2009年6月17日 (水)

古琉球の元号

【古琉球で使用されていた元号】

明朝の朝貢国だった琉球では、一貫して中国元号を使用していました。元号を受け入れることは、空間的に中国の国際体制に参加するだけでなく、時間的にもその傘下に入ることを意味していたのです。ちなみに琉球の「○○王統」や「○○王~年」という表現は、古琉球当時には一切ありません。

洪武 こうぶ (1368~1398)

建文 けんぶん (1399~1402)※

永楽 えいらく(1403~1424)

洪煕 こうき(1425)

宣徳 せんとく(1426~1435)

正統 せいとう(1436~1449)

景泰 けいたい(1450~1456)

天順 てんじゅん(1457~1464)

成化 せいか(1465~1487)

弘治 こうじ(1488~1505)

正徳 せいとく(1506~1521)

嘉靖 かせい(1522~1566)

隆慶 りゅうけい(1567~1572)

万暦 ばんれき(1573~1619)

※建文帝は永楽帝のクーデターにより皇位を奪われたので、その存在を抹消されていた。琉球側の記録では建文年号の使用は見られないが、当時の状況から言えば建文帝存命当時には使用されていた可能性が高い。

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2009年6月 3日 (水)

琉球歴史イラスト(9)

明朝常服、キリンの補子

Photo_2

(クリックで画像が拡大します)

補子(ほし)とは明朝の身分を識別するために常服に付けられたゼッケン。身分ごとに違う動物の模様を用いた。琉球国王は紅色の服に麒麟(きりん)が描かれた補子と決まっていた。これは明朝の諸侯と同ランクである。図の文様の服が琉球にも送られた。

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2009年5月10日 (日)

侵攻400周年シンポに参加して

5月9日、沖縄県立博物館で「薩摩の琉球侵攻400年を考える」シンポジウムが開催されたので、参加してきました。参加人数は数百人を超え、臨時に第三会場まで用意するという盛況ぶり。沖縄での関心の高さがうかがえます。

報告者は琉球史研究を牽引する先生方、また本土や奄美からの研究者も参加したそうそうたるメンバーでした。さまざまな切り口から薩摩侵攻についての報告が行なわれました。とくに面白かったのは女性史や民間伝承、精神史の面から薩摩侵攻事件にせまった報告など。これまで考えたことのない新しい視点からの話は、とても興味深いものでした。

さて僕が今回この記事を書くのは、シンポジウムで琉球の軍事的対応をめぐる議論について、報告者の方々の意見に少々疑問を感じたからです。基調報告をされた上原兼善先生は、侵攻事件の経過を説明するなかで、島津軍に対する琉球の軍備は劣弱でしかも火器兵器が装備されていたかったことを、1606年に琉球を訪れた夏子陽『使琉球録』を根拠に主張されていました。またパネルディスカッションにおいても、琉球は軍事組織と呼べるほどの軍団が編成できない状態で、島津軍に対応したとの意見がありました。

琉球の軍事をめぐる問題を調べている僕からしますと、この見方には賛同しかねる部分があります。

まず1609年直前における琉球の武装と火器について。上原氏は夏子陽の「琉球の武器は刀ぐらいで、矛も弓もさほど役立つものではない」とのコメントをあげ、火器について言及されていないから火器は常備されていなかったとしています。しかし1605年の袋中『琉球往来』のなかには、琉球の「那呉ノ館(名護親方か)」の保有する武器照会で、「甲冑300領、弓500張」とともに「銃(テヒヤ)大小200挺」と具体的な武器・武具類が詳細に記されています。『琉球往来』中の文書は実際に発された文書ではありませんが、当時の琉球の状況、風俗・文化などをかなり正確に反映していることから、王府の軍団編成のなかで多数の火器が装備されていたことはほぼ間違いありません(この話は拙稿「琉球の火器について」のなかでも言及しています)。

また上原氏は那覇港口での戦いで「石火矢(大砲)」が使用されたという話を挙げられていましたが、これこそが琉球が組織的な軍事行動で火器兵器を実戦使用していたことに他ならない事実なのではないでしょうか。この事実は、なぜか琉球が火器で武装されていた証拠としては採用されていませんでした。

興味深いのは、『琉球往来』中の「銃」に「テヒヤ」とルビがふってあることです。このテヒヤは「手火矢」だと考えられます。この「手火矢」という用語、実は九州地方での火縄銃の地域的な呼称なのです(宇田川武久『東アジア兵器交流史の研究』)。史料中の「銃」が中国式火器なのか火縄銃なのか不明ですが、少なくとも琉球での銃の呼称が、九州地方での火縄銃の呼称と共通することを確認できます。

また、史料中の銃と弓矢の保有比率からも、琉球の武装の様子がうかがえます。弓500張に対し銃が200挺と、その比率が5:2と弓矢のほうが多いのです。これは琉球の軍隊が少なからず火器で武装しながらも、その主力兵器がいまだに弓矢だったことを表わしています。ちなみに1609年の島津侵攻軍の武装は、弓117張に対し鉄砲734挺と圧倒的に火器が多いことがわかります。

つぎに琉球の軍事組織が、16世紀に奄美・先島を征服したような規模で維持されておらず(つまり軍隊としての能力が100年間で縮小したということでしょうか)、港を守る程度の組織で島津侵攻軍を迎え撃った、というディスカッションでの結論ですが、史料には琉球での軍事組織の改変・縮小を示すような事実が全くないうえに、1571年には尚元王が奄美反乱の鎮圧のため軍隊を派遣しており(『中山世譜』)、外征能力を依然として備えた軍事組織を持っていたと考えたほうが妥当です。

また1606年の夏子陽『使琉球録』には、倭寇来襲の情報に接した王府が毛継祖(豊見城親方)率いる1000人の兵を今帰仁へ派遣したとあり、有事の際には首里・那覇港以外の場所にただちに軍事組織が急行できる体制であったことが明らかです。そもそも夏子陽の「琉球の武装が劣弱である」とのコメントは、あくまでも彼個人がみた印象にすぎない点を考慮しなくてはいけないように思います。さまざまな史料を先入観なしで総合してみれば、琉球は国力相応の軍事力を持っていたとしか評価できず、港の警備隊程度しかなかったとの評価は正しくないと僕は考えます。

では、琉球が軍事組織を持ちながらなぜ島津軍に負けたのかという問題ですが、それは琉球側の軍事組織の運用方法や、島津軍との戦力差(兵数だけに限定されない諸要素ふくむ)という、軍事組織の有無そのものとは別次元の問題であって、「あっけなく負けたから」「激しく戦闘した様子がみられないから」というのは軍事組織を備えていなかった根拠にはなりません。

実際に琉球は那覇に王府直轄軍の兵力ほぼ全てを投入しており、港を守備すれば島津軍の侵攻を防げると考えていたふしがあります。島津側の史料『琉球入ノ記』で那覇港に突入した七島衆の島津軍船が謝名親方3000の軍に「大石火矢(大砲)」で撃退された記事だけでなく、『歴代宝案』には三司官の謝名親方・豊見城親方率いる3000の軍勢が那覇を防御している記述があり、『喜安日記』にも「若き公卿・殿上人は(略)一戦せんとぞ申しける。去程に、夜も漸く明行侭、那覇へ下りぬ」とあります。これまでこの一節は見逃されてきましたが、『歴代宝案』の記述と合致することから、那覇に防衛軍が派遣されたのは間違いないでしょう。

〔追記〕島津軍侵攻を伝える琉球側の史料『喜安日記』は、これまで信頼性の高い史料として、多くの研究者に引用されてきました。であるならば、島津軍と一戦すべく那覇に出動した王府高官たちの記事を軽視するわけにはいかないはずです。つまり、『歴代宝案』の那覇防衛戦を傍証する、ゆるぎない根拠となるのです。

なぜ港に兵力を集中させたかというと、80隻もの島津軍船が安全に停泊・上陸できる場所は、サンゴ礁で囲まれた沖縄島には那覇・運天など限られた場所しかなかったからです。実際に島津軍の船団は港として使用できる運天・那覇をめざし、那覇に防御網があることを知った島津軍は、途中、大湾渡口から上陸しています。ここも比謝川の河口に位置する絶好の船の係留場所でした。

那覇港と別の地点から上陸した島津軍は、琉球の防備の裏をついて王都・首里へ入り勝利を決したため、実際に両軍の主力が正面から激突することはありませんでしたが、戦闘した様子がなかった事実によって琉球の軍事組織が軽微だった、もしくは存在しなかったとの結論にはもっていけません。【軍事組織が存在したこと】と【戦闘を行なったかどうか、勝ったか負けたか】はひとまずは切り離して考えるべきではないでしょうか。

