2009年12月17日 (木)

どこまでが琉球で、どこまでが日本か

来年の2月6日、沖縄県立埋蔵文化財センターで文化講座「どこまでが琉球で、どこまでが日本か」が開催されます。近年めざましい進展をとげる奄美諸島史の考古学を中心に、琉球の歴史とのかかわりを探っていこうとするものです。考古学の成果をきちんと整理したうえで、文化圏の相違、またその分布や相互の影響を探ることは大変意義のあることです。

しかし、昨今一部で展開されているような、その成果を安易にアイデンティティ論争に直結させるような動きや、最新の研究水準をふまえていない「沖縄島中心史観批判」に僕は違和感を感じています。本文化講座では拙速に「日本か琉球か、白か黒か」的な結論を出すのではなく(堅実な報告者なのでそうはならないと信じていますが)、ぜひ以下のような視点も念頭において、議論を深めていってもらえればと願っています。古琉球を研究している立場から書いた、「琉球の歴史の見方」についての僕の考えです。

琉球は東南アジアだ(原題)

 「上里君、古琉球は東南アジアだよ」

10年前、中世日本史の村井章介氏(東大教授)からこう言われて、その真意をはかりかねたことがある。だが古琉球のことを調べていくうちに、その歴史のなかに東南アジア的側面を強く感じることになった。それは個々の事例の相似によるものではない。社会や歴史のあり方そのものが共通しているのである。

古琉球はヤマト文化に近い関係を持ちながらも、国内外の体制は中国無しでは成り立たない政治・社会システムを築きあげた。政治・交易中枢は那覇・首里に一極集中し、港市にはさまざまな外来者が住み、単一のエスニシティを持たない彼らは、琉球の権力内部に他者ではない「われわれ」として深く関与した。このありようは東南アジアの港市国家と同じである。

桃木志朗氏(大阪大教授)は、東南アジアは固定化されない「不安定な生成流転の渦」によって成り立つ社会で、世界宗教・世界文明のような《原理的オリジナリティー》を主張しないと説く。また「国家を支える制度、神話、宗教などの諸要素は、インドや中国やアラビアからきたものばかりだ。オリジナリティーはそれらの採り入れ方、組み合わせ、機能のさせ方にある」と主張する(『歴史世界としての東南アジア』)。まさに古琉球の世界ではないか。ちなみに桃木氏も「琉球王国は東南アジア的性格をもつ」と述べる。

かつて伊波普猷や柳田国男は琉球文化に純粋な「日本」を見出そうとし、また戦後の歴史研究では「中国」の冊封体制に寄り添って中国的要素を強調し、ヤマトからの独自性を確保しようとした。だがどちらの純粋な原理的要素を抽出したところで、それらは全体の中のかけらにすぎない。

琉球・沖縄の「本質」を突き止めるために、起源や出自探しをするのはもうやめにしないか。どのような文化が流入し、どのような人々が来ようとも、南西諸島に住む人々は数百年の歴史の過程でそれらを選択的に受容、自己流に改造し、「琉球」と呼ぶしかない主体を自らの手で作り上げた。それこそが琉球の独自性なのだ。

(「琉球新報」2009年6月17日)

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2009年12月 2日 (水)

琉球・山川港交流400周年イベントを終えて(2)

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ディスカッションの後と「くるま座文化交流」と2日目には芸能交流が行われました。指宿を中心に活動するツマベニ少年太鼓は勇壮で圧倒されました。日本太鼓ジュニアコンクールで優勝する腕前。

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重要無形文化財となった「琉球舞踊」保持者の玉城節子先生の舞踊、与論島出身で現在、鹿児島で琉球舞踊を教える竹内エミ子先生の舞踊があり、奄美の島唄は徳之島の是枝三姉妹が美声を披露(真ん中の子は風邪気味でちょっとつらそうでしたね)。山川からは琉球傘踊りが舞われました。

また2日目は琉球人鎮魂墓碑と琉球人望郷の碑の除幕式が行われました。僕は諸々の手違いで残念ながら参加できませんでしたが、事前に永田さんより案内されていたので実際に見ました。かつて山川にあった琉球人墓地は明治になり破壊されました。それを山川の人たちが数百万円を集め、建立したのです。

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望郷の碑は当地で客死した琉球人の無念をしのび、山川港を見下ろす愛宕山に建てられたもの。碑は沖縄から琉球石灰岩をわざわざ取り寄せ、プレートは1枚の薩摩焼で作られています。焼き物のプレートは永田さんの知人の陶工さんに頼み、何度かの失敗を経てようやく完成したとのこと。これらの事業も行政はノータッチのようです。山川の皆さんのまごころを強く感じました。

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山川の町歩きは残念ながら参加できませんでしたが、早朝に少しだけ山川を巡りました。面白かったのが「石敢当」がいたるところにあったこと。将棋のコマの形をしたものも。あちらでは「いしがんとう」ではなく「せっかんとう」と呼ぶようですね。またあるお宅の玄関にはシーサーも飾られていました(笑)路地に入っていくと「唐人町(トジンマッ)」という通りが。16~17世紀、山川港は琉球だけではなく、中国や東南アジア、さらにヨーロッパともつながっていた場所でした。九州各地には華人居留地の痕跡が「唐人町」という地名で残っていますが、山川の「唐人町」からも海域世界との交流をうかがうことができました。

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なおイベントの前日には、地元の地域史研究家の方に牧聞神社のほうも案内してもらいました。雄大な開門岳のふもとに位置するこの神社には、王国時代に琉球の官人たちが奉納した扁額がいくつも残されていて、それを見学。扁額は首里城にある復元品を見たことがありますが、牧聞神社の扁額は数百年前の風格を感じます。おそらく首里城の扁額もこれを参考にしたはずでしょうから、実物を見ることができ感動でした。また宮司さんからは特別に本殿の龍柱も見せてもらいました。本殿欄干の擬宝珠は何と慶長15年(1610)の銘が。島津義弘によって造営されたようですが、1609年から1年後というところに何やら考えさせられました。

わずか3日でしたが、山川の人々の温かいもてなしと琉球との交流の痕跡を実見することができ、大変心に残るイベントでした。山川という地域のパワーも実感することができました。本当にありがとうございました!

