2009年6月24日 (水)

三山は存在しなかったのか

琉球王国が成立する前、沖縄島には、中国から「山北(北山)」「中山」「山南(南山)」と呼ばれた3つの大きな勢力に分かれ、覇権を争っていた時代があります。いわゆる「三山時代」です。名称については「山」が「島」を意味することから、「沖縄島のどこの部分」という程度の意味になります。例えば「山北」は「(沖縄)島の北」ということです。ところで、この三山が実は存在しなかった、名ばかりで実体などなかったという意見があります(ナ、ナンダッテー!)。これは本当なのでしょうか。

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【三山の図(クリックで拡大)】

結論を先に述べてしまいますと、この説にはかなり無理があります。

琉球に渡来した明使の路謙は、琉球国内で対立する三山の様子を目の当たりにして明朝廷に報告し、1383年に皇帝から三山の各王へ停戦が勧告されています(『明太祖実録』)。「三山」という称号はもともと中国側が付けたわけですが、沖縄内部の事情をある程度把握したうえでの区分だったのです。

〔追記〕明朝が琉球の政情を正確に把握していたことは、1372年の入貢要求に当たって当時最大の勢力だった浦添の「世の主」察度にまず要請したことからも明らかです。浦添グスクは石積み郭に土塁・水堀を備え、他のグスクを圧倒する4万平方メートルの規模を誇っており、周辺には王墓(ようどれ)、寺院(極楽寺)、人工池(魚小堀)を配置していました(安里進『琉球の王権とグスク』)。三山時代の琉球において、浦添(中山)が他と隔絶した力を持っていたことがわかるかと思います。

三山時代の当時、沖縄各地は戦乱状態で軍事的な対立があったことは、外敵の侵入に備えるための防御機能をもったグスク、またそこから出土する多数の武器類の存在からも明らかです。

また中山王の尚巴志が首里城周辺を整備した際に建立した「安国山樹花木之碑記」(1427年)には

琉球、国分かれて三となり、中山、其の中に都す

と刻まれていて、三山時代当時の琉球においても国内が三分されていると認識されていたことがわかります。これは後世の歴史観が全く入る余地のない、しかも他者ではない当事者の認識であることから、三山が存在したことを裏付ける決定的な証拠です。

ちなみに碑文の起草者は「安陽澹菴(あんよう・たんあん)」。僧侶である可能性が指摘されています。文は「安陽澹菴猊(げい)、寅(つつし)み記す」とあり、「猊(猊下、猊座)」は高僧に対する敬称なので、僧(おそらく禅僧)で確定でしょう。この当時、琉球はすでに「十刹(じっさつ)」という官寺が整備され仏教がさかんだったので、別におかしなことではありません。

というわけで、14世紀後半から15世紀初頭の沖縄島に、政治的に対立する3つの勢力が実体として存在していた事実はまず間違いありません。

このように明々白々な証拠が存在する以上、議論は終了なわけです。自分の欲しい結論をあらかじめ先に設定し、さまざまな史料をその鋳型に強引にはめていく手法をとれば、以上あげた史料を「意図的に作り上げられた陰謀だ」と主張することも、あるいはできるかもしれません。しかし、史料と虚心に向かい合い論理的に考えれば、三山の存在はゆるがない事実と考えていいでしょう。

参考文献:『明実録』、「安国山樹花木之碑記」、高橋康夫「古琉球の環境文化―禅宗寺院とその境致」(鈴木博之ほか編『シリーズ都市・建築・歴史4 中世の文化と場』)、知名定寛「尚巴志王咨文と古琉球仏教」(『沖縄文化』93号)

※琉球王「朝鮮系倭寇」出自説については【こちら】を参照。

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2009年4月15日 (水)

暗闇の巡回人

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復元なった琉球王国の首里城。今では多くの人々がここを訪れ、夜には正殿をはじめとした建物が美しくライトアップされ、見る人を楽しませています。王国時代の人々がこのきらびやかな夜の首里城の姿を見たら、おそらく驚がくするはずです。昔にはこれだけの電灯がなかったから、というわけではありません。何と、かつての首里城は深夜になれば明かりをともすことが禁止されていたからです(!)『球陽』には、こう記されています。

