2012年4月 7日 (土)

具志川グスクに新遺構!

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具志川グスクは沖縄本島最南端の喜屋武岬の近くにある、海岸に築かれたグスクです。断崖のきわに立つ城壁はまさに「海城」。保存状態もよく、2つの郭からなると考えられてきました。城郭イラストレーターの藤井尚夫氏によって復元画も描かれています(こちら参照)。イラストには、グスクの中央に基壇と階段が設けられ、その上には板ぶき屋根の立派な正殿が描かれています。

最近、この具志川グスクを訪れる機会がありましたが、発掘・整備が進み、新たな遺構が姿を現わしていました。グスク中央部分は次にような感じです(クリックで拡大)。

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これまで基壇と考えられていた部分は、なんと階段付きの門になっていて、基壇ではなくもう一つ城壁があったことが遺構からわかります。

想定復元すると、次のようになります。

Dsc019551

この部分の城壁は、外郭が自然石を積んだ野面積みに対し、丁寧な切石の布積みで積まれています。この区画が堅牢な防御をほどこした最重要エリアだったことがうかがえます。

さらに門の部分を見てみましょう。門の端には丸い石が置かれています。

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これは門の柱を載せる礎石(そせき)でしょう。

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さらに門を進み海側の郭に向かうと、今度は階段状の遺構が。

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想定復元すると、このような感じです。

Dsc019471

つまり、具志川グスクの郭は2つではなく、中央部が一段高くなった郭を合わせて3つだったことが判明します。中央部の郭は非常に狭く、正殿のような中心的な建物を建てるのは難しいでしょう。こちらは奥側の郭を守るスペースのような役割があって、正殿は一番奥にあったのではないでしょうか。

遺構は何段もの石垣が重なっているので、何度か改修・増築した様子がうかがえますが、さらに調査が進めば、遺物などから時期差も明らかになるでしょう。グスクはまだまだわからないことがたくさんあることを実感します。

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2011年12月17日 (土)

ハルサーエイカーの意味

沖縄で話題沸騰、大好評のローカル特撮ドラマ「ハルサーエイカー」ですが、その意味がわからないというお話をよく聞きます。

ハルサーとは沖縄の方言で「畑をたがやす人」のことです。

エイカーとはエーカ、沖縄の方言で「親戚、一族」という意味。あと土地の面積を表わす「エーカー」という言葉もかけているそうです。

つまりハルサーエイカーとは、かっこよく言うと「大地に生きる一族」ということですね。

これらはすべて脚本役の山田さんの受け売りですが(笑)

そういうわけで、物語も残り数話。いよいよクライマックスです。これから最高潮に盛り上がっていきそうですね!楽しみに待ちましょう。

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2011年12月14日 (水)

テンペスト3D試写会!

12月8日、沖縄のシネマQにて「劇場版テンペスト3D」の関係者披露試写会が開催されたので行ってきました。

大ヒットしたNHK・BSドラマ「テンペスト」をもとに内容を一新し、3Dにした超大作です。関係者ではNHKの吉村監督をはじめとした制作陣、そしてなんと角川グループ・角川書店の取締役会長、角川歴彦氏も出席。角川会長とは初めてお会いし、ご挨拶しました。

上映の前には舞台挨拶。角川会長と吉村監督、そして「テンペスト」で真鶴の子供時代を演じた田崎アヤカさんが挨拶をしました。角川会長や吉村監督、ともに沖縄に対する思いは並々ならぬものがあります。ご両人とも青年時代に沖縄を訪れ、その魅力にはまったということです。今回の映画は角川グループが総力をあげて製作したもので、角川会長の情熱がなければ決して実現できませんでした。吉村監督は娘さんの名前を沖縄にちなんだ名前にしたというぐらいですから、相当なものです。

映画の内容はネタばれになってしまうので詳しくは説明しませんが、とにかく3D!龍が迫ってきます。龍はドラマ版のCGよりさらにパワーアップし、よりリアルなものに。また首里城をはじめとした沖縄の美しい風景が奥行きのある立体映像で見ることができるのもすばらしかったです。ドラマがもとにはなっていますが、単なるドラマの総集編ではなく、ほとんど「別物」に仕上がっているということだけはお伝えしておきます。なので、ドラマを何度も見た方でも十分、楽しめます。これは必見です!

