2015年4月10日 (金)

薩摩は琉球より格下!?

薩摩といえば1609年に琉球王国を占領した「支配者」です。琉球は薩摩に毎年税を払い、あいさつに出向き、さまざまな政治的な制約を受け、いわば「子分」のような存在になってしまったわけです。しかし、かつては琉球王国が薩摩の上に立ち、薩摩がへりくだっていたとしたら?「まさか!あんなに強い薩摩が弱小の琉球王国の下につくなんて考えられない!」と思う読者もいることでしょう。しかし最近の琉球と薩摩との関係を分析した歴史研究では、驚くべき説が出されています。

1500年代はじめの尚真王の時代、琉球は中央集権化を達成して八重山や久米島を征服、奄美大島にも攻め込んで反乱を鎮圧し、琉球史上の最大版図を築いていました。一方の薩摩は島津の分家がそれぞれ分裂して、守護職をもつ島津本宗家に対抗し、さらに国人領主も台頭、島津氏領国は統一にはほど遠い状態でした。さらにこうした内乱に乗じて日向(宮崎県)の伊東氏や肥後(熊本県)の相良氏が島津氏領内を浸食しつつありました。この時期の島津家当主の忠昌は、領国内をまとめきれず悲観して1508年に自殺してしまうほどでした。

現代のわれわれは「薩摩」と聞くと「九州の覇者」、明治維新を主導した強藩、かつ琉球の支配者というイメージがありますが、こうして強くなるのは戦国時代末期からであって、昔からずっと変わらずに強大だったのではありません。とくに中世の島津氏は弱体化していて、薩摩一国すら満足に統治できなかったのです。こんな状態で琉球まで支配をおよぼすなんて、できるはずがありません。

その反面、琉球王国はどんどん勢力を拡大していました。琉球は奄美や先島をその勢力下におくだけではありませんでした。奄美より北のトカラ列島(七島衆)、そして鉄砲伝来で有名な種子島氏まで自らの「臣下」と位置づけていました。1450年の時点でトカラ列島の臥蛇島は薩摩と分割統治されており、琉球の実効支配が薩摩のすぐ近くに迫っていたことがわかります。また1521年には琉球の三司官から種子島氏に手紙が送られ、種子島氏の以前より忠節を尽くしていることを喜び、年1隻の貿易船を派遣する権利を与えています。琉球は種子島氏を島津氏の家来ではなく、単独の「国」としてあつかっています。

種子島氏だけではなく、肥後の相良氏とも一種の「朝貢」のような関係を築き、琉球へ使者を派遣して貿易船の入港を認められたようです。つまり、尚真王から尚清王にかけての絶頂期の琉球王国は、みずからを中心とした世界秩序を奄美や先島だけではなく、九州の南部にまで拡大しようとしていたのです(それは一時的、形式的なものでしたが)。

日向の飫肥(おび)を拠点にしていた島津氏の分家である島津忠朝も琉球に使者を派遣していますが、その手紙のなかでは尚真王のことを「前皇(前の皇帝)」、尚清王の手紙を「詔書(皇帝が出す文書)」と表現していて、みずから琉球の下にある存在と認めています。さらに1508年、島津本宗家の家督を継承した島津忠治は、きわめて低姿勢で尚真王に手紙を送り、美辞麗句で琉球をたたえ、自分たち薩摩を「下国(琉球より下の国)」、琉球国王の名前を文書中で一段高く書いています(琉球の中国皇帝に対する態度と同じ)。

当主も自殺して本宗家の権威が地に落ちた島津家は琉球を頼り、薩摩から琉球への貿易権を自分に独占させてもらうよう頼むためでした。その独占によって領国内で勢力を復活させる必要があったのです。ただ琉球側はこうした島津氏の頼みについては認めなかったようです。

「薩摩が強い、琉球が弱い」という、現在定着したイメージですべての時代をみてはいけないことがおわかりでしょう。時代によって両者の関係は波のように変化するのです。こうした薩摩の混乱は、まもなく分家から出た島津忠良と貴久親子によって終息し、次第に「九州の覇者」へとなっていきます。その頃から薩摩の琉球に対する態度が変わりはじめ、大きな力をバックに無理難題を琉球に迫りはじめます。こうした動きは1609年の琉球征服へとつながっていくのです。