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2009年11月30日 (月)

琉球・山川港交流400周年イベントを終えて(1)

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11月28、29日に鹿児島の山川で開催された「琉球・山川港交流400周年イベント」に参加してきました。僕は坊津や志布志などの港町は行ったことがありましたが、山川は初めて。大変良いイベントでした!山川のみなさんの熱烈な歓迎ぶりに、ただただ感動しました。

僕は今年の1月5日、琉球新報の連載コラム「落ち穂」で「400年目の和解」という文章を書き、そのなかで鹿児島との和解に乗り出し、今年を鹿児島・奄美との相互理解を深める「交流元年」にしてはどうか、と提起しました。2009年もまもなく終わろうとするなか、そのような主旨のイベントに実際に参加させていただいたことは、非常に感慨深いものがありました。

イベントはまずNHK大河ドラマ「篤姫」の時代考証・脚本を手がけた原口泉先生(鹿児島大教授)の基調講演から始まり、近世における琉球と薩摩の交流などを紹介しました。その後パネルディスカッション。

沖縄・鹿児島県両副知事のお話では、両県はすでに「南の海洋連携軸構想」として両県共通の問題・課題を話し合う連携を行っているとのこと。恥ずかしながら、行政の具体的な交流が進展していると知りませんでした。2009年を機に、こうした路線がさらに活発となることを期待したいです。

通称「奄美のトラさん」こと花井恒三さんは奄美の歴史副読本が作られることが決定したとの報告。地元の歴史を奄美の子供たちが学ぶことになるのです。もちろん副読本の前提となる奄美の歴史研究がまだ充分とはいえない状況という課題はありますが、奄美の自画像を描く大きな一歩であると思います。

山川港と琉球との関わりで南九州地域史研究家の松下尚明さんは、島津軍の琉球侵攻に従軍した山川衆の内田浄休が征服後、琉球から女性を連行してきたとの伝承があるとの事実を明らかにしました。この伝承は僕は全く知らず、史料からはうかがえない、地元をよく知る方ならではの研究をされていると思いました。

僕は1609年前後の山川港と琉球との広範な民間交流について、新史料を紹介しながらいくつかの事例をあげて話しました。歴史の話を通じて僕がとくに強調したかったのは、沖縄側から十把一絡げにされてしまう《薩摩》には、地域のそれぞれの具体的な「顔」があるということです。戦国・江戸時代の大名権力としての《薩摩・島津氏》、抽象化・記号化された《薩摩・鹿児島》ではなく、今回のシンポジウムは「山川港」と「琉球」と銘打ったことは非常に良かったと思います。

本イベントを主催した実行委員会の永田和人さんによると、もともとこのイベントはさまざまな縁で実現したとのことです。山川はこのイベントが開始される以前より沖縄と交流していましたが、今回のイベントが開催されたのは、山川港にあった樹齢300年のアコウの木が台風で倒れ移植した際、この木が琉球から来たとの話を聞いたのがきっかけだったそうです。

それから永田さんらは有志を集め、仕事の合間に沖縄の歴史の勉強会を重ね、協賛金を募り、スタッフの数も充分ではない中、行政はほとんどノータッチでこの大きなイベントを実現させました。これには両副知事も驚かれていました。民間でこれだけできるんだ、ということを証明した格好になったと思います。

長くなりますので、続きは次回に。

※【画像】は山川から見た日の出。対岸に見えるのは大隅半島。

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2009年11月18日 (水)

「奄美と沖縄をつなぐ」イベント、終了

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11月14日(土)に東京新宿で行われた「奄美と沖縄をつなぐ」イベント、大盛況のうちに終わりました。参加された皆さん、どうもありがとうございました!また主催者の喜山さん・持田さんをはじめ、出演者の皆さんも大変お疲れ様でした!

僕はイベントの第1部「異種格闘型トークセッション」にパネラーとして参加しました。そのほかの参加者は『奄美自立論』著者の喜山荘一さん(与論島出身)、東京で奄美料理の店「奄美の家」を経営する圓山和昭さん(奄美大島出身)、そして元「りんけんバンド」でうちなー噺家の藤木勇人さん(沖縄島出身)です。それぞれ異なった出身というだけでなく、さまざま分野で活躍されている方が集った異色の組み合わせです。ここでは1609年の島津軍侵攻から400周年を迎え、隔てられていた奄美と沖縄をどのようにつなげられるのか、奄美や沖縄、それぞれの立場から模索しました。

喜山さんはこのイベントを企画するに当たり、このテーマが自らにとって切実なテーマであったことを述べ、従来の400周年に関わるシンポジウムが歴史そのものを探ることに偏重していること、若い世代の参加が少ないことをあげていました。そうした問題意識のうえで本イベントを立ち上げたとのこと。著書の『奄美自立論』では、ときに激しい言葉で奄美の置かれた「二重の疎外」を訴える喜山さんですが、僕はこうした批判が決して机や研究室から座って生まれた観念的なものではなく、喜山さん自身の置かれた立場・環境からくる切実な実感からくるものであることは、重く受け止める必要があるように思いました。トークセッションでのお話から、そのような喜山さんの気持ちを感じることができたように思います。

沖縄で知らない人はいない藤木勇人さんのトークは、まさにプロ。口を開けば一気に聴衆を魅了し、爆笑の渦に引きずりこみます。どちらかというと話が苦手な僕は大変勉強になりました。また今回、藤木さんのご両親が奄美出身であったことを初めて知りました。コザと奄美の話から、両者の戦後の歴史の歩みの相違が浮き彫りになったような気がしました。基地の島として開発・整備されていく沖縄とひどく貧しい状況だったという奄美との対比です。ただそのため藤木さんが「奄美には古い沖縄が残っている」とお話しされていたのも印象的でした。