ちなみに試写会の参加者には特別に豪華パンフレットが配られましたよ【画像参照】。

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映画の全国公開は来年の1月28日です。みなさま、ぜひご覧ください!

※なお12月29日(木)にNHK・BSで「テンペスト」全10話が一挙放送です!こちらもお楽しみに!

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2010年6月 5日 (土)

謎のグスクに潜入!

糸満市名城にあるエージナ島。550年前の様相を描いた地図「琉球国図」、『海東諸国紀』に記された「阿義那之城」がこの島に該当するのではないかと前回の記事で指摘しました。

そして今回、実際にエージナ島を調査してきましたので、その結果を報告します。結論は、エージナ島に「グスク」的遺構の存在を確認しました(※)。この島は唯一、グスクの分布調査が入らなかった島だそうです。

この島は拝みの対象になっていて人の出入りもままありましたが、この地を「グスク」として認識する人はおそらくいなかったと思います。550年間、忘れ去れていたことになります。

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↑エージナ島は干潮時には歩いて渡れます。周囲は石灰岩の岩場で、自由に島の内部へは入れない構造になっています。

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↑北側の中央あたりに島へ入る入口が。蛇行した階段の道を登っていくと、平場に出ます。ここはかなりのスペースで、居住空間として充分利用できます。

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↑入口から左側には小高い岩場があり、その中央には石積みで築かれた長方形の構築物があります。おそらくお墓ではないでしょうか。

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↑入口から右側に行くと、さらに一段高い場所があり、その上に向かって坂道がつくられています。

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↑坂道を登ると左右に野面積みの石積みが。明らかにこの区画を囲うための人工物です。ついに見つけました!防御性を持つ石積みです!

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↑道は二手に分かれ、ゆるやかな坂道になっていますが、行き着いた場所にはまた石積みの塚が。三つの石が立てられています。

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↑断崖の周囲を沿うようにして野面積みの石垣が積まれています。

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↑西側からみたエージナ島。

エージナ島は周囲を岩で覆われ、進入が困難な防御的性格を持っており、また居住可能な平場空間が存在、御嶽や石積みなど人工構築物があること、くわえて550年前の地図でエージナ島に該当すると思われる島に「城」が存在したとの記載から、エージナ島に「グスク」的性格の遺跡があったと判断していいと思います。今後は遺物の調査などでさらに詳しい当時の様子が明らかになるはずです。

【注意】エージナ島は整備されておらず樹木が鬱蒼と茂っており、ハブに噛まれる危険があります。また満潮時には島の周辺は水没するので島内に閉じ込められる危険もあります。この海域は流れが速く、水難事故も起きています。この情報をもとに島内を訪れて怪我等をされても責任は持てませんのでご了承ください。またここは聖地であり、現在でも信仰の対象となっていますので、その点もご留意いただきたく思います。

※【追記】後日の再調査(2012年10月実施)によってさらに石積み遺構を発見しましたが、近代に入って大規模な改変を行っている可能性が出てきました。グスク土器の表面採取や拝所(『琉球国由来記』記載の「あいけな森」と推定)などからかなり古い時代よりの住居、拝所機能のある遺跡であることは間違いないのですが、どの石積みが当時のものかをより厳密に判断する必要があります。そのためには本格的な学術調査が不可欠です。よって現段階ではひとまず判断を保留したいと思います。

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2010年4月10日 (土)

琉球歴史イラスト(10)

古琉球の禅僧

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(クリックで画像が拡大します)

古琉球は仏教がさかんに信仰された「仏教王国」でした。首里と那覇にはたくさんの寺院が建立され、ヤマトから禅宗の僧侶たちが渡来して住職などをつとめていました。彼らは各地の港町を渡り歩き布教する民間の宗教者たちであり、琉球王府は彼らを重用して王国の外交業務などにも従事させていました。とくに有名なのは、京都南禅寺の流れを汲む禅僧の芥隠(かいいん)です。彼は琉球円覚寺の開山住持となりました。

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2010年2月13日 (土)