〔追記〕1609年の琉球・島津氏戦争の展開をあえてわかりやすく例えて言うとしたら、第二次大戦時のナチス・ドイツのフランス侵攻をあげることができるでしょうか。ドイツ国境沿いに140キロにわたって構築された一大要塞網のマジノ線を頼みに、総兵力・戦車数ともにドイツと対等以上だったフランスは、部隊を配置していないアルデンヌの森を突破されて背後をつかれ、一気に崩壊します。フランスは第一次大戦時の装備とほぼ変わらない状態であり、ドイツとの装備・兵器運用面の差は歴然だったのですが、フランスの一番の敗因を「フランスの武器が劣弱だったから」「士気が旺盛でなかったから」と主張したら、多くの専門家は首をかしげるのではないでしょうか。またこの戦いで両軍主力が全面的に衝突しなかった(=大規模な戦闘がなかった)ことを根拠に「フランスには軍事組織がほとんどなかった」という結論を導き出したとしたら?琉球史ではなぜかこれがまかり通ってしまうのが不思議です。

今回のシンポジウムは、さまざまな論点と400周年の歴史的意義という大きな話がメインだったため仕方ない面もありますが、歴史学研究においてこれまで軍事史という視点がおざなりになっていたという問題は、琉球史研究にも当てはまるように思いました。

とくに侵攻事件は琉球が直面した対外戦争です。事件の経過をきちんと押さえていくのであれば、まず軍事的な視点から史料を分析することを第一に行なう必要があります。それは、たとえば石高制の問題について研究する際に、まず経済史の視点をふまえて分析するのと同じことではないでしょうか。このような考えが琉球史において認知されることを願ってやみません。

参考文献:上里隆史『琉球の火器について』(『沖縄文化』91号)、「島津軍侵攻と琉球の対応」(『新沖縄県史・近世編』)、宇田川武久『東アジア兵器交流史の研究』

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〔追記〕琉球側の戦術・布陣と那覇港口の戦いを知ることのできる史料に『歴代宝案』(1-18-3文書)があります。

四月初一日、倭寇、中山の那覇港に突入す。卑職、師官鄭迵・毛継祖に厳令して技兵三千余を統督せしむ。兵を披(つ)け鋭を執り、雄として那覇江口に拠りて力敵す。

彼の時、球兵は陸に居りて勢強し、蠢倭は水に拠りて勢弱し。百出して拒敵すれば、倭は其れ左なり。且つ又、倭船は浅小にして武を用い難し。箭もて射れば逃ぐるに難く、鋭もて発すれば避くる莫(な)し。急処に愴忙し、船は各自連携(つらな)り角(あらそ)いて礁に衝(あた)る。沈斃し及び殺さるるもの、勝(あ)げて紀(しる)す可からず。

詎(なん)ぞ、彼の倭奴の蔵兵継ぎ至り、陸に沿い東北従(よ)りして入るも兵の備禦する無し。虞喇時(うらしー。浦添)等の地方、悉(ことごと)く焚惨を被(こうむ)る。

【現代語訳】

4月1日、倭寇(島津軍のこと)が琉球の那覇港に突入した。わたくし(明朝皇帝に対しての尚寧王の自称)は司令官として謝名親方・豊見城親方に命令して、精鋭の兵3000あまりを統率させた。兵を率いて「鋭(優秀な武器)」をとり、雄として那覇港口に布陣して、つとめて敵に備えた。

その時、琉球兵は陸にあって勢い強く、島津兵は海にあって勢いが弱かった。さかんに出撃して敵を防げば、島津兵は劣勢におちいった。さらに島津軍船は狭小で戦うに困難である。(我らが)弓矢を射かければ逃げることができず、「鋭」を発すれば避けることができない。あわてふためいて狭い場所(港の出口か)に殺到し、各船はぶつかってサンゴ礁に衝突した。溺死したり殺されたりしたものは数えきれなかった。

しかし何ということだろうか、かの島津軍には伏兵(本当はこちらが主力部隊)があり、陸路に沿って東北(ここでは沖縄島中部)から侵入したのだが、そこには我らの兵の防御がない。浦添などの地方はことごとく戦火の被害を受けてしまった。

『歴代宝案』の文書は宗主国の明朝向けであることから脚色がありますが、事件の経過・日時そのものは正確です。おそらく事実をもとに、それらに肉付けしていったと考えられます。いずれにせよ、この史料からは、琉球王府は島津軍船の上陸地点となる那覇港口を決戦場として考え3000の主力部隊を布陣させ、港口の防御は一定の効果があったものの、沖縄島中部に兵を配置しておらず、陸路から侵入した島津軍の動きは琉球の想定外であったことがわかります。

そして注目されるのが「鋭もて発すれば」という部分です。「鋭」とは「するどい武器、刃物」というほどの意味ですが、ここでの攻撃は弓矢とともに「発する」という、遠距離兵器的な性格を持っていたことがうかがえます。これこそが『琉球入ノ記』でみた「大石火矢」なのではないでしょうか。

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2009年2月25日 (水)

御物グスク潜入記

2月22日、琉球放送の番組「ウチナー紀聞」の「未来をおこす港町~王国時代の那覇~」に出演させていただきましたが、そのなかで王国時代の宝物庫「御物(おもの)グスク」の初潜入に成功しました!御物グスクは現在、米軍港の敷地内にあり自由に出入りすることができません。今回、特別に米軍の許可を得て敷地内の画像を公開し、その様子を紹介したいと思います。

御物グスクは那覇港湾に浮かぶ小島に築かれたグスクで、アジアとの活発な交易を展開していた琉球王国の時代、中国や東南アジアの宝物がストックされていた場所です。15世紀中頃の様相を描いたとされる『琉球国図』(沖縄県立博物館蔵)には「見物具足(みもの・ぐすく)」に「江南・南蛮の宝物、ここに在り」と記されています(見物グスクは御物グスクの旧名)。ただし、ここは単に倉庫としての機能を持っていただけではなく、那覇行政と貿易業務を兼ねる長官、「御物城御鎖之側(おものぐすく・おさすのそば)」とも深い関わりがあります。この職に就いていた金丸(尚円王)は有名です。ある時期までは、このグスクに那覇行政の役人たちが詰めていたようです。

近世期には一時期火薬庫としても使われていたようですが、やがて建物はなくなり、戦前には高級料亭(風月楼)、戦後は那覇軍港の施設が建てられました。今でも那覇港や明治橋に立つとその姿を見ることができます。

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御物グスクの遠景。クリックで拡大

さて僕ら取材班は垣花側の基地ゲートから入りました。バリケードとショットガンを持つセキュリティガードを通過し(汗)、待っていたのは日本人の女性報道官でした。彼女の案内で御物グスクへ。独立した島だったグスクは埋め立てによって陸地と連結され、また道路の敷設で石積みは半分ほど削り取られていましたが、さいわい北側部分はほぼ残っていました。

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御物グスクのアーチ門。クリックで拡大

入口のアーチ門をくぐろうとすると「落下物危険、立入禁止」の札が。門の上部を見るとヒビが入っています。

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門に掛けられた立入禁止の札。クリックで拡大

石積みは「あいかた積み」と呼ばれる比較的新しい技法で築かれています。グスク内で採取された陶磁器を分類した研究によると、陶磁器の年代は15世紀以降に限定されているといいます。つまり、御物グスクの創建が王国の交易活動が本格化した第一尚氏王朝以降のものであることがうかがえるのです。石積みの編年ともあわせて重要な情報です。ちなみに陶磁器の破片はグスク内でもいくつか見つけることができました。

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御物グスクの石積み。クリックで拡大

また興味深かったのは、石積みの中でところどころ色のちがう石が見られること(上の画像でも確認できるかと思います)。注意深く観察すると、どうもサンゴ化石のようです。こうした状況は対岸の三重グスクの石積みにも共通します。

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三重グスクの石積み。クリックで拡大

これは海岸付近のグスクを築造する際に、遠くの石切場だけでなく、近くの海岸から使えそうな石を持ってきたことを示しているのではないでしょうか。グスクを築く際に石をどこから持ってくるのかという問題は、これまで解明されていません。そのような謎を解き明かす重要な証拠の一つになるような気がします。

