2009年10月24日 (土)

貝塚時代は遅れた社会?

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沖縄県は大小160の島々から成り立つ地域です。こうした自然環境のもと、沖縄の歴史は育まれてきました。人々は海とともに生き、移動手段として船を利用し、島嶼間をさかんに往来していました。

今から6600~900年前、琉球王国という国家が誕生する以前、沖縄の人々は長く漁労採集の生活を営んでいました。「貝塚時代」といいます。人々はサンゴ礁のおだやかな内海(ラグーン。イノーともいう)で貝や魚を獲り、砂丘地帯や湧き水の近くに住まいをかまえ生活していました。

この時代の特徴は、日本本土でいう平安時代頃までこうした生活スタイルが続いていたことです。日本で「源氏物語」の世界が展開されていた時期に、南西諸島ではまだ農耕をせず、魚や貝を獲りながら暮らしていたのです。こうした事実によって沖縄は野蛮で遅れていた、と考えることも可能かもしれません。しかし、こうした見方は必ずしも適当ではないと思います。

農耕は非常に手間がかかる作業です。1年を通じ田畑と水を管理し、人々が組織的に働かなくてはいけません。貝塚時代の人々は本土の弥生人と交流がありましたから、米や麦などの穀物栽培を知らないはずはありません。ではなぜ農耕が広がらなかったのでしょうか。それは、あえて面倒な農耕をしなくても、従来の生活で充分食べていけたからなのではないでしょうか。つまり沖縄ではわざわざつらい農作業をしなくても、1年中暮らしていける豊かな社会だったから、ともいえるのです。

貝塚時代の人々の主な生活の舞台はサンゴ礁の内海でしたが、それだけにとどまりませんでした。有人島で日本最南端の波照間島。島の北海岸砂丘に位置する大泊浜貝塚からは、驚くべきことに島外産のイノシシやマングローブ林でしか採れないシレナシジミ(大型のシジミ)が多数出土しています。ここから海の向こうの西表島も生活圏だったことがわかります。波照間島は「絶海の孤島」だったのではなく、人々は日常的に対岸の島々を行き来していたのです。大泊浜貝塚から海をながめると、水平線の向こうに西表島の島影をはっきりと見ることができます【画像】。

なお1477年の朝鮮漂着民の見聞録によると、波照間島はキビ・粟・麦を栽培していましたが、水田がないので米は対岸の西表島から入手し、材木も西表島から取ってきたとのことです。

人々の生活は必ずしも島の中だけで完結していたのではなく、海を越えた広がりをもっていたわけです。

【画像】波照間島の大泊浜貝塚からみえる西表島。

参考文献:安里進・春成秀爾編『沖縄県大泊浜貝塚』(科研報告書)

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2009年9月24日 (木)

ゴーレスの正体

大航海時代、ヨーロッパ人たちは琉球を「レキオ」と呼びました。そして「ゴーレス」もまた琉球人を指す名称として知られています。トメ・ピレス『東方諸国記』にはこうあります。

レケオ人はゴーレスと呼ばれる。彼らはこれらの名前のどちらかで知られているが、レキオ人というのが主な名前である。(レキオ人)は7、8日でジャンポンへ行って彼らの商品(小箱など調度品、扇、刀剣)を金や銅と交換する、レキオ人がもたらすもの(金、銅)は全部ジャンポンから来る。そしてレキオ人はジャンポンからの荷をルソン布などの商品と交換する。

このゴーレスという名前の由来はいったい何なのか、これまで明らかにされてきませんでした。しかし近年、歴史研究者の的場節子氏によってこの謎が解明されました(『ジパングと日本』)。的場氏は西欧側の史料を丹念に読み込み、琉球の金の入手先である「ジャンポン」「チャンパン」「ジャボンガ」「ぺリオコ」などが日本ではなく、いずれも東南アジア地域だったこと、16世紀に琉球船もこの海域を訪れて金・銅を入手し、東南アジア貿易を行っていたことを明らかにしています。

そして注目されるのが、氏が紹介した、リスボン国立図書館蔵のモルーカ諸島情報を記した写本の

良質の鉄で作られた原住民の刀剣はゴーレスとよばれる

という記述です。「ゴール」は東南アジアの現地語で「刀剣」を指しており、ポルトガル人はその複数形として「ゴーレス」を用いたのです。つまり、ゴーレスとは「刀剣を帯びた人々」を意味する言葉だったのです。当時の琉球人は日常的に大小の刀剣を腰に差していました。

15~16世紀の琉球は中国や東南アジアに大量の日本刀を輸出していました。日本刀は中国陶磁器とともに東南アジアへもたらされましたが、これらの日本刀は琉球が日本から入手したものとみられています。外交文書集『歴代宝案』では、多種多様の刀剣類が輸出されていたことを確認できます。なお現存する琉球の刀剣「千代金丸」や「治金丸」は刀身が日本製、外装は琉球製であると鑑定されています。おそらく輸出された日本刀は琉球風にアレンジされたものではないでしょうか。

東南アジアでは日本刀が「レケオ」と称されており、アラビア史料には鉄の産地「ゴール島(ボルネオ・セレベス島に比定)」で生産された剣がジャワ語で「リキーウー」と呼ばれていたとあります。東南アジアでは日本刀が「琉球刀」として認知されており、やがて刀剣の代名詞にまでなったわけです。
 
東南アジアへ日本刀を広めたのは、実は日本ではなく琉球だったのです。知られざる琉球の歴史がまたひとつ解明されたといえます。

参考文献:的場節子『ジパングと日本』

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2009年5月20日 (水)

儀間真常と袋中上人

儀間真常は言わずと知れた琉球史上の偉人。サツマイモやサトウキビ栽培を普及させ、やがてイモは江戸時代の日本にも渡り、多くの人々を飢えから救うきっかけをつくった人物です。彼が生きていた時代、ヤマトから一人の僧侶が琉球を訪れます。それが浄土僧の袋中良定(たいちゅう・りょうてい)です。

袋中は那覇の久米村近くに桂林寺というお寺を建て、そこに滞在します。彼は琉球で布教活動を行い、尚寧王をはじめとした多くの人々が帰依しました。また袋中が伝えた浄土宗は踊り念仏を定着させ、やがてエイサーへと発展するきっかけを作ったとされているのは有名な話ですね。

儀間真常もまた袋中の教えに帰依し、熱心な信者となったと言われています。それを示す証拠が、実は戦前まで那覇垣花の儀間村に残されていました。この村は真常の出身地です。

1936年(昭和11)、袋中開山の檀王法林寺の住職、信ヶ原良文氏が垣花を訪問した際、住吉町の又吉さん宅(麻氏の家系でしょう)に袋中直筆の書を見つけます。状態は悪くすすけてはいましたが、中央に「南無阿弥陀仏」と書かれており、右側には「授了徳公」、左側には「弁蓮社良定(花押)」と記されていました【画像。クリックで拡大】。「徳公」は儀間真常の号です。「授了」は「授けた」という意味。真常が袋中の帰依者で、直筆の書をたまわったことがわかります。ここには「授了徳公大禅門神位」と刻まれた真常の位牌もあったそうです。

なお『麻姓家譜』には真常を「授了と号す」と書いてありますが、この袋中書を見て、「授了」のほうを名前だと勘違いして載せてしまったのではないでしょうか。それは位牌の名前がこの書の文をそのまま丸写ししていることからもうかがえます。

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また袋中の遺品として数珠もありましたが、108個あるはずの数珠の玉はほとんど失われていました。病気が流行った時、身を守るまじないとして1個ずつ人々に分け与えたことからこのような状態になったとのこと。袋中の遺品がある種のパワーを持つと考えられ、沖縄の人々の信仰を集めていたことがわかります。

これらの品々は残念ながら先の沖縄戦で失われてしまいましたが、戦前の貴重な調査の記録によって、その存在を知ることができるのは幸いです。袋中の弟子となった真常は、もしかしたら「極楽浄土」の実現のため、多くの人々を救う手段としてサツマイモの普及に励んだのかもしれません。

参考文献:信ヶ原良文『袋中上人―生い立ちとその行跡―』、『麻姓家譜』

※【画像】は袋中筆の書の推定図。

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2009年2月18日 (水)

ターバンが冠に変わる時

琉球の官人が身につける冠といえば「ハチマキ(鉢巻、八巻)」。かつてはインド人のターバンのように長い1枚の布をぐるぐる頭に巻いたものでした(こちら参照)。このハチマキ、どうしてターバンから冠のように変わってしまったのでしょうか。

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琉球官人のハチマキ(クリックで拡大)

この変化は1600年頃に起こったとされていますが、実は琉球王国の正史『球陽』に、そのあたりの詳しい経緯が記されているので紹介しましょう。

もともとハチマキは約4メートルもの布を頭に八重巻にしたものでした。1619年、国王の尚寧が家臣とともに久高島へ向かう途中、突然の大雨にあってしまいます。ゲリラ豪雨ですね。皆が巻いていたハチマキの布は雨にぬれてヘロヘロ・ヨレヨレになってしまいました。ところが、ただ一人、頭のハチマキがビシッときまっている者がいます。仲地筑登之(ちくどぅん)名礼という人物です。皆の注目の的ですね。

ズブぬれになったヨレヨレハチマキの尚寧王はそれを見て驚きます。聞いてみると、何と彼の巻いたハチマキはフェイクで、実際は木の板を下地にし、そのうえに布を貼り付けてハチマキのように仕立てたものでした。王はいたく感動し、彼を褒賞して、以後は王府官人のハチマキを彼のものにならって改良したといいます。このフェイク・ハチマキは仲地の発明ではなく、脇名国親雲上(わきなぐに・ぺーちん)吉治という人物が1600年頃に考案し、それを仲地がかぶっていたということのようです。

ちなみにハチマキのヒモはこの時にはなく、さらに時代が下って1791年に中国の冠にならって取り付けられたものです。このように琉球官人のハチマキはいくつかの段階の改良をへて、現在見ることのできるかたちになったことがわかります。

それにしても仲地は自分が発明したわけでもないのに、それをかぶっていただけで王様からお褒めの言葉を頂戴するなんてラッキーでしたね。

参考文献:『球陽』

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2008年6月 2日 (月)

琉球でピラミッドは知られてた!?

琉球王国はかつてアジアとの貿易を行って繁栄していました。そのため、琉球の人々は国際的な舞台で世界のさまざまな国の情報や知識を手に入れることになったはずです。

14世紀から16世紀にかけて、貿易船は東南アジアへも出かけていきました。そこでの重要な取引相手だったのがマラッカです。マラッカは琉球と同じように小さな国でしたが、東南アジアの商業の中心地として栄えていました。いわば「東南アジアの《琉球》」ともいうべき存在だったといえるでしょう。マラッカの港町には貿易のために世界中から人々が集まって来ていました。

16世紀の「大航海時代」に、はるばるアフリカ・インドを越えてやって来たヨーロッパのポルトガル人たちもそうです。彼らはマラッカへ到達し、さらに東方にある黄金の島「ジパング」を探し求めていました。1511年、ポルトガルは強大な軍事力でマラッカを征服しアジア進出の拠点とします。占領直後のマラッカに滞在したポルトガル人、トメ・ピレスは港町に集まる人々について、著書の『東方諸国記』のなかに記しています。

それによると、マラッカには東南アジア地域の人々、中国人や琉球人のほか、何とエジプト・カイロやメッカ、アデンなどのイスラム教徒、ペルシャ人やトルコ人、さらにはアルメニア人のキリスト教徒までいて、港町では実に84の言語が飛び交っていたといいます。カイロの商人はイタリア・ヴェネツィア船が運んできた商品をマラッカにもたらしています。このような国際都市のなかで、琉球人もまた彼らに交じって取引をしていたのです。

マラッカでこれらの国々の人と琉球人が接触していたという記録は、現在確認されているところではマラッカ人やポルトガル人、中国人以外にはありません。しかし、当時の状況で彼らと全く関係がなかったというのは不自然です。おそらく何度か取引をする機会があったのではないでしょうか。また、そうでなくても異国の人々の暮らしや文化、故郷の様子などを聞く機会はあったはずです。

そうすると、ある想定が成り立ちます。もしかしたら琉球人たちは、カイロからやって来た商人からエジプトの様子を聞いたかもしれません。ラクダのキャラバンが連なる砂漠、そびえ立つピラミッドやスフィンクス…また彼らイスラム教徒の商売仲間であったヴェネツィアの様子も知ることができたことでしょう。

…もちろんこれらには何の確証もありません。まさか沖縄のシーサーの源流はスフィンクスだった!?(な、何だってー!!by MMR)…なんてトンデモ説を唱えるつもりは毛頭ないですが、このような遠い異国の話を知る機会は、当時の琉球人にとっては充分あったと思います。

参考文献:トメ・ピレス『東方諸国記(大航海時代叢書Ⅴ)』

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2008年2月21日 (木)

酔って轟沈、騒いで大酒

ウチナーンチュ(沖縄人)はとにかく酒に強いと言われます。実際、体質的にアルコール分解が早い人が多いようです。沖縄では何かにつけて飲み会が開かれるなど、お酒は身近な存在。飲酒運転の検挙者数も18年連続ワーストワンという不名誉な記録まであるほどです。

お酒と沖縄は切っても切れない関係なのですが、今回はお酒にまつわる歴史の話を紹介しましょう。琉球人の飲酒についての最も古い記録はいつ頃でしょうか。それは何と1422年。古琉球時代(日本では室町時代)の尚巴志が即位した年に当たります。記録は京都東寺(教王護国寺)の「東寺百合(ひゃくごう)文書」のなかに残されています。

