2009年11月21日 (土)

尚徳王=倭寇?

尚徳王は第一尚氏王朝最後の王です。この王は別名「八幡之按司」という神号であり、1466年、自ら兵2000を率いて喜界島を征服した際、その勝利を記念して那覇の安里に八幡宮を建立しています。尚徳王が八幡を信仰していたことから、彼が倭寇の流れをくんでいるという一部の説があります(ナナンダッテー)。「八幡神は倭寇の守護神である」との理由からです。この説は妥当な説なのでしょうか。

結論からいうと、この説には疑問を持たざるをえません。倭寇うんぬん以前に、八幡神が本来持っていた性格を看過しているからです。それは八幡神の「軍神」としての性格です。

尚徳王がなぜ八幡宮を建立したのか。喜界島に遠征する前、尚徳王は八幡大菩薩に一矢で鳥を射たら遠征成功、はずれれば失敗と願をかけ、見事に射落としました。やがて鳥を落とした地に八幡宮を建て、弓矢・甲冑・鐘を奉納したのが始まりです。つまりこの由来譚からわかるように、尚徳は喜界島との戦争の勝敗に関連してこの宮を建てたのであって、この八幡神が軍神としての性格に関連していたのは明白です。素直にこの状況から考えれば、わざわざ強引に倭寇説を持ち出すまでもありません。倭寇説の可能性はゼロではないにせよ根拠としてはかなり薄弱で、「歴史論は100パーセント過去の事実を証明できない」という点から単にゼロではないというだけの話です。

「琉球の王なのに日本の神を祭っている!やはり倭寇か!」と思う方もいるかもしれませんが、ちょっと待ってください。15世紀当時の琉球で日本の神々を祭るのは珍しいことではありません。1452年(尚金福の時代)、王府ナンバー2の地位にいた中国人の懐機は海中道路(長虹堤)の完成を記念して、那覇に伊勢神宮を勧請しています。中国人が日本の神社を建てたのです。尚徳王=八幡=倭寇という同じ論理でいくと懐機=日本人=倭寇だったと結論づけられるでしょうか?いや、僕はならないと思います。

さらに尚巴志は1436年、懐機とともに中国道教(正一教。五斗米道)の総本山に護符を要請しており(『歴代宝案』)、彼が道教を信仰していたことがわかっています。そうなると尚巴志は中国人だった!?あれ?尚徳って尚巴志の孫だったのでは・・・とすると尚徳=中国人!?・・・・もちろん尚巴志=中国人の可能性はゼロではありませんが、ちょっと無理があります。尚徳=八幡=倭寇の場合もそれと同じことです。

当時の那覇は諸民族雑居の国際港湾都市で、外の世界からさまざまな人がやってきて住みついていました。彼らがもたらした外来の各宗教は、尚徳王代の時点ですでに天妃・道教信仰や仏教の禅宗・真言宗、熊野信仰、伊勢信仰などが存在し、定着していました。これらの宗教はやがて融合し、琉球在来の宗教とも混交していきました。例えば15世紀中頃、中国の天妃宮・道教の天尊廟には仏教寺院の鐘が設置され、何とヤマト禅宗の流れをくむ僧が常駐していました。『おもろさうし』には明らかに天妃信仰を謡ったオモロもあり、また日本の神・仏をノロ(神女)が降ろすというミセゼル(神託)もあります。

懐機も尚徳も日本の神々がすでに琉球で信仰され、日常的な風景になっていた状況で神社を勧請したわけで、尚徳は八幡大菩薩が軍神だと知っていたからこそ喜界島との戦争でその霊験を頼ったのです。それが尚徳が八幡宮を建てた理由です。なお尚徳の神号は同時代史料では「世高王」「せだかあんじおそい(世高按司添)」としかなく、「八幡之按司」は後世の記録でしか確認されていません。

ちなみにおもろを研究した田島利三郎のノートによると、安里八幡宮のご神体は何と熊野権現であったと記しており、尚徳王が奉納した弓矢と尚徳佩用の甲冑、そして別堂に祭ってあった為朝公の面は明治14、5年(1881~82)頃、鹿児島より来た山伏に持ち去られたとメモしています。事の真相は不明ですが、八幡神と熊野神がごっちゃになって信仰されていた可能性もあるのです。「純粋」な日本の神々ではない琉球の宗教の状況を念頭に置きながら、こうした問題をみていく必要があるように思います。

※琉球王倭寇出自説に関しては【こちら】もご参照ください。三山虚構説については【こちら

参考文献:池宮正治「琉球国王の神号と『おもろさうし』」(『琉球大学法文学部日本東洋文化論集』11号)、上里隆史「15~17世紀における琉球那覇の海港都市と宗教」(『史学研究』260号)、吉成直樹・福寛美『琉球王国誕生』

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2009年10月24日 (土)

貝塚時代は遅れた社会?