参考文献:村井章介「古琉球をめぐる冊封関係と海域交流」(村井章介・三谷博編『琉球からみた世界史』)、屋良健一郎「種子島氏と琉球」(島村幸一編『琉球 交叉する歴史と文化』)

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2015年4月 6日 (月)

首里城石垣の刻印

本土の城で石垣の表面に文字や記号が刻印されているものがあることは比較的知られています。工事担当者の所属などを示すためです。では琉球のグスクはどうだったのでしょうか?

実は、首里城にも石垣に刻印された事例が確認されています。首里城は戦争で破壊されましたが、一部の石垣は残存していました。この残存箇所のうち、久慶門(現在の城の出口付近)に残った石垣からさまざまな刻印された記号が見つかっているのです。そのパターンは実に41パターンもあります(残念ながら復元で大半のものは撤去されています)。

Photo(刻印のパターンの一部)

特徴としては地面近くに多くが存在すること、確認された80%が城壁内の面にあること、まんべんなく点在するのではなく、特定の箇所に集中してることなどです。

この刻印はどのような目的があったのか、その意味については解明されていません。考えられるのは本土の城のように工事の担当者がわかるように、その印をマークした可能性です。座喜味グスク築城では分担した石垣工事で担当者がわかるように各担当の名を刻んで近世までそれは確認できた、という話が護佐丸子孫の著した由来記に書かれています(実際には風化が激しく確認できませんでしたが)。

もしかしたら首里城の刻印もそうした意味があったのかもしれませんが、真相は不明です。他のグスクの城壁も注意して見たら、何らかの刻印がある可能性もあります。事例がもっと集まってくれば何かわかるかもしれませんね。

参考文献:上地克哉・上原靜「首里城城郭検出の「刻印石」」(『沖縄県教育庁 文化課紀要』9号)

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2014年10月 4日 (土)

尚寧王の花押

琉球は中国の朝貢国ということもあり、文書に印を押す文化が発達していました(辞令書などがその代表)。ところが1609年、薩摩島津軍の征服後、琉球は外交文書にヤマト風の花押(かおう。いわゆるサイン)を強制されることになります。

先月、東大の史料編纂所で島津家文書中の琉球関係の文書を見る機会がありましたが、そこで尚寧王の花押が書かれた文書も確認しました。それが以下のようなデザインです。

Photo

鏡もちや雪ダルマのようで何だかカワイイですね(笑)これがどのような花押を参考に作成されたのかはまだ突き止めていませんが、かなり書きやすいデザインであることがわかります。花押の経験のない尚寧王が書きやすいものを選んだとも考えられます。

なお琉球国王が花押を使用した初めての事例は尚寧王で、しかも1611年の島津氏に忠誠を誓う起請文で使用されています。その花押を見ると慣れていないのか、筆跡はかすれ、花押の丸部分もいびつな形になっています。

後の花押はマイナーチェンジを繰り返しながら図で示したような形になりますが、その時にはキレイな筆跡で乱れはなくなります。書き慣れたといえるのかもしれませんが、起請文への花押、もしかしたら島津氏へ屈服する尚寧の気持ちが筆跡に表れていたかもしれないと考えると、少々切なくなりました。

参考文献:「島津家文書」

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2014年8月30日 (土)

歓会門の真の姿

首里城の正門として知られる歓会門。連日、観光客がここから城内に入っていきます。おそらく気づかれた方もいると思いますが、この門と近くの久慶門は櫓の壁面は何も塗られてないのに対し、他の門はすべて朱色で塗られています。櫓の造りも若干異なるようですが、いったいなぜなのでしょう。

実は首里城は一気に復元されたのではなく、何段階かに分けて出来上がっています。歓会門は城内第一号の復元で1974年(昭和49)に竣工。続いて1983年(昭和58)に隣の久慶門が竣工しています。そして1992年(平成4)に正殿など中枢施設と他の大部分の城郭が復元されました。