禁城(首里城)、夜深に入れば、火灯を禁ず。

つまり、夜中の首里城は明かり一つもない真っ暗闇だったというわけです。

そういうわけで城内を警備する役人は、明かりもなく真っ暗闇で巡回していました。漆黒の闇の城を巡ったところで、はたして警備の役目が果たせたのでしょうか?担当の役人たちは相当苦労したことでしょう。手探りで首里城内をウロウロしていたのではないでしょうか。こうした城内の明かりを禁ずる決まりは、火事を防止する意味もあったか、あるいは宗教的な意味があったかもしれません。

こうした意味不明の決まりに対して、尚敬王は、巡回人が暗闇で毒蛇のハブに襲われることを心配し、1737年、深夜の警備に明かりを持って城内を巡回することを許可し、以後はながくこれを例としたということです。ということは、それまで深夜の巡回人がハブに噛まれる事件が続出していたということでしょう。朝になればハブに噛まれた役人たちがよくそこらに転がってたのかもしれません(汗)

今ではまったく考えられませんが、かつての首里城は意外にもハブが出る危険な場所でした。首里城西端のアザナ(物見台)は時報のための鐘がすえ付けられていたのですが、それを鳴らすためには、うっそうとした密林を抜けなくてはいけません。時報を知らせる役人は、夕方や雨の日にこの密林でハブに噛まれる被害が多発していたそうです。そこで1736年、皮でつくられたブーツを支給してハブから脚を守ったとのこと。

首里城内を巡回する役人の最大の脅威は、侵入者や賊などではなく、ハブだったということなんですね。

参考文献:『球陽』、真栄平房敬『首里城物語』

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2009年2月11日 (水)

倭寇は琉球船を襲わなかった?(2)

対馬海賊の船に便乗した琉球使節の事例からわかることは、当初、朝鮮への派遣船は琉球が独自に準備しており、対馬賊首の六郎次郎の船へ便乗することに急きょ予定が変更されたこと、また六郎次郎の船は「商船」として琉球(おそらく那覇港)に停泊していたことです。

「琉球使節はたまたま商倭の船とともに来た」(『朝鮮世宗実録』)とあるように、対馬船は交易を目的としてたまたま琉球に滞在していただけで、琉球使節の便乗は偶発的な出来事であり、あらかじめ「盟約」のような特別な協力関係は存在しなかったと考えたほうが妥当です。

このような「便乗」のかたちは本当に特別なものなのでしょうか。おそらく日本中世史に詳しい方は思い当たるかもしれません、これは海賊衆の「警固(けいご)」と呼ばれる中世の慣行に近いのではないでしょうか。警固とは海賊衆が自分の縄張りの範囲に航行する船の安全を保障するため、報酬をもらって「ガイド兼パイロット」の役を担当する行為。警固方式は雇い主の船に海賊が乗り込むか(上乗り)、あるいは海賊船が伴走するなど様々だったようですが、琉球使節の対馬船への便乗はこの警固の一種であったのはほぼ間違いないと思います。当時、日本の遣明船や日本へ向かう朝鮮使節など外交使節船にも海賊衆による警固が適用されていたことから、不自然なことではありません。

朝鮮へ向かう要所の対馬海域はまさに六郎次郎の縄張り。この「海のヤクザ」ともいうべき賊の頭目・六郎次郎に「ショバ代」を払って味方につけ水先案内をさせれば、これほど安全なことはありません。六郎次郎も当時の社会慣行であった海上警固を琉球に要請されたために容易に応じたのでしょう。対馬側にとっても琉球とともに朝鮮へ向かえば、警固料だけでなく貴重な貿易の機会を手にすることができます。

六郎次郎は当時の慣行にのっとりきわめてビジネスライクに琉球と取引したのであって(契約すれば保護する、そうでなければ襲う)、琉球王との特別な結びつき(たとえば同じ「倭寇」出自であることの仲間意識や親族関係)があったとは思えません。このように琉球は中世日本で一般に行われていた社会慣行をうまく活用して海賊衆(倭寇)を味方につけ、最も安全な方法で朝鮮王朝との通交を再開したのです。