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沖縄県は大小160の島々から成り立つ地域です。こうした自然環境のもと、沖縄の歴史は育まれてきました。人々は海とともに生き、移動手段として船を利用し、島嶼間をさかんに往来していました。

今から6600~900年前、琉球王国という国家が誕生する以前、沖縄の人々は長く漁労採集の生活を営んでいました。「貝塚時代」といいます。人々はサンゴ礁のおだやかな内海(ラグーン。イノーともいう)で貝や魚を獲り、砂丘地帯や湧き水の近くに住まいをかまえ生活していました。

この時代の特徴は、日本本土でいう平安時代頃までこうした生活スタイルが続いていたことです。日本で「源氏物語」の世界が展開されていた時期に、南西諸島ではまだ農耕をせず、魚や貝を獲りながら暮らしていたのです。こうした事実によって沖縄は野蛮で遅れていた、と考えることも可能かもしれません。しかし、こうした見方は必ずしも適当ではないと思います。

農耕は非常に手間がかかる作業です。1年を通じ田畑と水を管理し、人々が組織的に働かなくてはいけません。貝塚時代の人々は本土の弥生人と交流がありましたから、米や麦などの穀物栽培を知らないはずはありません。ではなぜ農耕が広がらなかったのでしょうか。それは、あえて面倒な農耕をしなくても、従来の生活で充分食べていけたからなのではないでしょうか。つまり沖縄ではわざわざつらい農作業をしなくても、1年中暮らしていける豊かな社会だったから、ともいえるのです。

貝塚時代の人々の主な生活の舞台はサンゴ礁の内海でしたが、それだけにとどまりませんでした。有人島で日本最南端の波照間島。島の北海岸砂丘に位置する大泊浜貝塚からは、驚くべきことに島外産のイノシシやマングローブ林でしか採れないシレナシジミ(大型のシジミ)が多数出土しています。ここから海の向こうの西表島も生活圏だったことがわかります。波照間島は「絶海の孤島」だったのではなく、人々は日常的に対岸の島々を行き来していたのです。大泊浜貝塚から海をながめると、水平線の向こうに西表島の島影をはっきりと見ることができます【画像】。

なお1477年の朝鮮漂着民の見聞録によると、波照間島はキビ・粟・麦を栽培していましたが、水田がないので米は対岸の西表島から入手し、材木も西表島から取ってきたとのことです。

人々の生活は必ずしも島の中だけで完結していたのではなく、海を越えた広がりをもっていたわけです。

【画像】波照間島の大泊浜貝塚からみえる西表島。

参考文献:安里進・春成秀爾編『沖縄県大泊浜貝塚』(科研報告書)

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2009年9月24日 (木)

ゴーレスの正体

大航海時代、ヨーロッパ人たちは琉球を「レキオ」と呼びました。そして「ゴーレス」もまた琉球人を指す名称として知られています。トメ・ピレス『東方諸国記』にはこうあります。

レケオ人はゴーレスと呼ばれる。彼らはこれらの名前のどちらかで知られているが、レキオ人というのが主な名前である。(レキオ人)は7、8日でジャンポンへ行って彼らの商品(小箱など調度品、扇、刀剣)を金や銅と交換する、レキオ人がもたらすもの(金、銅)は全部ジャンポンから来る。そしてレキオ人はジャンポンからの荷をルソン布などの商品と交換する。

このゴーレスという名前の由来はいったい何なのか、これまで明らかにされてきませんでした。しかし近年、歴史研究者の的場節子氏によってこの謎が解明されました(『ジパングと日本』)。的場氏は西欧側の史料を丹念に読み込み、琉球の金の入手先である「ジャンポン」「チャンパン」「ジャボンガ」「ぺリオコ」などが日本ではなく、いずれも東南アジア地域だったこと、16世紀に琉球船もこの海域を訪れて金・銅を入手し、東南アジア貿易を行っていたことを明らかにしています。