戦前の写真を見ると歓会門の造りが現在のものと微妙にちがいます。どうやら昔に実施した復元ということもあり、精密な考証をしないで復元したようです(というか1992年復元の正確さがハンパないのですが)。

では実際にはどのような姿だったのか。想定復元したのが【画像】です。

Photo

櫓の形式は他の門と同じ造りで、本来なら朱色に塗られていたとみられます。一方、近年復元された外郭の継世門【画像】はきっちりと考証されています。おそらく歓会門も継世門と同じだったでしょう。

Cimg0327
歓会門はすでに築40年で、やがて老朽化により建て替えの必要がでてきます。首里城整備計画では既存施設の見直しも進んでいて、歓会門もそのリストに入っています(【こちら】の12ページ。pdfです)。改築時には正確な考証をした門が復元されることを期待しましょう。

参考文献:『首里城の復元 正殿復元の考え方・根拠を中心に』

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2014年1月29日 (水)

東南アジア貿易は途絶したのか

アジア各地へ交易活動を展開していた15世紀の琉球王国ですが、16世紀に入ると倭寇をはじめとした民間勢力の台頭で貿易は衰退し、1570年のシャム(タイ)派遣船を最後に東南アジア貿易は途絶した、というのがこれまでの通説です。

しかし、史料を探っていくと1570年以後も東南アジア貿易は続いていたことがうかがえます。

1598年には、堺商人の川崎利兵衛が琉球の「南蛮才府」に任命されています(『蒙姓家譜』)。彼は茶器を求めて琉球へたどり着き、そのまま定住して王府役人に登用された人物。「南蛮」とは東南アジア、「才府」とは現地で貿易品の買いつけを行う役職です。おそらく商才を買われ、王府にスカウトされたのでしょう。家譜には年月日が記載されてることから、家譜編集当時に南蛮才府の辞令書を参考にした可能性が非常に高いです。

さらに万暦年間(1573~1619年)には、ルソン(フィリピン)へ交易におもむいた新垣筑登之親雲上善房の例があります(『那姓家譜』)。注目されるのは、彼は「倭人」の自安大円宋治なる人物とともに交易をおこなったことです。

この時期、琉球の航海技術は低下し、遭難船が相次いでいました。そこで海域世界で活動する日本人海商たちに便乗、あるいは共同するかたちで東南アジア貿易を続けようとしていたのではないでしょうか。

琉球征服後の1615年、島津家久は琉球の尚寧王を介するかたちでフィリピン総督フワン・デ・シルバに書簡を送っていますが(『江雲随筆』)、そのなかで「琉球とフィリピンは20年来、通交しなかった」と記しています。逆算すれば1590年代まで通交は続いていたことになります。

フィリピンは16世紀当時、東南アジアの一大貿易拠点へと成長していました。琉球はシャムを撤退した後、新しい市場を開拓し、貿易を続けようとしていたとみられます(結局はうまくいきませんでしたが)。

このように琉球が1570年以後も東南アジア貿易を行っていたのは確実です。教科書や通史の記述もあらためる必要があるかもしれませんね。

参考文献:上里隆史『海の王国・琉球』

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2013年5月22日 (水)

知られざる仲栄真グスク

沖縄のグスク。首里城をはじめとした代表的なものが世界遺産に登録され、連日多くの観光客が訪れています。しかしこうしたグスクはごく一部。グスクは総数300以上あると言われ、大半が樹木やブッシュに覆われた小規模で目立たない遺跡です。

しかし、こうした小型グスクのなかには結構オモシロイものがあります。南城市玉城の仲栄真(なかえま)グスク。南城市の玉城陸上競技場の敷地内にあり、比較的カンタンに見学することができます。

ここは尚泰久王の子、八幡加那志ゆかりのグスクとも言われていて、近くには百度踏揚(ももとふみあがり)の墓など第一尚氏王族の墓が点在しています。

とくに興味深いのは美しい布積みの石垣が現存していることです。この積み方は縦に目地(めじ)が通った積み方(レンガ積みのように上下の石をズラさず、縦一直線に積み上げていく)で、比較的古い時代のものと考えられます。

残念ながら、グスクを示す案内板はない状態なので自分で探すしかありませんが、駐車場からもすぐ確認できるので、ぜひ訪れてみてください。

※場所は【こちら】です。

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2012年3月10日 (土)

王様のウンコ発見!?