この便乗・委託方式は以後も踏襲され、那覇港で交易活動をしていた博多商人の道安(どうあん)や佐藤信重などが「琉球使節」として朝鮮と通交しています。彼らは琉球国王の代理として一時的に臣下となると同時に、自らの交易品も朝鮮に持ち込み商売をしたのです。やがて博多商人たちはこの外交ノウハウを活用(悪用?)し、偽の琉球使節を仕立てて朝鮮貿易を行ってしまいます。

ちなみに1501年に朝鮮へ向かった琉球使節の乗った船は、4隻で470人の大使節団でしたが、何と琉球人はたったの22人だけ!あとはすべて「倭人」だったようです(『朝鮮燕山君日記』)。このように第二尚氏の時代になっても琉球は船を直接派遣せず、便乗・委託方式は対朝鮮通交の基本スタイルだったことがわかります。

14世紀後半以降の那覇の港町には琉球の現地権力とは無関係に活動する多くの民間交易勢力が滞在しており、日本人の居留地までありました。王府はこうした海域アジアの民間勢力を上手に活用することで、アジア各地域との通交を可能にしたわけですね。

※尚徳王=倭寇説については【こちら

参考文献:橋本雄「朝鮮国王使と室町幕府」(日韓歴史共同研究委員会編『日韓歴史共同研究報 告書 第二分科(中近世)』)、『中世日本の国際関係』、佐伯弘次「15世紀後半以降の博多貿易商人の動向」(『東アジアと日本』2号)、上里隆史「琉球那覇の港町と「倭人」居留地」(小野正敏ほか編『考古学と中世史研究3 中世の対外交流』)

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2009年2月 4日 (水)

倭寇は琉球船を襲わなかった?(1)

大交易時代、琉球王国はアジア各地域に交易船を派遣してばく大な富を手に入れ、繁栄を極めたことはよく知られています。琉球船が活躍していた同じ時期、アジアの海には「倭寇(わこう)」と呼ばれる海賊が荒らしまわっていたのですが、琉球船はこの倭寇に襲われた事例がない、という意見があります。これは本当なのでしょうか。

結論を先に述べてしまいますと、これは事実ではありません。琉球船は常に倭寇襲撃の危険にさらされており、そのなかで海外貿易に乗り出していたのです。

例えば1421年(第一尚氏の時代)には、琉球船が倭寇の船20隻に襲われ、皆殺しに遭っています。以降、琉球船は海賊に備えて貿易船に防衛のための武器を積んだ、と琉球の外交文書集(『歴代宝案』)にあります(※)。同じく1421年、前九州探題・渋川道鎮から朝鮮王朝への報告によると、朝鮮へ向かう琉球船が対馬(つしま)の海賊にまちぶせされ、死者数百人、貿易品は略奪され、生存者は奴隷として連行、船も焼失するという惨事が起きています(『朝鮮世宗実録』)。これ以降、琉球は朝鮮へ直接、船を派遣することはなくなってしまいました。

また1420年に京都へ向かった朝鮮使節は、瀬戸内海の海賊衆から「琉球船は宝物を満載しているので、船が来たらただちに略奪する」との証言を聞いています(『老松堂日本行録』)。これらの事例からでもわかるとおり、15世紀初頭の琉球にとって倭寇は大きな脅威だったのです。海寇・倭寇と琉球(とくに第一尚氏王朝)が特別な友好関係であったとする説は、これらの事実から成り立ちません。

では琉球は倭寇に対してただ手をこまねいていただけなのでしょうか。いえ、そうではありません。1431年、琉球は朝鮮に再び使節を派遣します。その時、琉球使節とともにいたのは、何と対馬海賊の頭目、早田六郎次郎でした。彼は対馬の豪族、早田左衛門太郎の子で、この頃の早田氏は対馬島主の宗氏をしのぐほどの実力者となっています。おそらく早田氏は対馬での琉球船襲撃事件にも関与していたと考えられます。

この時の琉球使節は朝鮮国王に対し、こう述べています(『朝鮮世宗実録』13年11月)。

「我が琉球は武寧・思紹王の頃より朝鮮と友好の礼を互いに行ってきました。しかしその後、倭人(倭寇)が(通交を)妨害し、ひさしく修好を行なえませんでした。昨年、以前のようによしみを通じようと船を準備して風を待ちましたが、数か月もよい風が吹きません。そのとき、対馬の賊首・六郎次郎の商船(1隻)が琉球に滞在していたので、それに便乗してやって来ました」

