2015年4月 9日 (木)

95年前の落書き

戦前、護佐丸の墓が観光名所となり、観光客が記念にフクギの幹に落書きをしていたことを紹介しましたが(こちら)、今帰仁村の大西墓でも、おびただしい量の落書きが残っていることを見つけました。

大西墓は16世紀から今帰仁グスクに常駐した山北監守の一族の墓。運天港の丘陵の崖を利用したものです。墓の壁面は漆喰で塗られていますが、一面にびっしり落書きが書かれています。

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たとえば…

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大正九年(1920)七月廿一日詣了

有銘興昭
又吉康吉
山里将昌

なんと!今から95年前の落書きがそのままキレイに残っているのです。

このなかの有銘興昭、もしかしたら戦前の『沖縄教育』などを編集した教育家と同姓同名なので、同一人物の可能性もあります。

また

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昭和十六年七八月
二高女
安里■子

これは太平洋戦争開戦直前の昭和16年の落書きです。「二高女」とは那覇市にあった第二高等女学校。安里さん、現在でも存命なのでしょうか…?(ご存命の場合を考え、一部をモザイクで隠しました)

このほかにも戦後の1950年代のものや、新しいものでは平成一桁の落書きもあります。それにしても墓に落書きとはバチ当たりですね(笑)しかし、これはこれで近代沖縄の歴史の跡ですから、消さずにキチンと残しておいてもらいたいと思います。

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2014年12月14日 (日)

一中VS二中!100年前の野球試合

先日、来春の第87回選抜高校野球の選考結果が発表されました。残念ながら沖縄県代表の首里高校は21世紀枠の選考から漏れ、甲子園出場は果たせませんでした(ニュースはこちら

首里高校は戦前の沖縄県立第一中学(県立一中)がその前身で、二中の那覇高、三中の名護高とともに沖縄の伝統校として知られています。ちなみに沖縄県で甲子園に初出場したのは首里高でした(1958年)。

沖縄でも戦前、野球が人気のスポーツだったようで、一中対二中の野球試合が行われていました。「沖縄版早慶戦」とでも言えるのではないでしょうか?その様子を戦前の新聞『琉球新報』が報じていたので紹介します(文中の太字は僕が便宜的にしたものです)。

試合は開始以前より話題になっていたようです。『琉球新報』の投書欄「読者倶楽部」には次のような投書があります。

名前:狂雀:1915(大正4)/2/11(木)
一中対二中の野球仕合(試合)は本日潟原(かたばる)で行わるるそうです。今度の戦が両校の関ヶ原を決することですから、定めし両校のチャムピオン諸君の腕は鳴っているでしょう。とにかく私は時間の鳴るのが待ち遠い。

そしていよいよ1915年(大正4)2月11日、試合開始です。

【学生欄】野球仕合雑観

10年ぶりに野球の仕合(試合)を見るべく潟原に出かけたのはおよそ9時半頃であった。ちょうど一中の和田先生が選手とともに塁(ベース)の配置やネットを張るやらラインを引いたりして、はや好球家の血を湧かせていた。

本塁の後方には一中・二中、その他学生連が道の上までいっぱいになって、開戦を今や遅しと待ちかねている。それに今日は紀元節(*)の祝日ときているから、若き教員官吏の好球家連が三々五々と杖を引いて集まってくる。中には5年ないし10年前に中学で腕を振った古武士(ふるつわもの)もチヤホヤ見受けた。彼らの胸中さだめて懐旧の感にたえぬであろう。あるいはまた皮肉の嘆(たん)にたえぬもあろう。

いよいよすべての準備ができた。2、3のノックがあった。後でようやく両軍選手が入り乱れて球受けの練習に見物の目をひいたりして、10時頃になって一中の攻勢で和田審判官「レデー、プレイボール」の下に拍手の中に戦いは開かれた。今やあまたの観衆は優劣いかんとP(ピッチャー)、C(キャッチャー)、バッターの投受打球に一心に注目しているところ、無残、一中の攻撃はもろくも3人とも枕を並べて討死。1点の得ることなくして守勢に転じた。

今度は二中の攻撃。守備で敵をなで斬りにした衝天の意気で1人1人打球者に出たが、いかにもよく打ち、よく攻めて1回3点を得た。この攻守1回ずつの戦闘ぶりでほとんど両軍の勝敗が決まった感がしたのは惜しかった。