大里グスクの正殿

南城市(旧大里村)の島添大里グスクは三山時代、大里按司の居城だったと伝えられている場所です。『明実録』には南山王・承察度(うふさと)が登場することから、南山グスク(糸満市)ではなく、こちらが南山王の居城であった可能性が指摘されています。

「三山」の政体は多くの人々がイメージする「国家」という強固な体制ではなく「按司連合政権」であり(南山はとくにその傾向が強い)、「王(世の主)」はその中の最有力者程度のものであったことが明らかになっていますので、僕は「どっちも南山王の居城だった」としたほうが妥当だと考えています。たとえ血がつながっていなくても有力な按司の持ち回りで「王」として朝貢することは可能だからです。

大里グスクは大里按司が佐敷の思紹・尚巴志に滅ぼされて以降も、首里に移るまで第一尚氏の根拠地として使用されていました。王国統一後も「旧宮」として機能していたようです。1458年銘の「大里城の雲板」の存在もそのことを裏付けています。

この大里グスクは2008年度からグスク中枢の正殿付近の詳しい調査が開始されています。2009年12月10日に行われた現場説明会で撮影したグスク正殿付近について紹介しましょう。

今回の調査で明らかになったのは正殿を支える礎石群と建物の大きさです。この正殿は南山時代ではなく、第一尚氏王朝期のものと考えられます。

大里グスク正殿跡

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そのままの位置で残る礎石

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そして驚いたのが礎石に残った建物の柱のかたちです。

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おわかりになったでしょうか?丸い礎石の中央に四角の柱の痕跡が残っています。

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つまり大里グスクの正殿の柱は首里城正殿のように丸くなく、四角だったのです。古琉球時代の木造建築は残っていませんので、当時の建物の姿をうかがうことができる重要な資料です。礎石から8間×5間(22×13m)になることが判明しています。

また正殿付近からは、謎の石積みの穴も見つかっています。中からは陶磁器の破片などが出土していますが、用途は不明とのこと。

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大里グスクは戦後、採石などで破壊されてしまいましたが、現在でもわずかながら当時のまま残っている石垣もあります。

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石垣は自然石をそのまま積んだ「野面(のづら)積み」ですが、これは裏込めの石積みであって、この表面に切り石(布積み)があったようです。基礎部分にいくつか加工石が残存していることからわかります。砕石で切り石はごっそり持っていかれてしまったんですね。

基礎部分に残る切り石

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南城市では国史跡への指定に向けて整備を進めるそうですから、やがて勝連や中城のようなグスクの姿を現すはずです。楽しみに待ちましょう。

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2009年12月17日 (木)

どこまでが琉球で、どこまでが日本か

来年の2月6日、沖縄県立埋蔵文化財センターで文化講座「どこまでが琉球で、どこまでが日本か」が開催されます。近年めざましい進展をとげる奄美諸島史の考古学を中心に、琉球の歴史とのかかわりを探っていこうとするものです。考古学の成果をきちんと整理したうえで、文化圏の相違、またその分布や相互の影響を探ることは大変意義のあることです。

しかし、昨今一部で展開されているような、その成果を安易にアイデンティティ論争に直結させるような動きや、最新の研究水準をふまえていない「沖縄島中心史観批判」に僕は違和感を感じています。本文化講座では拙速に「日本か琉球か、白か黒か」的な結論を出すのではなく(堅実な報告者なのでそうはならないと信じていますが)、ぜひ以下のような視点も念頭において、議論を深めていってもらえればと願っています。古琉球を研究している立場から書いた、「琉球の歴史の見方」についての僕の考えです。

琉球は東南アジアだ(原題)

 「上里君、古琉球は東南アジアだよ」

10年前、中世日本史の村井章介氏(東大教授)からこう言われて、その真意をはかりかねたことがある。だが古琉球のことを調べていくうちに、その歴史のなかに東南アジア的側面を強く感じることになった。それは個々の事例の相似によるものではない。社会や歴史のあり方そのものが共通しているのである。

古琉球はヤマト文化に近い関係を持ちながらも、国内外の体制は中国無しでは成り立たない政治・社会システムを築きあげた。政治・交易中枢は那覇・首里に一極集中し、港市にはさまざまな外来者が住み、単一のエスニシティを持たない彼らは、琉球の権力内部に他者ではない「われわれ」として深く関与した。このありようは東南アジアの港市国家と同じである。