1421年の対馬の海賊襲撃事件以来、琉球は倭寇を警戒し朝鮮へ派遣船を出せずにいたことがうかがえます。さらに驚くべきことは、琉球使節は自分たちを襲った側であるはずの対馬海賊の船に乗って朝鮮へやってきたのです。

これはいったいどういうことなのでしょう。やはり琉球は倭寇と何らかの同盟関係にあったのでは?と思うかもしれませんが、ちょっと待ってください。そう考えるのは早計です。その理由は次回に。

(【こちら】につづく)

※以前に『歴代宝案』の倭寇襲撃の記事を中国派遣船と考えましたが、この対馬での事件を指している可能性があります。

※万国津梁の鐘「三韓」=琉球王・朝鮮出自説については【こちら

参考文献:『歴代宝案』、『朝鮮王朝実録』、宋希璟『老松堂日本行録』

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2008年12月 4日 (木)

琉球王朝のチャングムたち

沖縄社会では女性が強いとよくいわれます。沖縄では古来より女性が親族の男性を霊的に守護するという「オナリ神信仰」があって、琉球王府のなかでも神女組織をはじめとした女性たちが大きな力を持っていました。この神女組織とならんで王府内の一大勢力であった女性たちの集団が、首里城の大奥、御内原(おうちばる)の女官たちです。

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御内原の女官たちは大勢頭部(おおせどべ)と呼ばれる三人の女官長たちを中心に、国王や王妃・側室らの身のまわりの世話、王への取り次ぎなど「裏の世界」一切をとりしきっていました。大勢頭部は琉球の大臣、三司官と同ランクであったといいます。この女官たちは羽地朝秀の構造改革で力をそがれましたが、なお王府内で隠然たる勢力を持っていたようです。

この女官組織の末端にいたのが、「御城女性、城人(グシクンチュ)」と呼ばれる女性たちです。いわば朝鮮王朝の「チャングム」のような存在ですね。彼女らは「あねべ」「あがま」という下級の女官となり、御内原での雑用のほか大台所での調理を担当していました。意外なことに彼女らは身分の高い士族ではなく、首里周辺の農村から選ばれた普通の女性でした。彼女らは一定の期間首里城へ勤めて、やがて故郷の農村に帰っていきました。その後はまた元通り、普通の女性として一生を送ったのです。彼女たちは華やかな首里城での思い出話を家族や友人、村の人々に語ったことでしょう。絶対的な権力者の住む首里城は、実は一般庶民にとって身近な存在だったのです。

しかし彼女らのなかには、貧しい家庭ゆえに女官となった者もいました。女官になると王府より故郷の家族へ「身代米(みのしろまい)」が支給されたのです。例えば王国末期の女官、「我謝あねべ」と「玉那覇あねべ」もそのような経緯で女官になった女性たちでした。我謝あねべは西原間切・我謝村の農民「かめ宮平」の妹でした。一家や親類は年貢も払えない貧困の状態で、「身代米」と引き換えに首里城へ奉公することになったのです。玉那覇あねべは南風原間切・津嘉山村の出身で、父親が寝たきりの貧しい家庭でした。この頃の琉球は天災などで農村が荒廃し、彼女らのような貧しい家庭は決して珍しくありませんでした。

彼女たちは首里城の大台所で働いていましたが、ある日、会計帳簿をチェックしていた役人が手続き上のミスを見つけます。女官たちへの給与が実際の勤務よりも多く支払われていたのです。これは会計責任者の過失だったわけですが、ここから我謝あねべ・玉那覇あねべがミスによる超過分の給与を黙って着服していた事実が発覚したのです。少し前に世間を騒がせた公務員のカラ勤務による給与の不正受給といったところでしょうか。

王府はただちに彼女らをクビにしたのですが、故郷の家族らに支払った「身代米」の返還も要求します。しかし、もともと貧しい家族に返すあてはありません。彼女らの家族・兄弟は身売りをし、家財道具を売り払い、借金までして「身代米」を王府に返還したのです。我謝・玉那覇あねべの不正は一家離散状態、さらなる借金地獄という悲惨な結果を招いてしまったようです。