そして非常に気になったのは、石積みのいたるところに樹木が根を張り、場所によってはその根で石積みが崩落していたことです。アーチ門も危険な状態にありますが、このままでは樹木がさらに生長し、残存した石積み全体も崩壊する可能性があります。

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崩落した石積み。クリックで拡大

王国時代の港町であった那覇は沖縄戦で徹底的に破壊され、戦後は街や地形が大きく改変を受け、往時をしのぶのは難しい状況です。そんななか、御物グスクは琉球王国の繁栄した頃の姿をうかがうことのできる貴重な文化遺産なのです。早急に保護・整備を行う必要を感じました。

またそれにあわせて御物グスクの全面発掘調査も行われれば、これまで見たことのないモノが発見され、研究が大きく前進するかもしれません。放送のナレーションでうまいことを言っていましたが(笑)、まさに那覇港の宝庫跡は琉球の歴史研究における可能性の宝庫でもある、ということなんですね。

参考文献:新島奈津子「古琉球における那覇港湾機能―国の港としての那覇港―」(『専修史学』39号)

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2009年2月18日 (水)

小林氏反論へのコメント

3年前、僕は小林よしのり氏の『新ゴーマニズム宣言SPECIAL・沖縄論』に対して批判的な見解を述べたことがあります(こちら参照)。この批判に対して最近、小林よしのり氏は『激論ムック・アイヌと沖縄の真実』(オークラ出版)で僕を名指しで反論してきました。今回はその反論に対しての回答を述べたいと思います。

小林氏は僕の批判記事「沖縄が超歴史的・必然的に「日本」固有の領土であったとする小林氏の主張には承服できません。明治になるまで琉球王国は「日本国」に帰属した事実は一度もありません。」という部分を引用し、「日本は明治時代に近代国家を建設することになり、領土を画定するために「琉球処分」を行って琉球王国を廃絶し、明確に日本の一部とした」ことをちゃんと書いており、僕が『沖縄論』を読まずに批判している、と反論しています(『アイヌと沖縄の真実』18ページ)。

近代以降に普及した「民族」概念と同じように、国民国家とその成立要件のひとつである「領土」概念は近代以前には存在しません。その点は僕も同じ見解です。たしかに小林氏は日本領土の成立は明治以降と『沖縄論』224ページで述べています。よって「沖縄が超歴史的・必然的に「日本」固有の領土であったとする」と書いた僕の表現は正確・適切ではなかったかもしれません。その点についてはお詫びして訂正したいと思います。

僕がそう考えたのは『沖縄論』の次の記述によるものです。小林氏は琉球処分の歴史的性格をどう解釈するかについて「(とらひこ注:琉球処分は侵略だという意見に対し)同じ民族なのだから統合だ」、「大和朝廷が熊襲や隼人を征伐して統一していったのが少々遅れただけじゃないか・・・」(すべて『沖縄論』224ページ)とし、大城立裕氏の論をあげ「琉球処分は歴史的必然だっただろう」(『沖縄論』230ページ)と結論付けていたことを根拠にしたものです。上記の小林氏の主張から、正確には「琉球が「日本」の領土となるにあたり、超歴史的・必然的に「日本」の潜在的主権があった」、あるいは「明治の日本による琉球併合について、領有を正当化できる要因として歴史的な根拠があった」との表現が適当になるでしょうか。

このように僕の表現が適切ではなかったものの、『沖縄論』の琉球処分についての箇所をひとまず読んだうえでのもので、小林氏を批判するために無理やり作り出したものではないことをお断りしておきます。また、『沖縄論』が琉球・沖縄の独自性を軽視して歴史・文化のほぼ全てを「日本」に回収しようとし、琉球処分(近代日本による琉球王国併合)を当然視・必然視する主張であることには変わらないのではないでしょうか。

追記〕なお小林氏は薩摩の琉球侵略から続く琉球の歴史を「再日本化」と評価しています(『沖縄論』186ページ)。真相はこの時期琉球は「中国化」を強めていくので小林氏の情報・記述は誤っているのですが、それはさておき、明治以前に一瞬たりとも「日本」になったことのないはずの琉球が「再び日本化する」とは一体どういうことなのでしょうか?「沖縄は明治の琉球処分によってはじめて「日本」になった」、と僕に反論している小林氏の本音・真意が透けてみえるのではないでしょうか。

誤解がないように付言しますが、僕は現在の日本社会が非常に画一化・均質化されてきている傾向はあると思いますし、現在の沖縄は間違いなく「日本」です。そしてそれは1972年の時点で「日本国」への帰属を沖縄の人々が主体的に選択したからだと考えています。僕は「沖縄人であるとともに日本国民」という意識であり、それは否定しようもない事実です。沖縄は強い独自性を発揮しながらも、日本社会全体のためにどう貢献できるかをこれから考えるべきだと思います。しかし、だからといって近代以前の琉球の歴史までさかのぼり、これまでの歴史研究の成果の都合のいい部分だけを抜き出し組み合わせ、現在の沖縄と日本の体制がいかに必然性のあるものだったかを補強する根拠としてはいけないのではないか、その点を問題にしているわけです。小林氏がどのような政治的主張をされても別にかまいませんが、現在の政治的意図あるいは思想のために、過去にあった歴史的事実をゆがめて評価してしまうのは承服できません。

小林氏は『アイヌと沖縄の真実』で拙著『誰も見たことのない琉球』からの記述を引用し、古琉球の文化がヤマト風だったことをあげ、さらに自身の日本と琉球を同一視する持論の補強としています。これを読んで愕然としました。小林氏は僕の著書のいったい何を読んでいるのでしょうか。僕は古琉球文化が従来の想像以上に「ヤマト風(ヤマトそのものでない点に注意)」文化だったことは紹介しましたが、拙著の結論である「《まとめ》「古琉球」という時代」(『誰も見たことのない琉球』78~80ページ)で、古琉球の「ヤマト風」文化についてこう総括しています。

(とらひこ注:古琉球にヤマト的雰囲気があったことを紹介して)ここで出てくるのが「やはり琉球は日本の一部であったか。沖縄は古い日本そのものだ!」という反応か、「ウチナー(沖縄)とヤマトゥー(日本)が同じなんてとんでもない!琉球は中国の文化圏だ!」という反応だと思います。両方の言いたいことはわからなくはないですが、僕はそのどちらも全面的に賛成することはできません。

ヤマト文化があるから琉球は日本の一部だとか、中国文化があるから琉球は中国だとか、そういう単純な議論では古琉球の深層には迫れないように感じます。

海域アジア世界の十字路に位置し、交易国家であった琉球に外来の人々や文化が入ってくるのは至極当然のことで、例えどのような文化の影響があったとしても、南西諸島に住む人々は自らを他の地域とは違う「琉球の人々」であると自認し、また琉球以外の地域の人々も「琉球」を自分たちと同一視することはありませんでした。

(略)

琉球と文化的に最も近いはずのヤマトでさえも、自らの領域を南九州付近の島々(鬼界が島)までと認識しており、琉球は「異界」と考えられていました。文化の基層にヤマト的要素があったとしても、それは太古からずっと「純粋培養」されていたわけではなく、数百年の交流を続けていくなかで様々な要素と「化学反応」を起こし、似て非なる別物になったと考えたほうが自然です。

(略)

古琉球という時代は、日本や中国、東南アジアの各要素を持ちながら、そのどれとも言えない、「琉球」と呼ぶしかない主体を南西諸島に住む人々が自ら作りあげた、そんな時代だったといえるでしょう。

小林氏はこの結論をばっさりカットし、僕が著書のなかで行った論の過程における「ヤマト風」文化という点だけを抜き出して、自らの主張を補強するために使っているのです。一番肝要な部分をそぎ落として、自分が欲しい事実を、さもそれが全てであるかのように印象づける。これを「おいしいとこ取り」と言わずして何なのでしょうか。小林氏は僕があの本で述べたかったことを全然くみとっていません。拙著を評価していただいたのはありがたいのですが、著者の論証のすえに導き出した結論も理解しないまま、ただ「これは使える」というだけで本を評価されても僕は嬉しくありません。

また小林氏は古琉球辞令書をあげ、「薩摩が入る以前に、琉球国内の公文書が和文で書かれるほど、和風化が進んでいたのだ」(『アイヌと沖縄の真実』17ページ)と主張しています。文脈からして小林氏の持論を根拠づける例示です。おそらく古琉球辞令書の情報は拙著から仕入れたものでしょうが、この点についてもまた問題があります。以下にあげた僕の文章を読んでください。この記事は拙著にも収録されています。

古琉球はどんな文字を使ってた?