2回目での一中の攻撃はやや優勢で3点を得て少しく味方の見物を喜ばした。しかるに守勢に移るや不運にも失敗続出し、ゴロを逃がしフライを受け損じて、いたずらに敵に好機を与え、あたかも空塁を占領されるような観あらしめて、確か12、3の大得点を奪われたのは、返す返すも一中のために悲しかった。

これから後は互いに一得一失であるいは1点あるいは2、3点を得て、回を重ねるうちに点は両戦士の健闘を憫(あわれ)まずして雨を下し、和田審判また全身濡れねずみとなりて7回の中頃にいたりしが、雨いよいよ強くいたりて、この健児の競技を妨げたので、やむなく休戦を告ぐにいたった。しかるに暫時(ざんじ)にして雨勢また衰えたので、決勝すべく再戦を続行した。

8回を終えて9回目の一中の攻撃まででゲームセットとなり、二中の攻撃を残して29対21で8点の差でついに一中が敗れた。3回から後は一中もよく防ぎよく攻めたがすでに2回目の大敗で致命傷を受けたのだから、とても回復は不可能であった。

一中の宮城、二中の屋部・照喜名・両玉城のごときは選手中の好バッター、好ランナーである。かなり全選手の概評をこころみ、あわせて注文したいが、あまりに長くなるからやめておく。要するに今度の対戦でみると攻守とも10と8か、ないしは10と8分5厘の差はあろうと思った。両軍ともますます研究・努力あれ。(好球生)

*紀元節 …2月11日の神武天皇の即位日を記念する祝日。

(『琉球新報』1915年〔大正4〕2月15日)

一中対二中の試合は泊の潟原(泊にあった広大な干潟)で行われました。途中雨に見舞われたものの、9回表を終え29対21で二中の勝利となりました。それにしても打撃戦ですね。2回裏の二中による一挙12、3点の得点が効き、一中は猛烈に追い上げたものの、今一歩及ばなかったようです。

この時の試合のものではありませんが、戦前の一中対二中の試合を撮影した写真が残っています【こちら】。当時の試合の雰囲気はつかめると思います。

試合後、観戦者の感想が新報の投書欄「読者倶楽部」に掲載されています。

名前:狂雀:1915(大正4)/2/16(火)
一中対二中の野球試合はほんとに素晴らしいものでした。雨中を犯して戦う戦士ら諸君の勇姿は実に勇ましいもんでした。私はビッショリ雨に濡れながら轟(とどろ)く胸を押さえてこの勝負いかんと待ちかねたところ、ついに二中軍のめでたく勝利となった。

参考文献:『琉球新報』

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2014年8月16日 (土)

大正時代オモシロ投稿(7)

大正時代の「琉球新報」紙上に、ある青年のやらかした失敗談が投書されていました。

名前:白波:1915(大正4)/4/11(日)
僕の失敗談を紹介します。今朝4時頃、変装して知り合いの家に這入り、何か取ろうとしたら皆が目を覚めて失敗。

これ普通に泥棒でしょう(笑)掲載する新聞も新聞です。今なら大問題になるでしょうね(笑)

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2014年7月26日 (土)

雪舟の描いた古琉球人イラスト(再掲)

伝雪舟の「国々人物図巻」中に描かれた古琉球人。古琉球期の琉球人の一般的な姿を描いた、おそらく唯一のものでしょう。イラストでより忠実に再現してみました。(クリックで拡大)

Photo_2

頭の左側に結髪した「カタカシラ」に裸足が特徴です。服の模様は絣(かすり)でしょうか?近世期の琉球人画像はたくさん残っているので、それらと比較してみるとオモシロイかもしれませんね。

参考文献:伝雪舟「国々人物図巻」(京都国立博物館蔵)

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2014年5月31日 (土)

リア充爆発しろ(100年前)

100年前の「琉球新報」投書欄に、次のような投書がありました。

名前:若狭町牛生:1914(大正3)/11/15(日)
潟原(かたばる)の砂台は男女の密会所だ。新しい男女の徘徊するのを見受けるが、今後はこういう不貞な奴らは捕えて相当の制裁を与えたいものだ。すなわち潟原は男女の快楽場だ。