圓山さんは「奄美の家」のお店で働いているそのままで登場。いわば「正装」ですね。奄美大島でも龍郷の出身である圓山さんは「奄美は奄美だ」という郷土への熱い想いを語っていました。その想いが伝わったのでしょう、会場からの声援と拍手がとくに多かったような気がします。奄美にいた頃の「シマ」を中心に生活していた感覚、「奄美大島」すらも意識する機会がなかったというお話は興味深いものでした。

僕はいちおう歴史をやっている人間として、奄美と沖縄がかつてつながっていた時代(古琉球)の頃の話と、僕の奄美体験などを紹介しました。実は僕は以前、沖縄の地域史編纂に関する調査で奄美大島を訪れ、奄美の地域史の状況などをインタビューしたことがあります。それをもとに、歴史像を構築するという面から今後の奄美と沖縄についての展望を提案するつもりでしたが、残念ながらタイムオーバーで詳しく話せず。

琉球史研究においては、沖縄側から奄美地域の歴史を積極的に組み込んでいこうとする動きは確実に起こっています(昨今、一部の研究者から主張されている「沖縄島中心史観」批判なるものは10~20年前の水準の研究を対象としており、必ずしも最新の動向が追えていないように見えます)。こうしたことにくわえ、奄美における歴史の普及は研究面だけで進めるのではなく、かつて沖縄側が実行し成功した「総合プロジェクト型」を参考に進めていくのも選択肢のひとつとして考えてもいいように思いました。・・・まあこの話は次の機会にということで。

トークセッションの次は第2部「シマウタ流れコンサート」。これがまた斬新な内容で、5つのテーマごとに各島のウタを披露していくもの。同系統のウタが島によってどうちがうのか、同じなのかが楽しみながら実感できます。最後はお客さんも揃ってカチャーシー(笑)。非常に盛り上がりました。

イベント自体はこれで終わりましたが、「奄美と沖縄をつなぐ」試みはこれからも継続していく必要があります。僕の今度発表する予定の論文は古琉球時代の喜界島に関する内容です。今後、僕も奄美を自身の研究テーマとしてふくめていこうと思っています。

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2009年6月17日 (水)

古琉球の元号

【古琉球で使用されていた元号】

明朝の朝貢国だった琉球では、一貫して中国元号を使用していました。元号を受け入れることは、空間的に中国の国際体制に参加するだけでなく、時間的にもその傘下に入ることを意味していたのです。ちなみに琉球の「○○王統」や「○○王~年」という表現は、古琉球当時には一切ありません。

洪武 こうぶ (1368~1398)

建文 けんぶん (1399~1402)※

永楽 えいらく(1403~1424)

洪煕 こうき(1425)

宣徳 せんとく(1426~1435)

正統 せいとう(1436~1449)

景泰 けいたい(1450~1456)

天順 てんじゅん(1457~1464)

成化 せいか(1465~1487)

弘治 こうじ(1488~1505)

正徳 せいとく(1506~1521)

嘉靖 かせい(1522~1566)

隆慶 りゅうけい(1567~1572)

万暦 ばんれき(1573~1619)

※建文帝は永楽帝のクーデターにより皇位を奪われたので、その存在を抹消されていた。琉球側の記録では建文年号の使用は見られないが、当時の状況から言えば建文帝存命当時には使用されていた可能性が高い。

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2009年6月 3日 (水)

琉球歴史イラスト(9)

明朝常服、キリンの補子

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(クリックで画像が拡大します)

補子(ほし)とは明朝の身分を識別するために常服に付けられたゼッケン。身分ごとに違う動物の模様を用いた。琉球国王は紅色の服に麒麟(きりん)が描かれた補子と決まっていた。これは明朝の諸侯と同ランクである。図の文様の服が琉球にも送られた。

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2009年5月10日 (日)

侵攻400周年シンポに参加して

5月9日、沖縄県立博物館で「薩摩の琉球侵攻400年を考える」シンポジウムが開催されたので、参加してきました。参加人数は数百人を超え、臨時に第三会場まで用意するという盛況ぶり。沖縄での関心の高さがうかがえます。

報告者は琉球史研究を牽引する先生方、また本土や奄美からの研究者も参加したそうそうたるメンバーでした。さまざまな切り口から薩摩侵攻についての報告が行なわれました。とくに面白かったのは女性史や民間伝承、精神史の面から薩摩侵攻事件にせまった報告など。これまで考えたことのない新しい視点からの話は、とても興味深いものでした。

さて僕が今回この記事を書くのは、シンポジウムで琉球の軍事的対応をめぐる議論について、報告者の方々の意見に少々疑問を感じたからです。基調報告をされた上原兼善先生は、侵攻事件の経過を説明するなかで、島津軍に対する琉球の軍備は劣弱でしかも火器兵器が装備されていたかったことを、1606年に琉球を訪れた夏子陽『使琉球録』を根拠に主張されていました。またパネルディスカッションにおいても、琉球は軍事組織と呼べるほどの軍団が編成できない状態で、島津軍に対応したとの意見がありました。

琉球の軍事をめぐる問題を調べている僕からしますと、この見方には賛同しかねる部分があります。

まず1609年直前における琉球の武装と火器について。上原氏は夏子陽の「琉球の武器は刀ぐらいで、矛も弓もさほど役立つものではない」とのコメントをあげ、火器について言及されていないから火器は常備されていなかったとしています。しかし1605年の袋中『琉球往来』のなかには、琉球の「那呉ノ館(名護親方か)」の保有する武器照会で、「甲冑300領、弓500張」とともに「銃(テヒヤ)大小200挺」と具体的な武器・武具類が詳細に記されています。『琉球往来』中の文書は実際に発された文書ではありませんが、当時の琉球の状況、風俗・文化などをかなり正確に反映していることから、王府の軍団編成のなかで多数の火器が装備されていたことはほぼ間違いありません(この話は拙稿「琉球の火器について」のなかでも言及しています)。