僕はこう書いています。

(古琉球辞令書などを紹介して)
「このような事実から、「琉球は日本と同じなんだ」という考えが出てくるかもしれません。しかし、実はそうではありません。結論は、「琉球と日本は同じではない」のです。」

「琉球で日本の「ひらがな」を使っているから「琉球と日本は同じだ」、という結論にはならないことがわかります。それは日本で中国伝来の漢字を使っているから「日本と中国は同じだ」ということにならないのと同じことです。琉球は外から入ってきた文化を採り入れて、自らのものにしてしまった、ということなのです」

僕は辞令書をあげて古琉球は和風化が進んでいたと言っているのではなく、ヤマトをはじめとしたさまざまな各国の要素を琉球風にアレンジして、似て非なる別物の文化を作り上げたと述べたのですが、小林氏はこうした結論には目もくれません。これも「おいしいとこ取り」の一例です。まさか自分がやられるとは思ってもみませんでした。〔追記〕辞令書でもわかるように、小林氏が挙げた事例は全て、ヤマト的要素と他の要素を混合させながらヤマトとは全く違う「琉球化」を遂げたとしか言えないのであり、「和風化が進んでいた」という事実認識は誤りとなります。

そして僕が一番残念に思ったのは次の部分です(『アイヌと沖縄の真実』18、19ページ)。

ようするに上里氏は『沖縄論』を読まずに、沖縄マスコミの流したわしに関するデマを信じて批判したのだろう

(とらひこ注:僕が『沖縄論』を批判した要因のひとつには)沖縄の新聞が、「小林よしのりは思想信条のために、結論ありきで論理をねじまげている」と書き、沖縄の多くの人がそれを鵜呑みにしているからだ

(とらひこ注:踏み絵のイラストを描いて)沖縄では「小林よしのり=悪」という「俗情」ができ上がっていて、これと「結託」しないと知識人も評価されない」

「根拠を捏造してでも、小林よしのりと自分は違うと主張しなければならない。まさに「全体主義の島」である

文脈からすると、僕が「沖縄全体主義」の圧力に屈して小林氏の批判をしている(やらなくては沖縄で生きていけない)ということでしょうか。

とんでもない言いがかりです。小林氏は僕が「(小林氏が存在すると想定する)沖縄全体主義」に敵対するような活動を行ってきたかご存じない(まあ僕は無名の存在なので当然かもしれませんが)。僕はかつて琉球の軍事史をはじめて体系的にまとめ、2000年頃に沖縄の新聞紙上で「古琉球の火器兵器」「琉球史における「武」の諸相」を連載し、戦後を通じて流布し沖縄平和思想の根幹とされていた「琉球非武装神話」の正当性に疑問を投げかけた張本人ですよ。その結果、沖縄の知識人から新聞紙上で批判も浴びせられています。僕は歴史の事実に基づいて平和を考えることが沖縄にとって必要だと思い、あえてこうした行動をとったのですが、このような行為は「沖縄全体主義(なるものが存在するならば)」にとっては裏切りなのではないでしょうか?

僕は自分の頭でものを考えることができます。小林氏の歴史論を批判したのは、僕自身が小林氏の歴史論がおかしいと感じたからです(それは先にあげた、僕の論の都合のいい部分だけを抜き出した手法で明らかでしょう)。ウヨク・サヨク、沖縄・大和は関係ない。沖縄でバッシングに遭っている小林氏が疑心暗鬼になるのもわからなくはないですが、今回の小林氏の見解は全くの妄想です。

小林氏は「沖縄は全体主義の島ではないと言い張る佐藤優が「大嘘つき」だという証拠である」と結論づけていますが、ひょっとして僕は結局、「沖縄全体主義」とそれにおもねる(と小林氏が考える)佐藤優氏を批判するためのダシに使われただけなのでしょうか・・・?そうであれば非常に悲しいです。小林氏は「言論封殺、論破!」(『アイヌと沖縄の真実』26ページ欄外)と書いてありますが、何の論破にもなっていないことを強調しておきたいと思います。

小林氏への応答は以上で終了とさせていただきます。「ゴー宣」での小林氏の主張や論の展開については同意できない部分が多々ありますが、それでも僕は、沖縄においてさまざまな意見・主張を自由闊達に言える雰囲気になるよう願っていて、その点から小林氏がバッシングを恐れず沖縄に対する発言をした行為自体は評価しています。これからまた別の話題に斬り込んでいくのでしょうが、その場所でも頑張っていただきたいものです。僕は「琉球・沖縄」とは何か、その歴史の探ることにこだわってコツコツと地道にやっていくつもりです。

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2009年2月 8日 (日)

小林よしのり氏の反論について

僕は以前、小林氏の『新ゴーマニズム宣言SPECIAL・沖縄論』及びSAPIO紙上の「ゴー宣」中に書かれた『沖縄論』批判についての小林氏の反応に対して批判的な記事を書いたことがあります(こちら参照)。

それに対して最近、『激論ムック アイヌと沖縄の真実』(オークラ出版)という本が刊行され、どうもそのなかで小林よしのり氏が僕の批判に対して名指しで反論を行ったらしい、という情報を僕のブログ記事でのコメントから知りました。

僕は小学生の頃は小林氏の「おぼっちゃまくん」の愛読者で、「SPA!」時代の頃から『ゴー宣』はちょくちょく読んでいました(とくに『脱正義論』は大変面白かったです)。小さい頃からなじみのある小林よしのり氏が、ネット上に数多ある批判記事の中からわざわざ僕のブログの批判記事を取り上げ、『ゴー宣』紙上で反論されたことは正直、光栄に思います(皮肉の意味ではないです。念のため)。

小林氏の反論について、入ってきた少ない情報によれば、「お前は『沖縄論』をちゃんと読んでいない。書いていないことを作り上げて批判するな!」という内容らしいです。ただ、現在僕が滞在している沖縄では店頭を探しても見つからず、まだ読んでいませんので、詳細がわかりません。

僕は小林氏に対して、沖縄に敵対する「ウヨク」や「全体主義者」などとレッテル貼りをして非難する気は毛頭ありません。以前の批判記事でも僕は『沖縄論』を全面否定したことはなく、その問題提起をした意義についてはいちおうの評価もしています。これだけは言いたいのですが、小林氏に悪意・敵意をもち論のあら探しをして批判したのではなく、『沖縄論』をひとまず全部読んだうえでその内容を理解しようとつとめたつもりです。よってもし僕の誤読や誤解が明らかであれば、ただちに訂正・撤回する用意があります(もちろん納得できない内容であれば反論します)。言うまでもないですが、僕は批判の対象となった記事を削除することは決してありません。

いずれにせよ、今回の小林氏の『ゴー宣』と『沖縄論』を再度丁寧に読んで、僕の見解を出したいと思います。ただし現在さまざまな仕事が山積しており、また反論と『沖縄論』を読む時間も必要ですから、ただちにこれを実行することはできません。今しばらくお待ち願えればと思います。

この件に関しての僕からのコメントは、今のところこれだけにとどめておきます。あしからずご了承ください。

※小林氏反論への僕のコメントは【こちら】を参照してください。

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2008年12月10日 (水)

琉球の武器展覧会

以前、当ブログの記事「武器のない国琉球?(2)」で戦前の沖縄で武器の展覧会が開催されたことを書きましたが、詳細について知りたいとのご質問がありましたので、今回、その新聞記事を紹介します(すみません、回答が遅れました)。読み・漢字は現代の表現にしてありますが、内容の改変はありません。

名刀と名楽器/美術品展覧会に陳列(琉球新報・大正5年《1916年》4月17日)

わが社(琉球新報社)の美術品展覧会には刀剣類も陳列されているが、その中には鬼大城、国頭左馬頭の刀、大新城の薙刀のような歴史上名高い物が少なくない。

▲鬼大城の刀
骨格たくましく勢い狼虎のようであった夏居数は俗に鬼大城と呼ばれていた。この刀は鬼大城が王命を奉じて阿麻和利を斬った有名な刀である。

▲国頭左馬頭の刀
国頭按司正弥は慶長19年(1614)国質となって上国したが、翌年大阪兵乱(大坂夏の陣)が起こったので彼は左馬頭の名を賜わり兵卒を授けられて出陣したが、その時戴いたのがこの刀である。