そして注目されるのが、氏が紹介した、リスボン国立図書館蔵のモルーカ諸島情報を記した写本の

良質の鉄で作られた原住民の刀剣はゴーレスとよばれる

という記述です。「ゴール」は東南アジアの現地語で「刀剣」を指しており、ポルトガル人はその複数形として「ゴーレス」を用いたのです。つまり、ゴーレスとは「刀剣を帯びた人々」を意味する言葉だったのです。当時の琉球人は日常的に大小の刀剣を腰に差していました。

15~16世紀の琉球は中国や東南アジアに大量の日本刀を輸出していました。日本刀は中国陶磁器とともに東南アジアへもたらされましたが、これらの日本刀は琉球が日本から入手したものとみられています。外交文書集『歴代宝案』では、多種多様の刀剣類が輸出されていたことを確認できます。なお現存する琉球の刀剣「千代金丸」や「治金丸」は刀身が日本製、外装は琉球製であると鑑定されています。おそらく輸出された日本刀は琉球風にアレンジされたものではないでしょうか。

東南アジアでは日本刀が「レケオ」と称されており、アラビア史料には鉄の産地「ゴール島(ボルネオ・セレベス島に比定)」で生産された剣がジャワ語で「リキーウー」と呼ばれていたとあります。東南アジアでは日本刀が「琉球刀」として認知されており、やがて刀剣の代名詞にまでなったわけです。
 
東南アジアへ日本刀を広めたのは、実は日本ではなく琉球だったのです。知られざる琉球の歴史がまたひとつ解明されたといえます。

参考文献:的場節子『ジパングと日本』

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2009年5月20日 (水)

儀間真常と袋中上人

儀間真常は言わずと知れた琉球史上の偉人。サツマイモやサトウキビ栽培を普及させ、やがてイモは江戸時代の日本にも渡り、多くの人々を飢えから救うきっかけをつくった人物です。彼が生きていた時代、ヤマトから一人の僧侶が琉球を訪れます。それが浄土僧の袋中良定(たいちゅう・りょうてい)です。

袋中は那覇の久米村近くに桂林寺というお寺を建て、そこに滞在します。彼は琉球で布教活動を行い、尚寧王をはじめとした多くの人々が帰依しました。また袋中が伝えた浄土宗は踊り念仏を定着させ、やがてエイサーへと発展するきっかけを作ったとされているのは有名な話ですね。

儀間真常もまた袋中の教えに帰依し、熱心な信者となったと言われています。それを示す証拠が、実は戦前まで那覇垣花の儀間村に残されていました。この村は真常の出身地です。

1936年(昭和11)、袋中開山の檀王法林寺の住職、信ヶ原良文氏が垣花を訪問した際、住吉町の又吉さん宅(麻氏の家系でしょう)に袋中直筆の書を見つけます。状態は悪くすすけてはいましたが、中央に「南無阿弥陀仏」と書かれており、右側には「授了徳公」、左側には「弁蓮社良定(花押)」と記されていました【画像。クリックで拡大】。「徳公」は儀間真常の号です。「授了」は「授けた」という意味。真常が袋中の帰依者で、直筆の書をたまわったことがわかります。ここには「授了徳公大禅門神位」と刻まれた真常の位牌もあったそうです。

なお『麻姓家譜』には真常を「授了と号す」と書いてありますが、この袋中書を見て、「授了」のほうを名前だと勘違いして載せてしまったのではないでしょうか。それは位牌の名前がこの書の文をそのまま丸写ししていることからもうかがえます。

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また袋中の遺品として数珠もありましたが、108個あるはずの数珠の玉はほとんど失われていました。病気が流行った時、身を守るまじないとして1個ずつ人々に分け与えたことからこのような状態になったとのこと。袋中の遺品がある種のパワーを持つと考えられ、沖縄の人々の信仰を集めていたことがわかります。

これらの品々は残念ながら先の沖縄戦で失われてしまいましたが、戦前の貴重な調査の記録によって、その存在を知ることができるのは幸いです。袋中の弟子となった真常は、もしかしたら「極楽浄土」の実現のため、多くの人々を救う手段としてサツマイモの普及に励んだのかもしれません。