また上原氏は那覇港口での戦いで「石火矢(大砲)」が使用されたという話を挙げられていましたが、これこそが琉球が組織的な軍事行動で火器兵器を実戦使用していたことに他ならない事実なのではないでしょうか。この事実は、なぜか琉球が火器で武装されていた証拠としては採用されていませんでした。

興味深いのは、『琉球往来』中の「銃」に「テヒヤ」とルビがふってあることです。このテヒヤは「手火矢」だと考えられます。この「手火矢」という用語、実は九州地方での火縄銃の地域的な呼称なのです(宇田川武久『東アジア兵器交流史の研究』)。史料中の「銃」が中国式火器なのか火縄銃なのか不明ですが、少なくとも琉球での銃の呼称が、九州地方での火縄銃の呼称と共通することを確認できます。

また、史料中の銃と弓矢の保有比率からも、琉球の武装の様子がうかがえます。弓500張に対し銃が200挺と、その比率が5:2と弓矢のほうが多いのです。これは琉球の軍隊が少なからず火器で武装しながらも、その主力兵器がいまだに弓矢だったことを表わしています。ちなみに1609年の島津侵攻軍の武装は、弓117張に対し鉄砲734挺と圧倒的に火器が多いことがわかります。

つぎに琉球の軍事組織が、16世紀に奄美・先島を征服したような規模で維持されておらず(つまり軍隊としての能力が100年間で縮小したということでしょうか)、港を守る程度の組織で島津侵攻軍を迎え撃った、というディスカッションでの結論ですが、史料には琉球での軍事組織の改変・縮小を示すような事実が全くないうえに、1571年には尚元王が奄美反乱の鎮圧のため軍隊を派遣しており(『中山世譜』)、外征能力を依然として備えた軍事組織を持っていたと考えたほうが妥当です。

また1606年の夏子陽『使琉球録』には、倭寇来襲の情報に接した王府が毛継祖(豊見城親方)率いる1000人の兵を今帰仁へ派遣したとあり、有事の際には首里・那覇港以外の場所にただちに軍事組織が急行できる体制であったことが明らかです。そもそも夏子陽の「琉球の武装が劣弱である」とのコメントは、あくまでも彼個人がみた印象にすぎない点を考慮しなくてはいけないように思います。さまざまな史料を先入観なしで総合してみれば、琉球は国力相応の軍事力を持っていたとしか評価できず、港の警備隊程度しかなかったとの評価は正しくないと僕は考えます。

では、琉球が軍事組織を持ちながらなぜ島津軍に負けたのかという問題ですが、それは琉球側の軍事組織の運用方法や、島津軍との戦力差(兵数だけに限定されない諸要素ふくむ)という、軍事組織の有無そのものとは別次元の問題であって、「あっけなく負けたから」「激しく戦闘した様子がみられないから」というのは軍事組織を備えていなかった根拠にはなりません。

実際に琉球は那覇に王府直轄軍の兵力ほぼ全てを投入しており、港を守備すれば島津軍の侵攻を防げると考えていたふしがあります。島津側の史料『琉球入ノ記』で那覇港に突入した七島衆の島津軍船が謝名親方3000の軍に「大石火矢(大砲)」で撃退された記事だけでなく、『歴代宝案』には三司官の謝名親方・豊見城親方率いる3000の軍勢が那覇を防御している記述があり、『喜安日記』にも「若き公卿・殿上人は(略)一戦せんとぞ申しける。去程に、夜も漸く明行侭、那覇へ下りぬ」とあります。これまでこの一節は見逃されてきましたが、『歴代宝案』の記述と合致することから、那覇に防衛軍が派遣されたのは間違いないでしょう。

〔追記〕島津軍侵攻を伝える琉球側の史料『喜安日記』は、これまで信頼性の高い史料として、多くの研究者に引用されてきました。であるならば、島津軍と一戦すべく那覇に出動した王府高官たちの記事を軽視するわけにはいかないはずです。つまり、『歴代宝案』の那覇防衛戦を傍証する、ゆるぎない根拠となるのです。

なぜ港に兵力を集中させたかというと、80隻もの島津軍船が安全に停泊・上陸できる場所は、サンゴ礁で囲まれた沖縄島には那覇・運天など限られた場所しかなかったからです。実際に島津軍の船団は港として使用できる運天・那覇をめざし、那覇に防御網があることを知った島津軍は、途中、大湾渡口から上陸しています。ここも比謝川の河口に位置する絶好の船の係留場所でした。

那覇港と別の地点から上陸した島津軍は、琉球の防備の裏をついて王都・首里へ入り勝利を決したため、実際に両軍の主力が正面から激突することはありませんでしたが、戦闘した様子がなかった事実によって琉球の軍事組織が軽微だった、もしくは存在しなかったとの結論にはもっていけません。【軍事組織が存在したこと】と【戦闘を行なったかどうか、勝ったか負けたか】はひとまずは切り離して考えるべきではないでしょうか。

〔追記〕1609年の琉球・島津氏戦争の展開をあえてわかりやすく例えて言うとしたら、第二次大戦時のナチス・ドイツのフランス侵攻をあげることができるでしょうか。ドイツ国境沿いに140キロにわたって構築された一大要塞網のマジノ線を頼みに、総兵力・戦車数ともにドイツと対等以上だったフランスは、部隊を配置していないアルデンヌの森を突破されて背後をつかれ、一気に崩壊します。フランスは第一次大戦時の装備とほぼ変わらない状態であり、ドイツとの装備・兵器運用面の差は歴然だったのですが、フランスの一番の敗因を「フランスの武器が劣弱だったから」「士気が旺盛でなかったから」と主張したら、多くの専門家は首をかしげるのではないでしょうか。またこの戦いで両軍主力が全面的に衝突しなかった(=大規模な戦闘がなかった)ことを根拠に「フランスには軍事組織がほとんどなかった」という結論を導き出したとしたら?琉球史ではなぜかこれがまかり通ってしまうのが不思議です。