▲大新城の薙刀
尚清王崩御の後、三司官たちが王の御遺言に背いて王子・鑑に位を継がせようと協議している席に、毛龍吟が薙刀(なぎなた)をひっ提げて「らくぶつの御帯よはら引き廻ち首里加那志めでりで我(わ)ねさだら」と叫びながら躍り込んで、王の遺命通り首尾よく王子・元を即位せしめたが、これがその時の薙刀である。

本展覧会が古琉球の忠臣義士などの偉業を誇る名武器のほかに、琉球音楽史上に幾多のローマンスを有っている名楽器を陳列してあることはすでに読者諸君のご承知の通りだが(略)

この展覧会の武器類は、王国時代を通じ士族の所有物として代々伝わったものであり、琉球では尚真王以降、さらには近世においてすら「刀狩り」は行われていなかったことを示しています。また最近行われた金工品の調査では、現在でも沖縄県内には王国時代からの伝世品である日本刀、槍などが存在することが確認されています(『沖縄の金工品関係資料調査報告書』)。

薩摩藩の支配下に入った近世の琉球では「禁武」政策がしかれていたと言われます。たしかに薩摩藩は琉球の軍事権を制限しようとしたことは事実です。しかし最近の研究では、薩摩藩は1609年の占領当初から徹底した武器管理策はとらず(とれず)、少なくとも1657年までは士族個人の鉄砲所持すら容認されていたことがわかっています(麻生伸一「琉球における薩摩藩の武具統制令について」)。

琉球の軍事をめぐる問題を考える際には、“まず「刀狩り」「禁武政策」ありき”という先入観を取り払って、今後は一つ一つの史料を丹念に分析したうえで全体像を描き出す必要があるのではないかと思います。

参考文献:麻生伸一「琉球における薩摩藩の武具統制令について」(『沖縄文化』102号)、沖縄県教育委員会編『沖縄の金工品関係資料調査報告書』

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2008年10月23日 (木)

中国式火砲の撃ちかた

Cimg3002_2

10月12~16日まで中国ツアーの同行解説をしてきました。ツアーでは福建省の土楼(承啓楼)に立ち寄ったのですが、そこで沖縄の歴史とも関係する重要な発見が!種子島へ鉄砲が伝わる以前、沖縄に存在していた中国式火砲「火矢」を発射する場面に偶然、遭遇したのです。僕も実際の発射を見るの初めてです。今回はこの「火矢」発射の手順を紹介していきましょう。

Cimg3007_2

↑これが中国式火砲(手銃)。3つの鉄の筒からなっています。「三眼銃」と呼ばれる銃と同形式のもの。映画「もののけ姫」に登場した石火矢といえばわかりやすいでしょうか。沖縄でも「火矢」と呼ばれる同じかたちの火器が存在しています(沖縄県立博物館に所蔵)。

Cimg3020

↑三眼銃の拡大画像。

Cimg3013

↑火薬入れと新聞紙。

それでは発射までの手順。

(1)まず筒の中に火薬を入れ、棒(さく杖)で突き固めます。筒には点火のための小さな穴があり(火門)、そこに導火線も差しこみます。

Cimg3012

(2)次に新聞紙の破片を丸めて筒の中に押しこみ、

Cimg3014

(3)新聞紙を棒で筒の奥まで詰めて、さらに突き固めます。これで準備完了。

Cimg3015

(4)この手順を3つの筒すべてに行います。

(5)それでは、短いですが実際の発射シーンを動画でご覧ください。撮影に慣れていないため(実は今回がビデオ撮影初めて・・・)映像がブレてしまっていますが、その点はご容赦ください。

現在では兵器ではなく祝砲として使用しているようですが、1466年、琉球使節が京都でぶっ放し人々を驚かせたという「鉄放」は、まさにこの種の火砲のことでしょう。

実際に見て感じたことは、まず火砲の威力のすごさ。腹に響く衝撃でした。中国式火砲は火縄銃と比べ命中率が低かったようですが、戦場でこれを並んで撃たれたら腰を抜かしてしまいそうです。威嚇としては充分使えるように思いました。ただ発射するまでの準備に非常に手間取っていたことも気になりました。発射してから次に発射するまでに3つの筒に火薬と弾丸を入れるまでに時間がかかることから、やはり連射は難しいように感じます。三眼銃などの中国式火砲は敵が接近した際に発射して、その後は銃をこん棒のように振り回し打撃武器としても使ったそうですが(派生型には槍付きの銃あり)、それも納得です。

現在、火縄銃の発射実演は日本各地のイベントで見ることができますが、中国式火砲についてはなかなか少ないと思います。大変貴重な体験でした。

なお欧米の三眼銃発射の動画もあるようなので、参考までに【こちら】をどうぞ。撃っているおじさんがノリノリなのが少々気になりますが・・・

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2008年4月25日 (金)

琉球歴史イラスト(8)

古琉球時代の三司官の印

Photo

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【解説】古琉球時代に使用された三司官(大臣)の印鑑。「三司官印」と刻まれています。この印が押された琉球国内の文書は残されていませんが、薩摩の島津氏向けに送られた三司官連名の書状に押されているため、その存在を知ることができます。近世になると、三司官の印は「法司之印」と変化します(法司とは三司官の別名)。

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2008年4月 9日 (水)

琉球歴史イラスト(7)

首里城正殿で出土した鎖付きの兜(復元図)

Photo_2

(クリックで画像が拡大します)

【解説】首里城正殿の発掘調査からは珍しい兜が見つかっています。この兜は頭部の後ろと側面を守るため、鎖じころ(八重鎖)を兜鉢に付けたものです。兜の形式は室町時代の日本で流行した筋兜なので、古琉球の時代に使われたものでしょう。中世の鎖じころの付いた兜は日本本土では絵図で存在が知られていても実物が残ってないため、大変貴重な事例です。

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2008年4月 2日 (水)

岩波からデタ!

先月、岩波書店から桃木至朗編『海域アジア史研究入門』がついに出版されました!

これまでの歴史といえば国家・王朝の歴史。世界史も国家単位の関係史としての叙述が中心です。本書の特徴は、陸上国家の視点で区切られた「東アジア」とは違った「海域アジア」という新たな地域概念を設定して、各地域における最新の歴史研究が紹介されていること。

海域史って?それは「航海、貿易、海賊、海上民といった海の世界そのものの歴史だけでなく、海をはさんだ陸同士の交流や闘争、海上と陸上の相互作用などを含」む歴史です(『海域アジア史研究入門』)。

近年、この研究は大きく進展していて、本書はその成果を歴史研究者や歴史教育にたずさわる人々に提供しようという、画期的な試みなのです。

14~17世紀の琉球の部分はワタクシ「とらひこ」が執筆いたしました。実は2年前に原稿を提出したのですでに「最新」ではないわけですが(汗)、琉球史の各研究を整理しながら従来にはない「海からみた古琉球史」の全体像を描けたと思います。

琉球の歴史は単に「郷土史」や「国家史」の枠にとどまらない、大きな可能性を秘めています。その一端を知りたい皆さま、是非ご一読ください!

ちょっとだけ読みたい方は【こちら】からどうぞ(pdfファイルです)

本の目次・執筆陣については【こちら】をご参照ください。

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2008年1月25日 (金)

琉球歴史イラスト(6)

浦添グスクで発見された鬼瓦

Photo

(クリックで画像が拡大します)

【解説】浦添グスクで発見された高麗系の鬼瓦(復元図)。古琉球の早い時期に造られたもので、灰色をしている。平盤形で粘土をつまみあげて製作している点は朝鮮系そのものだが、鬼の角を大きくしている点は大和系の特徴であるという。

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2008年1月 3日 (木)

琉球歴史イラスト(5)

琉球の禅僧

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(クリックで画像が拡大します)

【解説】

古琉球時代にはヤマト(日本本土)より禅僧が渡来し、琉球の対日外交や文化交流に大きな役割をはたした。

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2007年12月 4日 (火)

琉球国際シンポ参加記(2)

Cimg2379_2

11月23・24日には琉球大学で「第11回琉中歴史関係国際会議」が開かれました。この会議は沖縄・日本本土・台湾・中国大陸の歴史研究者が一堂に会し、琉球と中国に関わる研究を発表する学術会議です。隔年で行われており今年は沖縄での開催となりました。11名が3セッションに分かれて最新の研究成果を報告し、それぞれが大変面白い内容でしたが、ここで全てを詳説するのは大変ですので僕がとくに興味深いと思ったものを簡単に紹介してみます。