もしかしたら彼女たちは故郷の貧しい家庭を少しでも助けるために、悪いこととは知りながら着服していたのかもしれません。首里城での勤めを終えてたくさんの報酬を故郷へ持ち帰り、両親や家族の喜ぶ顔が見たかっただけなのではないでしょうか。それがこんな悲しい結末になってしまうとは…何ともやりきれません。

彼女たちは悪くないんです。そうです、みんな貧乏が悪いんです。琉球でもっとも華麗だった大奥(御内原)の世界…その影には庶民女性たちの悲しい物語も存在していたわけですね。

※【図】は首里城で働く女官

参考文献:真栄平房敬「琉球の王権と女性―大勢頭部・阿母志良礼を中心にして―」(『球陽論叢』)、真栄平房昭「首里城の女たち~大台所で働く「あねべ」たち~」(『首里城研究』8号)

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2008年5月17日 (土)

琉球は薩摩の「奴隷」だったのか

近世(江戸時代)の琉球王国は薩摩藩の支配下におかれていました。薩摩の琉球支配でよく言われるのは次のような説でしょう。征服者の薩摩藩は琉球王府を形だけ残し、中国との貿易で得られた利益を徹底的に奪い取る一方、琉球を植民地化して人民を奴隷のように扱ったと。薩摩に支配された琉球の悲惨な状況は、明治の琉球処分によって解消されたと伊波普猷によって主張されています。彼の「琉球処分は奴隷解放なり」という言葉は有名です。はたしてこのような説は正しいものなのでしょうか。

実は、伊波が唱えた、薩摩支配下の琉球が「奴隷」状態だったという説は近年の研究では全く否定されています。

まず、琉球には薩摩藩の「植民地総督」はいたのでしょうか。琉球には「在番奉行」という薩摩役人が派遣されていましたが、スタッフの総数はたったの十数名しかいませんでした。彼らの滞在場所は那覇の港町にほぼ限定され、しかも薩摩藩スタッフは国王との接触を厳しく禁止されていました(政治的な癒着を防ぐため)。彼らの仕事は薩摩への年貢送付の監督やキリシタン禁制など限られたもので、王府の政治に関与する権限は全くありませんでした。つまり、琉球には薩摩藩の出張所程度の機関しかなく、琉球国内の政治は琉球王府が行っていたのです。

もちろん琉球は薩摩藩を無視して自由に動けたわけではありません。薩摩藩は支配に関わる重大事についてはしばしば介入してきましたが、最終的な政策の実行はあくまでも琉球王府の手にゆだねられていました。

それに琉球は薩摩藩の指示に対して「奴隷」のように従っていたわけではありません。例えば、18世紀に薩摩藩が年貢の増額を要求してきた際には、琉球側はねばり強く外交交渉を行い、ついに薩摩藩からの譲歩を引き出しています。この時に琉球が負担軽減の理由として持ち出してきたのが、「中国の清朝と日本の徳川幕府との外交で多額の資金を費やしたのにくわえ、災害などで国内の状況が悪化したから」というものでした。つまり、これ以上の負担は琉球の体制を危うくすると主張したのです。

近世の琉球は中国や日本との外交関係を維持することで成り立っていた国家でした。徳川幕府も琉球やアイヌを従属させることで日本版「小中華」をつくり、自らの権威を高めようとしていました。琉球との外交関係を維持するため、幕藩制国家のもとで琉球支配を担当していた薩摩藩にとっても、琉球の体制が存続できなくなるような重い負担はかけることはできなかったのです。琉球側は薩摩藩が反論しにくい理由をあらかじめ承知していて、この論理を持ち出すことで薩摩藩からの譲歩を引き出すことに成功したのです。ちなみにこの時の琉球の外交を主導していたのは、あの蔡温でした。

また、薩摩藩は琉球が中国貿易で得た利益を一方的に奪い取っていたのでしょうか。たしかに薩摩藩は琉球の中国貿易に深く関わっていました。しかし、薩摩藩は自ら資金を用意してきて、王府貿易に投資するかたちをとっていました。そして、驚くべきことに琉球の中国貿易は、実は大幅な赤字状態でした。王府は砂糖をヤマトに売って儲けた金で損失を補い、何とか貿易を続けていたのです。