1422年の9月26日、琉球人の使節が上京し、東寺の鎮守八幡宮にある宮仕(みやじ。下級の社僧)の部屋を借ります。そこで琉球人たちは何と宴会を始めてしまうのです。ところが宴会が終わった後、琉球人の一人が病気になってしまいます。占いを行ったところ「神さまのおとがめじゃ!」と出たので、そこで東寺は病気回復の祈願をするため、宮仕の五郎三郎(ごろうさぶろう)という人物に1貫300文(だいたい10万円前後)のお金を渡し、鎮守八幡宮で神楽(かぐら)を舞わせるように命じたのです。

琉球人たちは慣れない気候の土地でドンチャン騒ぎの宴会をして体調をくずしてしまったのでしょうか。神聖な神社のなかで大騒ぎしたとなれば、神様のタタリと思われてもしかたがありませんね。ところがお金を渡された五郎三郎、神楽代に300文だけを払い、残りの1貫はフトコロに入れてしまいます。要するに着服です。結局この行為はバレて、さらに部外者に部屋を貸したことが違法だったために五郎三郎はクビになってしまうのです。

もうひとつは1575年(天正3年)、薩摩(鹿児島県)の戦国大名・島津氏のもとを訪れた琉球の使節団。この時の外交交渉は島津氏が琉球へ圧力を加え、様々な条件を強要する厳しいものだったのですが、琉球使節は宿舎でやっぱり酒宴を開いています。島津側は琉球人の飲みっぷりを「ことのほか大酒」と評しています。宴会は「じゃひせん(蛇皮線。三線)」を弾き、琉球の楽童子(小姓)による歌や太鼓もある大変にぎやかなものとなりました。最後はカチャーシーだったかどうかは定かではありませんが(笑)、緊張した外交関係のなかでも琉球人は三線と酒は忘れなかったようです。琉球は交渉で負けても酒飲み勝負は圧勝だったということでしょうか。まるで現代のウチナーンチュを見るようで、彼らの姿がありありと想像できますね。

参考文献:佐伯弘次「室町前期の日琉関係と外交文書」(『九州史学』111号)、『上井覚兼日記』

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2008年1月31日 (木)

「中国化」する琉球

琉球というと中国の影響が強くあって、昔は中国風の文化だったのが、近世(江戸時代)に薩摩藩に征服されてから次第にヤマト(日本)化していったと考える方も多いと思います。しかし、事実は全く逆。琉球は薩摩に征服された後に「中国化」していくのです。 

もちろん琉球は中国(明・清)の朝貢国だったので、中国の影響が全く無かったわけではありません。しかし近世の琉球は中国文化をとくに積極的に取り入れていきます。

例えば首里城で行われる儀式。近世以前の王府儀礼は中国の拝礼様式を参考にしつつも、何とヤマトの陰陽道の方式が取り入れられていました。王府の重要な儀礼のひとつである元日の天を拝む儀礼では、年ごとに縁起のいい方角に向かって王や官人が拝んでいましたが、これは「歳徳神(恵方)」の信仰にもとづくものです。この信仰は節分に食べる恵方巻き(まるかぶり)を思い浮かべていただければわかりやすいと思います。

しかし、この恵方を拝む古琉球伝統の風習は1719年に廃止され、北方の方角(中国皇帝のいる北京の紫禁城)を拝むという方法に変更され、より中国的な形式が強調されます。琉球の天を拝む儀式はヤマトの信仰に影響されつつも、王を“太陽(テダ)”や“天”と一体と見る古琉球の伝統的な考えをもとにしていましたが、本来、天を拝む儀式は中国皇帝(天子)だけに許されたものでした。近世になり中国的な考えが意識されだすと、「これはけしからん」という批判が出てきます。そこで王府は、この儀礼は中国皇帝の方向を拝むためだと何とか理由づけして、中国風に変更して続けていくのです。

さらに近世の琉球社会では、中国の儒教をもとにした価値観が広まっていきます。それ以前の儒教は中国系の久米村など一部で受け入れられていたにすぎませんでした。ところが、琉球王府は儒教イデオロギーを国家的な思想として採用していきます。

久米村によって主宰されていた孔子廟の祭礼は、やがて国家的祭礼に引き上げられ、歴代王に対する祭祀も久米村の意見を聞いて、可能なかぎり中国式の祭祀方法に変更します。国家の教育も儒教をもとに行われるようになり、庶民には儒教倫理のテキスト「御教条」を読み聞かせていきます。さらに中国の風水思想も導入され、風水にもとにした亀甲墓・シーサー・石敢当・ヒンプンなどが次々と琉球に定着します。こうした文化が琉球全体に普及したのはこの時期です。

琉球の「中国化」はこれだけではありませんでした。何と、琉球の海を航行する船も「中国化」します。意外に思うかもしれませんが、かつて琉球の一般的な船は中国のジャンク船ではなく、和船タイプの船でした。ジャンク型の進貢船はむしろ例外的なものだったのです。18世紀になると、琉球の船は王府の指導によって「マーラン(馬艦)船」と呼ばれるジャンク船タイプにモデルチェンジされます。マーラン船は安価で頑丈な造りの高性能船だったので、またたく間に広まっていくのです。

なぜヤマトの支配下に入ったはずの琉球で、中国的志向が強められていったのでしょうか。ひとつは羽地朝秀から蔡温の時代にかけて行われた琉球の構造改革が影響していると考えられます。古い時代に代わる新しい価値として、儒教に代表される中国的なものが重視されたのではないでしょうか。また、中国・清朝が次第に琉球の朝貢貿易を縮小させようとしたことにも原因があるとみられます。琉球はこうした清朝の動きに対し、「中華」に忠実に従う「優等生」ぶりをアピールすることで、従来の関係を維持しようと考えたのです。中国との関係をこれまで通り維持することは、貿易活動のみならず、中国皇帝の権威によって王が国内での求心力を得るために絶対必要でした。

それともうひとつ。近世の琉球はヤマトの幕藩制国家に従属した存在となって様々な政治的規制を受け、また経済面においてはヤマトとの一体化が進行していました。琉球はヤマトに完全に呑み込まれないように、中国を拠りどころにして新たな琉球のアイデンティティを確立しようとしたと考えられるのです。日中両国の間で絶妙のバランスをとって「琉球」という主体を存続させようとした戦略をそこに見ることができるのではないでしょうか。

参考文献:豊見山和行『琉球王国の外交と王権』、赤嶺守『琉球王国』

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2007年12月11日 (火)

将軍と皇帝に会った琉球人

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近世(江戸時代)の琉球は中国(清朝)の朝貢国でありながら日本の幕藩制国家にも従属する国家で、中国と日本に使節をそれぞれ派遣していました。中国へは北京の皇帝のもとへ朝貢使節を派遣していたことはよく知られています。一方、日本へは江戸の徳川将軍と薩摩藩の島津氏のもとへ不定期ですが使者を派遣して服属の儀礼を行っていました。いわゆる「江戸上り」と「中城王子上国(じょうこく)」です。

このような歴史的な性格から、琉球では当時の東アジアでも珍しい体験をする人物が登場します。その一人を紹介しましょう。彼の名は毛維基(もう・いき、城田親方)。久米村の毛氏5世で、元祖は17世紀に中国から渡来した華人です。維基は久米村行政のトップ(総役)の地位についたエリートで、書道や芸能にも通じていました。彼は何と、中国皇帝・徳川将軍・琉球国王という3カ国の「元首」に会ったことのある人物なのです。

1752年、国王尚穆(しょうぼく)の即位によって、それを承認したお礼として琉球から使節団が江戸へ向かいます。この時、維基は音楽や舞踊を指導する監督官(楽師)として江戸へ同行しています。使節団は薩摩から大坂を経由して、江戸城で将軍・徳川家重(吉宗の長男)に謁見。将軍の前では維基が指導した琉球音楽を披露して、彼は将軍から白銀を与えられました。

また維基は福建の琉球館(いわば大使館)に駐在するスタッフとして中国へも行っています。彼が属する久米村は中国系の渡来者を中心とした士族のグループで、中国への外交文書作成や通訳、そして琉球国内において儒教教育などを担当する仕事に多くの人が従事していました。そして1769年、彼は朝貢使節のナンバー2(副使)として北京へ向かい、紫禁城の午門(ごもん)で乾隆帝(けんりゅうてい)に会い、その顔を見ています。乾隆帝といえば中国史上最大の領土を有した清朝最盛期の皇帝。彼に直接対面した維基は「これは千年に一度あるかのめぐり会いで、家門の栄光である!」と感激しています(日本の将軍と会った時にはコメントなしでしたが…)。

当時は身分制社会で、そこらにいる普通の人間が支配者の顔を見るなど滅多にありません。また江戸時代の「鎖国」政策に代表されるように、自由に国や地域を移動できない状況でした。そのようななか、一人の人間が3カ国の「元首」に直接会ってその顔を見ることは異例中の異例です。当時の日本では中国皇帝の顔を見た人間などまず、いません。もちろん中国で徳川将軍の顔を見た人も。

維基がなぜこのような珍しい体験ができたかというと、先に述べたように、近世の琉球王国が日本と中国との外交関係を維持して成り立っていたことと関係しています。琉球では外交や交易の仕事をすること(旅役といいます)が大きな功績としてカウントされ、多くの琉球人が海外へ出向いていきました。毛維基のような国際体験をすることは、当時の琉球の人々にとって決してありえないことではなかったのです。

※【画像】は今帰仁グスクにある「山北今帰仁城監守来歴碑記」(1749年建立)。この碑文の文字は毛維基が書いた。

参考文献:渡辺美季「毛維基の生涯―「山北今帰仁城監守来歴碑記」の文字を書いた人物―」(『今帰仁グスク』創刊号)

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2007年10月30日 (火)

100年前のグウタラ対談

100年前の「琉球新報」にはまだまだ面白い対談があります。今回は大正時代のダメダメさんたちの対談です。以下に紹介するのは当時そのままの文章で、決して僕の創作ではないことにご注意。

************

◎対話(琉球新報・大正2年9月18日)

場所:バクチャ屋(那覇の辻付近)に近き墓と墓の間の芝生、月は無けれど星の降るような晴れたる夜。風なく蒸し蒸しする晩なり。前方のかなた、闇に包まれたる海、波立たず夢のごとくに映る。後ろの方、廓内より三味線の音とともに艶めかしき歌など聞こゆ。墓地のかなたの方に2、3人連れ酔客彷徨(*)す。男2人ビール瓶に酒を満たしラッパ呑みに飲みつづけながら帰る。連れの娼妓2人を背にし、やや離れたるところにて■のうなるように歌を歌う。

甲の人「・・・本当に君、何か方法を尽くして僕は生活を変えなくちゃならないね。モット真実な心持ちで自分で尊敬ができるような生活をたどるようにして、今みたような(今みたいな)、こうしたグウタラな生活から脱したい。真実そう思うんだから・・・」

乙の人「むろん生活の転換は早晩こなくちゃならないさ。今通りの生活をいつまでも続けていられるものか。だが生活転換の一方法として君が内職をするとしても、一切酒色の誘惑が断たれると思うのか。一心になって仕事はするはずだが、今まで荒らし歩いた廓の華やかさに心が引かれないという事が一切ないと思うのか。

思い出すと浮き浮きとした心持ちに飛び出すはずだよ。今のグウタラな生活をなぜ恐れる、あくまで続けてみるさ。酒も飲む、女郎も買うさ、して仕事も全力をあげて勤めていけば心もすく暇はなくてクヨクヨ思うこともないさ」

甲の人「それくらいの元気があるなら何も思わないさ。が、夜遅くまで酒を飲んだり女と夜をふかしたりすると、もう翌日ダルクテ頭の中がねばついているようで物憂くもなるし、また何でもないのに恐怖に襲われたりして無為に1日を暮らすのが怖い。こうしていたずらに身心を腐らせていって、末はどうなるかと思えば心細くもなる。

僕は4、5日前、母が10銭(今の価値で500円)くらいの駄菓子を買ってお寺参りに行く後姿を見て泣くにも泣かれない気になっていた。アノヨボヨボした母の姿、黒焦げになってアノ年まで働く母の苦労を思うて、ツイツイ不甲斐なき身が呪わしくなる。

貧乏の家庭で貧しく育つのだから兄姉の仲も面白くはない。1日だって家族とともに楽しんだということはない。家が面白くないのだから飛び出して歩きまわるが、何ら帰趨(*)するところもないから、一生こうヤキモキで暮らし終わるだろう。40か50くらいになって落ち着く頃になると、どこか場末の裏長屋で呑気な鼻歌を歌うだろう。夏になっても暑苦しい袷(*)を着て貧乏ゆすりで模合金(*)の5、60銭(今の価値で3000円)を調達に駆けまわったりするはずだろう」

(女2人に挨拶もせず静かに彼方、廓内へ降りて行く)

乙の男「いくら栄達を望んだところで達し得られないのだから生きられるだけ生きてみるさ。僕だって同じさ。家に万の金を貯えて、雇い人も数人使役し、西洋間の一室くらいあって、そこで気楽に寝起きができれば道楽も思いきっての道楽をするし、妾の2、3人は養って君らみたいな貧乏人は1年も2年も遊ばしておいて娼妓の1人くらい引かせて(*)進上するね。アア金が欲しい、金なるかなだ。マネー、イズ、アウルマイテイ(Money is almighty)だよ」

甲の人「ん、あいつめ(連れの娼妓)は逃げやがったねー。こんな心細い話をするのだから愛想を尽かして帰ったんだよ。いいさ僕が惚れてるんでなし、心安くしてくれるんだから行き行きしていただけだ。愛想尽かしを喰えば結局幸いだ。