食べたら出す。これは自然の摂理です。前回の王様のディナーの話の続きです。

首里城には、その生活の跡がしっかりと残されています。王様が住んでいた場所は正殿の裏にある御内原(おうちばる、うーちばら)という場所。いわば大奥です。ここには王様や王妃様、そしてその世話をする女官たちが暮らしていました。

実はこの御内原にある淑順門という通用門の裏から、最近の調査で地下から奇妙な遺構が見つかりました。円形の石組みの井戸のようなかたちなのですが、中に詰まっていた土がおかしいのです。しまりのない腐葉土のような黒い色の土で、その土にはたくさんの動物の骨がふくまれていました。さらにこの土は上から何度もかき出したような跡も確認されました。つまり内部にたまったモノを何度も外に捨てていたのです。水がたまっていた様子はなく、これは井戸ではなくゴミ捨て場ではないかとの結論に達しました。

そして内部の土をさらにくわしく分析したところ、なんと、化石化した人のウンコ(糞石といいます)が発見されました。つまりここは・・・ウンコ捨て場だったのです!しかもここは王さまの住まい。もしかしたらあの化石化した「モノ」は、王様の「やんごとなき落し物」の可能性もあります。少なくとも御内原に住んでいる人間、王様とその家族、女官たちのいずれかのモノであることはまちがいないでしょう。

首里城から出土したウンコの模写が次の画像です(クリックで拡大)

Photo

このウンコがたっぷり詰まった穴はトイレそのものではなく、どうやら「おまる」で排泄したモノを捨てる場所だったようです。意外なことに首里城にはトイレらしきトイレが見つかっていません。史料には「糞箱」や「小便筒」などが登場しますから、それで用を足していたようです。

実はウンコがきちんと「完全形」で残っている例は珍しく、分析をすれば何を食べていたのか、健康状態なども知ることができる貴重なモノです。発見場所は石組みで密閉され、さらに上からは粘土がフタの役割をはたしていたので、よい状態で残っていたのです。ちなみにウンコの解析の結果、回虫や鞭虫などの寄生虫の卵がたくさん見つかりました。当時は衛生状態も今ほど良くなかったのでしょうがないですね。

そのほか、土からはイヌやシカ、ネズミ、ニワトリやカモ、ヘビの骨、貝殻も見つかっています。とくにイヌやシカの骨には刃物の傷が残っていて、食べるために解体していたこともわかりました。王様の好物はイヌだった!?どのように食べていたかは謎ですが、シカに関しては中国の冊封使の接待料理のメニューにも見えているので、おそらく王様も食べたことでしょう。

使われていた時代もだいたい判明しています。17世紀前半、つまり尚寧王の頃から、1709年に首里城が焼けてこの穴が廃棄されるまでの期間だろうとみられています。それにしても、まさか王様も数百年後に自分たちのウンコを見られるなんて、想像もしていなかったでしょうね(笑)

参考文献:仲座久宜「シーリ遺構から見る御内原のくらし」(『紀要沖縄埋文研究』6号)

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2012年3月 3日 (土)

超豪華!王様のディナー

沖縄にかつて存在した「琉球王国」。その頂点には国王が君臨していました。首里城にいた王様、普段はいったいどんなものを食べていたのでしょうか。

実は、最後の国王の尚泰王が日常的に食べていた料理の献立(朝・昼・晩の3食分)が今でも残されています。この献立は1872年(明治5)に書かれたもので、首里城の料理長の家に伝わった献立を筆写したもののようです(池宮正治「伝・尚泰王の御献立」)。では一例として、王様の夕食を紹介してみましょう。