陳碩炫(ちん・せきげん、琉球大)氏は、清代北京における琉球使節の滞在館舎(会同館)の変遷について、はじめて総合的な分析を加えた画期的な研究報告でした。琉球使節の北京での滞在場所は琉球側の史料から何となくわかっていたのですが、今回初めて具体的な状況が判明したのです。固定化される朝鮮やロシア使節館舎に対して、琉球館舎の位置が清代を通じて紫禁城へと接近していったこと、その原因として北京における琉球の進貢活動と密接に関連していたことなどを指摘。地元研究者が陥りがちな「沖縄オンリー」の視点ではなく、中国へ来る朝貢使節全体のなかから琉球使節の特徴をあぶり出すという手法は中国の研究者ならではと思いました。

また今回の目玉として北京の第一歴史档案館の館長・鄒愛連(しゅ・あいれん)氏の初来沖があげられます。档案(とうあん)とは紫禁城(故宮)などに収蔵された中国王朝の行政文書で第一級の史料。その数は膨大でいまだに未整理な文書類も多いといいます。沖縄・中国側の努力で両者の関係を築かれ、すでに6冊の琉球関係の档案史料集が刊行されています。今回は2008年新たに刊行される7冊目の史料集についての報告が行われたのです。本史料集は主に清末期の台湾出兵事件など琉球問題に関するもので、新たな発掘史料が紹介されました。

通説では台湾原住民による琉球人殺害がきっかけで日本軍の台湾出兵が行われたとされていますが、実はこの時期日本人の台湾漂着事件も起こっており、それらも出兵に大きく影響したとみられること、出兵前に日本はスパイを台湾に派遣しており中国側もそれを詳細に把握していたこと、台湾現地では日本軍来襲をかなり以前から警戒していたことなど、驚くべき事実が档案から明らかにされています。刊行される档案史料集は琉球史だけでなく、日本の近代史研究にとっても重要な研究材料となるはずです。

そのほか朱徳蘭(しゅ・とくらん、台湾中央研究院)氏による、近代台湾の基隆にあった沖縄漁民の居留地についての報告や、琉球王朝の路次楽のメロディから中国楽曲の復元を試み、その楽曲を「実演」してみせた王耀華(おう・ようか、福建師範大)氏の報告なども興味深いものでした。ちなみに僕の報告は、17世紀琉球に渡来した華人・毛国鼎の琉球史上での位置づけを海域史から検討するという内容でした。

すでに11回を迎える蓄積ある国際会議だけあって、学界最先端の研究成果が披露されたハイレベルな内容だったと思います。そして琉球史が単なる「沖縄郷土史」にとどまらない、国際的研究を行うにふさわしい分野であることを実感した学術会議でした。

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2007年11月27日 (火)

琉球国際シンポ参加記(1)

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11月17日、イギリスのロンドン大学アジア・アフリカ研究所(SOAS)にて「珊瑚礁の王国-琉球諸島の考古学・文化シンポジウム」が、11月23・24日には琉球大学にて「第11回琉中歴史関係国際学術会議」が開催され、僕も報告をしました。この2つの国際学会の様子を簡単に紹介したいと思います。

ロンドンのシンポジウムはヨーロッパにおける東アジア考古学の第一人者、リチャード・ピアソン氏の提唱で開催されたもので、琉球・沖縄の考古学を中心テーマに報告が行われました。実は「琉球」をテーマにしたシンポジウムはイギリスで初めてとのこと。この史上初の試みに僕も参加できたことは光栄でした。報告の内容は突っ込んだ細かい議論というよりも、現在の沖縄考古学での主要な研究テーマ・論点を紹介する感じでした。

安里嗣淳氏は沖縄考古学の主要テーマ紹介、安里進氏が13世紀(英祖王代)浦添の琉球史上での位置づけを、亀井明徳氏が沖縄出土の中国陶磁器について、木下尚子氏が琉球諸島の貝交易と東アジア交流について、新里亮人氏が徳之島カムィヤキとその流通について、高宮広土氏が港川人など旧石器、貝塚時代人からグスク時代人への変遷について、ARNE ROKKUM氏(オスロ大教授)が八重山アカマタ・クロマタの祭礼や神女などの文化人類学的な考察をそれぞれ行いました。僕(上里隆史)の報告は文献史学から王国統一以降の都市(首里・那覇)における建築の問題を、寺院やグスクに注目するかたちで分析するという内容でした。

会場はたくさんの聴衆でした。聞くとイギリスでは「琉球」はほとんど認知すらされていないようで、そのなかで多くの参加者が集まったことは成功だったといえるのではないでしょうか。討論ではなぜか木下氏の貝交易に関する質問が集中しましたが、おそらく参加者が日本研究、とくに考古学に関心のある方々で、貝交易については弥生時代など自らがよく知る分野と密接に関わるテーマだったので質問しやすかったのではないでしょうか。

ピアソン氏は常々、琉球諸島考古学の東アジア研究における重要性を力説しておられ、今回のシンポジウムは氏の尽力で実現した画期的なものだったといえます。その内容は論文集として刊行される予定なので、さらに欧米圏で「琉球」の認知度が高まることになるでしょう。

あとシンポジウムのフィナーレは、ホールに移動してイギリスの三線隊による「安里屋ユンタ」やエイサー、カチャーシーでした(笑)ヨーロッパではマジメな学術会議をやるにしても遊び心があるというか洗練されているというか、日本の堅苦しい雰囲気とはどこか違いますね。イギリスの参加者が沖縄文化を肌で感じることができるニクイ演出だったと思います。

追記:本シンポジウムが「沖縄タイムス」2007年12月1日夕刊で取り上げられました。

記事は【こちら

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2007年9月30日 (日)

琉球歴史イラスト(4)

古琉球のフォーマルウェアセット(4)
「朝靴(ちょうくつ)」

Photo

(クリックで画像が拡大します)

【解説】

常服とセットで着用するブーツ。靴底は皮を何枚も重ねて厚くし、白色に塗る。

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2007年9月16日 (日)

琉球歴史イラスト(3)

古琉球のフォーマルウェアセット(3
「石帯(せきたい)」

Photo_3

(クリックで画像が拡大します)

【解説】

いわゆるベルト。帯の表面は装飾として玉(ぎょく)片がいくつも付けられる。

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2007年9月 9日 (日)

琉球歴史イラスト(2)

古琉球のフォーマルウェアセット(2)
「烏紗帽(うしゃぼう)」

Photo_4

(クリックで画像が拡大します)

【解説】

明朝の官僚が常服とセットで着用する冠。黒い紗(しゃ。薄絹)でつくられ、羽根状の飾りがつく。

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2007年9月 2日 (日)

琉球歴史イラスト(1)

みなさんお元気でしょうか。休み中にもランキングをクリックしてくださり感謝です。

コラムのほうはもう少しお休みしたいのですが、皆さんが応援してくださるので、ここで沖縄の歴史イラストをシリーズとして掲載していこうと思います。

古琉球のフォーマルウェアセット(1)
「明朝常服」

Photo_2

(クリックで画像が拡大します)

【解説】

古琉球時代の正装は中国・明朝の冠服だった。中国皇帝は国内で使用される官僚の冠服を琉球国王に与え、琉球では王族・按司や側近らが正装として着用した。琉球では中国冠服を着ることが一種のステータスとなっていたようである(こちら参照)。

服の真ん中にある絵は補子(ほし)と呼ばれたゼッケンで、身分ごとに違う動物の模様を用いた。琉球国王は紅色の服に麒麟(きりん)が描かれた補子と決まっていた。これは明朝の諸侯と同ランクである。

琉球へは図のような明朝冠服が大量にもたらされたはずだが、それらは現在ひとつも残っていない。

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2007年6月21日 (木)

映像でみる沖縄戦

6月23日は沖縄慰霊の日。太平洋戦争における沖縄での戦闘が終結したとされる日です。

1945年(昭和20年)からすでに62年たちましたが、その間に関連資料、とくにアメリカ側資料の発掘が進められています。アメリカ軍の沖縄侵攻作戦を「アイスバーグ作戦」と呼びますが、これらのアイスバーグ作戦資料や沖縄戦記録がアメリカ国立公文書館には大量に保存されていて、沖縄県はこの資料を収集し、一部がすでに『沖縄県史 資料編』(英文・和訳)で刊行されています。

沖縄県公文書館のホームページではアメリカ側から複製収集した映像記録も閲覧することができます。なかにはカラーフィルムも含まれていて、大変貴重なものです。すでにご存じの方もいるでしょうが、これらの貴重な記録類がもっと多くの方々の目にふれることを願って、今回紹介したいと思います。