だが僕はツクヅク女郎に金を貢ぐというのが馬鹿馬鹿しくなったね ―と言ってもたかだか月に5円(今の価値で2万5000円)もやってはいないが― 底ぬけ騒ぎで思う存分遊ぶのが真実楽しいならそれだけの報いに金もつかうが、もう酒飲んで遊ぶというのも大して興味がなくなったし、心底から女に惚れるという心の張りもないし、縦し(たとえ)したたか惚れてみたところで女郎と一生の苦楽をともにすることなどはできた話でもないのに切々と通って、いったい何で金を使うのか疑わしくなるね。本当にふるいつきたいほどの新生活を開拓しなくては浮かぶ瀬はないね」

乙の人「とにかくお互いに生活難などと話はするが、体全体を震撼するほどまでに痛切に感じないからこうグウタラな日を送っているはずさね。何か魂を振るわすような新奇な驚異なものにでもブッつからなきゃ駄目だろう。結局内容が僕らは貧弱だ。生活に対する奮闘力がとぼしいからこう苦しむのだ。時代の罪だ、社会が悪いんだ」

(おわり)

彷徨(ほうこう) …当てもなく歩き回ること。さまようこと。
帰趨(きすう) …行き着くところ。
(あわせ) …裏地をつけて仕立てた着物。秋から春先にかけて用いる。あわせの衣。
模合(もあい) …頼母子講や無尽講の一種で、広く沖縄の庶民に親しまれている相互扶助的な金融のしくみ。
引かす …芸者・遊女などの借金を払って、自由な身にしてやる。身受けする。

************

二人の対談によると、結局時代と社会が悪いそうです(苦笑)。これって今でもしばしば耳にするような・・・

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2007年7月24日 (火)

大正沖縄・紳士の宴(3)

●偕楽軒夜話(下)/ある紳士連の会合(琉球新報・大正5年3月3日)

A氏:(西洋菓子をつまみながら)「君は見たところでは身体が馬鹿に大きくて強そうだから、知らない人ならちょっと脅かしがきくんだろうね?」

名物男:(得意顔)「辻などを夜中歩いても大抵の乱暴漢は僕を見ると身体が大きいものだから、ビクビクしてめったに手出しをしないようだよ。外見は強そうに見えても我輩、実は喧嘩ほど嫌いなものはないからね、こいつはちょっと事が面倒だと思ったら遠慮なく逃げることに決めてあるんだ(笑い声)

ところでたった一度だけひどい目に遭った事がある。冬の闇夜だったかね。染屋小小路から女を買ってた時分で、そこをぶらついてたら、いきなり後ろから鉄拳が飛んで来て我輩の横顔をパンとやられたんだな(手で真似をして目を光らせる)不意打ちだから我輩ヒョロヒョロと溝の中に片足を突っ込んで倒れてしまったね(笑い声)これは逃げないと大変だと思ったから、幸い2、3間先に人力車(くるま)があったから、それに飛び乗るや一生懸命走らせてやっと逃げのびたんだね。あの時ほどたまげた事はなかったぜ」

A氏:(笑いつつ)「意気地なしだな」

名物男:「いやいや、決して意気地なしじゃないなんだ。誰だって後方から突然やられちゃビックリするさ。こんな大切な立派な顔を傷でも付けられちゃ大変だからな(顔中を撫でまわす)」

外套の青年:「あまり立派でもなさそうですぜ」

名物男:「男の目と女の目とは違うもんだ。君らにはそう立派に見えんでも、これでも若い時にはいくらも女が惚れて来たからね。今でも遊びにかけちゃ君らには負けんさ(一同の笑い声)ところで今晩の二次会はどうするんだい?」

紋付の紳士:「二次会なんてまだまだ早いですよ」

(呼鈴〈ベル〉を押す)

外套の青年:(大きな金時計を出す)「まだ10時30分だ」

(給仕、扉を排して入り来たる)

紋付の紳士:「オイ、もっと料理を持って来い。それにビールも・・・」

A氏:「あ、もう沢山沢山。これ以上食べられやしないよ、珈琲(コーヒー)でも貰いましょうか」

紋付の紳士:「それじゃ珈琲を早くね・・・」

(給仕去る。暫時沈黙)

A氏:「近頃は芝居はどうだい。面白いかね?」

セルの袴の青年:「一向面白くありませんね。相変らず野卑なものです」

A氏:「今の役者に顔の好いのは無いね君。以前はいくらも役者らしい好い顔のものがあったのにどうも今のは感じが悪いね」

名物男:(ビールを飲んで)「そうそう昔は揃っていたな、女形でも好い奴があったからな」

丸顔の青年:「今の芝居は実際閉口しますね。どうかして一歩一歩改良出来ないものかしら」

セルの袴の青年:「難しいよ、当分現状維持でもっともっと下劣になって行くだろう」

丸顔の青年:「下劣の絶頂に達したらそろそろ改良の方法もあるでしょう・・・」

(給仕珈琲を配る。皆それをすする)

名物男:「甘い珈琲だ、さあもう帰ろう。二次会だ二次会だ・・・(笑い声)」

(おわり)

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2007年7月17日 (火)

大正沖縄・紳士の宴(2)

●偕楽軒夜話(中)/ある紳士連の会合(琉球新報・大正5年3月2日)

A氏:(ナイフで器用に肉を切りて)「感応ってどんなことがあったんです?」

紋付の紳士:「さあ、どんなことって露骨には話されませんがね(笑う)どう言うものか、いつもとは大変違った何とも言えない感じがしましたね。一口に言ったら快感ですな、何とも言えない一種快味ですな(一同の笑い声)いや実際ですよ、ん、今度は出来たぞと直ぐ直覚しましたからな」

(笑い声たえず)

セルの袴の青年:「何かの本で月経前後が好いということを見たんですが、それは経験された事はありませんか?」

名物男:(肉を口に入れつつ)「そうそう、そんな説もあったようだね。しかし我輩の説は必ずしもそうじゃないね、いつだってうまく行った時は出来るさ」

(また肉を頬張る)

丸顔の青年:(微笑しつつ)「しかしこの説は学者でも理由はわからないと言ってるようですよ?」

名物男:「そうそう、わからんと言ってるようだ」

紋付の紳士:「あんまり繁昌し過ぎて少し料理が遅いですな。早く持って来ればいいのに・・・」

(呼鈴〈ベル〉を押す)

名物男:「芝居で言えば幕合が長すぎると同じ事で困るな」

(給仕4度目の皿を運ぶ。ナイフ・ホークの音)

背広の青年:「こちらの料理は非常に好いようですね。それに器物が綺麗で清潔ですね」

A氏:「食器が君、不潔だと料理はいくら上等でも手をつける気にならないからね」

紋付の紳士:「しかしここが出来て余程便利を感じますね」

外套の青年:「那覇としてもこのぐらいの家は是非無くてはなりませんからね」

セルの袴の青年:「自分の家にもちょっとした西洋間を持ちたいものだな」

A氏:「そうだね、ちょっと好いね。人に椅子・卓子(テーブル)だとゆっくり構えないからね。畳だと君、どうも用件以外の余計な話をされて僕らのような忙しいものには困るからね」

セルの袴の青年:「しかしどういうものか椅子だと打ち解けて話せない気がしますが」

丸顔の青年:「打ち解けたところか、今晩なんかそれ以上大変奇抜な話が出たじゃありませんか?」

(給仕6度目の皿と西洋菓子とを配る)

名物男:(ビールを飲みつつ)「ああ、もうこれで腹一杯だ、もう食べられない。何だ阿蘭陀雑炊(ウランダズーシ)か、これは好物だ」

(大サジで食べ始める)

A氏:(煙草に火をつけ)「一体昔から唐手名人(武士)と言われた人々はそろって皆、健啖家()だね君」

名物男:「そうだそうだ、師範校の屋部中尉()もすこぶる健啖家だぜ。唐芋でも盆にいっぱい盛ったのを我々ならうまそうな奴から選んで3つ4つ食うが、あの人は1番手近なのから片っぱしから平らげてしまうそうだから驚くね(一同笑う)大食するだけ身体も強いからね。屋部さんなら我輩が力をこめてウンと突いたところで平気なものさ」

(おかしい手つきで鉄拳を前方に突き出してみせる。笑い声)

(つづく)

※健啖家 …食欲の旺盛な人。大食漢。

※屋部中尉 …屋部憲通(1866~1937)。沖縄県で最初の軍人、陸軍中尉。明治には「屋部軍曹」の名で広く知られる。日露戦争後、師範学校で空手の指導にあたっていた。

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2007年7月10日 (火)

大正沖縄・紳士の宴(1)

少し前から「大正沖縄の2ちゃんねる」を始めたことから戦前沖縄の新聞に目を通すことが多くなりましたが、信じられない珍内容が記事になっている場合があり、図書館で爆笑記事を読んで笑いを押し殺すことができずに苦しんでます(笑)

そのなかで大正時代の沖縄紳士たちによる対談が「琉球新報」で連載されているのを見つけました。面白すぎるので、現代読みになおしてここで紹介したいと思います。

対談はどう見ても紳士じゃなくて下品で怪しい人たちの酒飲み話ですが、当時としては最先端の流行に乗った人たちのモダンな会話だったのでしょうか?それにしても、100年前の沖縄でこんな内容の対談があったことに驚きです。

信じられないかもしれませんが、これから紹介する会話は僕の創作ではなく、当時の新聞記事そのままの内容であることに注意してください。

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Jul10135

●偕楽軒夜話(上)/ある紳士連の会合(琉球新報・大正5年3月1日)

人物
知名の実業家 A
紋付羽織の紳士 B
金縁眼鏡の名物男 C
背広服の青年 D
外套(オーバー)の青年 E
セルの袴の青年 F
丸顔の青年 G

場所(西洋料理店・偕楽軒の2階の小さなる一室、壁は落ちついたカーキ色で美しい花籠を持った西洋婦人の額を油絵の薔薇の小晶と赤い瓦をかいた水彩の額が掛かっている。紳士連は卓を囲んで盛んに談笑している。煙草の煙が室内を暖かそうに見せている。その間を給仕(ボーイ)が忙しそうに料理を配る。外は真っ暗な寒い夜、折々波の音)

A氏:(煙草の灰を落としながら眼は西洋婦人の絵を見つめている)「惚れぼれするような素敵に立派な女だね。あのスラリとした体格といい、腕の肉付きふっくらした胸のあたりなんか実際何とも言えないじゃないか。それに顔もキリリと引きしまっているね」

(一同絵を注視する。ナイフ、ホークを置く音)

金縁の名物男:「そうだそうだ、我輩も先から目を付けて居たが、全く美人だな。あのお臀(しり)の肥えたところや、我輩の顔を見て微笑してるような可愛らしい眼なんか、全くふるい付きたいほどの美人だな」

A氏:(絵より目を離さずして)「第一、あの伸び伸びと発育しきった肉体美だね。日本の女にはとても見られない美しさじゃないか?」

名物男:「そうだそうだ、我輩は若い時からいくら美人を見たか知らないほどだが、この絵ほど美人を見た事はないね。しかし我輩には絵の美人よりも顔はどうでも熱のある女がましだ ははは・・・」

(一同笑い声)

外套の青年:「貴君(あなた)には熱さえあれば誰でも結構でしょう」

名物男:「いや、そう言うわけじゃない。なるべくは美人だがね、仕方が無かったら熱があれば好いと言う事さ」

(一同哄笑) (*爆笑)

紋付の紳士:「だからつまるところ、熱がありさえすればどんな女でも構わないと言う結論になるでしょう ははは」

名物男:(頭をかきつつ)「そうじゃないそうじゃない・・・」

(給仕、皿を取替える。暫時沈黙)

名物男:(ナイフをかちりと置いて)「一体西洋の女はどうしてあんなにお臀(しり)が大きいのかね?女は臀が大きいほどいいものだぜ ははは」

背広の青年:「臀部の大きい女はよく子を産むそうじゃありませんか?」

名物男:「それだから好いと言うんだ、立派な子供を産むからね。しかし君、我輩は近頃、性欲作用と言うものほど不思議なものはないと思うね。子供を作るのはホンの瞬間なんだからね」

(クスクス笑う者がある。名物男としては極めて真面目くさった顔)

紋付の紳士:「皆さんはどうか知りませんが、実際妙なもので、私も長男の時にそれを直覚した事がありますがね。不思議なものですな。家内も私と同じような感応を受けたといってましたが、月を数えて見ると実際当たってましたからね」

(一同笑いを殺しているような顔、給仕、皿を運ぶ。強い肉の匂い)

(つづく)

※偕楽軒の推定位置はこちら

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2006年12月20日 (水)

お風呂と琉球

日本人は風呂好きだとよく言われます。たしかに寒い季節にザブリと湯船に入って温まるのは気持ちのいいものですね。日本人の風呂好きは今に始まったことではありません。例えば面白いところでは、500年前の朝鮮の釜山には日本人の居留地(富山浦)があったのですが、この付近にあった東萊(トンネ)温泉に日本人たちがワンサカと出かけていき、彼らを運ぶため地元民と馬が始終かり出されて大変迷惑をしている、との記録があります。

一方、沖縄ではどうでしょうか。現在の沖縄には湯船がなく、シャワーだけ取り付けられている住宅がけっこうあります。亜熱帯地域の沖縄では熱いお湯につかる習慣はあまりなく、「湯船につかるよりシャワー」が沖縄の入浴の基本でしょう。気候条件にくわえてアメリカ統治時代の影響もあると思いますが、意外にも戦後の沖縄には数多くの銭湯があったようです(現在ではほとんど廃業して残っていません。こちら参照)。