桃木至朗氏(大阪大教授)は、東南アジアは固定化されない「不安定な生成流転の渦」によって成り立つ社会で、世界宗教・世界文明のような《原理的オリジナリティー》を主張しないと説く。また「国家を支える制度、神話、宗教などの諸要素は、インドや中国やアラビアからきたものばかりだ。オリジナリティーはそれらの採り入れ方、組み合わせ、機能のさせ方にある」と主張する(『歴史世界としての東南アジア』)。まさに古琉球の世界ではないか。ちなみに桃木氏も「琉球王国は東南アジア的性格をもつ」と述べる。

かつて伊波普猷や柳田国男は琉球文化に純粋な「日本」を見出そうとし、また戦後の歴史研究では「中国」の冊封体制に寄り添って中国的要素を強調し、ヤマトからの独自性を確保しようとした。だがどちらの純粋な原理的要素を抽出したところで、それらは全体の中のかけらにすぎない。

琉球・沖縄の「本質」を突き止めるために、起源や出自探しをするのはもうやめにしないか。どのような文化が流入し、どのような人々が来ようとも、南西諸島に住む人々は数百年の歴史の過程でそれらを選択的に受容、自己流に改造し、「琉球」と呼ぶしかない主体を自らの手で作り上げた。それこそが琉球の独自性なのだ。

(「琉球新報」2009年6月17日)

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2009年12月 2日 (水)

琉球・山川港交流400周年イベントを終えて(2)

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ディスカッションの後と「くるま座文化交流」と2日目には芸能交流が行われました。指宿を中心に活動するツマベニ少年太鼓は勇壮で圧倒されました。日本太鼓ジュニアコンクールで優勝する腕前。

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重要無形文化財となった「琉球舞踊」保持者の玉城節子先生の舞踊、与論島出身で現在、鹿児島で琉球舞踊を教える竹内エミ子先生の舞踊があり、奄美の島唄は徳之島の是枝三姉妹が美声を披露(真ん中の子は風邪気味でちょっとつらそうでしたね)。山川からは琉球傘踊りが舞われました。

また2日目は琉球人鎮魂墓碑と琉球人望郷の碑の除幕式が行われました。僕は諸々の手違いで残念ながら参加できませんでしたが、事前に永田さんより案内されていたので実際に見ました。かつて山川にあった琉球人墓地は明治になり破壊されました。それを山川の人たちが数百万円を集め、建立したのです。

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望郷の碑は当地で客死した琉球人の無念をしのび、山川港を見下ろす愛宕山に建てられたもの。碑は沖縄から琉球石灰岩をわざわざ取り寄せ、プレートは1枚の薩摩焼で作られています。焼き物のプレートは永田さんの知人の陶工さんに頼み、何度かの失敗を経てようやく完成したとのこと。これらの事業も行政はノータッチのようです。山川の皆さんのまごころを強く感じました。

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山川の町歩きは残念ながら参加できませんでしたが、早朝に少しだけ山川を巡りました。面白かったのが「石敢当」がいたるところにあったこと。将棋のコマの形をしたものも。あちらでは「いしがんとう」ではなく「せっかんとう」と呼ぶようですね。またあるお宅の玄関にはシーサーも飾られていました(笑)路地に入っていくと「唐人町(トジンマッ)」という通りが。16~17世紀、山川港は琉球だけではなく、中国や東南アジア、さらにヨーロッパともつながっていた場所でした。九州各地には華人居留地の痕跡が「唐人町」という地名で残っていますが、山川の「唐人町」からも海域世界との交流をうかがうことができました。

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なおイベントの前日には、地元の地域史研究家の方に牧聞神社のほうも案内してもらいました。雄大な開門岳のふもとに位置するこの神社には、王国時代に琉球の官人たちが奉納した扁額がいくつも残されていて、それを見学。扁額は首里城にある復元品を見たことがありますが、牧聞神社の扁額は数百年前の風格を感じます。おそらく首里城の扁額もこれを参考にしたはずでしょうから、実物を見ることができ感動でした。また宮司さんからは特別に本殿の龍柱も見せてもらいました。本殿欄干の擬宝珠は何と慶長15年(1610)の銘が。島津義弘によって造営されたようですが、1609年から1年後というところに何やら考えさせられました。

わずか3日でしたが、山川の人々の温かいもてなしと琉球との交流の痕跡を実見することができ、大変心に残るイベントでした。山川という地域のパワーも実感することができました。本当にありがとうございました!

