薩摩は琉球より格下!?
薩摩といえば1609年に琉球王国を占領した「支配者」です。琉球は薩摩に毎年税を払い、あいさつに出向き、さまざまな政治的な制約を受け、いわば「子分」のような存在になってしまったわけです。しかし、かつては琉球王国が薩摩の上に立ち、薩摩がへりくだっていたとしたら?「まさか!あんなに強い薩摩が弱小の琉球王国の下につくなんて考えられない!」と思う読者もいることでしょう。しかし最近の琉球と薩摩との関係を分析した歴史研究では、驚くべき説が出されています。
1500年代はじめの尚真王の時代、琉球は中央集権化を達成して八重山や久米島を征服、奄美大島にも攻め込んで反乱を鎮圧し、琉球史上の最大版図を築いていました。一方の薩摩は島津の分家がそれぞれ分裂して、守護職をもつ島津本宗家に対抗し、さらに国人領主も台頭、島津氏領国は統一にはほど遠い状態でした。さらにこうした内乱に乗じて日向(宮崎県)の伊東氏や肥後(熊本県)の相良氏が島津氏領内を浸食しつつありました。この時期の島津家当主の忠昌は、領国内をまとめきれず悲観して1508年に自殺してしまうほどでした。
現代のわれわれは「薩摩」と聞くと「九州の覇者」、明治維新を主導した強藩、かつ琉球の支配者というイメージがありますが、こうして強くなるのは戦国時代末期からであって、昔からずっと変わらずに強大だったのではありません。とくに中世の島津氏は弱体化していて、薩摩一国すら満足に統治できなかったのです。こんな状態で琉球まで支配をおよぼすなんて、できるはずがありません。
その反面、琉球王国はどんどん勢力を拡大していました。琉球は奄美や先島をその勢力下におくだけではありませんでした。奄美より北のトカラ列島(七島衆)、そして鉄砲伝来で有名な種子島氏まで自らの「臣下」と位置づけていました。1450年の時点でトカラ列島の臥蛇島は薩摩と分割統治されており、琉球の実効支配が薩摩のすぐ近くに迫っていたことがわかります。また1521年には琉球の三司官から種子島氏に手紙が送られ、種子島氏の以前より忠節を尽くしていることを喜び、年1隻の貿易船を派遣する権利を与えています。琉球は種子島氏を島津氏の家来ではなく、単独の「国」としてあつかっています。
種子島氏だけではなく、肥後の相良氏とも一種の「朝貢」のような関係を築き、琉球へ使者を派遣して貿易船の入港を認められたようです。つまり、尚真王から尚清王にかけての絶頂期の琉球王国は、みずからを中心とした世界秩序を奄美や先島だけではなく、九州の南部にまで拡大しようとしていたのです(それは一時的、形式的なものでしたが)。
日向の飫肥(おび)を拠点にしていた島津氏の分家である島津忠朝も琉球に使者を派遣していますが、その手紙のなかでは尚真王のことを「前皇(前の皇帝)」、尚清王の手紙を「詔書(皇帝が出す文書)」と表現していて、みずから琉球の下にある存在と認めています。さらに1508年、島津本宗家の家督を継承した島津忠治は、きわめて低姿勢で尚真王に手紙を送り、美辞麗句で琉球をたたえ、自分たち薩摩を「下国(琉球より下の国)」、琉球国王の名前を文書中で一段高く書いています(琉球の中国皇帝に対する態度と同じ)。
当主も自殺して本宗家の権威が地に落ちた島津家は琉球を頼り、薩摩から琉球への貿易権を自分に独占させてもらうよう頼むためでした。その独占によって領国内で勢力を復活させる必要があったのです。ただ琉球側はこうした島津氏の頼みについては認めなかったようです。
「薩摩が強い、琉球が弱い」という、現在定着したイメージですべての時代をみてはいけないことがおわかりでしょう。時代によって両者の関係は波のように変化するのです。こうした薩摩の混乱は、まもなく分家から出た島津忠良と貴久親子によって終息し、次第に「九州の覇者」へとなっていきます。その頃から薩摩の琉球に対する態度が変わりはじめ、大きな力をバックに無理難題を琉球に迫りはじめます。こうした動きは1609年の琉球征服へとつながっていくのです。
参考文献:村井章介「古琉球をめぐる冊封関係と海域交流」(村井章介・三谷博編『琉球からみた世界史』)、屋良健一郎「種子島氏と琉球」(島村幸一編『琉球 交叉する歴史と文化』)