王国時代にも共同浴場がありました。那覇西村の「湯屋」と呼ばれる場所です(今の真教寺付近)。戦前まで「湯屋の前(ゆーやーぬめー)」という地名が残っていました。この湯屋は、何と日本から渡来してきた上方(畿内方面)の人がつくったもの。時期も古琉球時代(中世)にさかのぼります。当時の那覇は数多くの日本人が居留していました。おそらくこの湯屋は彼らのためのものでしょう。日本人は、やはりどこにいても風呂に入らないと気がすまないようです。

しかし、当時の風呂はただの入浴施設ではありませんでした。中世の日本では、入浴は「斎戒沐浴(さいかいもくよく)」というような身を清める宗教行為でもありました。日本の寺院では浴室がつくられて儀式とともに入浴が行われ、また浴室がお坊さんたちの会合の場にもなっていました。琉球でも中世の日本から禅僧たちがさかんに渡航していたので、禅宗とともに入浴の文化が持ちこまれたのです。

Cimg1628 1494年、京都の禅僧・芥隠(かいいん)和尚によって建立された円覚寺【写真。クリックで拡大】にも浴室があったようです。しかし建て替えや改修が繰り返されていくうちに、円覚寺に浴室はやがて無くなってしまいます。最近行なわれた円覚寺の調査でわかったのは、寺院建築は日本のような七堂伽藍をそなえているものの、当然あるべき浴室が無く、かわりに井戸があったこと。以前、発掘関係者の話を聞く機会がありましたが、「高温多湿の沖縄では熱い湯に入浴するよりも水浴びのほうが好まれ、井戸を七堂伽藍の浴室に見立てて使ったのではないか」とのことです。

沖縄では湯船よりもシャワー。この文化はけっこう王国時代からそうなのかもしれません。

参考文献:村井章介『中世倭人伝』、国立歴史民俗博物館編『中世寺院の姿とくらし―密教・禅僧・湯屋―』、沖縄県立埋蔵文化財センター編『円覚寺跡―遺構確認調査報告書―』

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2006年12月13日 (水)

クニの頭とシマの尻

地名には、それを名づけた人たちの思想やその時代を生きた人々の感覚など、さまざまな歴史情報が秘められています。

例えば沖縄を指して言うところの「南島」。この名称は沖縄が中心なのではなく、あくまでも北(ヤマト)からの視点で名づけられたものであることは明らかです。「南島」とはどこから見ての「南」なのか。沖縄からの立場では沖縄は「中心」であって、自らが「南」であることはありえないからです。

現在の沖縄の地名は、5~600年前の古琉球時代にさかのぼるものが数多くあります。沖縄島北部の「国頭(くにがみ)村」と南部の「島尻(しまじり)郡」。この地名が確認できる最古のものは600年前の記録です。国頭とは文字通り「クニの上(かみ)」。島尻は「シマの尻(しり)」を意味しています。

古琉球の人々は自分たちの住む世界を「世(よ)」と呼んでいました。琉球世界を支配する国王を琉球語で「世の主(よのぬし)」と言い、「世の主」の統治する王国の領域はまた「おきなは(沖縄)の天が下」とも称されています。そして南北にのびる沖縄島は、王都・首里を基点に「上下(かみ・しも)」という空間として把握され、沖縄島の最北部を「国上(くにがみ)」、最南部の地域を「下島尻(しもしまじり)」と読んだのです。

Cimg0372 ちなみに奄美地域は「おくと(奥渡)より上(かみ)」、先島地域は「みやこ(宮古)・やへま(八重山)」と呼ばれていました。「奥渡」とは沖縄島の最北端のことで(いまでも最北端の集落は“奥”と呼ばれています)、奄美全体を「それより上」として表現しています。

面白いのは、古琉球では北方を「上」、南方を「下」とみる観念があったことです。つまり北方(ヤマト?)に何らかの中心性を見出していたことがうかがえるのです。古琉球の歌謡集『おもろさうし』には、日本へ行くこと(やまと旅)を「のぼる」とも表現しています。

最近の研究では、現代沖縄人に直接つながる祖先は、北方のヤマトからやってきた人々が現地民と融合していったのではないかと言われています(こちらを参照)。独立国家の琉球王国が成立して以降、原初の記憶は薄れてもその観念は受け継がれて、地名として痕跡を残すことになったのではないでしょうか(念のため強調しておきますと、この事実をもって琉球王国を「日本国」の範囲だった、と主張する根拠にはできません)。

地名を読み解くと歴史が見える。みなさんも沖縄の地名について考えてみてはいかがでしょう。

【写真】は沖縄島最北端の遠景。ここが「奥渡」「国上」にあたる。クリックで拡大

参考文献:南島地名研究センター編『増補・改訂 地名を歩く』、高良倉吉『琉球王国の構造』

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2006年11月 2日 (木)

石垣島の朝鮮語通訳

琉球と朝鮮―。両国は中国(明・清朝)の朝貢国であることはよく知られた事実ですが、お互いの交流の歴史について知っている人はあまり多くないと思います。琉球と朝鮮との交流は、実はそれほど活発だったわけではありませんでした。

中世(古琉球時代)には琉球から朝鮮に外交使節が派遣されて直接的な交流がありましたが、朝鮮側からの積極的な働きかけは見られず、しかも琉球使節のほとんどは日本の博多商人に外交業務を委託するかたちで行われていました。やがて近世(江戸時代)に入ると両者の交流は、朝貢でおもむいた中国・北京の第三国経由で行われるかたちになっていました。

このように一見すると疎遠に見える両者の間がらなのですが、関わりは皆無だったのではありません。みなさんは近世の石垣島に朝鮮語通訳がいた事実はご存じでしょうか。通訳の名前は伊志嶺仁屋英叙(いしみね・にやー・えいじょ)。仁屋とはランクを表す称号で、低位の官人のことです。石垣島というと沖縄島よりさらに南で、中国大陸や台湾にずっと近い先島諸島に位置します。当然、朝鮮ははるか彼方です。朝鮮と全く関係なさそうなこの島に、どうして朝鮮語通訳がいたのでしょうか。

国家レベルで直接的な交流はなくなったものの、民間においてははからずも両者が接触する場合がありました。それが漂着民です。琉球諸島には嵐に遭った朝鮮の船がしばしば流れ着ていました。琉球王府は彼らを手厚く保護し、中国経由で彼らを本国に送り返しましたが、その際の対処に当たったのが朝鮮語通訳だったわけです。

英叙はもともと中国語通訳として、石垣島に漂着した中国人と交渉する仕事をしていました。1832と1833年、石垣島に朝鮮人が漂着します。現場に駆けつけた英叙は中国語で話しかけますが全く通じません。当初は中国人が漂着したとの情報で、英叙が派遣されたのです。相手が朝鮮人と判明したものの、この時石垣島には朝鮮語がわかる人間は一人もいませんでした。英叙は身振り手振りや筆談で何とか彼らとコミュニケーションをとろうとしますが、うまくいきません。漂着朝鮮人は英叙に付き添われて沖縄島まで送られます。

これをきっかけとして英叙は朝鮮語を学ぶことをこころざします。上から命令されるわけでもなく、自ら進んで朝鮮語通訳となる道をめざしたのです。漂着民とともに向かった沖縄島の泊村には、朝鮮語を話せる佐久本筑登之親雲上(さくもと・ちくどぅんぺーちん)がいました。当時、泊村は漂着民の収容センターがあり(泊に外人墓地があるのはこのためです)、ここにはわずかながら朝鮮語通訳がいたのです。英叙は佐久本について朝鮮語のレッスンを受けました。沖縄での滞在費用は全て自腹。彼は相当な熱意をもって朝鮮語の習得につとめていたにちがいありません。

1年あまりの後、英叙は見事に師匠から修了証をもらって石垣島に帰ります。やがて嵐で朝鮮人の船が与那国島に漂着しますが、この時、英叙は石垣島から与那国島まで出向いて彼らを保護し、沖縄島の泊村の収容センターまで護送しています。先島諸島でたった一人の朝鮮語通訳は、朝鮮漂着民の保護に大活躍することになるのです。

なぜ英叙はわざわざ朝鮮語通訳となったのでしょうか。琉球にはまれだった朝鮮語通訳という特殊な技能を活かして、任官を有利に進めようとしたことも理由のひとつです。しかしプライドを持ってやってきた自分の仕事が朝鮮漂着民たちに全く通用しなかったという苦い体験が、そのきっかけにあることは間違いないでしょう。彼はそのくやしさをバネにして、ついに朝鮮語通訳となったのではないでしょうか。おだやかな南の島に住む人々は、ノホホンと「テーゲー(適当)」に暮していただけでは決してなかったのです。

参考文献:松原孝俊「琉球の朝鮮語通詞と朝鮮の琉球語通詞」(『歴代宝案研究』8号)、渡辺美季「近世琉球における外国人漂着民収容センターとしての泊村」(『第四回沖縄研究国際シンポジウム・ヨーロッパ大会』)

※琉球王の「朝鮮系倭寇」出自説については【こちら】と【こちら】参照

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2006年10月11日 (水)

90年前の2ちゃんねる(沖縄版)その3

(前回からの続き)

31 名前:閉口生:1916/3/20(月)

久志写真屋にいる書生君よ、君は僕の童名をよく知っているが君の姓は何と言うんです。僕は君から呼ばれた時、突然なので大いに閉口したよ。よろしく姓を知らして交際を乞う。

32 名前:忠告生:1916/3/21(火)

>>25

ポストカード君よ、君はよほど神経過敏になっておると見えるねー。無実無根の人を中傷し揚げ足をとらんとするようだが、君の思うままに世の中はいけないよ、恐らくは君の心が左様読めるかもしれない。

33 名前:あとから出た人:1916/3/23(木)

21日、図書館でゲタを違った方は本日午前中においで下さい。

34 名前:一人寝の人:1916/3/24(金)

昨今のように寒風吹きすさみ一人寝する時は、新家庭(しんホーム)を造った浪さん羨ましいワイなー。

35 名前:新しい女:1916/3/24(金)

「恋は人生の花」とか誰か言ったものです。私は女にとっては「恋は人生の奴隷」といいたいです。

36 名前:金葉生:1916/3/25(土)

盛到君よ、君は近頃、一向本欄に顔を出さないがどうしたのか。少しは顔を出してくれたまえ、私も連日内に引きこもって淋しいからね。

37 名前:山岳生:1916/3/28(火)

島尻郡某校々員の○○君よ、君は去る16日の夜、某家の警鐘をむやみに鳴らしホラ貝を吹き、村の老若男女を迷わせたるうえに、「本官は官吏なり。反抗する者おらばピストルにて打ち殺すぞ」と放言したるは教育家としての言行と思うか。よろしく君の反省を求む。

38 名前:郭浪人で無い人:1916/3/29(水)

ゆえあって郭浪人と名乗り花の木陰に住む余輩も、世はまさに明けぼのの空となり青雲晴々として余を光へ導き、今や新所帯を持つ身となりぬ。昨日はこれ過去、今日は現在なり。ねがわくば本欄の諸君余の現在に幸福多からんことを教えたまえ。

39 名前:宇志子:1916/3/31(金)

友人見送りに通堂に行った。K君は甲板(デッキ)に立ってる。ピーと鳴る汽笛とともに船は桟橋を離れた。甲板で打ち振るハンカチーフの影がようやく薄らいで推進器の刻み立てる白泡が此方のハシケ船の舷をたたいて刻一刻と離れて行った。

40 名前:振れ生:1916/4/3(月)

>>38

近頃妻をめとった浪人君、男前を発揮せんとて道端の理髪に入り、チック(整髪料)とガラス磨きとを間違えて頭にすり付けているのを白毛荒神前のオトぐゎーより注意されたのを、気転の利いた浪人君、「いや頭にゴミが付いているから磨く」。さは近来の上出来、上出来。

41 名前:見た人:1916/4/3(月)

上の倉○○店の隣のタヌキ爺は実に人面獣心の人間である。先日のごとき大雨降るにもかかわらず、門に隠れている人々を追っ払って門を閉めておりました。

42 名前:宇志子:1916/4/29(土)

私はこの頃、お友達や家族とも、面白くない仕事も、支度のない遊ぶ時にも、夢中になってその加減を知らない。ああ、自分の行く末はいかに。

43 名前:裏表通:1916/4/30(日)

人間は真似が上手だ。キッスだって鳥の真似だぞう。あなかしこ

44 名前:疑問家:1916/4/30(日)

大味知事の休職も痛ましいことだが、後輩の後に先輩を持ってくるなんて内務省もずいぶん皮肉をやったものだ。

45 名前:英学者:1916/5/4(水)

帝国館の与座弁士よ、印度人(インデヤン)にインデ“アン”とはちと変ですぜー。今少しは修養せよ。

※弁士とは、無声映画の上映中に映画の説明をする人。

46 名前:宇志子:1916/5/8(月)

おみとさん、あなたのカイコはユーナの葉を食わすとの事じゃありませんか。私は珍無類なあなたの養蚕法を拝聴したいです。

47 名前:七面鳥:1916/5/10(水)

電灯会社に新たに来たメガネ先生よ、別の会社でのごとく他人を無視しますと首が危険ですよ。

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2006年10月 5日 (木)

90年前の2ちゃんねる(沖縄版)その2

(前回からの続き)

14 名前:祝福生:1916/3/7(火)

福づくし、世の中の有福の分をつくして見れば、国で福岡・福井県、店では丸福・一福亭、船に福州・福多丸、それでは幸福・大福の七福神、人の名前の福地・福元・福屋と福島君。今度は缶詰お多福豆。

15 名前:タルー:1916/3/7(火)