沖縄戦関連映像資料

映像のなかには日本軍の砲撃に被弾する瞬間のアメリカ軍戦車や戦死者などの衝撃的なものも含まれていますのでご注意を。

自分ごときが偉そうに言うのも何ですが、公文書館はとてもいい仕事をしてますね。ネット上の動画と同じように見れますので、皆さんも良かったらのぞいてみてください。

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2006年4月25日 (火)

続・小林よしのり『沖縄論』に思うこと(2)

小林よしのり氏が『沖縄論』で主張した歴史論は、実はそんなに目新しいものでありません。小林氏はご存じないでしょうが、1980年代、琉球の歴史の評価をめぐって「琉球王国論争」という論争が行われたことがあります。琉球も結局はもともと「日本」の一部、一地方政権にすぎない、とする小林氏とほとんど同じ意見を持つ論者の主張に対し、歴史研究者の高良倉吉氏は厳密な歴史資料の分析から琉球の独自性を立証し、琉球否定論者を完全に論破しています。小林氏の歴史論の骨子は20年前にすでに論破されたものなのです。しかもこの論破された論は都合のいい部分だけ「おいしいとこ取り」された最新の研究で“粉飾”され、リニューアルしています。

ことわっておきますが僕は沖縄独立論者ではなく、現在の体制を否定するつもりはありません。しかし、沖縄が超歴史的・必然的に「日本」固有の領土であったとする小林氏の主張には承服できません。明治になるまで琉球王国は「日本国」に帰属した事実は一度もありません。もともと同一民族だから、両文化に親近性があるからという理由で、実効支配される以前までさかのぼって領有権を主張できるのであれば、同じ論法でいけば台湾は中華人民共和国の領土ということになってしまいます(もちろん小林氏はそう言いません。ここに『台湾論』と『沖縄論』との矛盾があります)。琉球が「日本国」に編入されたのは国際社会のパワーゲーム、政治的な変動による結果、そうなったにすぎないのです。

現在の日本社会に沖縄がその構成員として参加していることに異論はありません(その点で米軍基地などの沖縄問題は沖縄だけの問題ではなく、日本国全体の問題としてとらえ解決すべきものではあると思います)。しかし、日本社会は太古から“国のカタチ”が確定していたのではなく、多様な経緯をふくみながら歴史的に形成された結果として今の姿があるわけで、薩摩の征服を「同民族の外圧による改革」だとか、明治の琉球処分をして「再日本化」とする小林氏の論は歴史を軽視した、しかもすでに破たんしている陳腐な議論と言わざるをえません。

では琉球・沖縄の歴史はどう評価すべきなのか。ちょうど小林氏が書いた『台湾論』にしっくりくる一節があったので、少しばかり改変して引用してみましょう。

日本、中国、アメリカ…沖縄にやって来たこれらの「外来者」たちは沖縄人に何を残しただろう?沖縄人の気質・住民性にどんな影響を及ぼしただろう?いくら外来者が支配しても…沖縄人はいた。沖縄人は育った。沖縄人になった。沖縄人とは何か?それは血筋を辿っても出てこない。自らの地域の歴史に目を開くことによってのみ明らかになるのである。(小林よしのり『台湾論』163ページ。原文「台湾人」の部分を「沖縄人」に改変)

最後に小林よしのり氏に一番言いたいこと。琉球・沖縄の歴史を語るのであれば、伊波普猷をはじめとした沖縄研究者たちが営々と築きあげてきた成果のおいしいとこだけ頂戴して利用するのではなく、もっと彼らに敬意を払ってほしい。少なくとも沖縄“論”を自負するのであれば、情報を正確に把握し理解することを何よりも大切にしてほしい。思想信条に関係なく、正確な情報をもとに考察するのが「論」です。それがなければただの「感想」にすぎなくなります。以上。

※追記:小林よしのり氏の反論に対する応答は【こちら】をご参照ください。

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2006年4月23日 (日)

続・小林よしのり『沖縄論』に思うこと(1)

先日、雑誌『SAPIO』に連載されている小林よしのり氏の「新ゴーマニズム宣言」を読む機会がありました。小林氏はそのなかでネット上に流れる「情報」を批判し、さらに『沖縄論』に対する否定的な反応に対して、小林氏の沖縄に対する「感受性」や「心」を読みとれず「情報」の揚げ足とりに終始していることを書いています。小林氏は「『ゴー宣』を読む時は「情報」のおいしいとこ取りだけ、するんじゃない!自分の知性で行間に込めたものまで認識して「知識」とせよ!」と「ゴーマン」をかましています。

以前、僕のブログでも小林氏の『沖縄論』に対して批判的な意見を述べたことがあります。小林氏からすれば僕の批判は「情報」と「知識」の区別がつかず、ネット上で「情報」を発している「若手」の揚げ足取りだと感じることでしょう。小林氏が僕のブログを読むはずもないでしょうが、これを機会に『沖縄論』の何が問題なのかを少し具体的に述べたいと思います。

僕は小林氏の『沖縄論』について、その主張の是非はともかく、日本国の安全保障の根幹であるはずの沖縄に無関心のヤマト(日本本土)の人たちに問題提起をした点については、率直に評価したいと思っています。では『沖縄論』の何が問題なのか。それは小林氏が沖縄、とくにその歴史について自身の都合のいいところだけ「情報のおいしいとこ取り」をしていることに他なりません。

細かい「情報」の誤りについては数多くありますが、ここではいちいち指摘するつもりはありません。以前にも書いたとおり、一番の問題は小林氏の沖縄に対する根本的な理解・評価の部分です。小林氏は『沖縄論』を書くにあたり、沖縄に関する基本的な文献をひとまずは読んでいます。にもかかわらず、これらの文献を読んでなぜ何十年前に使い古されたような主張が出てくるのか不思議でなりません。小林氏の沖縄の歴史についての評価は、ごく簡単に要約すれば、沖縄は歴史的に「日本」の領土であり、「純粋な日本」が残っている。独自性は日本国内の「お国柄」程度にすぎず、「日本」への同化(小林氏がいうには再日本化)は必然性があったというものです。沖縄は「日本」であることに価値があり、だから過重な負担を強いられ本土に無視されている沖縄のことを考えろ、ということでしょうか。

ひとつ例をあげましょう。「情報のおいしいとこ取り」の最たるものは、伊波普猷が述べた「琉球処分は一種の奴隷解放なり」という言葉の引用です。小林氏はこの言葉を「琉球の日本編入は必然であり、琉球処分はかつて分かれた同胞が再び一つになった民族統一である」との持論を補強するために引用しています。

伊波の「奴隷解放」発言について小林氏は表面的な理解しかしていません。伊波は琉球と日本との親近性に言及しつつ「琉球・沖縄」の独自性・主体性も強く主張しています。あの時代、「日本の中の沖縄」という避けがたい現実にありながらも、どうすれば沖縄が沖縄らしくあることができるのかを考えたのが伊波普猷の真意だったと思います。さらに発言の背景には、当時の沖縄社会における鹿児島閥の官僚や鹿児島商人の専横があります。「奴隷」状態、すなわち薩摩藩の搾取に対する伊波の糾弾は現実社会への批判とも重なっていたのです。「奴隷解放」発言はこれらのことをふまえた上で読まなくては彼が本当に言いたかったことは理解できません。そもそも伊波が唱えた薩摩支配下の近世の琉球が「奴隷」状態だったという説は近年の研究では全く否定されています。

小林氏は、終生「沖縄」と格闘した伊波の思想的営みに思いをいたすことなく、彼が述べた文脈を全く無視し、都合のいい「情報」として自説の補強に使っています。これでは伊波がかわいそうです。小林氏は自らの知性で伊波が行間に込めた「思い」を読み取るべきだったのではないでしょうか

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2005年10月22日 (土)

“世界遺産”中城に嘆く

先日、久しぶりに中城(なかぐすく)城跡を訪れました。中城は15世紀の護佐丸(ごさまる)の居城で、当時の首里城にも匹敵する大型グスクです。沖縄県内でも数少ない保存状態の良好なグスクで、世界遺産にも登録されました。

CIMG06942 その中城を見て、がく然としました。現在整備が進められている中城ですが、南の郭の御嶽(ウタキ)内のイビ(聖石)に生えていた樹木がキレイに伐採されているのです【写真】。勝手に生えてきたジャマな雑木だから切ればいい、と思うかもしれません。たしかに自生したものもあるでしょう。しかし、ウタキのなかに生えた木々はそのような木ばかりではないのです。