今回のシンポジウムは、さまざまな論点と400周年の歴史的意義という大きな話がメインだったため仕方ない面もありますが、歴史学研究においてこれまで軍事史という視点がおざなりになっていたという問題は、琉球史研究にも当てはまるように思いました。

とくに侵攻事件は琉球が直面した対外戦争です。事件の経過をきちんと押さえていくのであれば、まず軍事的な視点から史料を分析することを第一に行なう必要があります。それは、たとえば石高制の問題について研究する際に、まず経済史の視点をふまえて分析するのと同じことではないでしょうか。このような考えが琉球史において認知されることを願ってやみません。

参考文献:上里隆史『琉球の火器について』(『沖縄文化』91号)、「島津軍侵攻と琉球の対応」(『新沖縄県史・近世編』)、宇田川武久『東アジア兵器交流史の研究』

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〔追記〕琉球側の戦術・布陣と那覇港口の戦いを知ることのできる史料に『歴代宝案』(1-18-3文書)があります。

四月初一日、倭寇、中山の那覇港に突入す。卑職、師官鄭迵・毛継祖に厳令して技兵三千余を統督せしむ。兵を披(つ)け鋭を執り、雄として那覇江口に拠りて力敵す。

彼の時、球兵は陸に居りて勢強し、蠢倭は水に拠りて勢弱し。百出して拒敵すれば、倭は其れ左なり。且つ又、倭船は浅小にして武を用い難し。箭もて射れば逃ぐるに難く、鋭もて発すれば避くる莫(な)し。急処に愴忙し、船は各自連携(つらな)り角(あらそ)いて礁に衝(あた)る。沈斃し及び殺さるるもの、勝(あ)げて紀(しる)す可からず。

詎(なん)ぞ、彼の倭奴の蔵兵継ぎ至り、陸に沿い東北従(よ)りして入るも兵の備禦する無し。虞喇時(うらしー。浦添)等の地方、悉(ことごと)く焚惨を被(こうむ)る。

【現代語訳】

4月1日、倭寇(島津軍のこと)が琉球の那覇港に突入した。わたくし(明朝皇帝に対しての尚寧王の自称)は司令官として謝名親方・豊見城親方に命令して、精鋭の兵3000あまりを統率させた。兵を率いて「鋭(優秀な武器)」をとり、雄として那覇港口に布陣して、つとめて敵に備えた。

その時、琉球兵は陸にあって勢い強く、島津兵は海にあって勢いが弱かった。さかんに出撃して敵を防げば、島津兵は劣勢におちいった。さらに島津軍船は狭小で戦うに困難である。(我らが)弓矢を射かければ逃げることができず、「鋭」を発すれば避けることができない。あわてふためいて狭い場所(港の出口か)に殺到し、各船はぶつかってサンゴ礁に衝突した。溺死したり殺されたりしたものは数えきれなかった。

しかし何ということだろうか、かの島津軍には伏兵(本当はこちらが主力部隊)があり、陸路に沿って東北(ここでは沖縄島中部)から侵入したのだが、そこには我らの兵の防御がない。浦添などの地方はことごとく戦火の被害を受けてしまった。

『歴代宝案』の文書は宗主国の明朝向けであることから脚色がありますが、事件の経過・日時そのものは正確です。おそらく事実をもとに、それらに肉付けしていったと考えられます。いずれにせよ、この史料からは、琉球王府は島津軍船の上陸地点となる那覇港口を決戦場として考え3000の主力部隊を布陣させ、港口の防御は一定の効果があったものの、沖縄島中部に兵を配置しておらず、陸路から侵入した島津軍の動きは琉球の想定外であったことがわかります。

そして注目されるのが「鋭もて発すれば」という部分です。「鋭」とは「するどい武器、刃物」というほどの意味ですが、ここでの攻撃は弓矢とともに「発する」という、遠距離兵器的な性格を持っていたことがうかがえます。これこそが『琉球入ノ記』でみた「大石火矢」なのではないでしょうか。

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2009年2月25日 (水)

御物グスク潜入記

2月22日、琉球放送の番組「ウチナー紀聞」の「未来をおこす港町~王国時代の那覇~」に出演させていただきましたが、そのなかで王国時代の宝物庫「御物(おもの)グスク」の初潜入に成功しました!御物グスクは現在、米軍港の敷地内にあり自由に出入りすることができません。今回、特別に米軍の許可を得て敷地内の画像を公開し、その様子を紹介したいと思います。

御物グスクは那覇港湾に浮かぶ小島に築かれたグスクで、アジアとの活発な交易を展開していた琉球王国の時代、中国や東南アジアの宝物がストックされていた場所です。15世紀中頃の様相を描いたとされる『琉球国図』(沖縄県立博物館蔵)には「見物具足(みもの・ぐすく)」に「江南・南蛮の宝物、ここに在り」と記されています(見物グスクは御物グスクの旧名)。ただし、ここは単に倉庫としての機能を持っていただけではなく、那覇行政と貿易業務を兼ねる長官、「御物城御鎖之側(おものぐすく・おさすのそば)」とも深い関わりがあります。この職に就いていた金丸(尚円王)は有名です。ある時期までは、このグスクに那覇行政の役人たちが詰めていたようです。

近世期には一時期火薬庫としても使われていたようですが、やがて建物はなくなり、戦前には高級料亭(風月楼)、戦後は那覇軍港の施設が建てられました。今でも那覇港や明治橋に立つとその姿を見ることができます。