首里寒川のカメ君、以前変わらず大元気か、僕も元気だから安心したまえ。

16 名前:傍観生:1916/3/7(火)

おとなりのケンカを観て拍手するのは人情上、あまり軽率な話です。平和は無尽の宝です。私は平和に解決を望みます。

17 名前:訥庵生:1916/3/7(火)

>>10

海月君。僕は君を憤怒のあまり一本お見舞い申した。たとえね、酒は呑んでも無理なことはせんよ。君の日々の非行を露骨に言ったわけさ。それでも君は反省しない。否、さがない口をペラペラさせるものだから、年上ではあるが仕方がない、一本喰らわせた。卑怯にも君はゲタを脱いで逃げたんだね、議論の行きづまりはケンカの一つくらいは何でもないよ、君。

18 名前:阿崎生:1916/3/8(水)

係さまへお願いいたします。久茂地西平小の小路辺に投書箱を置いてはいかがですか。

19 名前:(新報読者倶楽部)係:1916/3/8(水)

>>18

不可能のことです。

20 名前:帰った僕:1916/3/8(水)

那覇署長君へ注意す。球陽座は近頃、連夜大入りで定員の倍もつめ込み、そのうえ札(チケット)止めはせずにドシドシ札を売りつけ、後から来る人はスキがないのですぐ帰る。これは少し考える問題でしょう、君。

21 名前:次郎生:1916/3/12(日)

>>1

推察生へ。去日の本欄で僕のことを凸面君の変名だと攻撃ガマシキ態度をとっていたが、君の誤解だ。一面識もない凸面君と間違えられては彼の迷惑も察すべしだが、また僕の迷惑も察してくれなければ困る。物事は沈着にすべきであると推察君に注意する。

22 名前:若狭町兼久:1916/3/12(日)

電灯会社の社長君、電灯の故障を電話で言っても一向知らぬふりをするのは点(つ)けない考えですか。

23 名前:琉球の人:1916/3/13(月)

内地人だの琉球人だの区別があるものか。K君、遜色をつけようとするのはよせ。

24 名前:多聞坊:1916/3/13(月)

帝国館(戦前沖縄の映画館)の三等席で見物したら、うしろから履き物のまま足を投げ出し、知己(知り合い)から拝借の羽織をドロまみれにされたのはありがたい迷惑だ。

25 名前:ポストカード:1916/3/14(火)

おやまぁー、これはしたり。浦の人君、我輩はかように意志薄弱、自分を自分でぞっこんホレ込むような松っちゃんだと思ってるっちゅうか、決して○○なんかに誘惑されるような、そげん腐敗しある精神は持っておらんからな。心配ご無用だぜ、我輩もうすうす聞いちゃおるが何だ、世の中のうじ虫が何ちゅうても知らん。半兵衛でヨソに見しおる。さすがだ、後姿を見れば大抵の女がベッピンなり。ベッピンな女を見ればだ、また大抵の男はちょっと惚れるものなり。じゃからその寸間を世人はウワサしておるから困っちまうよ。

26 名前:迷惑生:1916/3/14(火)

小学校の先生方へ。近頃小学生たちが道路といわず塀といわず字の書けそうなところには、どこもかも白墨で字を書きちらすので仕方がない、取り締まってください。

27 名前:不可解生:1916/3/14(火)

「恋人(こいじん。恋の達人の意味?)は醜顔の女を求む」とはその道の人の言いぐさですが真実ですか、玄人の方へお尋ねします。

28 名前:胸毛王悪魔丸:1916/3/15(水)

私は久茂地下道に足しげく通う外面菩薩・内心夜叉でござる。以前は某散髪屋に陣営を張りウワサの種をまき散らせし豪の者なりしが、聞くだにイマイマシイ帽子工女の中傷がましき言語を弄しての我輩攻撃をあえてせりと伝聞す。宜なるかな、私の今後の筆鉾(筆のほこ先)に注意せられよ。かつ娘持つ父兄の覚醒をうながし、口はわざわいの元たることを知らしめん。

29 名前:常識生:1916/3/17(金)

商業学校卒業生の○○君が昨年修学旅行に行った時、東京の人が○○君に対し、沖縄には土人「琉球固有の人」がいるかと言うたとて、プンプン怒っているとはチト常識がない。

30 名前:側聞生:1916/3/17(金)

>>27

不可解生君よ、君のお尋ねごとについては僕もまだ素人であるが僕の会社にはその道に長けた人が二人いる。ひとりはすなわち恋人(こいじん)で、ひとりは恋の四十八手の裏表に通じた人であるが、この二人の話に君の質問のような会話をそば聞きしたことがあるが、たぶん僕もそうであると信じているが。

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2006年10月 1日 (日)

90年前の2ちゃんねる(沖縄版)

2ちゃんねる」といえば、言わずと知れたネット上の巨大掲示板。様々な年齢・ジャンルの人々が自由に意見を交換できる一方、悪意のある書き込みやデマも広められる危険性もたびたび指摘されています。評価は人それぞれでしょうが、この掲示板が爆発的に利用されるようになった要因には「誰でも」「匿名で」書き込みができることがあったように思います。

掲示板に日々書き込まれる内容は、現代という時代の雰囲気、人々の様々な思いや考えをダイレクトに反映するものとしてとらえることができますが、このような庶民たちが自らの意見をありのまま主張できる場はネット以前には全くなかったのでしょうか。

…ということで探してみたところ、戦前の沖縄にも「2ちゃんねる」らしきものがありました。それが「琉球新報」の「読者倶楽部」です。新聞なので当然、編集部が投稿文にチェックを入れるはずですが、実際に読んでみると本当にチェックしているのかと疑うほど、やりたい放題の“書き込み”が数多く並んでいます。これはほとんど「2ちゃんねる」状態ではないか。それが僕の感想でした。

それでは、大正時代・沖縄の「名無し」さんたちの“生の声”を聞いてみてください。なるべく原文に忠実に載せていますが、旧かなづかい・旧漢字は現代の読み方に置きかえてあります。名前(ハンドルネーム)や内容は一切加工していません。

1 名前:推察生:1916(大正5)/3/1(水)

凸面坊の野郎、またまた変名したねー。医局次郎生とか次郎生とやら命名して人身攻撃に熱中している、変名してまでも人を攻撃する馬鹿野郎もいたものだ。 

2 名前:青年党:1916/3/1(水)

欧州は戦争でシナは動乱で、米国は軍備拡張問題で帝国は議会の諸問題で、那覇区は落平街道問題でいずれも騒ぎ出して事態いよいよ重大だ。われら青年の覚醒すべきは今である!

3 名前:郭之助:1916/3/1(水)

郭(遊郭。今でいう風俗)通の一人・郭浪人君、近頃おめでたいことがあるそうだね、今から待ちかねています。 

4 名前:中学生:1916/3/2(木)

近頃の寒気はシャクにさわってならない。僕らは東京に行ってどう暮らすかと今から心配でならない。

5 名前:郭浪人:1916/3/2(木)

>>3

余輩に向かって郭博士だの郭通だのと称号を授けられ、一方ならぬ迷惑なり。今後、余は足を洗って正道を踏まんとす。さいわいに諸君許したまえ。

6 名前:会社犬:1916/3/2(木)

「犬は三日飼えば三年恩をむくいる」と言っているが、人間は犬とはアベコベに「三年飼えば三日むくいる」であろう。僕らは数年間も飼われた主人がクビきられた際には、その主人は捨てても新しい主人に従わなければメシは食えない。人間は犬よりも知恵がまさったばかりだ。

7 名前:カマデぐゎー:1916/3/3(金)

盛一君、今は帽子をあんで大いに働いているそうだねー。熱心にキバレキバレ(チバレ。頑張れ)。

8 名前:浮世通:1916/3/3(金)

近頃職業が増えてきた。無職の人々は勉強して今の場合、就職すべしだ。

9 名前:言われた人:1916/3/3(金)

人のなじみ女郎の前で人の悪口を言うのは道徳上または友情としてもよくありません。

10 名前:海月:1916/3/4(土)

常識の何ものたるも解しえないくせに、他人に向かって非常識とか没常識とか言う人こそ狂忘愚昧の極にしていわゆる常識の欠けた人間だと思う。 

11 名前:傍観生:1916/3/4(土)

>>1-10

円満ということは隠れたる宝です。朋輩同士の争いはあまりほめた話ではありません。

12 名前:知らない人:1916/3/5(日)

日本の無線電信局は何県にありますか?ご存じの方は本欄へお記入ください。

13 名前:訥庵生:1916/3/5(日)

>>10

海月君。君とケンカしているから僕はいまだ死んでいないんだ、一筆返すのは僕の義務だよ。今のところ誰が非常識やらわかりかねるね。三千世界広しといえども放蕩堕落を人間の本能と論じた識者はかつて聞いた覚えがない。君はかくのごとく主張している。とにかくね、人間は結果を見るんだ、君が人間の本能なる放蕩を極度に発揮した結果、総理大臣にでもなったとすれば、昔君を罵倒した俺は立派に割腹して君を満足させる、君が放蕩して大臣になると反対した結果、僕は乞食にでもなって、はかなく身を終わるであろう。

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2006年7月13日 (木)

燃えよ大綱引き

毎年10月に行われる那覇の大綱引き。那覇の最も大きな祭りのひとつで、数十万人が参加するビックイベントです。あわせて全長200メートル、直径1.5メートルになる巨大な綱(つな)2本を「貫抜(かぬち)棒」と呼ばれる棒で連結し、東と西に分かれて引き合います(動画はこちら)。大綱はギネスにも認定された世界最大級の綱。この綱引きは王国時代から続く伝統ある祭りで、東西双方がお互いのプライドをかけて勝負する勇壮な祭りとされています(現在の大綱引きは、戦前にとだえていた祭りを1971年に復活したもの)。

しかし王国時代の那覇の大綱引きは勇壮を通りこして、過激というほかありません。当時の大綱引きは「戦花遊び(いくさはなあしび)」とも呼ばれた乱闘がともなう祭りで、那覇の人々はこの祭りに命をかけて挑んでいました。非日常的なイベントである祭りは民衆のパワーが一気に爆発する場所だったのです。その熱狂ぶりはワールドカップどころの騒ぎではありません。王国末期(日本でいうと幕末)、1863年の那覇大綱引きの様子をみてみましょう。

この年の大綱引きは昼間の華麗な旗頭(はたがしら)の行列のあと、夜9時すぎに東西に分かれて綱引きが開始されます。ドラやカネ・太鼓、火砲の音が響くなか、東西両方の綱がまさに連結されようとする時、突如として試合開始のカネが鳴らされます。すでに2本の綱が中央で連結されているとカン違いした両陣営は、まだつながっていない綱を思いっきり引くと、それぞれの方向に一気にバタバタと将棋倒しになってしまい、勝負は引き分けの判定がくだされます。

翌日、判定に納得できない東側陣営は「西側から勝手に合図をして引きはじめたから西側の反則負けだ」と主張して、勝ちどきをあげて西側にアピールしようと勢ぞろいします。これに怒った西側の陣営、彼らの勝どきを阻止しようと東側に相対し、両陣営は棒や刃物、石などで武装して「合戦」寸前にまでなってしまうのです。この一触即発の状況に、薩摩役人と王府役人が仲裁に入って解散命令を出し、すんでのところで「合戦」はまぬがれました。

ところがこの場は何とか収まったものの、不満がくすぶる東西両陣営の一部でついに大乱闘がぼっ発、死傷者を出す惨事となり、見かねた王府は9年間も那覇の大綱引きを禁止してしまいます。この時の大乱闘では、綱引きが行われた付近の民家の石垣がくずされて敵に投げつける石として使われ、またある者は顔中に真っ黒なスミを塗りたくり、棒や竹ヤリを持って集団でかけ出していったといいます。刃物や竹ヤリで屈強なニーセー(青年)たちが激突する那覇の大綱引き…過激すぎて参加したくありませんね。

大綱引きに限らず、那覇ではハーリー(爬龍舟のレースを行う祭り)の際にもニーセーたちのケンカが多発したそうで、王府や薩摩役人はたびたびケンカ・口論の禁止令を出していました。しかし、かれら権力は祭りに熱狂する那覇の人々を止めることはできなかったのです(こう言っては何ですが、たび重なる自粛要請にもかかわらず、毎年のようにくり返される那覇市の成人式騒動のようなものでしょうか…)。

人々がイベントや勝負ごとに熱くなるのは今も昔も変わらないのかもしれませんが、昔の人の祭りにかける情熱はハンパじゃありませんね。

参考文献:島袋全発『那覇変遷記』、豊見山和行「近世琉球民衆の「抵抗」の諸相」(『民衆運動史』1)

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2006年5月 6日 (土)

フォーマルウェアはチャイナ服

最近の沖縄では夏にスーツではなく、「かりゆしウェア」というシャツを公式の場でも着ようとする動きが活発です。昨年の夏はクールビズということで、小泉首相がかりゆしウェアを着て登場したことがありました。高温多湿な環境の沖縄でスーツを着ることはかなりの無理があるように思いますが、ビジネスや公的な場面で全く着ないというのは難しいでしょう。実はこういった沖縄の服事情は、数百年前も似かよったものでした。

Photo_1 琉球王国の時代、今のスーツにあたるようなフォーマルウェア(正装)は何だったかというと、中国・明朝の冠服でした【画像・クリックで拡大】。琉球の正装といえば琉装では?と疑問を持つかもしれませんが、本来の正装は中国冠服です。導入されたのは琉球が中国に朝貢を開始した14世紀頃から。中山王の察度(さっと)が中国冠服を明朝に求めたのが最初です。察度に仕えていた華人の長年の働きに報いるため、彼らに中国の官職と冠服を与えてほしいと願い出たのです。彼ら華人は、「明朝から官職をもらって中国冠服を着る者が琉球の人々の尊敬を集めるし、琉球の野蛮な風俗も変わるから」という理由でこれを欲しがりました。琉球では見たこともない冠やきらびやかな絹製の高級服は、おそらく人々の注目を集めることになったはずです。