赤字状態でも貿易を続けざるを得なかったのは、貿易が「朝貢」という、中国への従属関係を確認する儀礼とセットになっていたことと(貿易は本来、朝貢のおまけにすぎません)、王府が家臣たちにボーナスとして個人的に貿易を行う権利を与えなくてはならなかったからです。王府の貿易自体は赤字でも、家臣たちは各自で商売をして利益を得ることができました。

このように琉球は貿易をやめたくてもやめられない事情があったのです。逆に薩摩藩は自分たちの資金を調達するために商人から高利の借金をしていたので、効率の悪い貿易の縮小を望んでいました。

近世の琉球は、たび重なる薩摩藩の要求に対して、「論理」を武器に巧みな外交戦術で自らの国益を確保しようとはかっていました。薩摩藩は琉球を支配下に置いていたものの、その支配には限界があり、琉球を完全にコントロールすることは不可能だったのです。中国の朝貢国であった立場も、薩摩藩が介入できない余地を琉球に与えることになりました。小国の琉球は自らのポテンシャルを最大限に発揮して大国に立ち向かっていたのです。

参考文献:豊見山和行『琉球王国の外交と王権』、安良城盛昭『新沖縄史論』

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2008年5月10日 (土)

古琉球に文書はあったか

さきに「那覇」の印などの検討から、古琉球時代には文書がさかんにやりとりされていた可能性があることを指摘しました。国王が発給していた辞令書以外に、琉球国内ではどのような文書があったのでしょうか。

そのヒントが『旧琉球藩評定所書類目録』という文書リストのなかにあります。この文書群は琉球王国の評定所(国政の最高機関)関係の書類で、王国が消滅した際に明治政府に接収されたものです。内務省に保管されていましたが、残念ながら関東大震災で大部分が焼けてしまいました。目録でのみ、どのような文書があったのかを確認することができます。そのなかに、

『間切々々の里主所のかりや高の御さうし』(1623年)

という文書があります。これは王国各地にある里主所(エリート層が保有する耕作地)の面積を記した土地台帳と考えられています。ここで注目されるのが年代。目録の文書中、最も古いもので、薩摩藩の征服(1609年)からさほど時間が経っていません。さらに「かりや高」や「御さうし」といった古琉球的な題名であること。「かりや」とは古琉球で使用されていた独自の面積単位です。

つまり、この文書は古琉球時代の様式を伝えるものであり、古琉球では行政文書が「御さうし(そうし。双紙)」と呼ばれていたことを示しているのです。それは古琉球時代に編集された歌謡集が『おもろさうし』であり、また後の時代になりますが、古琉球の伝統を色濃く残す神女(ノロ)・女官関係の文書が『女官御双紙』と命名されていることからも裏づけられます。

この土地台帳が古琉球にさかのぼるのは間違いありません。古琉球時代、奄美から先島までの王国全域の耕作地は、その所有者や面積まで首里の王府で完全に把握されていたことが辞令書の研究で明らかにされています。王国全域にわたる詳細な耕作地情報となると、ぼう大な量になります。中央の役人が全ての情報を頭の中に記憶していて、それをもとに土地所有の名義変更、細かい面積の調整などを指示していたとは到底考えられません。王府中央には土地台帳に限らず、様々な業務に対応する多数の文書がストックされていたとみたほうが自然です。

島津軍侵攻の際の記録には、戦災によって琉球の「各家々の日記、文書」が失われたとあります。また那覇港付近の発掘調査では、15~6世紀のものとみられる荷札の木簡が発見されていて、墨書で「いわし…文」「きび…」と書かれています。中央の役人だけでなく、民間にいたるまで文字を使用していたことがわかります。

古琉球時代の国内文書は「現在残っていないから、当時も存在しない」ということでは決してないわけです。ましてや「琉球はアイヌと同じで文字を持たない社会だった」なんて考えは、とんでもない勘違いです。以上にあげたような事実から、古琉球は日常的に文字によって情報を伝達していた社会であったと考えてもいいでしょう。