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御物グスクの遠景。クリックで拡大

さて僕ら取材班は垣花側の基地ゲートから入りました。バリケードとショットガンを持つセキュリティガードを通過し(汗)、待っていたのは日本人の女性報道官でした。彼女の案内で御物グスクへ。独立した島だったグスクは埋め立てによって陸地と連結され、また道路の敷設で石積みは半分ほど削り取られていましたが、さいわい北側部分はほぼ残っていました。

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御物グスクのアーチ門。クリックで拡大

入口のアーチ門をくぐろうとすると「落下物危険、立入禁止」の札が。門の上部を見るとヒビが入っています。

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門に掛けられた立入禁止の札。クリックで拡大

石積みは「あいかた積み」と呼ばれる比較的新しい技法で築かれています。グスク内で採取された陶磁器を分類した研究によると、陶磁器の年代は15世紀以降に限定されているといいます。つまり、御物グスクの創建が王国の交易活動が本格化した第一尚氏王朝以降のものであることがうかがえるのです。石積みの編年ともあわせて重要な情報です。ちなみに陶磁器の破片はグスク内でもいくつか見つけることができました。

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御物グスクの石積み。クリックで拡大

また興味深かったのは、石積みの中でところどころ色のちがう石が見られること(上の画像でも確認できるかと思います)。注意深く観察すると、どうもサンゴ化石のようです。こうした状況は対岸の三重グスクの石積みにも共通します。

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三重グスクの石積み。クリックで拡大

これは海岸付近のグスクを築造する際に、遠くの石切場だけでなく、近くの海岸から使えそうな石を持ってきたことを示しているのではないでしょうか。グスクを築く際に石をどこから持ってくるのかという問題は、これまで解明されていません。そのような謎を解き明かす重要な証拠の一つになるような気がします。

そして非常に気になったのは、石積みのいたるところに樹木が根を張り、場所によってはその根で石積みが崩落していたことです。アーチ門も危険な状態にありますが、このままでは樹木がさらに生長し、残存した石積み全体も崩壊する可能性があります。

Cimg3387

崩落した石積み。クリックで拡大

王国時代の港町であった那覇は沖縄戦で徹底的に破壊され、戦後は街や地形が大きく改変を受け、往時をしのぶのは難しい状況です。そんななか、御物グスクは琉球王国の繁栄した頃の姿をうかがうことのできる貴重な文化遺産なのです。早急に保護・整備を行う必要を感じました。

またそれにあわせて御物グスクの全面発掘調査も行われれば、これまで見たことのないモノが発見され、研究が大きく前進するかもしれません。放送のナレーションでうまいことを言っていましたが(笑)、まさに那覇港の宝庫跡は琉球の歴史研究における可能性の宝庫でもある、ということなんですね。

参考文献:新島奈津子「古琉球における那覇港湾機能―国の港としての那覇港―」(『専修史学』39号)

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2009年2月18日 (水)

小林氏反論へのコメント

3年前、僕は小林よしのり氏の『新ゴーマニズム宣言SPECIAL・沖縄論』に対して批判的な見解を述べたことがあります(こちら参照)。この批判に対して最近、小林よしのり氏は『激論ムック・アイヌと沖縄の真実』(オークラ出版)で僕を名指しで反論してきました。今回はその反論に対しての回答を述べたいと思います。

小林氏は僕の批判記事「沖縄が超歴史的・必然的に「日本」固有の領土であったとする小林氏の主張には承服できません。明治になるまで琉球王国は「日本国」に帰属した事実は一度もありません。」という部分を引用し、「日本は明治時代に近代国家を建設することになり、領土を画定するために「琉球処分」を行って琉球王国を廃絶し、明確に日本の一部とした」ことをちゃんと書いており、僕が『沖縄論』を読まずに批判している、と反論しています(『アイヌと沖縄の真実』18ページ)。

近代以降に普及した「民族」概念と同じように、国民国家とその成立要件のひとつである「領土」概念は近代以前には存在しません。その点は僕も同じ見解です。たしかに小林氏は日本領土の成立は明治以降と『沖縄論』224ページで述べています。よって「沖縄が超歴史的・必然的に「日本」固有の領土であったとする」と書いた僕の表現は正確・適切ではなかったかもしれません。その点についてはお詫びして訂正したいと思います。

僕がそう考えたのは『沖縄論』の次の記述によるものです。小林氏は琉球処分の歴史的性格をどう解釈するかについて「(とらひこ注:琉球処分は侵略だという意見に対し)同じ民族なのだから統合だ」、「大和朝廷が熊襲や隼人を征伐して統一していったのが少々遅れただけじゃないか・・・」(すべて『沖縄論』224ページ)とし、大城立裕氏の論をあげ「琉球処分は歴史的必然だっただろう」(『沖縄論』230ページ)と結論付けていたことを根拠にしたものです。上記の小林氏の主張から、正確には「琉球が「日本」の領土となるにあたり、超歴史的・必然的に「日本」の潜在的主権があった」、あるいは「明治の日本による琉球併合について、領有を正当化できる要因として歴史的な根拠があった」との表現が適当になるでしょうか。

このように僕の表現が適切ではなかったものの、『沖縄論』の琉球処分についての箇所をひとまず読んだうえでのもので、小林氏を批判するために無理やり作り出したものではないことをお断りしておきます。また、『沖縄論』が琉球・沖縄の独自性を軽視して歴史・文化のほぼ全てを「日本」に回収しようとし、琉球処分(近代日本による琉球王国併合)を当然視・必然視する主張であることには変わらないのではないでしょうか。

追記〕なお小林氏は薩摩の琉球侵略から続く琉球の歴史を「再日本化」と評価しています(『沖縄論』186ページ)。真相はこの時期琉球は「中国化」を強めていくので小林氏の情報・記述は誤っているのですが、それはさておき、明治以前に一瞬たりとも「日本」になったことのないはずの琉球が「再び日本化する」とは一体どういうことなのでしょうか?「沖縄は明治の琉球処分によってはじめて「日本」になった」、と僕に反論している小林氏の本音・真意が透けてみえるのではないでしょうか。