華人たちの中国冠服を見て、察度も欲しくなったのでしょう。続いて察度自身も再三の要請のすえに冠服をゲットします。これを知った北山や南山の王たちも、察度に負けじと冠服を求めます。やがて中国冠服は三山の王たちを介して臣下へも広まりました。その頃の琉球では、「中国冠服を着る者」と「着ない者」という身分の区別ができていたようです。「中国皇帝を超えた琉球王」でも述べましたが、当時の服は単なるファッションではなく、身分を表す重要な目印でした。

しかし、琉球人たちは日常的に中国冠服を着ていたわけではありません。琉球の人々は普段はゆったりした琉装を着用し(雪舟が出会った古琉球人を参照)、首里城などでの重要な儀式の場でのみ中国冠服を着るという具合でした。しかもこの冠服、代々受け継いで着ていたようで、察度が冠服をもらってから40年後、中山王の尚巴志が「以前もらった冠服はボロボロになってもう使えません。新しいのをください」と明朝に要請しています。琉球を統一した尚巴志ら第一尚氏王朝の官人は、40年間ずっと使い続けたツギハギだらけのボロ服をまとっていたということでしょうか。さしもの英雄もこれでは格好がつきません。

皆が欲しがった中国冠服なのですが、沖縄での着用は非常な苦痛をともなうものだったようです。琉球へやって来た中国の使者は、琉球人が中国冠服をバッチリきめて儀式を行っている最中、ずっと窮屈さに苦しんでいる様子を見ています。靴(ブーツ)をはいてベルトをがっちり締め、全身をおおう中国冠服の着心地の悪さは、沖縄の夏の炎天下のなかでスーツを着用するのを想像していただければ実感できると思います。中国の使者への儀礼が終わると、琉球人はさっさと冠服を脱ぎ、もとのゆったりした服を着てハダシになって帰っていったといいます。彼らの気持ちもわからなくはないですね。

※画像は明朝の冠服。とらひこ画

参考文献:豊見山和行『琉球王国の外交と王権』、夏子陽『使琉球録』(原田禹雄訳注)

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2006年4月 7日 (金)

それでも嵐にあった時

前回は船で旅立つ人々が安全に航海できるよう様々な「対策」をとっていたことを紹介しましたが、どんなに神さまに祈っても、やはり嵐に遭う時は遭ってしまいます。そんな時、彼らはいったいどうしたのでしょうか。

その対応とは…やはり「神頼み」です。船が遭難した場合、船中の人々は前回紹介した航海安全の神に対して、ひたすら助けてくれるよう祈っていました。運天按司朝英(うんてん・あじ・ちょうえい)の遭難の事例を見てみましょう。1819年、彼は鹿児島へ向かう途中、硫黄鳥島近くで暴風雨に遭ってしまいます。嵐のなか、朝英たちはまず船が沈没しないよう積み荷を捨て、全員が髪をバッサリ切って、ひたすら天に祈ります。遭難時に髪を切るという行為は東アジアで広く行われていた慣習だったようです。しかし嵐はやみません。

そこで次は聞得大君へ祈りをささげ、「無事帰れたら首里城の龍樋の水を献上します」と誓いを立てます。しかし無情にも暴風は吹き続けます。朝英はさらに普天間権現へ祈りをささげ、「無事帰れたら7日間参拝して感謝します。だから助けて」と約束しました。ところが、それでも嵐はやまず、それどころか風雨はさらに激しさを増し、とうとう船を転覆させないためにマストを折ってしまいます。もはや船のコントロールはききません。船は漂流し、飲料水もほとんど尽きてしまいます。

朝英、今度は弁財天に祈りはじめます。それでも足りないと思ったのか、さらには天尊(中国道教の神)を出してきて、「無事帰れたら焼香に行きますので、どうかお助け…」と必死で祈ります。ようやく朝英の祈りが神に通じたのでしょうか、その後天気は回復し、結局与那国島に漂着して助け出され、沖縄本島に戻ることができました。鹿児島へ向かうはずが、流れ流れて与那国まで行ってしまったのです。次から次へと嵐がやむまで、思いつくかぎりの神さまに祈り続けるのは節操なく見えてしまいますが、本人にしてみれば生きるか死ぬかの瀬戸際だったわけですから、しかたありませんね。しかし朝英はその後、全ての神々との「約束」を果たしたのでしょうか。

注目されるのが聞得大君への祈りと「首里城龍樋の水を献上する」という約束です。聞得大君は琉球世界の祭祀をつかさどる、神女(ノロ)の頂点に立つ存在でした。琉球の神々に王国の平和や五穀豊穣を祈ったほか、航海安全も祈願していました。聞得大君は祭祀の主宰者としてだけではなく、「航海安全の守護神」そのものとしても考えられていました。首里城の龍樋とは瑞泉門近くから湧き出る泉のことです。聞得大君に「遭難救助」の感謝を表わす際には、龍樋の水を聞得大君御殿まで持っていって献上するのが慣例になっていたようです。

実は、この龍樋の水献上の儀式はマニュアル化されていて、聞得大君に祈って助かった遭難者はそれにのっとってスムーズに(きわめて事務的に?)儀式をとり行いました。マニュアル化されているということは、それだけ遭難者が続出し、多くの者が聞得大君のもとを訪れていたということを意味します。

聞得大君に龍樋の水を献上しに来たのは琉球人だけではありませんでした。薩摩と琉球を行き来する薩摩船の船頭も訪れていました。彼らもまた遭難時に琉球の「航海神」である聞得大君に助けを乞い、助かった者たちでした。生き死にの際(きわ)には、あれはどこの神さまだとか、何宗派だとか細かいことは言ってられなかったというわけですね。

参考文献:豊見山和行「航海守護神と海域」(尾本惠市ほか編『海のアジア5』)

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2006年3月31日 (金)

船旅ナイトフィーバー

大小50以上の島からなる琉球は、船で旅に出かける姿が日常的な光景でした。しかし当時の船は風をたよりに目的地に向かう帆船の旅。現代のように天気予報もなかった時代、いつ風向きが変わり暴風雨に見舞われるかわからず、非常な危険をともないました。当時の言葉に「唐旅」という言葉がありますが、これは「中国への旅」というだけでなく「死ぬ」ということも意味していました。遠い中国への船旅は“死出の旅”と同じと考えられていたからです。

それでは、公務で船旅に出かける人々は“死出の旅”にあたり、どのような行動をとったのでしょうか。生きて帰ってこれるかどうかは、ただ運だけにかかっていました。人の力でどうにもできない運命を決めるのは神さましかいません。よって旅立ちの前には霊験あらたかな航海安全の神さまに祈りをささげたのです。琉球で祈願の対象となった航海安全の神は、まず天妃(媽祖・まそ)があげられます。この天妃はもともと中国の女性の神で、東アジアから東南アジアにかけて広まっていました。琉球へは久米村の中国人がもちこんだといわれています。そのほかは観音さまやフナダマ(船霊)、そして琉球の聞得大君も航海安全の神さまと考えられていました。

神さまへの祈りは船出する本人だけではなく、無事を願う親類も必死に旅の安全を祈っていました。親類はウタキや寺院・神社にお参りし、さらに親類一同集まって床を足で踏みながら歌い踊る儀式などを行いました。本人が旅に出た後も、留守家族や親類の女性が集まって、徹夜で「旅クェーナ」と呼ばれる神歌を歌いながら踊りまくるのが恒例だったようです。女性が歌うのは沖縄の「オナリ神信仰」という親族の女性の霊力が男性を守護するという信仰からきています。近世(江戸時代)の王府は儒教的な考えからみてあまりに非合理すぎるということで、沖縄古来から続く夜間の旅踊りを禁止したようですが、旅踊りの風習は以後も続いたようです。

三司官だった伊江親方朝睦(いえ・うぇーかた・ちょうぼく)の例をみてみましょう。1812年、彼の息子朝安がヤマトに出張した際、帰国の日が近づくにつれ無事の帰りを願う伊江親方の祈りは激しさを増していきます。親戚一同で首里の弁ヶ嶽や普天間宮にお参りするだけでなく、帰宅後はご馳走を出し、さらに三線・鼓(つづみ)を鳴らして旅踊りや歌、狂言など、連日舞えや歌えやの大騒ぎ。一見遊んでいるようですが、当人たちはいたって大マジメです。「息子よ、無事に帰って来い!」という思いをこめて、みな必死に踊りまくっていました。伊江親方は当時81才。彼は老体にムチ打って息子が無事に帰るよう「努力」したのです。

Photo_2

伊江親方の必死のドンチャン騒ぎが功を奏したのでしょうか。息子はついにヤマトから戻ってきます。彼は親戚一同で那覇港へ向かい、感動の再会を果たします。しかし、ここでメデタシ、メデタシではありません。無事帰国した後、伊江親方はさらにウタキや寺社にちゃんと感謝の祈りをささげに行きます。帰ってきたら知らんぷり、「困った時の神頼み」ではいけないのです。

参考文献:真栄平房昭「近世琉球における航海と信仰」(『沖縄文化』77号)

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2006年3月21日 (火)

沖縄人=アイヌ人=縄文人??

沖縄人(ウチナーンチュ)の身体の特徴は、毛深い・色黒・顔の彫りが深い・ガッシリしてる…などがあげられます。本土の日本人(ヤマトンチュ)と比べてもその違いが一目でわかりですね。北に目を転じてみると、アイヌと呼ばれた人々もまた、沖縄人とよく似た身体的特徴があると言われます。この理由は一般的に、日本列島にいた原日本人(縄文人)のなかに、大陸からやってきた渡来人(弥生人)たちが本土に住みつき、北と南で縄文人たちが残ったと考えられています。つまり沖縄人=アイヌ人=縄文人ということですね。

しかし最近の形質人類学や遺伝学の研究では、全くちがう説が出されてきています。沖縄人はアイヌ人とは全く別の系統で、さらに縄文人ともほとんど関係がないという衝撃の結果です。では沖縄人はどこの系統か。何と、本土日本人(ヤマトンチュ)の系統だというのです。そんなバカな!と思う方もいるかもしれません。

まず1万8千年前の沖縄にいた有名な港川人を見てみましょう。復元画像を見るとたしかにウチナーンチュっぽく見えますね。その骨格は縄文人と共通する部分もあり、縄文人の先祖になったといわれています。しかし、港川人とその後の時代の沖縄で発見された人骨は1万年もの長い空白があり、沖縄人の直接的な先祖かどうかは、この空白を埋める発見がないと確かなことは言えません(港川人は絶滅した、と考える説もあります)。

現在の沖縄人の直接的な先祖といわれるのがグスク時代の人々です。実は、この時代になって沖縄人の人骨の形質が劇的に変わります。これ以前の貝塚時代の人々は縄文人と若干似ているようですが、やはり同一といえるほどではなく、縄文人とは別の「南島人」とされています。貝塚時代の南島人の形質はグスク時代になると中世日本人の形質とほとんど変わらなくなってくるのです。

この背景には日本本土からのヒトの流入があったとされます。要するに、現代につながる沖縄人の形質は本土日本人のグループに入るということです。この系統は縄文人やアイヌ人のグループとは遠くかけ離れたものです。しかし本土日本人と全く同じということではなくて、本土日本人には見られない東南アジア方面の形質も見られ、遺伝的にも南アジアからの遺伝子が沖縄人にあるといいます。沖縄人の形質は本土日本人をベースに様々な地域の人々の特徴も見られるということです。

最近、浦添ようどれで英祖王の一族の骨が調査されました。その結果、王族には中世日本人に近い特徴(顔がのっぺりで平坦、出っ歯)が見られたのみならず、中国南部のDNAを持つ者もいたことがわかりました。交易で様々な人々が行き来していた沖縄の状況を反映するものといえるのではないでしょうか。

ウチナーンチュがヤマトンチュのグループに非常に近い関係にあることはほぼ間違いなさそうです。ただし注意しなくてはいけないのは、たとえ同一人種・同一民族だからといっても、同一国家であるべきだとは決してならないということです。

たとえグスク時代以降の沖縄がヤマトの影響を強く受けたとしても、琉球諸島に住む人々は「琉球」という自らの国家と文化を形成し、島津氏に征服されるまでは一度たりとも外国の実効支配を受け入れたことはありません。そう、台湾がかつて一瞬たりとも中華人民共和国に支配されたことがないように。沖縄が「日本」なのは、純粋な日本を残してるからでもなく、同一人種だからでもありません。政治的・歴史的な動きの結果にすぎません。

現在の歴史学では、単一民族=単一国家史観はすでに過去のものになっています。僕は今生きている現在の沖縄を否定するつもりはありませんが、全ての現在の状況は最初から「あるべき姿」が決定されていたのではなく、歴史の変動のなかで形成され、つくられた結果なのだと思います。

参考文献:安里進・土肥直美『沖縄人はどこから来たか』、浦添市教育委員会「浦添ようどれ石厨子と遺骨の分析結果について」

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2006年3月 4日 (土)

タバコ大好き琉球人

最近の禁煙志向の広まりで、タバコをたしなむ喫煙者の方はずいぶん肩身のせまい思いをしているのではないでしょうか。タバコといえば、沖縄では「ハイトーン」や「ウルマ」などの県産タバコが有名ですが、沖縄とタバコの関わりは、実は長くて深いものです。その歴史を見てみましょう。