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2009年11月30日 (月)

琉球・山川港交流400周年イベントを終えて(1)

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11月28、29日に鹿児島の山川で開催された「琉球・山川港交流400周年イベント」に参加してきました。僕は坊津や志布志などの港町は行ったことがありましたが、山川は初めて。大変良いイベントでした!山川のみなさんの熱烈な歓迎ぶりに、ただただ感動しました。

僕は今年の1月5日、琉球新報の連載コラム「落ち穂」で「400年目の和解」という文章を書き、そのなかで鹿児島との和解に乗り出し、今年を鹿児島・奄美との相互理解を深める「交流元年」にしてはどうか、と提起しました。2009年もまもなく終わろうとするなか、そのような主旨のイベントに実際に参加させていただいたことは、非常に感慨深いものがありました。

イベントはまずNHK大河ドラマ「篤姫」の時代考証・脚本を手がけた原口泉先生(鹿児島大教授)の基調講演から始まり、近世における琉球と薩摩の交流などを紹介しました。その後パネルディスカッション。

沖縄・鹿児島県両副知事のお話では、両県はすでに「南の海洋連携軸構想」として両県共通の問題・課題を話し合う連携を行っているとのこと。恥ずかしながら、行政の具体的な交流が進展していると知りませんでした。2009年を機に、こうした路線がさらに活発となることを期待したいです。

通称「奄美のトラさん」こと花井恒三さんは奄美の歴史副読本が作られることが決定したとの報告。地元の歴史を奄美の子供たちが学ぶことになるのです。もちろん副読本の前提となる奄美の歴史研究がまだ充分とはいえない状況という課題はありますが、奄美の自画像を描く大きな一歩であると思います。

山川港と琉球との関わりで南九州地域史研究家の松下尚明さんは、島津軍の琉球侵攻に従軍した山川衆の内田浄休が征服後、琉球から女性を連行してきたとの伝承があるとの事実を明らかにしました。この伝承は僕は全く知らず、史料からはうかがえない、地元をよく知る方ならではの研究をされていると思いました。

僕は1609年前後の山川港と琉球との広範な民間交流について、新史料を紹介しながらいくつかの事例をあげて話しました。歴史の話を通じて僕がとくに強調したかったのは、沖縄側から十把一絡げにされてしまう《薩摩》には、地域のそれぞれの具体的な「顔」があるということです。戦国・江戸時代の大名権力としての《薩摩・島津氏》、抽象化・記号化された《薩摩・鹿児島》ではなく、今回のシンポジウムは「山川港」と「琉球」と銘打ったことは非常に良かったと思います。

本イベントを主催した実行委員会の永田和人さんによると、もともとこのイベントはさまざまな縁で実現したとのことです。山川はこのイベントが開始される以前より沖縄と交流していましたが、今回のイベントが開催されたのは、山川港にあった樹齢300年のアコウの木が台風で倒れ移植した際、この木が琉球から来たとの話を聞いたのがきっかけだったそうです。

それから永田さんらは有志を集め、仕事の合間に沖縄の歴史の勉強会を重ね、協賛金を募り、スタッフの数も充分ではない中、行政はほとんどノータッチでこの大きなイベントを実現させました。これには両副知事も驚かれていました。民間でこれだけできるんだ、ということを証明した格好になったと思います。

長くなりますので、続きは次回に。

※【画像】は山川から見た日の出。対岸に見えるのは大隅半島。

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2009年11月18日 (水)

「奄美と沖縄をつなぐ」イベント、終了

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11月14日(土)に東京新宿で行われた「奄美と沖縄をつなぐ」イベント、大盛況のうちに終わりました。参加された皆さん、どうもありがとうございました!また主催者の喜山さん・持田さんをはじめ、出演者の皆さんも大変お疲れ様でした!