誤解がないように付言しますが、僕は現在の日本社会が非常に画一化・均質化されてきている傾向はあると思いますし、現在の沖縄は間違いなく「日本」です。そしてそれは1972年の時点で「日本国」への帰属を沖縄の人々が主体的に選択したからだと考えています。僕は「沖縄人であるとともに日本国民」という意識であり、それは否定しようもない事実です。沖縄は強い独自性を発揮しながらも、日本社会全体のためにどう貢献できるかをこれから考えるべきだと思います。しかし、だからといって近代以前の琉球の歴史までさかのぼり、これまでの歴史研究の成果の都合のいい部分だけを抜き出し組み合わせ、現在の沖縄と日本の体制がいかに必然性のあるものだったかを補強する根拠としてはいけないのではないか、その点を問題にしているわけです。小林氏がどのような政治的主張をされても別にかまいませんが、現在の政治的意図あるいは思想のために、過去にあった歴史的事実をゆがめて評価してしまうのは承服できません。

小林氏は『アイヌと沖縄の真実』で拙著『誰も見たことのない琉球』からの記述を引用し、古琉球の文化がヤマト風だったことをあげ、さらに自身の日本と琉球を同一視する持論の補強としています。これを読んで愕然としました。小林氏は僕の著書のいったい何を読んでいるのでしょうか。僕は古琉球文化が従来の想像以上に「ヤマト風(ヤマトそのものでない点に注意)」文化だったことは紹介しましたが、拙著の結論である「《まとめ》「古琉球」という時代」(『誰も見たことのない琉球』78~80ページ)で、古琉球の「ヤマト風」文化についてこう総括しています。

(とらひこ注:古琉球にヤマト的雰囲気があったことを紹介して)ここで出てくるのが「やはり琉球は日本の一部であったか。沖縄は古い日本そのものだ!」という反応か、「ウチナー(沖縄)とヤマトゥー(日本)が同じなんてとんでもない!琉球は中国の文化圏だ!」という反応だと思います。両方の言いたいことはわからなくはないですが、僕はそのどちらも全面的に賛成することはできません。

ヤマト文化があるから琉球は日本の一部だとか、中国文化があるから琉球は中国だとか、そういう単純な議論では古琉球の深層には迫れないように感じます。

海域アジア世界の十字路に位置し、交易国家であった琉球に外来の人々や文化が入ってくるのは至極当然のことで、例えどのような文化の影響があったとしても、南西諸島に住む人々は自らを他の地域とは違う「琉球の人々」であると自認し、また琉球以外の地域の人々も「琉球」を自分たちと同一視することはありませんでした。

(略)

琉球と文化的に最も近いはずのヤマトでさえも、自らの領域を南九州付近の島々(鬼界が島)までと認識しており、琉球は「異界」と考えられていました。文化の基層にヤマト的要素があったとしても、それは太古からずっと「純粋培養」されていたわけではなく、数百年の交流を続けていくなかで様々な要素と「化学反応」を起こし、似て非なる別物になったと考えたほうが自然です。

(略)

古琉球という時代は、日本や中国、東南アジアの各要素を持ちながら、そのどれとも言えない、「琉球」と呼ぶしかない主体を南西諸島に住む人々が自ら作りあげた、そんな時代だったといえるでしょう。

小林氏はこの結論をばっさりカットし、僕が著書のなかで行った論の過程における「ヤマト風」文化という点だけを抜き出して、自らの主張を補強するために使っているのです。一番肝要な部分をそぎ落として、自分が欲しい事実を、さもそれが全てであるかのように印象づける。これを「おいしいとこ取り」と言わずして何なのでしょうか。小林氏は僕があの本で述べたかったことを全然くみとっていません。拙著を評価していただいたのはありがたいのですが、著者の論証のすえに導き出した結論も理解しないまま、ただ「これは使える」というだけで本を評価されても僕は嬉しくありません。

また小林氏は古琉球辞令書をあげ、「薩摩が入る以前に、琉球国内の公文書が和文で書かれるほど、和風化が進んでいたのだ」(『アイヌと沖縄の真実』17ページ)と主張しています。文脈からして小林氏の持論を根拠づける例示です。おそらく古琉球辞令書の情報は拙著から仕入れたものでしょうが、この点についてもまた問題があります。以下にあげた僕の文章を読んでください。この記事は拙著にも収録されています。

古琉球はどんな文字を使ってた?

僕はこう書いています。

(古琉球辞令書などを紹介して)
「このような事実から、「琉球は日本と同じなんだ」という考えが出てくるかもしれません。しかし、実はそうではありません。結論は、「琉球と日本は同じではない」のです。」

「琉球で日本の「ひらがな」を使っているから「琉球と日本は同じだ」、という結論にはならないことがわかります。それは日本で中国伝来の漢字を使っているから「日本と中国は同じだ」ということにならないのと同じことです。琉球は外から入ってきた文化を採り入れて、自らのものにしてしまった、ということなのです」

僕は辞令書をあげて古琉球は和風化が進んでいたと言っているのではなく、ヤマトをはじめとしたさまざまな各国の要素を琉球風にアレンジして、似て非なる別物の文化を作り上げたと述べたのですが、小林氏はこうした結論には目もくれません。これも「おいしいとこ取り」の一例です。まさか自分がやられるとは思ってもみませんでした。〔追記〕辞令書でもわかるように、小林氏が挙げた事例は全て、ヤマト的要素と他の要素を混合させながらヤマトとは全く違う「琉球化」を遂げたとしか言えないのであり、「和風化が進んでいた」という事実認識は誤りとなります。