ウタキの域内に生えた木はガジュマルやクバが多いのをお気付きでしょうか。実はこれらの木は“聖木”“神木”とされ、聖地であるウタキへ神が降りてくるための依代(よりしろ)とされていました。つまり、ウタキ内に生えているガジュマルやクバは意図的に植えられたものである可能性が高いのです。

例えば首里城内にある首里森御嶽は、聖地であるウタキを石垣で囲み、内部に樹木が植えられています(ここを参照)。これは聖木としての樹木も一緒に復元したものです。また糸数グスク内にあるウタキ(糸数城之御嶽)も、聖地の本体であるイビを石垣で囲っていますが、そのイビにガジュマルが根付いているのが確認でき、さらにはクバもあります【写真】。とくにクバはウタキの域内にしか生えておらず、意図的に植えられたものであることがわかります。おそらく王国時代に植えられた聖木のガジュマルやクバが、そのまま成長して残っているものと考えられます。

CIMG0657

つまり聖地の本体であるイビと石垣、そして聖木がセットになってはじめて“ウタキ”だといえるのではないでしょうか。ウタキ内の木も遺跡の一部なのです。中城の南の郭にあるウタキの聖木がいつ植えられたのかわかりませんし、もしかしたら偶然生えたものなのかもしれません。しかし沖縄の歴史について少しでも理解があれば、せめて現状を維持して後の調査を待つ、という選択もできたはずです。少なくとも今回の整備は、“世界遺産”の景観を美しく整備するという、行政的な論理のみで処理されたとしか考えられません。

これまでほとんど未整備であった中城は、石垣のすき間に樹木が生えて石垣が崩壊する危険がありました。当然、それらを切る必要はあると思いますが、ウタキのイビに生えたガジュマルは中城を破壊するような危険性はなかったと思います。今回の「整備」について僕は疑問です。

「世界遺産」とは何でしょうか。テーマパーク化して観光客を呼ぶためのブランドなのでしょうか。遺跡を開発や破壊から守り、本来の姿を維持するはずの目的が、世界遺産に認定されることによって、逆に本来の姿が失われてしまうという皮肉な結果を生み出すことになりかねません。

世界遺産を沖縄県の一行政村にすぎない中城村が整備するのは大変な困難をともなうことだと思います。しかし、もう少し沖縄の歴史・文化を考慮したうえでの整備を行ってほしい。たかが木じゃないか、と思うかもしれませんが、今回の問題は「世界遺産」と観光地化、沖縄の史跡整備という重要な問題を内包しているのです。

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2005年7月10日 (日)

小林よしのり『沖縄論』に思うこと

先日、小林よしのり氏の『新ゴーマニズム宣言SPECIAL・沖縄論』が発刊されました。本の多くが沖縄の歴史について書かれているとのことで、ざっと読んでみました。小林氏は基本的な入門書に目は通して、いちおうは勉強されているように感じましたが、現在の基地問題や戦後の部分はともかく、沖縄の歴史についての評価は納得できません(逆の見方をすれば、沖縄の歴史について全くの素人であった小林氏が沖縄の通史を論じられるまで勉強した、ということもできると思いますが…)。僕は小林氏の言うところのいわゆる「サヨク」ではありません。しかし小林氏の論は、沖縄の歴史を少しばかりかじっている者として承服しかねる部分がまま、あるのです。

今回はいちいちその部分を指摘はしませんが、一言でいうと、せっかく沖縄の歴史の本を読んで勉強しながら、自分の主張の合う部分を抜き出して都合よく自説の補強に使用しているという印象を持ちました。20~30年前に議論されてきたことの焼き直しにすぎない部分もあります。この数十年に蓄積されてきた研究を無視しているのです。そのくせ自説に都合のいい最新の研究成果はちゃっかり押さえてあります。

僕が言いたいのは小林氏の政治的主張の是非ではなく、沖縄の歴史についての理解・評価の問題です。これは今回の『沖縄論』だけにとどまらず、現在の琉球・沖縄史の一般的な共通認識の問題があると思います。沖縄の歴史研究書を読んでいて感じるのですが、現在、歴史学研究界と一般の人々の琉球史認識の間には大きなギャップが存在しているように思います。ネットの某掲示板などに流れる琉球・沖縄史の認識も『沖縄論』をさらに孫引きしたようなものが多々見られます。このギャップは歴史研究者の側にも責任の一端があるのではないでしょうか。

一般向けの本は、最近では『県史47沖縄県の歴史』(山川出版社、2004)や『街道の日本史50琉球・沖縄と海上の道』(吉川弘文館、2005)などが出されましたが、この内容が一般の共通認識にまでなっていないと思います。それに沖縄の歴史に興味を持つ人々の疑問にこれらの本が本当に答えているか、という点もあります。要するに、最新の琉球・沖縄史の研究成果を広める努力をする余地がまだあるのではないかということです。

このブログでは教科書的ではない琉球・沖縄史の話をコラム形式で書いてきたわけですが、沖縄の歴史全体を概観するには難しいでしょう。どこか別のところで全体を概観できる教科書的なブログをつくる必要性を感じます。僕は全体を論じることができるほどの専門家ではなく、素人に毛が生えたような力量しかありませんが、自分の勉強も兼ねて「目からウロコの琉球・沖縄史:通史編」を書こうと考えています。この試みが小林氏の『沖縄論』への批判にもなることでしょう。

※「続・小林よしのり『沖縄論』に思うこと(1) 」「続・小林よしのり『沖縄論』に思うこと(2)」もご参照ください。

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2005年6月19日 (日)

沖縄戦・奇跡の生還-祖父母たちの戦争-

6月23日は沖縄戦が終結した日で沖縄では「慰霊の日」として休日となっています。とくに今年は戦後60年という節目の年でもあります。沖縄戦にちなんで僕の祖父母の戦争体験のお話です。

僕の祖父は戦争中、陸軍の第9師団(武部隊)に所属していました。第9師団は満州の関東軍から沖縄へ配備された沖縄守備軍の最精鋭部隊として知られていました。本来なら、この第9師団が主力となって米軍を食い止めるはずでした。ところが大本営は台湾への米軍侵攻を恐れて昭和19年に師団は台湾に転出させられ、祖父も台湾へ移動します。大本営の当ては外れ、結局台湾への敵上陸はありませんでした。台湾での祖父は毎日海岸で塹壕掘り。そのうち栄養不足から脚気になって入院、終戦を迎えます。大本営の判断ミス(結果的には)で祖父は運良く沖縄での戦闘をまぬがれたのです。もしそのまま沖縄にいれば恐らく生きて帰るのは難しかったでしょう。また沖縄に駐屯せず満州にいれば、その後のソ連軍侵攻でどうなったかわかりません。ともかく祖父は一度も戦闘に遭遇することなく、生き残ったのです。

祖母は「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電文で有名な太田実中将指揮下の海軍部隊で看護婦として従軍していました。戦闘の途中、流れ弾が頭部をかすり意識不明となり、祖母は死んだと勘違いされて、うず高く積まれた死体の山に投げ捨てられてしまいます。死体に埋もれた中でそのまま放置されていたのですが、偶然にも祖母のちょうど手の部分だけが表に見えていて、その手がかすかに動いたために発見され助け出されました。運良く手が出ていなければ、さらにかすかに動いた手に誰かが気が付かなければ…そのまま衰弱して誰にも知られず死んでいたかもしれません。

さらにある日の夜。壕にこもっていた祖母は、友人に月を見に行かないかと誘われます。もちろん上官に見つかれば大目玉です。祖母も当時若かったですし、ちょっとした出来心でコッソリと壕を抜け出して月を観賞しに行きます。ところが壕に帰ってみると、様子がおかしい…何と米軍の襲撃!壕のなかの全員が火炎放射器で黒コゲになって死んでいたのです…!何という偶然でしょうか。あの時、友人が月見に誘わなかったら…規則を守って誘いを断っていたら…そう考えるとゾッとします。この話を聞いた時、人の生死・運命は紙一重の差なんだなと思いました。そして祖母の強運に驚きました。何十年も立った記憶による証言ですから、きちんと検証する必要はあるでしょうが、祖母が過酷な体験をしてきたのは事実でしょう。

考えてみると戦争体験を語っている人というのは、あの戦争を生き残っているわけで、誰もが強運の持ち主といえるのではないでしょうか。祖父母がいなければ今の自分は無いわけで、今いる自分という存在は当たり前のものではなく運命のいたずらの結果にすぎないんじゃないか。慰霊の日が近づき、そんなことを思ってしまいます。

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