参考文献:『旧琉球藩評定所書類目録』、大石直正・高良倉吉・高橋公明『日本の歴史14 周縁から見た中世日本』、『沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書44 渡地村跡』

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2008年4月16日 (水)

那覇の印もあるでよ

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琉球王国で有名な印鑑といえば、まずあげられるのが「首里之印」。古琉球の時代から使われている伝統ある印鑑です。首里は国王が住み、琉球王府のある都。国王が「首里天加那志(すいてん・がなし)」、国王の命令が「首里のおみこと(お詔)」と呼ばれているように、首里は国王と同義語でした。つまり「首里之印」は国王や最高機関である王府の印なのです。この印鑑は国内の文書(辞令書や歌謡集『おもろさうし』)のほか、日本向けの外交文書にも押されました。

「首里之印」は非常に有名なのですが、かつては「那覇」の印鑑もあったのをご存じでしょうか。この印鑑【画像】は篆書体(てんしょたい)で「那覇」と刻まれています。使われた時期は古琉球期、第二尚氏王朝の時代。那覇主部中(ぬしべちゅう)から薩摩の家老に宛てた文書に押されています。印が押されているのはこの1通だけで、そのためあまり知られていないのでしょう。那覇主部中とは、那覇の行政を担当する責任者の総称と考えられます(主はリーダー、部はグループを意味)。

実はこの印のほかに古琉球期には「三司官印」もあって、これも三司官(大臣)が出した薩摩向けの外交文書に押されています。「首里之印」が国内・国外両方の文書に使われた例から考えて、「那覇」の印と「三司官印」が押された国内向けの文書も、古琉球時代に存在した可能性がかなり高いといえます。現存する文書で三司官印は2通、那覇の印は1通だけ。この3通のためだけにわざわざ印鑑を作るはずがありません。印鑑を作った背景には、その印を押すための文書群の存在があったとしか考えられません。

古琉球期の国内向け文書は国王の発給した辞令書しか残っていませんが、辞令書は規格化されていて、また書風・筆跡もそれぞれの筆者の個性があまり見られません。つまり字が得意な人がたまたまいて各自好きなように書いたのではなく、文字を書く官僚養成機関のようなものがあり、そこで決まった書式のトレーニングを受けた人たちがシステマティックに書いていたのです。

古琉球には「てこぐ(文子)」と呼ばれる書記官の職もあったので、国内において文字社会が相当程度、発達していたようです。国王の辞令書だけではなく、当時は現場レベルでの行政文書がたくさんあって、三司官や那覇の印もそれらに使われていたのではないでしょうか。

実は現存する国王の辞令書も、当時存在していた全体の1パーセントにも満たないとみられています。かつての古琉球社会には、さらに辞令書の総数を上回るぼう大な数の文書があって、それらがやり取りされていたようです。

参考文献:徳永和喜「島津氏の印判に関する研究」(『黎明館調査研究報告』4集)、「(池宮正治・小峯和明)対談・琉球文学の内と外―東アジアの視界」(『国文学・解釈と鑑賞』10号)、大石直正・高良倉吉・高橋公明『日本の歴史14 周縁から見た中世日本』

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2008年2月 7日 (木)

首里城の雲板

以前、コラムの「首里城のモデルはお寺?」で紹介しましたように、首里城の建築には寺院の強い影響がみられます。有名な「万国津梁の鐘」(1458年造)も、もともとは寺ではなく首里城の正殿に掛けられていた梵鐘です。古琉球にはグスクと寺院を一体のものとしてみる何らかの観念があったようです。

「万国津梁の鐘」と並んでグスクの寺院関係物として知られているのが「大里城の雲板」です(1458年造)。雲板(うんばん)とは禅宗寺院で使われるドラの一種で、お坊さんの寝起き・食事の合図として鳴らされるものです。大里グスクは第一尚氏の王の別宮として使われていて、尚泰久王はこのグスクの建物に禅宗寺院のドラを付けたとみられています。

実はこの「大里城の雲板」のほかにも、何と首里城に掛けられた雲板が存在していました。現物はすでに失われていますが、近世期に編集された『琉球国由来記』という書物には円覚寺に所蔵されていたもののリストがあり、そこに「首里城の雲板」が記されているのです。この雲板は「天順元年(1457年)」の8月に鋳造したと刻まれ、国王殿(正殿)の前に掛けられていたとあります。これはあの「万国津梁の鐘」と全く同じ方式です。