潟原とは、現在の那覇市泊の付近にあった広大な干潟。どうやらここは「リア充」カップルたちの集う場所になっていたようです。投書した人は潟原の近所である若狭町に住んでいたとみられることから、おそらくリア充たちのイチャイチャぶりを日々見せつけられて、腹にすえかねていたんでしょう(笑)

それにしても、捕まえて制裁をくわえるとは、穏やかではありませんね…この投書に対して、後日に批判が寄せられます。

名前:閑村:1914(大正3)/11/26(木)
若狭町牛生君、君は本欄に「潟原は腐敗男女の快楽場」というようなことを書くが、余は君に対し疑問を起す。悪きを見て素破抜くとは怪しからん、君同類ではないか。以後慎まんと素破抜いてやるぞ。

素破抜(すっぱぬ)くとは「暴露する」ということ。新聞紙上で氏素性をバラすということです。

しかしその後、衝撃の暴露が!

名前:三良小:1915(大正4)/1/22(金)
若狭町牛生は辻には足を入れんというが、一昨夜、僕に見つかったんじゃないか。近いうち三合はもらいにくるぞ。今後でも君が事実、足を止めえるなら僕が十の指を切ってみせる。

なんと、マジメぶっていた牛生君が辻の遊郭通いをしていたところを目撃されたのです!…う~ん、どうやら牛生さんは、潟原のカップルが単にうらやましかっただけのようです…(笑)

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2014年4月12日 (土)

皇紀2600年のナウいデコ

名護市東海岸の嘉陽(かよう)の丘陵地帯に、嘉陽グスクというグスクがあります。このグスクは石垣はまったく存在せず、日本の中世城郭のような土でできたグスクです。山を削って平場や切岸を設け、敵の侵入を阻む造りです。伝承によると、グスクは勝連から移住した嘉陽大主(かよう・うふぬし)なる人物が築いたということです。

グスクも非常に興味深いのですが、今回紹介するのは廃城後、地元民の信仰対象となったグスクについてです。グスクを登ると、1939年(昭和14)に建立された鳥居があり、そこをくぐると広場になっています。そこにはコンクリート造りの祠と碑があります。

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碑には「紀元二千六百年祭記念」と、祠建立に寄付した者一覧が刻まれています。紀元2600年祭といえば戦前の日本で大々的におこなれた国家的な祝賀行事。こんな沖縄の一地域にまで影響を及ぼしていたんですね。名護は沖縄戦の激しい戦火にはみまわれなかったので、こうして戦前の遺物が残っているわけです。

そして注目されるのが、祠の上部に付いている電球。

Dsc02600

この電球は実際に点灯したものではありません。コンクリートに埋め込まれています。つまり実用として設置されたのではなく、あくまでも飾りとして付けられたものなのです。戦前の沖縄は、今のように本島全域に電力網がはりめぐらされていたのではありません。名護にもいちおう電力会社がありましたが、西海岸の市街地が主で、山を越えた東海岸の嘉陽では一般的ではなかったと考えられます(※)

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おそらくこの電球は、都市部で使われていたものを誰かが持ってきて、紀元2600年記念の祠を建設する際、「これナウい(死語)から付けようぜー」と設置したものではないでしょうか?戦前、とくに地方では電気はハイテクなものであり、当時の人々にとって電気はトレンディー(これまた死語)と認識されていたので(浅草の電気ブランも参照)、あまり電灯を見たことがない嘉陽の人々が、デコレーションとした可能性があります。

後の時代に補修した可能性もありますが、見る限りでは祠に明確な補修の形跡や記録は確認できませんでした。仮に補修したものだとしても、点灯しない電球をコンクリートにわざわざ埋め込み、追加する行為はデコレーションであることは間違いありません。いずれにせよ、この電球が1940年時点のものだとしたら、沖縄にまず現存していない戦前の貴重な電球といえます。将来、文化財になるかもしれません。

沖縄において戦前を伝える史跡はほとんどありません。嘉陽グスクは王国時代の遺跡という性格とともに、貴重な近代の様相を伝える史跡でもあるのです。

※このあたりは要調査です。名護電灯株式会社の総電力は130キロワット、6500戸に送電していましたが、他の沖縄の電力と同じく電灯は「線香花火のようだ」と言われるほど電圧が低く、しかも高料金で廃灯運動まで起きていました(『沖縄大百科事典』、琉球新報社社会部編『昭和の沖縄』)。

【追記】『嘉陽誌』には、集落に電気が通ったのは戦後からとの証言がありました。

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2014年3月 1日 (土)

ペット可の沖縄銭湯!?