◎貝柱、おろし合わせ、す海苔
◎むか子、花ぶし(カラスザンショウ?)の汁
◎香の物(守口大根、かくあい)
◎引き味噌、鰆(さわら)、甘露シイタケ、てがら蓮
◎鯒(こち)、ちくわ昆布
◎五目凍み豆腐
◎焼き物(生鮭の塩蒸し)
◎あわびの塩蒸し、タマゴ焼き、蒲焼き
◎茶碗蒸し
◎ご飯

さすが王様だけあって非常に豪華な朝食ですね。ただ意外なことに、現在知られている沖縄料理はこのメニューには見られません。実は王国時代は和食がけっこう食べられていて、料理人は薩摩(鹿児島県)へ料理修行に行ったりしています。このように王族や士族階級は、味くーたーな料理ではなく、あっさり・薄味のものを食べていたのです。

またこのメニューで注目されるのは、沖縄産ではない食材(生鮭など)がみられることです。献立は沖縄にある食材を考慮したものではなく、一種のマニュアルのようなものであったとされています。

ただ僕は、食材は完全に架空のものではなく、王さまが本当に食べた可能性もあるのではないかと考えています。その理由は、彼が琉球で一番えらい人間であること、そしてこの献立が記された時代が明治であることです。

実は幕末に開国した日本では、蒸気船によってアメリカ・ボストンの天然氷が運ばれ、食品冷蔵などに利用されていました。しかし非常に高価なため、明治4年(1871年)には函館の氷が商品化され、広く流通していました(『函館市史』)。つまり、蒸気船によって本土から沖縄へ生鮮食料品を冷蔵輸送することは可能だったのです。

そして王様は、琉球で一番良いものを食べることができる人物。最高級の食材をわざわざ本土から輸入して食べることも不可能ではありません。もちろんこれを裏づけるにはさらに調査が必要ですが、もしこれが本当だったら、王様はとてもゼイタクな食事をしていたということですね。

参考文献:池宮正治「伝・尚泰王の御献立」(『首里城研究』6号)、『函館市史』

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2012年2月18日 (土)

再論「万国津梁の鐘」の真実(2)

「万国津梁の鐘」の製造の目的でよく言われていたのが、1458年に起こった護佐丸・阿摩和利の乱で戦に疲れた尚泰久王が、平和を望んで鐘を造ったというものです。たしかに銘文の内容は仏教を信仰し、世の中が平和になったことが記されています。やはり戦乱の終結を記念したものなのでしょうか。

鐘の銘文をよく見てみましょう。銘文の最後には、この文章を書いた年月日が書かれています。そこには「戊寅六月十九日」とあります。ここで護佐丸・阿麻和利の乱を思い出してみましょう。護佐丸が謀反の疑いをかけられ、阿摩和利率いる王府軍に中城グスクを攻められた時、グスク内では月見の宴が行われていました。この宴は「秋の最中」(『毛氏先祖由来伝』『夏姓大宗由来記』)に開催された、中秋の名月を観賞するものだったようです。つまり乱は秋以降に起こったもので、この時すでに鐘は製作されていたことになるのです。

銘文を作成してから鐘が完成するには若干のタイムラグがありますが、少なくとも6月の時点で鐘の製作にはとりかかっていたわけで、護佐丸・阿摩和利の乱とは関係ないところで作業が進んでいたことは間違いありません。前回みたように「万国津梁の鐘」は単体で造られていたのではなく、王権関連のグスクに鐘や雲板を設置する動きのなかで造られた一つです。

近世史書が本当に真実を伝えているかとの疑問もたしかにありますが、もし記述が本当だとしたら、やはり鐘についての従来の考えを見直さなくてはいけなくなるでしょう。

参考文献:沖縄県教育委員会文化課編『金石文』

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2012年2月11日 (土)

再論「万国津梁の鐘」の真実(1)

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ウチナーンチュ(沖縄の人)が歴史を語る際、好きな言葉のひとつが「万国津梁(ばんこくしんりょう)」です。その意味は「世界の架け橋」。琉球王国の時代、沖縄がアジアの海で中継貿易を行って繁栄していた時代に鋳造された「万国津梁の鐘」の銘文からきています。
その銘文の始めにはこうあります。

琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀をあつめ、大明をもって輔車(ほしゃ)となし、日域をもって唇歯(しんし)となす。この二中間にありて湧出せる蓬莱(ほうらい)の島なり
(琉球国は南海の景勝の地にあって、朝鮮の優れたものを集め、中国と日本とは非常に親しい関係にある。この日中の間にあって湧き出でる理想の島である)

琉球が各国と親密な関係を築いている様子をうたったものですが、日本・中国・朝鮮のうち、なぜか最初に朝鮮のことがあげられています。これはなぜでしょうか。このことについて「琉球王は朝鮮系の出身で深いつながりがあったから、文中で朝鮮のことを最初にあげたんだ。それに「三韓」は古い呼び方で、これにも深い意味がある」という説がごく一部でとなえられています。この説は以前の記事「万国津梁の鐘の真実」で明確に否定したわけですが、では、なぜ文中で最初に朝鮮のことをあげられているのか、それについて詳しく書きたいと思います。

まず大前提として。この鐘は本来、貿易の繁栄をうたったことが主旨ではなく、「国王が仏教を信仰し、琉球が平和な世の中になった」ことを伝えた内容です。文の作成者はヤマト禅宗の流れをくむ相国寺の渓隠(けいいん)和尚。鐘を製作したのは北九州出身とみられる鋳物師の藤原国善。つまり鐘は本来、仏教のことについて述べたものである、ということを確認しておきたいと思います。

ちなみに渓隠の出身地は不明ですが、文中で琉球を「南海」と位置づけることから、北を軸に置いた視点を持つ者であることはまちがいありません。その他の文書から、おそらく彼は北九州を掌握していた山口の大名・大内氏と面識のあった禅僧の可能性があります。

それと文中の「三韓」の表現ですが、これは単に朝鮮の雅号(風雅な名前。例えば琉球は「球陽」、日本は「扶桑」とか)で、中世日本では「三韓」という表現を普通に使っていましたので、とくに深い意味はありません

実はこの時期、「万国津梁の鐘」にかぎらず、たくさんの鐘が琉球で製作されていました。1455~1459年の間に何と23口も集中的に作られています。その理由は、当時の尚泰久王が仏教を深く信じていたからだとされています。それは確かだと思いますが、実は鐘を作る大きなキッカケの事件があったと僕は考えています。それが朝鮮王朝から高麗版大蔵経が琉球にもたらされたことです。大蔵経とは仏教経典の大百科で、当時の朝鮮王朝が持っていた「お宝」でした。

琉球は第一尚氏の思紹王の頃からすでに仏教が深く浸透していたことがわかっています。仏教を信じる琉球にとって、この大蔵経は「国家鎮護の源泉」としてノドから手が出るほど欲しい貴重なものでした。同じく仏教がさかんだった室町時代の日本では、この経典をゲットするために日本各地の領主・大名・将軍などさまざまな人たちが朝鮮を訪れ、「大蔵経ください」とお願いしています。とくに室町将軍らはこのお経を入手するためだけに朝鮮とお付き合いしていたほどです。

1455年、琉球からこの大蔵経を求める使者が朝鮮へ向かいます。そして1457年、大蔵経が初めて琉球にもたらされました。これは当時としては国家的大事件です。この入手と軌を一にするかのように、1457年には首里城正殿の雲板(禅宗のドラ)、越来グスクの鐘、翌年の1458年には首里時城正殿に掛けられた「万国津梁の鐘」、大里グスクの雲板と、王家関連のグスクに梵鐘や雲板が次々と作られていっています。これらは大蔵経の獲得を記念した国家的なモニュメントとしての目的があったのではないでしょうか。

つまり「三韓の秀」とは「朝鮮のすぐれたもの=高麗版大蔵経」を具体的に指していると考えられるのです。

参考文献:上里隆史「琉球の大交易時代」(荒野泰典・石井正敏・村井章介編『日本の対外関係4 倭寇と「日本国王」』)

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