タバコはもともと南米アンデス山脈の原産で、先住民(インディオ)が神々と交信する儀式に幻覚剤とともに使ったり、医療や社交の際に用いられたりしていました。その使用はインカ帝国をさかのぼると言われています。そして、このタバコを全世界に広めたのは新大陸を征服したヨーロッパ人たちでした。ヨーロッパでは主に万能薬として使われましたが、その高い依存性から世界各国でたびたび禁止令が出されていました。イスラム世界では喫煙者が処刑されたほどです。しかし人々を完全に“禁煙”させることは難しかったようです。

アジアへは大航海時代の16世紀にスペイン人がルソン(フィリピン)へタバコをもたらし、琉球へは東南アジアや中国経由で伝わったとみられます。タバコはまたたく間に琉球にも普及しました。浦添グスクからは様々なキセルが出土しています。古琉球時代にタバコが伝わって、すぐさまグスクの住人たちがニコチンのとりこになっていたことがわかります。当時のグスクの主は浦添尚家の尚寧王です。もしかしたら彼もヘビースモーカーだったかもしれません。

Mar01225 しかしタバコは火の不始末から火災の原因となったり、タバコを生産することで米の収穫が減ったりするというマイナスの面もあり、王府は「ただタバコのみ益なく害多きこと、これに過ぎたるものなし」と述べています。首里城では禁煙令も出されました。正殿の「御座内」は禁煙になり、国王への謁見や儀式のときにも喫煙が禁止されました。今風にいえば全面禁煙でなくて分煙ですね。禁煙令が出されたということは、それ以前は首里城内でタバコを吸うことが可能であったということでしょうか。もしかしたら正殿内はタバコのけむりでモウモウとしていたかもしれませんね。

喫煙は琉球の庶民にも広まり、那覇ではタバコ作りで生計を立てる者もでてきました。キセルとタバコ入れは役人から庶民にいたるまで必需品となり、現代の我々が携帯電話を持つように、皆がキセルとタバコ入れを持っていました。後にペリーが琉球へ来航した際、人々の姿をスケッチしていますが、多くの人々の腰にはキセルが差され、タバコ入れがぶらさがっているのを確認できます。

そのほかタバコは薩摩からも輸入していました。薩摩産は高級品で、日本全国に流通する有名ブランドの国分タバコが琉球へ出荷されました。このタバコは国王から中国皇帝への献上品にもなったといいます。タバコの需要が高まるにつれ、王府はタバコの自給化路線をすすめました。庶民は税として納めるべき米を移入タバコの購入代にあててしまい、年貢が払えなくなる場合があったからです。タバコの魅力(魔力?)というのはオソロシイですね。

※【画像】はタバコを吸う琉球の庶民。『バジル・ホール航海記』挿画をとらひこが筆写

参考文献:和田光弘『タバコが語る世界史』、真栄平房昭「煙草をめぐる琉球社会史」(『新しい琉球史像』)、ラヴ・オーシェリ・上原正稔編『青い目が見た大琉球』

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2006年2月10日 (金)

古琉球の名もなき人々

沖縄が薩摩島津氏に征服される以前の時代は「古琉球」と呼ばれています。この時代はとくに海外との貿易を活発に行った「大交易時代」として注目されていますが、沖縄に住む庶民たちはどのような暮らしをしていたのでしょうか。その実態をうかがうことのできる史料は沖縄にはほとんど存在しません。石碑のなかにわずかに庶民を「おひ人・わか人・めども・わらべ(老人・若人・女・童)」、また「たミ・ひやくしやう(民・百姓)」、「大小のゑくが・おなごども(老若の男・女ども)」などと記しています。当然ながら、庶民たちは王府より年貢や労働力を提供する存在として位置づけられています。

外国の琉球見聞録には少しばかり庶民たちの生活を知る手がかりが残されています。その一端を紹介しましょう。1477年(日本では室町時代)、朝鮮・済州島(チェジュド)の人が航海の途中、嵐に遭って琉球の与那国島に漂着します。彼らは滞在中に現地の人々やその生活を観察しています。

まず人々の容貌。島の人は青い珠のイヤリング・ネックレスをしていて、みな裸足。男の髪はたばねられ、うなじの当たりで結っていたといいます。男のヒゲは長く、へそに届くほどの長さ。女の髪も足に届くほど長く、頭の上でまとめていました。服は苧(からむし)で作られた簡素なもので、藍で青く染められ、麻や木綿製のものはありませんでした。

人々の暮らし。住居はカヤぶきで戸や窓、トイレは無し。寝床は木製。木の葉で作られた敷き物があったといいます。主食は米で、おにぎりを蓮の葉のような大きな葉に盛って食べていました。調味料はなく、海水で味付けしたスープがありました。牛・鶏も飼われていましたが、食べなかったようです。家畜が死ぬと埋めていたので、漂着民が「牛や鶏は食べるものだ。埋めてはいけないよ」と伝えると、島の人に笑われてしまったそうです。

与那国島には、現在の西表に伝えられている粗末な土器の「パナリ焼」らしきものや風葬もあったようで、現在知られている琉球諸島の文化に通じるものが存在していました。しかし一方では全く見られなくなったものもあります。まず口噛み酒。米を噛んで吐き出し発酵させたものを酒として飲んでいました。だ液のデンプン分解作用を利用したものです。また子供を可愛がっていたとありますが、どんなに泣いてもあやすことなく、そのまま放置していたとのこと。可愛がっているのかいないのか、どっちなんでしょうね。 これも一つの風習でしょうか。

島の雰囲気は盗難や争いのない穏やかなものでした。朝鮮の漂着民は島の人々と言葉は通じませんでしたが、長い滞在である程度のコミュニケーションはとれたようです。ある日、漂着民が故郷の朝鮮を思って涙を流していた時、島の人は彼の前に今年の稲と去年の稲を並べ、東を向いてこれを吹いたそうです。漂着民は「新しい稲は古い稲のように熟せば実をつける。あなたも時が熟せば帰ることができるよ」という意味であることを悟ったのです。500年前の心あたたまる交流は、漂着民の故郷への帰還によって朝鮮王朝の歴史書に記されることとなりました。

追記:口噛み酒は戦前まで祭祀などで飲まれていた、との島かまぶくさんのご指摘がありました。

参考文献:池谷望子・内田晶子・高瀬恭子編『朝鮮王朝実録・琉球史料集成』、高良倉吉『琉球王国の構造』、『新版琉球の時代』

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2006年1月30日 (月)

球人に網巾をきせる

琉球と交流のあった中国の福建には、当地の沖縄では知られていないコトワザや、交流をうかがわせる言葉などが残っています。そのいくつかを紹介しましょう。

琉球と福建の交流がさかんだったのは、琉球船が中国に入る玄関口だったからです。福建の泉州と福州の港は、琉球の進貢船の寄港地となっていました。この進貢船とは明朝から公認された琉球王府の直営船です。琉球と中国との貿易は基本的に国家間の公的な活動に限定されていました。しかし、その裏では密貿易が行われていました。明朝は民間人が勝手に海外へ出向いて貿易することを禁止したのですが、中国沿岸部は土地も少なく、農業をするより貿易活動で生計を立てている人々が多く住んでいました。貿易が禁止されると彼らは生活できません。そこで貿易商たちは現地の役人と結託して、なかば公然と密貿易活動を行ったのです(彼らはのちに「倭寇」とも呼ばれます)。

密貿易は非合法なので記録に残ることは少なく、実態もよくわからないのですが、今日の福建にはある言葉が伝えられているそうです。それが「做琉球(ツォ・リウチウ)」という言葉です。「琉球貿易に出かける」という意味です。福建では禁令をやぶって海外に貿易に行く商人が多かったようで、「做琉球」もその名残りではないかと言われています。

また清代の中国には琉球に関する面白いコトワザがありました。16世紀、琉球国王を任命する中国の使者(冊封使)の副使に謝杰(しゃけつ)という人物がいたのですが、謝杰の親戚が使節に同行して琉球へ行ったそうです。彼は中国で網巾(中国人がつけるヘアーネット)を大量に買い込んで琉球で売りさばこうと試みます。しかし、琉球人の髪型はカタカシラという琉球独特の髪型で、中国人のように網巾をつける習慣はありません。当然、網巾は琉球で全く売れませんでした。このままでは大損です。そこで彼は謝杰に頼みこんだのでしょうか、謝杰は琉球に対してこう言います。「明の礼にならってお前たちが網巾を着けなければ、琉球国王を任命する儀式は行わない」と。驚いた琉球人たちは、われ先にと謝杰の親戚が持ってきた網巾を買い、網巾は完売してしまいました。職権乱用もいいとこですが…それ以来、福建では押し売りをすることや、無理やり人に何かをさせることを「球(琉球)人に網巾をきせる」というようになったそうです。

残された言葉から交流の歴史をさぐるのも、けっこう面白いかもしれませんね。

参考文献:高良倉吉『琉球王国史の課題』、原田禹雄『琉球と中国』

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2005年11月29日 (火)

オランダの旗を掲げていた琉球船

対外世界と活発に貿易をしていた琉球王国は、当然のことながらたくさんの船を所有していました。琉球の船は中国でつくられたものと同じ形の「ジャンク船」と呼ばれる船でした。この琉球船にはオランダの旗が掲げられていたことはご存じでしょうか。琉球船を描いた絵図にはオランダの旗と見られる三色旗が描かれたものがあります。なぜ琉球船はオランダの旗をかかげていたのでしょうか。

その理由は琉球が1609年島津氏に征服され、日本の幕藩制国家の傘下に入ったことにあります。江戸時代、オランダは長崎の出島に商館を置き、西洋諸国のなかで日本との貿易を唯一許された国でした。貿易とはいいますが、この時期のオランダは自分たちの貿易以外に、敵対する船を襲って積荷を強奪することが重要な任務でした。つまり味方以外の船に海賊行為を行うことも仕事だったのです。オランダはイギリスと手を組んでスペイン・ポルトガル、中国船を襲って次々に積荷を奪いました。例えば日本から東南アジアに向かうあるオランダ船の積荷は90パーセントが海賊行為で奪った品だったといいます。

海賊にひとしいオランダ船が行きかう中で、琉球船も同じ海域を航海しなくてはなりませんでした。中国船と同じ形の琉球船は彼らに見つかれば襲われてしまうかもしれません。そこで琉球船はオランダの敵ではないと示すためにオランダの旗とオランダ商館が発行した通航許可証を持って貿易に出かけたのです。これらは当時琉球を征服していた薩摩藩を仲介して長崎のオランダ商館から手に入れました。

徳川幕府もオランダに琉球船を襲うことを禁止する通達を出していました。江戸城に赴いたオランダ商館長は将軍にお目通りをした後、老中から通訳を介して「琉球は日本に従う国なので襲ってはならない」という通達を読み聞かされました。このお達しは実際に効果を発揮したようで、琉球船がオランダ船に襲われた記録は全くありません。海上で琉球船とオランダ船が遭遇した場合、オランダ船はオランダの旗をかかげられている船を見て「これは琉球船だな」と確認して素通りしたのでしょう。琉球船のオランダの旗は一種の通航許可証として使われていたわけです。

参考文献:真栄平房昭「17世紀の東アジアにおける海賊問題と琉球」(『経済史研究』4号)

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2005年10月16日 (日)

雪舟が出会った古琉球人

雪舟といえば室町時代の水墨画家の大家です。彼が子供の頃、涙でネズミを書いてそのうまさに和尚さんが驚いたというエピソードを皆さんもご存じかと思います。雪舟は1468年、遣明船の使節として明(中国)に渡り、数年間水墨画の勉強にはげみました。実は中国滞在中、彼は琉球人に出会ったらしいのですが、その事実はそれほど知られていません。

雪舟は滞在中、中国で出会った様々な人たちをスケッチしています。それが「国々人物図巻」です。日本では見ることのできない異国人たちは雪舟にとって好奇心の対象だったにちがいありません。図巻には王や官人、女性、そして高麗人や女真国人、天竺人などと並び、琉球人も描かれています【画像】。

Photo_3 この琉球人、おそらく現存する唯一の古琉球人画像です。ゆったりとした服、ハダシ、頭の左側に結ったマゲが特徴です。前に琉球人のマゲとターバンの話でも書きましたが、琉球人の髪型として知られるカタカシラは、本来は頭のてっぺんではなく片側のモミアゲあたりに結っていました。【画像】の琉球人が頭の上に結髪してないのは明白です。つまりモデルチェンジする前の琉球人の髪型を描いたものだとわかります。

しかし「国々人物図巻」は雪舟の記名がありません。あくまでも「伝」雪舟画ということで琉球人画像が本物かどうか疑問視される方もいるかもしれません。

ではこの当時の琉球人はどういう姿をしていたのでしょうか。別の記録からみていくと、琉球人はそで口の広い服を着ていて、そで口には五色の糸を使った獣形の刺繍(ししゅう)があり、それを身分の目印にしていたそうです。足はハダシあるいはゾウリをはき、冠をかぶらず、頭の左側(右側という記録も)に髪を結っていたとあります。

これらを見ると、雪舟が描いたといわれる琉球人は単なるイメージで描かれたのではなく、実際の見聞をもとにして正確に描いたと考えたほうがよさそうです。雪舟は中国に滞在していたので、その時に中国に朝貢してきた琉球人と出会って、彼らの姿をスケッチしたのではないでしょうか。

大河ドラマ「琉球の風」に登場する琉球人は近世(江戸時代)に登場する姿をもとにつくられていますが、実際はそのような姿はしていなかったわけです。これは資料がないからという理由もあるでしょうが、今度琉球のドラマをつくる時には、雪舟が描いたといわれる琉球人を参考に制作されたらいいな、と思います。