参考文献:信ヶ原良文『袋中上人―生い立ちとその行跡―』、『麻姓家譜』

※【画像】は袋中筆の書の推定図。

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2009年2月18日 (水)

ターバンが冠に変わる時

琉球の官人が身につける冠といえば「ハチマキ(鉢巻、八巻)」。かつてはインド人のターバンのように長い1枚の布をぐるぐる頭に巻いたものでした(こちら参照)。このハチマキ、どうしてターバンから冠のように変わってしまったのでしょうか。

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琉球官人のハチマキ(クリックで拡大)

この変化は1600年頃に起こったとされていますが、実は琉球王国の正史『球陽』に、そのあたりの詳しい経緯が記されているので紹介しましょう。

もともとハチマキは約4メートルもの布を頭に八重巻にしたものでした。1619年、国王の尚寧が家臣とともに久高島へ向かう途中、突然の大雨にあってしまいます。ゲリラ豪雨ですね。皆が巻いていたハチマキの布は雨にぬれてヘロヘロ・ヨレヨレになってしまいました。ところが、ただ一人、頭のハチマキがビシッときまっている者がいます。仲地筑登之(ちくどぅん)名礼という人物です。皆の注目の的ですね。

ズブぬれになったヨレヨレハチマキの尚寧王はそれを見て驚きます。聞いてみると、何と彼の巻いたハチマキはフェイクで、実際は木の板を下地にし、そのうえに布を貼り付けてハチマキのように仕立てたものでした。王はいたく感動し、彼を褒賞して、以後は王府官人のハチマキを彼のものにならって改良したといいます。このフェイク・ハチマキは仲地の発明ではなく、脇名国親雲上(わきなぐに・ぺーちん)吉治という人物が1600年頃に考案し、それを仲地がかぶっていたということのようです。

ちなみにハチマキのヒモはこの時にはなく、さらに時代が下って1791年に中国の冠にならって取り付けられたものです。このように琉球官人のハチマキはいくつかの段階の改良をへて、現在見ることのできるかたちになったことがわかります。

それにしても仲地は自分が発明したわけでもないのに、それをかぶっていただけで王様からお褒めの言葉を頂戴するなんてラッキーでしたね。

参考文献:『球陽』

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2008年6月 2日 (月)

琉球でピラミッドは知られてた!?

琉球王国はかつてアジアとの貿易を行って繁栄していました。そのため、琉球の人々は国際的な舞台で世界のさまざまな国の情報や知識を手に入れることになったはずです。

14世紀から16世紀にかけて、貿易船は東南アジアへも出かけていきました。そこでの重要な取引相手だったのがマラッカです。マラッカは琉球と同じように小さな国でしたが、東南アジアの商業の中心地として栄えていました。いわば「東南アジアの《琉球》」ともいうべき存在だったといえるでしょう。マラッカの港町には貿易のために世界中から人々が集まって来ていました。

16世紀の「大航海時代」に、はるばるアフリカ・インドを越えてやって来たヨーロッパのポルトガル人たちもそうです。彼らはマラッカへ到達し、さらに東方にある黄金の島「ジパング」を探し求めていました。1511年、ポルトガルは強大な軍事力でマラッカを征服しアジア進出の拠点とします。占領直後のマラッカに滞在したポルトガル人、トメ・ピレスは港町に集まる人々について、著書の『東方諸国記』のなかに記しています。

それによると、マラッカには東南アジア地域の人々、中国人や琉球人のほか、何とエジプト・カイロやメッカ、アデンなどのイスラム教徒、ペルシャ人やトルコ人、さらにはアルメニア人のキリスト教徒までいて、港町では実に84の言語が飛び交っていたといいます。カイロの商人はイタリア・ヴェネツィア船が運んできた商品をマラッカにもたらしています。このような国際都市のなかで、琉球人もまた彼らに交じって取引をしていたのです。

マラッカでこれらの国々の人と琉球人が接触していたという記録は、現在確認されているところではマラッカ人やポルトガル人、中国人以外にはありません。しかし、当時の状況で彼らと全く関係がなかったというのは不自然です。おそらく何度か取引をする機会があったのではないでしょうか。また、そうでなくても異国の人々の暮らしや文化、故郷の様子などを聞く機会はあったはずです。

