は琉球世界を豊穣にすると考えられていました。正月の儀礼は、その年の安泰を祈願する役割もありました。もしかしたら二度と戻ることはできない状況で、尚寧王は遠く離れた異国の地から琉球の幸せを祈っていたのです。

参考文献:『喜安日記』

※【画像】は近世期の朝拝御規式における国王(再現)

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2009年1月28日 (水)

島津軍の琉球侵攻(4)

4月2日、具志頭王子朝盛(尚宏)と三司官が人質として那覇へ下向します。3日にはさらに佐敷王子朝昌(尚豊)を人質に出し、尚寧王は島津軍に降伏しました。先島・久米島へは遠路のため兵は派遣されず、三司官から降伏が勧告されています。この動きの一方で、降伏に反対する勢力は首里城を出て島津軍と戦いました。この時、三司官・浦添親方朝師の子、真大和兄弟らが首里識名で戦死しています。しかし島津側も部将の梅北照存坊が討死、法元弐右衛門が負傷しました。

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【図】首里城(クリックで拡大)

4月4日、尚寧王は首里城を出て名護親方の宿所へ移りました。5日に首里城は占領、城内の荷物改めが行われ、日本では見られない数多くの唐物・珍品が島津側に没収されました。宝物の点検は雑兵たちの略奪を恐れて本田親政ら荷物御改組頭の厳重な管理下で行われ、その期間は10日近くにも及んだといいます。荷物改めが終了し、先島の帰順が確認された後の5月15日、尚寧は100余人の供を連れ、島津軍とともにヤマトへ向け那覇港を発ちました。港口では1000人の群衆が悲しみの中、王を見送ったということです。

ところで歌謡集『おもろさうし』には、尚寧王妃が詠んだとされるオモロ(神歌)が残されてます(注21)。

北風の吹く頃になれば、国王様のお帰りをお待ちせねば。追い風の吹く頃になれば」(現代語訳)

遠い異国の地にいる夫の身を思いながら、ひたすら帰りを待つ王妃の気持ちが伝わってくるようです。尚寧王は2年の後にようやく琉球へ帰国しましたが、待っていたのは琉球王国の自由を規制する薩摩藩のさまざまな圧力でした。こうして、琉球の敗北により古琉球の時代は終わりを告げたのです。

(おわり)

【注】
(注21)高良倉吉『新版琉球の時代』(ひるぎ社、1989)、『おもろさうし』巻13、「船ゑとのおもろ御さうし」。

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2009年1月21日 (水)

島津軍の琉球侵攻(3)

4月1日、七島衆を主力とした海路の島津軍が那覇港に突入しました。那覇は謝名親方利山(鄭迵)、豊見城親方盛続(毛継祖)ら3000の兵が陣取っていました。那覇港口には屋良座森・三重グスクの要塞【図】が築かれており、鉄鎖により港を封鎖、両要塞からは「大石火矢(大砲)」による砲撃(『歴代宝案』には「銃を発し」とあります)が行われ(注16)、軍船は侵入を阻止されます。

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【図】屋良座森グスク(クリックで拡大)

那覇防衛軍は謝名・豊見城ら2名の「師官」に統率されていました(注17)。これは軍が二隊で構成されていたことを意味し、有事の際に「ヒキ」から成る二隊が那覇防衛に当たる軍事制度に一致します。この日、豊見城は臨時の三司官職に就いており(注18)、捕縛された名護に代わって軍を指揮したとみられます。「ヒキ」を統率する官衙の長は三司官でした。琉球の軍事制度は実際に発動された可能性が高いといえます。

一方、大湾から上陸した陸路の島津軍は浦添グスクと龍福寺を焼き払い、首里に向かってさらに南下しました。琉球側は那覇に兵力の大部分を集中し中部地方に兵を配置しておらず、守備の手薄な部分を突かれた格好となりました。島津軍は浦添間切の小湾で軍議を開き、首里・那覇の状況を見定めてから攻撃を開始します。

島津軍の首里接近に対し、越来親方率いる100人の兵が首里入口の大平(平良)橋で迎え撃ちました。大平橋付近は浦添グスクから首里へ入る道が整備され、また首里北方面から市街地へ進入できる通路となっており、鎌倉の切通のような軍事的要衝の地でした(こちら参照。絵図左上部分の平良橋がそれです)。琉球側はここで島津軍をくい止めようと図ったのです。しかし島津軍の鉄砲の前に琉球軍は壊滅し、首里城へ退却しました。この時、城間鎖子親雲上盛増は鉄砲に当り戦死しています。謝名らの那覇防衛軍も島津軍の首里城接近を聞き、首里へ退却します。

首里入口の防衛線を突破した島津軍は首里市街になだれ込み、首里城は包囲されます。首里城・西のアザナ(物見台)では法元弐右衛門の兵が城内への侵入を試みましたが、王府に仕えていた日本人・山崎二休守三の守備兵により撃退されました(注19)。

首里・那覇の各所では島津軍による放火・略奪が行われました。この日、那覇の親見世で和睦交渉が開始されましたが、その最中にも命令を無視した放火が行われ、島津側は市来家政らの兵を向かわせ制止しています(注20)。ほぼ勝敗が決した中で、戦利品を目当てに雑兵たちが思い思いに略奪行為を働いていたとみられるのです。統制の取れない島津軍の状態を示すものといえるでしょう。この結果、聞得大君御殿、仙福庵、豊見城親方の宿所、また那覇の広厳寺、その他多くの民家が灰燼に帰し、各家々の日記や文書、貴重な宝物なども火災で失われてしまいました。

(「島津軍の琉球侵攻(3)」につづく)