そして僕が一番残念に思ったのは次の部分です(『アイヌと沖縄の真実』18、19ページ)。

ようするに上里氏は『沖縄論』を読まずに、沖縄マスコミの流したわしに関するデマを信じて批判したのだろう

(とらひこ注:僕が『沖縄論』を批判した要因のひとつには)沖縄の新聞が、「小林よしのりは思想信条のために、結論ありきで論理をねじまげている」と書き、沖縄の多くの人がそれを鵜呑みにしているからだ

(とらひこ注:踏み絵のイラストを描いて)沖縄では「小林よしのり=悪」という「俗情」ができ上がっていて、これと「結託」しないと知識人も評価されない」

「根拠を捏造してでも、小林よしのりと自分は違うと主張しなければならない。まさに「全体主義の島」である

文脈からすると、僕が「沖縄全体主義」の圧力に屈して小林氏の批判をしている(やらなくては沖縄で生きていけない)ということでしょうか。

とんでもない言いがかりです。小林氏は僕が「(小林氏が存在すると想定する)沖縄全体主義」に敵対するような活動を行ってきたかご存じない(まあ僕は無名の存在なので当然かもしれませんが)。僕はかつて琉球の軍事史をはじめて体系的にまとめ、2000年頃に沖縄の新聞紙上で「古琉球の火器兵器」「琉球史における「武」の諸相」を連載し、戦後を通じて流布し沖縄平和思想の根幹とされていた「琉球非武装神話」の正当性に疑問を投げかけた張本人ですよ。その結果、沖縄の知識人から新聞紙上で批判も浴びせられています。僕は歴史の事実に基づいて平和を考えることが沖縄にとって必要だと思い、あえてこうした行動をとったのですが、このような行為は「沖縄全体主義(なるものが存在するならば)」にとっては裏切りなのではないでしょうか?

僕は自分の頭でものを考えることができます。小林氏の歴史論を批判したのは、僕自身が小林氏の歴史論がおかしいと感じたからです(それは先にあげた、僕の論の都合のいい部分だけを抜き出した手法で明らかでしょう)。ウヨク・サヨク、沖縄・大和は関係ない。沖縄でバッシングに遭っている小林氏が疑心暗鬼になるのもわからなくはないですが、今回の小林氏の見解は全くの妄想です。

小林氏は「沖縄は全体主義の島ではないと言い張る佐藤優が「大嘘つき」だという証拠である」と結論づけていますが、ひょっとして僕は結局、「沖縄全体主義」とそれにおもねる(と小林氏が考える)佐藤優氏を批判するためのダシに使われただけなのでしょうか・・・?そうであれば非常に悲しいです。小林氏は「言論封殺、論破!」(『アイヌと沖縄の真実』26ページ欄外)と書いてありますが、何の論破にもなっていないことを強調しておきたいと思います。

小林氏への応答は以上で終了とさせていただきます。「ゴー宣」での小林氏の主張や論の展開については同意できない部分が多々ありますが、それでも僕は、沖縄においてさまざまな意見・主張を自由闊達に言える雰囲気になるよう願っていて、その点から小林氏がバッシングを恐れず沖縄に対する発言をした行為自体は評価しています。これからまた別の話題に斬り込んでいくのでしょうが、その場所でも頑張っていただきたいものです。僕は「琉球・沖縄」とは何か、その歴史の探ることにこだわってコツコツと地道にやっていくつもりです。

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2009年2月 8日 (日)

小林よしのり氏の反論について

僕は以前、小林氏の『新ゴーマニズム宣言SPECIAL・沖縄論』及びSAPIO紙上の「ゴー宣」中に書かれた『沖縄論』批判についての小林氏の反応に対して批判的な記事を書いたことがあります(こちら参照)。

それに対して最近、『激論ムック アイヌと沖縄の真実』(オークラ出版)という本が刊行され、どうもそのなかで小林よしのり氏が僕の批判に対して名指しで反論を行ったらしい、という情報を僕のブログ記事でのコメントから知りました。

僕は小学生の頃は小林氏の「おぼっちゃまくん」の愛読者で、「SPA!」時代の頃から『ゴー宣』はちょくちょく読んでいました(とくに『脱正義論』は大変面白かったです)。小さい頃からなじみのある小林よしのり氏が、ネット上に数多ある批判記事の中からわざわざ僕のブログの批判記事を取り上げ、『ゴー宣』紙上で反論されたことは正直、光栄に思います(皮肉の意味ではないです。念のため)。

小林氏の反論について、入ってきた少ない情報によれば、「お前は『沖縄論』をちゃんと読んでいない。書いていないことを作り上げて批判するな!」という内容らしいです。ただ、現在僕が滞在している沖縄では店頭を探しても見つからず、まだ読んでいませんので、詳細がわかりません。

僕は小林氏に対して、沖縄に敵対する「ウヨク」や「全体主義者」などとレッテル貼りをして非難する気は毛頭ありません。以前の批判記事でも僕は『沖縄論』を全面否定したことはなく、その問題提起をした意義についてはいちおうの評価もしています。これだけは言いたいのですが、小林氏に悪意・敵意をもち論のあら探しをして批判したのではなく、『沖縄論』をひとまず全部読んだうえでその内容を理解しようとつとめたつもりです。よってもし僕の誤読や誤解が明らかであれば、ただちに訂正・撤回する用意があります(もちろん納得できない内容であれば反論します)。言うまでもないですが、僕は批判の対象となった記事を削除することは決してありません。

いずれにせよ、今回の小林氏の『ゴー宣』と『沖縄論』を再度丁寧に読んで、僕の見解を出したいと思います。ただし現在さまざまな仕事が山積しており、また反論と『沖縄論』を読む時間も必要ですから、ただちにこれを実行することはできません。今しばらくお待ち願えればと思います。

この件に関しての僕からのコメントは、今のところこれだけにとどめておきます。あしからずご了承ください。

※小林氏反論への僕のコメントは【こちら】を参照してください。

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