僕はイベントの第1部「異種格闘型トークセッション」にパネラーとして参加しました。そのほかの参加者は『奄美自立論』著者の喜山荘一さん(与論島出身)、東京で奄美料理の店「奄美の家」を経営する圓山和昭さん(奄美大島出身)、そして元「りんけんバンド」でうちなー噺家の藤木勇人さん(沖縄島出身)です。それぞれ異なった出身というだけでなく、さまざま分野で活躍されている方が集った異色の組み合わせです。ここでは1609年の島津軍侵攻から400周年を迎え、隔てられていた奄美と沖縄をどのようにつなげられるのか、奄美や沖縄、それぞれの立場から模索しました。

喜山さんはこのイベントを企画するに当たり、このテーマが自らにとって切実なテーマであったことを述べ、従来の400周年に関わるシンポジウムが歴史そのものを探ることに偏重していること、若い世代の参加が少ないことをあげていました。そうした問題意識のうえで本イベントを立ち上げたとのこと。著書の『奄美自立論』では、ときに激しい言葉で奄美の置かれた「二重の疎外」を訴える喜山さんですが、僕はこうした批判が決して机や研究室から座って生まれた観念的なものではなく、喜山さん自身の置かれた立場・環境からくる切実な実感からくるものであることは、重く受け止める必要があるように思いました。トークセッションでのお話から、そのような喜山さんの気持ちを感じることができたように思います。

沖縄で知らない人はいない藤木勇人さんのトークは、まさにプロ。口を開けば一気に聴衆を魅了し、爆笑の渦に引きずりこみます。どちらかというと話が苦手な僕は大変勉強になりました。また今回、藤木さんのご両親が奄美出身であったことを初めて知りました。コザと奄美の話から、両者の戦後の歴史の歩みの相違が浮き彫りになったような気がしました。基地の島として開発・整備されていく沖縄とひどく貧しい状況だったという奄美との対比です。ただそのため藤木さんが「奄美には古い沖縄が残っている」とお話しされていたのも印象的でした。

圓山さんは「奄美の家」のお店で働いているそのままで登場。いわば「正装」ですね。奄美大島でも龍郷の出身である圓山さんは「奄美は奄美だ」という郷土への熱い想いを語っていました。その想いが伝わったのでしょう、会場からの声援と拍手がとくに多かったような気がします。奄美にいた頃の「シマ」を中心に生活していた感覚、「奄美大島」すらも意識する機会がなかったというお話は興味深いものでした。

僕はいちおう歴史をやっている人間として、奄美と沖縄がかつてつながっていた時代(古琉球)の頃の話と、僕の奄美体験などを紹介しました。実は僕は以前、沖縄の地域史編纂に関する調査で奄美大島を訪れ、奄美の地域史の状況などをインタビューしたことがあります。それをもとに、歴史像を構築するという面から今後の奄美と沖縄についての展望を提案するつもりでしたが、残念ながらタイムオーバーで詳しく話せず。

琉球史研究においては、沖縄側から奄美地域の歴史を積極的に組み込んでいこうとする動きは確実に起こっています(昨今、一部の研究者から主張されている「沖縄島中心史観」批判なるものは10~20年前の水準の研究を対象としており、必ずしも最新の動向が追えていないように見えます)。こうしたことにくわえ、奄美における歴史の普及は研究面だけで進めるのではなく、かつて沖縄側が実行し成功した「総合プロジェクト型」を参考に進めていくのも選択肢のひとつとして考えてもいいように思いました。・・・まあこの話は次の機会にということで。

トークセッションの次は第2部「シマウタ流れコンサート」。これがまた斬新な内容で、5つのテーマごとに各島のウタを披露していくもの。同系統のウタが島によってどうちがうのか、同じなのかが楽しみながら実感できます。最後はお客さんも揃ってカチャーシー(笑)。非常に盛り上がりました。

イベント自体はこれで終わりましたが、「奄美と沖縄をつなぐ」試みはこれからも継続していく必要があります。僕の今度発表する予定の論文は古琉球時代の喜界島に関する内容です。今後、僕も奄美を自身の研究テーマとしてふくめていこうと思っています。

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