【注】
(注16)上里隆史「琉球の火器について」(『沖縄文化』91号、2000)。古琉球には中国伝来の旧式火器の「手銃」及び大型火器の「石火矢」などが存在していましたが、17世紀初頭の琉球の武装は銃より弓矢の比率が2:5と多く(袋中『琉球往来』)、島津軍のように大量の火縄銃(侵攻軍の鉄砲保有数は弓117張に対し734挺)で武装されていなかったとみられます。
(注17)注8と同じ。「ヒキ」と軍事制度については「島津軍の琉球侵入(2)」の図を参照。
(注18)『毛姓家譜』(『豊見城村史』第9巻 文献資料編、1998)
(注19)『葉姓家譜』(那覇市歴史博物館蔵)
(注20)注5と同じ。

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2009年1月14日 (水)

島津軍の琉球侵攻(2)

3月25日、島津軍は沖縄島の属島、古宇利島へ上陸しました。対する琉球側は三司官・名護親方良豊(馬良弼)率いる1000名の兵を北部防衛に向かわせました(注8)。

古琉球には首里王府のもとに編成された数千人規模の軍事組織が存在していました。この軍勢は『おもろさうし』で「しよりおやいくさ(首里親軍)」と謡われ、首里・那覇の防衛のみならず、奄美・先島地域への征服活動を担った琉球王国の「軍隊」でした(注9)。有事の際には、「ヒキ」と呼ばれる軍事組織が三隊に分かれ、首里・那覇をそれぞれ防衛することが1522、1554年の軍事制度で規定されていました(注10)。

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【図】古琉球の軍事組織(クリックで拡大)

一方の島津軍は戦国時代、多くの戦闘を経験し勇猛で知られていました。例えば文禄・慶長の役(壬申・丁酉倭乱)時、泗川の戦い(1598年)では、島津軍8000の兵で明・朝鮮軍約4万を撃破し(5000以下の兵で20万の敵を撃破したとも)、実に3万の首級をあげています(注11)。琉球侵攻軍には樺山久高など泗川の戦い経験者が従軍しています。島津軍はわずか3000の兵でしたが、このような東アジア有数ともいえる精強な軍団に、実戦経験のない琉球軍は対抗する術をほとんど持たなかったのです。

しかし、この戦争での島津軍の戦死者は「雑兵一、二百人ほとも戦死仕侯由」(注12)と、100人から200人が戦死したようです。島津側は「殊更味方ハ多くも亡ひ申さす侯」と、自軍の損害が軽微だったと考えていたようですが、島津軍3000人のうち200人も戦死するほどの戦闘が琉球軍との間で行われていたわけで(負傷者はさらにこれを上回るでしょう)、琉球側は島津軍の侵攻に対して実際に応戦したのです。これが、琉球が戦わずして負けたのではないことを示す決定的な証拠です。

3月26日、島津軍と名護親方率いる琉球正規軍が北部で激突しました。琉球軍は兵の半数を失う敗北を喫し、名護も島津軍に捕えられます。『歴代宝案』以外の史料にこの戦闘は記されていませんが、28日には沖縄島北部を統括する山北監守・向克祉(今帰仁按司朝容)が死亡しており、戦死したとみられています(注13)。北部地方で何らかの戦闘が行われたことは間違いないでしょう。

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【図】島津軍が占領した今帰仁グスク(クリックで拡大)

3月27日、島津軍は運天港から今帰仁地方を巡回しましたが、北部の拠点・今帰仁グスクの琉球軍は撤退していて空城でした。またこの時、島津軍は方々で放火・略奪を行っています。戦国時代の日本では敵地での人狩り・物資の略奪が雑兵の戦利品として一般化しており、雑兵たちはこれを目的に戦闘に参加していました(注14)。この「戦国の論理」が琉球にも持ち込まれたのです。トカラには琉球侵攻の際に連行された琉球人の伝承も残っています(注15)。琉球侵攻前に定められた島津軍の軍規は琉球人への乱暴狼藉を禁止していましたが、実際には守られていなかったようです。

島津軍来襲の報を聞いて、那覇は避難する住民で大混乱に陥ります。王府は禅僧の菊隠宗意らを和睦の使者として今帰仁へ派遣しましたが、島津側に「交渉は那覇で行う」と拒否されました。

3月29日、島津軍は運天港を出て沖縄島中部の大湾渡口(読谷村)に到着、ここから軍は陸・海の二手に分かれ首里・那覇へ向けて進軍します。侵攻の経路が山北監守の拠点であった今帰仁をいったん通過し、さらに王国中枢の首里・那覇を目指したことから、島津軍の侵攻作戦が琉球の二大拠点の攻略を目的としていたことがわかります。

(「島津軍の琉球侵攻(3)」につづく)

【注】
(注8)『歴代宝案』1-18-3(『歴代宝案 訳注本』第1冊、沖縄県教育委員会、1994)
(注9)上里隆史「古琉球の軍隊とその歴史的展開」(『琉球アジア社会文化研究』5・6号、2002‐2003)
(注10)高良倉吉『琉球王国の構造』(吉川弘文館、1987)
(注11)村井章介「島津史料からみた泗川の戦い―大名領国の近世化にふれて―」(『歴史学研究』736号、2000)
(注12)『旧記雑録後編』巻64「維新公御文抜書」(『鹿児島県史料 旧記雑録後編4』、1984)
(注13)高良倉吉「山北監守をめぐる問題点」(同著『琉球王国史の課題』ひるぎ社、1989)
(注14)藤木久志『雑兵たちの戦場』(朝日新聞社、1995)
(注15)『宮本常一著作集17 宝島民俗誌・見島の漁村』(未来社、1974)

※本ブログ記事「侵攻400周年シンポに参加して」もご参照ください。

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