今ではほとんど見かけることはなくなってしましたが、沖縄にもかつて銭湯(湯屋)が結構ありました。戦前の那覇にも銭湯があり、庶民たちに親しまれていましたが、大正時代の「琉球新報」には次のような驚くべき記事がありました。

人犬同権か

男女同権という言葉はこの頃日本でもだいぶ聞く言葉であるが、人と犬と同権ということはいまだかつて聞いたことがない。

ところが本県の湯屋では立派に犬格を認めて人間なみに入浴料金3銭なり。人間は2銭5リ(厘)。いくら人間が汚くて犬がきれいか知らないが、いやしくも畜生である、獣物(けだもの)である。

まさか人間と一緒に湯殿(に)入ってくるんでもあるまいと思っていたら、イヤ驚いたの何の。大して美しくもない犬を連れてきて洗場(ながしば)で大掃除を始める。由来畜生は良し悪しの判断(みさかい)なきもの。いつ臭いのを失敬するかわからぬ。

洗われた後ではあたりかまわず身震いをやると、近処の者は頭から石鹸(シャボン)水を浴びる。この分でいったら湯船の中へもご入湯あそばしてポチャポチャやり出すかもしれない。

グズグズしては大変と大急ぎで飛び出してきたが、この調子では遠からずブタ1匹金5銭なり、馬1匹金10銭なりと、人のための湯屋か獣物のための湯屋かわからぬようになることだろう。あなかしこ、あなかしこ。

(「琉球新報」1915年《大正4年》4月3日)

ペット可の銭湯!?これは本当なのでしょうか。確かめる術はほかにありませんが、事実だとしたら男女混浴よりスゴイですね(笑)

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2013年12月28日 (土)

大正時代オモシロ投稿(6)

今回も大正時代のオモシロ新聞投書から。

名前:通堂カマド生:1914(大正3)/8/14(金)
本県人ほど物珍しがるのはない。それは一昨日、通堂大正館内へインド人5、6人宿泊していると、近所の老幼男女を問わず通行人までが寄ってたかってガヤガヤ見物していた。

ウチナーンチュ、インド人にビックリ!といったところでしょうか(笑)

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2013年12月 7日 (土)

大正時代オモシロ投稿(5)

伊波普猷(いは・ふゆう)は「沖縄学の父」として知られた沖縄の歴史上の偉人。生前でも「伊波文学士」として有名でした。その彼のお宅に起こった、ある出来事。

名前:香雪生:1914(大正3)/6/1(月)
どこの馬の骨か知らねど一杯かたむけたと見えて、石門通りから森の後の文学士・伊波(普猷)先生宅へ通りかかったら、何思いけん、文学士宅の門の真ん中にジャジャと小便をやっていた。いざ我輩のゲンコツをお見舞い申さんとせしかど、何にしろ向こうは2、3人であるから黙って通りすぎた。それらは大工らしきものだった。

伊波普猷宅の門に酔っ払いが立ち小便。いい迷惑ですね(苦笑)

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2013年11月30日 (土)

大正時代オモシロ投稿(4)

前回は犬に関する投稿でしたが、続けていきます。

名前:中島の人:1914(大正3)/9/20(日)
中島長門付近は野犬が多くて非常に困っています。丹(那覇警察署)署長様、早く撲殺してください。

動物愛護の精神が希薄な時代だったとはいえ、過激な投稿ですね(汗)中島(仲島)とは現在の那覇市バスターミナル一帯の地域です。

そしてその10日後…

〇無監犬の撲殺(「琉球新報」1914年10月1日)
那覇署にては本日午前7時より正午まで、なお7日間を期し、(那覇)区内の無鑑札犬撲殺を続行するよし。昨日までの調べによれば区内にて鑑札を有する犬は約300匹にて、その他、無届けのものが5、600匹以上あらんと言う。

署長さんは新聞投書を見たのかわかりませんが、どうやら本当に実行してしまったようです…当時は野良犬に狂犬病が流行していたとはいえ…ちょっとかわいそう。

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