貝塚時代は遅れた社会?
沖縄県は大小160の島々から成り立つ地域です。こうした自然環境のもと、沖縄の歴史は育まれてきました。人々は海とともに生き、移動手段として船を利用し、島嶼間をさかんに往来していました。
今から6600~900年前、琉球王国という国家が誕生する以前、沖縄の人々は長く漁労採集の生活を営んでいました。「貝塚時代」といいます。人々はサンゴ礁のおだやかな内海(ラグーン。イノーともいう)で貝や魚を獲り、砂丘地帯や湧き水の近くに住まいをかまえ生活していました。
この時代の特徴は、日本本土でいう平安時代頃までこうした生活スタイルが続いていたことです。日本で「源氏物語」の世界が展開されていた時期に、南西諸島ではまだ農耕をせず、魚や貝を獲りながら暮らしていたのです。こうした事実によって沖縄は野蛮で遅れていた、と考えることも可能かもしれません。しかし、こうした見方は必ずしも適当ではないと思います。
農耕は非常に手間がかかる作業です。1年を通じ田畑と水を管理し、人々が組織的に働かなくてはいけません。貝塚時代の人々は本土の弥生人と交流がありましたから、米や麦などの穀物栽培を知らないはずはありません。ではなぜ農耕が広がらなかったのでしょうか。それは、あえて面倒な農耕をしなくても、従来の生活で充分食べていけたからなのではないでしょうか。つまり沖縄ではわざわざつらい農作業をしなくても、1年中暮らしていける豊かな社会だったから、ともいえるのです。
貝塚時代の人々の主な生活の舞台はサンゴ礁の内海でしたが、それだけにとどまりませんでした。有人島で日本最南端の波照間島。島の北海岸砂丘に位置する大泊浜貝塚からは、驚くべきことに島外産のイノシシやマングローブ林でしか採れないシレナシジミ(大型のシジミ)が多数出土しています。ここから海の向こうの西表島も生活圏だったことがわかります。波照間島は「絶海の孤島」だったのではなく、人々は日常的に対岸の島々を行き来していたのです。大泊浜貝塚から海をながめると、水平線の向こうに西表島の島影をはっきりと見ることができます【画像】。
なお1477年の朝鮮漂着民の見聞録によると、波照間島はキビ・粟・麦を栽培していましたが、水田がないので米は対岸の西表島から入手し、材木も西表島から取ってきたとのことです。
人々の生活は必ずしも島の中だけで完結していたのではなく、海を越えた広がりをもっていたわけです。
【画像】波照間島の大泊浜貝塚からみえる西表島。
参考文献:安里進・春成秀爾編『沖縄県大泊浜貝塚』(科研報告書)












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