つまり、第一尚氏時代の首里城正殿には寺院の梵鐘だけではなく、禅宗の雲板まで設置されていたことになるのです。もしかしたら、グスクが丸ごとお寺の設備一式を整えていた可能性もあります。この首里城の雲板は「万国津梁の鐘」の影に隠れて、これまでほとんど注目されてきませんでした(万国津梁の鐘自体も仏教ではなく、貿易関係でのみ注目されてきたわけですが)。しかしグスクの性格を考えるうえでも、第一級の貴重な資料です。

古琉球時代の文献記録によると、首里城で行われた北京に住む中国皇帝への拝礼には、一人の僧(おそらく長老クラスのヤマト禅僧)が中国冠服を着た国王と対面して儀式をとり行っていたとあります。禅僧は古琉球の王権に不可欠な存在として位置づけられ頻繁にグスクに出入りしていたわけで、それを反映したものが首里城の梵鐘や雲板にみられるようなグスクの寺院的な設備だったような感じがします。古琉球時代は私たちの想像以上に「仏教の時代」だったのです。

参考文献:『琉球国由来記』、真境名安興「奈良帝室博物館の雲板について―琉球国王尚泰久の鋳造―」(『真境名安興全集』3巻)

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2007年12月25日 (火)

按司たちのヒマつぶし

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「琉球の戦国」といえるグスク時代から琉球王国成立頃までの時代、沖縄各地には按司(あじ)と呼ばれる首長が割拠していました。按司たちは自らの権力を拡大すべく戦いを繰り返し貿易によって富を蓄積しましたが、その一方で彼らは遊びにも興じていたようです。

グスクをはじめとした県内の遺跡からはいくつもの遊具や玩具(オモチャ)が見つかっています。例えばサイコロ。古いもので14世紀(三山時代)の出土例があり、石や動物の骨などで作られています。駒(こま)石というボタン状製品も出ていて、これらは盤双六(ばんすごろく)というゲームで使われたとみられています。

それと面白いところでは中国将棋(象棋)もやっていたようです。首里城からは中国将棋で使う「兵」と「砲」の駒が出土しています【画像・クリックで拡大】。時期は15世紀中頃(第一尚氏時代)のもので、磁器製の高価なものです。そのほか囲碁の石や素焼きの独楽(コマ)なんかもグスクなどから見つかっています。

第一尚氏王朝の尚泰久王が即位以前に住んでいた越来グスクでは、何と羽子板(はごいた)の羽根突きで使ったとみられる土製の球が出ています。羽子板はおそらく中世の日本から伝来したものでしょう。若き日の尚泰久は、越来グスクで家臣の金丸(後の尚円王)と羽根突きをして遊んでいたかもしれませんね。

このように按司や王たちはいろんなオモチャで遊んでいたことがわかります。そして、これらは琉球が積極的に貿易に乗り出す時期と同じ頃に登場しています。つまり対外貿易とともに舶来のオモチャが琉球にもたらされたのです。それまでの琉球に存在しなかった新たな娯楽は、人々にとって衝撃だったはずです。今でいえばゲーム機のニンテンドーDSやWiiが上陸して大人気になるような感じでしょうか。

舶来オモチャは経済的・時間的余裕のある富裕層を中心に広まっていました。当初は限られた権力者のみが楽しむことができる特権的な遊びだったのです。一方、庶民たちは農耕や納税、按司たちの労働にかり出されたりと、余暇を楽しむ余裕はほとんどなかったはずです。しかし磁器や土器・瓦などの廃材で作られた円盤状の製品が沖縄全域の一般的な遺跡から出ていて、これが庶民たちのオモチャで、お弾きや五目並べのようにして遊んだと考えられています。

戦乱の時代だった当時でも、人々は息抜きや癒しを求め「ひと時の余暇」をオモチャで楽しんでいたわけですね。

参考文献:上原靜「考古学からみた沖縄諸島の遊戯史」(沖縄県今帰仁村教育委員会編『グスク文化を考える』)

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