※【画像】は「国々人物図巻」中の画をとらひこが筆写。着色は想定

参考文献:豊見山和行『琉球王国の外交と王権』

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2005年9月13日 (火)

がんばれ移住者山崎さん

こんにち、“沖縄移住ブーム”を知らない人は少ないでしょう。マスコミなどで盛んに「癒しの島沖縄」が宣伝され、かつてなかった数の人々が沖縄を訪れ、移り住んでいます。この現象は沖縄の歴史はじまって以来だと思われるかもしれません。しかし、400年前(日本では戦国時代)にもヤマトからの沖縄移住ブームがあり、数多くのヤマトの人々が沖縄へやってきていた事実はまったく知られていません。今回は400年前に生きていた一人の沖縄移住者のお話をしましょう。

その人物とは山崎二休守三(やまざき・にきゅう・しゅさん)。1554年生まれで彼はヤマトの越前(今の福井県)出身です。彼は医術をこころえた人間で、医術の腕をみがくうちに、ふとある噂を耳にします。

「南海の琉球というところは中国と交流があり、すぐれた医術の妙法がある」

これを聞いていても立ってもいられなくなった守三は故郷の越前を去り、はるばる琉球へ向かいます。彼は港町の那覇にしばらく居住していましたが、やがてその腕を買われて王府おかかえの医者として取り立てられます。よほど居心地が良かったのでしょうか、彼はマナベさんという女性と結婚し、そのまま琉球に居ついてしまいます。

1609年、琉球に激震が走ります。薩摩の島津軍が琉球を襲ってきたのです。この時、守三は首里城の西のアザナ(物見台)【写真】を守り、攻めてきた島津軍の武将・法元二右衛門の兵たちを撃退、法元も負傷させるという戦功をあげます(医者が人を傷つけるのもどうかと思いますが…国家存亡の緊急時にはそうも言ってられなかったのでしょう)。

CIMG0324

しかし彼の奮戦もむなしく琉球は降伏、守三も捕らえられてしまいます。彼に傷を負わされた武将の法元は守三を問い詰めます。「お前は日本人なのになぜ敵対したのだ」と。守三は答えます。「たしかに私は日本の漢(おとこ)である。しかし琉球へ来て国王に仕え厚い恩恵を受けたのだ。たとえ処刑されても悔いはない」と。そして彼がまさに処刑されようという時、尚寧王は島津軍の兵に私財の宝物を与えて買収し、守三は命を助けられたのです。

豊臣秀吉の朝鮮出兵の際には、「降倭」と呼ばれる日本人が朝鮮側に味方して日本軍と戦った例もあるように、当時の世界では民族や国家という壁があまり意識されていなかったことがわかります。現在の世界はボーダレス・グローバル化が進む社会とされていますが、実はそのような社会はかつて存在していました。400年前のボーダレス化された世界で、守三と同じような多くの“移住者”たちが琉球を訪れていたのです。

1631年、守三は琉球で77才の生涯を閉じます。彼は辞世の句を残していますが、最後にその句を紹介しましょう。

ちへなき我をや君もたつぬらん しつ心なき秋のあらしに

参考文献:『葉姓家譜』

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2005年7月22日 (金)

ニート君は島流し

琉球王国時代には現代の我々から考えると少々おかしな罰が存在していました。それは家族・一族のなかで学問や仕事に励まず遊んでばかりいる者や、親族の言うことを聞かない乱暴者などの問題児を、親族が王府に訴えて島流しにしてもらう刑です。つまり今風にいえば「ニート君島流しの刑」ですね。罪はあくまでも親族の訴えによって発生し、島流しの年数や流される場所まで、訴えた親族が自由に決めることができました。琉球王国時代のニート君は、史料中には「気随意(きまかせ)者」という表現で出てきます。

いくつかの事例を紹介しましょう。事件の当事者は、兼城間切(今の糸満市)糸満村のタラ玉城容疑者(26)。タラはある罪で渡名喜島へ3年の島流しの刑に処せられたのですが、渡名喜島へ向かう途中滞在した渡嘉敷島の家のメシがまずいという理由で舟を盗んで脱走、ひそかに糸満村の母のもとに帰りました。ところがタラのあまりの放蕩ぶりに母が耐えきれず、島流しにしてくれと役所に訴えて事が発覚、タラは逮捕され、宮古島へ再び島流しにされることとなります。

ここで興味深いのは、タラは脱走の罪で罰せられたのではなく、母からの訴えによる放蕩者を懲らしめるための刑で罰せられたことです。親族の訴えによる島流し刑のほうが重く、他の刑より優先されていたようです。ちなみに犯罪者であるタラを母がかくまったことについては、親子の情愛でしてしまったことだからと、罪に問われませんでした。

Photo

島流しにされたのは庶民だけではありませんでした。1687年、浦添按司は親戚の訴えで粟国島に流されます。彼はじつに23年間も島流しにされていましたが、彼はそれまでの地位を剥奪されず、お供もついていました。この異例の待遇から彼の島流しが一族のトラブルメーカーであったという単純な理由ではなく、何かウラがありそうな感じがします。ともかく王府の高官でさえ親族の訴えによる島流しの刑は例外ではなかったことがわかります。

ニート君たちにとってはまことに恐ろしい罰です。世が世なら僕も島流しの刑をくらうでしょうね(苦笑)やはり訴えられたら負けかなと思ってしまいます。

参考文献:比嘉春潮・崎浜秀明編『沖縄の犯科帳』、田名真之『近世沖縄の素顔』

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2005年5月15日 (日)

琉球のお百姓は働かない?

沖縄というと本土と比べてノンビリした場所として知られています。沖縄の方言でも「テーゲー(適当、おおまか)」という言葉が否定的な意味ではなく、むしろ肯定的にとらえられている感があります。それでは琉球王国時代はどうだったのでしょうか。沖縄の「テーゲー」ぶりを歴史から見ていきましょう。

近世琉球(江戸時代)の百姓は、なかなか農作業をしませんでした。17世紀の薩摩藩から琉球への通達書には、「琉球では女性ばかり耕作していて、男は〝大形(テーゲー)〟にやっているようだ。ちゃんと働かせろ」との一節があります。

「農業は国の本」とする琉球王府はたびたび百姓たちに農耕を行うように命じますが、百姓のほうは魚ばかり獲っていて田畑はほったらかしという光景が一般的に見られたといいます。クワなどの農具も、18世紀に入ってもほとんど普及していない状況でした。

さらにある村では1年のうち60日も祭りがあって、農耕のさまたげになっていました。王府は百姓の漁業活動や祭祀を禁止したり、村々へ監督官を派遣して指導するなどの対策を行いますが効果は上がらず、百姓の農業のサボりは村役人の責任にされました。村役人にしてみれば、百姓は言っても聞かないし、お上からはうるさく叱られるし、ジレンマだったでしょう。

このようにみてみると、琉球の百姓は全然働いていないように思えます。しかし、その見方は適切ではありません。そもそも琉球は農業にそれほど向いていない土地なのです。島国のうえ平地が少なく、水源の確保が難しい。毎年来る台風などのきびしい気候的条件…ただ、そのかわりに目の前には広大な海があります。海からは一年を通じて豊富な魚介類が獲れます。よってわざわざ農業を一生懸命に行わなくても、海に出れば何とか生活できたわけです。

さらに江戸時代以前の琉球王国は交易国家だったので、農業が「国の本」ではありませんでした(もちろん農業が全然なかったわけではありませんが)。祭りについても、神に感謝するという昔からの伝統行事であって、別に遊んでいたわけではありません。

江戸時代に入って薩摩藩の支配下におかれると、日本の石高制などに見られる農業社会の考えが琉球にも持ちこまれます。琉球王府はそれまでの交易・漁業など「海」を中心とした国家から、農業など「陸」を中心とした国家への転換をこころみるのです。つまり、百姓の耕作のサボりは彼らの怠慢だったのではなく、国家の主導によって農業化が進められたものの、古来より続く琉球の社会的土壌がそれをなかなか受け入れなかったということなんですね。

参考文献:豊見山和行編『日本の時代史18 琉球・沖縄史の世界』吉川弘文館、安良城盛昭『新沖縄史論』沖縄タイムス社

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2005年5月11日 (水)

琉球人の名前のつけかた

沖縄の歴史の登場人物の名前は珍しい名前がたくさん出てきます。日本本土では見なれない名字や中国風の名前など、疑問に思っている方もいるでしょう。今回は琉球人の名前のつけ方についてお話しします。

一般的に王国時代の琉球人は、日本風の名前と中国風の名前の二つを持っていたと言われています。例えば、前回の話で登場した蔡温(さいおん)は中国風の名前で、もう一つの日本風の名前は具志頭親方文若(ぐしちゃん・うぇーかた・ぶんじゃく)と言います。「親方」は身分を表わす位階名です。

しかし、このような名乗りかたが成立したのは、近世の琉球(江戸時代)に入ってからなのです。それでは、それ以前の名前は?…実は名字も中国名もありませんでした。あるのはその人個人の名前だけです。例をあげて説明しましょう。

例えば儀間真常(ぎま・しんじょう)は、中国からもたらされたサツマイモを琉球に普及させた琉球史上の有名人です。サツマイモが日本全国へ広まるきっかけを作った農業界の大恩人なのですが、彼が生きていた当時(16~17世紀)は「儀間真常」と呼ばれませんでした。彼は「儀間の大やくもい・まいち」と呼ばれていました。

「儀間」は代々継がれる名ではなく、彼が持っていた領地名です(つまり儀間村を領有。領地が変わればこの名前も変わります)。「大やくもい」は位階名(または役職名)で、最後の「まいち」が名前なのです。「真常」は子孫が彼の死後に付けた名です。また彼の家系はのちに「麻」姓を名乗りますが、真常には「麻平衡(ま・へいこう)」の中国名が付けられました。

ちなみに古琉球の王様は3つの名前を持っていました。例えば尚真王は、中国向けの名前が「尚真」で、本来の名前である「まかとたるがね」と、琉球向けの名前である神号「おぎやかもい」がありました。

これらの名前は近世になって中国風の名前が加わり、本来の琉球風の名前は公式に名乗られなくなり、「真常」とか「朝秀」などの漢字の名乗りに変わっていきます。それまでの名前だったものは童名(わらびなー。幼名)として残っていくのです。

琉球の庶民の名前は、近世に入ってもその人個人の名前(今でいう童名)しかありませんでした。

名乗り方は、「所属村+屋号+童名+姓に相当する名称」となるようです。例えば、「城間村の鍛冶屋小(カジヤーグヮー)、ムタ・宮城」とか。欧米風に最初に名前があって後に姓相当の名称が続きます。

何だかややこしい説明になってしまいましたが、つまりは江戸時代になるまで琉球人の名前は、近世で童名に当たる琉球風の名前しか無かったということですね。この童名ですが、実は戦前生まれだと自分の戸籍上の名前以外に童名を持っている方もいるそうです。今度、沖縄のオジイ・オバアに会う機会があったら聞いてみてください。

参考文献:田名真之『沖縄近世史の諸相』ひるぎ社

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2005年4月17日 (日)

琉球人のマゲとターバンの話

昔の琉球人男性の髪型は日本のチョンマゲとはちがう、総髪(といっても実際は頭頂部を少し剃っていましたが)で頭のてっぺんに髪を結う「カタカシラ」という独特の髪型をしていました。その姿は大河ドラマ「琉球の風」や、沖縄の伝統芸能などで見たことがあるかと思います。この髪型の由来は、琉球最初の王といわれる舜天の頭の右部分にコブができていて、それを隠すためにコブ部分に髪を結い、のちに皆がマネしたものと言われています。

しかし最初に説明した「カタカシラ」は髪を結ってあるのが頭のてっぺんで、全然右側に結ってないじゃないか、と疑問に思われる方もいるかもしれません。あまり知られていませんが、実は琉球人の髪型は一回、大きなモデルチェンジをしているのです。もともとは舜天の故事にあるように、琉球人は右のもみ上げあたりに髪を結っていました。5~600年前頃(日本では室町時代)の日本や中国の記録には、はっきり琉球人は髪を右側(左とも)に結っていたとあります。この事実があまり知られていないのは、当時の琉球人の姿を描いた絵図がほとんど残ってないからでしょう。

モデルチェンジをしたのは17世紀の中頃(日本では江戸時代)です。その頃、中国では漢民族の明王朝が滅亡して女真族の清王朝が誕生していました。清王朝は女真族の風俗である弁髪(ラーメンマンの髪型ですね)を漢民族に強制しました。琉球では清王朝が弁髪を強制してくるのではないかと非常に恐れていました。当時の漢民族は野蛮な女真族の髪型をするのを恥としていましたが、琉球でもそうだったようです。結局、琉球へは強制されなかったわけですが、琉球人の髪型がモデルチェンジしたことと、同時期に起きた弁髪をめぐる問題は何らかの関係があったと考えられます。

Photo_5 また5~600年前の琉球人は、インド人のようなターバンを巻いていました。それが琉装の男性がかぶる冠のハチマキ(鉢巻)です【画像】。あれはもともと長い布を頭にぐるぐる巻きにしたものだったのです。1600年頃、そのターバンを固めて冠状にしたものが現在見るようなハチマキです。今度ハチマキを見る機会があればよく観察してください(琉装をした男性は沖縄の祭りの歴史行列や首里城公園内で見れます)。きっとターバンっぽく?見えてくると思いますよ。

※【画像】は『ベンチャー航海記』挿画をとらひこが筆写

参考文献:ラヴ・オーシェリ、上原正稔編『青い目が見た大琉球』

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