そうすると、ある想定が成り立ちます。もしかしたら琉球人たちは、カイロからやって来た商人からエジプトの様子を聞いたかもしれません。ラクダのキャラバンが連なる砂漠、そびえ立つピラミッドやスフィンクス…また彼らイスラム教徒の商売仲間であったヴェネツィアの様子も知ることができたことでしょう。

…もちろんこれらには何の確証もありません。まさか沖縄のシーサーの源流はスフィンクスだった!?(な、何だってー!!by MMR)…なんてトンデモ説を唱えるつもりは毛頭ないですが、このような遠い異国の話を知る機会は、当時の琉球人にとっては充分あったと思います。

参考文献:トメ・ピレス『東方諸国記(大航海時代叢書Ⅴ)』

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2008年2月21日 (木)

酔って轟沈、騒いで大酒

ウチナーンチュ(沖縄人)はとにかく酒に強いと言われます。実際、体質的にアルコール分解が早い人が多いようです。沖縄では何かにつけて飲み会が開かれるなど、お酒は身近な存在。飲酒運転の検挙者数も18年連続ワーストワンという不名誉な記録まであるほどです。

お酒と沖縄は切っても切れない関係なのですが、今回はお酒にまつわる歴史の話を紹介しましょう。琉球人の飲酒についての最も古い記録はいつ頃でしょうか。それは何と1422年。古琉球時代(日本では室町時代)の尚巴志が即位した年に当たります。記録は京都東寺(教王護国寺)の「東寺百合(ひゃくごう)文書」のなかに残されています。

1422年の9月26日、琉球人の使節が上京し、東寺の鎮守八幡宮にある宮仕(みやじ。下級の社僧)の部屋を借ります。そこで琉球人たちは何と宴会を始めてしまうのです。ところが宴会が終わった後、琉球人の一人が病気になってしまいます。占いを行ったところ「神さまのおとがめじゃ!」と出たので、そこで東寺は病気回復の祈願をするため、宮仕の五郎三郎(ごろうさぶろう)という人物に1貫300文(だいたい10万円前後)のお金を渡し、鎮守八幡宮で神楽(かぐら)を舞わせるように命じたのです。

琉球人たちは慣れない気候の土地でドンチャン騒ぎの宴会をして体調をくずしてしまったのでしょうか。神聖な神社のなかで大騒ぎしたとなれば、神様のタタリと思われてもしかたがありませんね。ところがお金を渡された五郎三郎、神楽代に300文だけを払い、残りの1貫はフトコロに入れてしまいます。要するに着服です。結局この行為はバレて、さらに部外者に部屋を貸したことが違法だったために五郎三郎はクビになってしまうのです。

もうひとつは1575年(天正3年)、薩摩(鹿児島県)の戦国大名・島津氏のもとを訪れた琉球の使節団。この時の外交交渉は島津氏が琉球へ圧力を加え、様々な条件を強要する厳しいものだったのですが、琉球使節は宿舎でやっぱり酒宴を開いています。島津側は琉球人の飲みっぷりを「ことのほか大酒」と評しています。宴会は「じゃひせん(蛇皮線。三線)」を弾き、琉球の楽童子(小姓)による歌や太鼓もある大変にぎやかなものとなりました。最後はカチャーシーだったかどうかは定かではありませんが(笑)、緊張した外交関係のなかでも琉球人は三線と酒は忘れなかったようです。琉球は交渉で負けても酒飲み勝負は圧勝だったということでしょうか。まるで現代のウチナーンチュを見るようで、彼らの姿がありありと想像できますね。

参考文献:佐伯弘次「室町前期の日琉関係と外交文書」(『九州史学』111号)、『上井覚兼日記』

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2008年1月31日 (木)

「中国化」する琉球

琉球というと中国の影響が強くあって、昔は中国風の文化だったのが、近世(江戸時代)に薩摩藩に征服されてから次第にヤマト(日本)化していったと考える方も多いと思います。しかし、事実は全く逆。琉球は薩摩に征服された後に「中国化」していくのです。 

もちろん琉球は中国(明・清)の朝貢国だったので、中国の影響が全く無かったわけではありません。しかし近世の琉球は中国文化をとくに積極的に取り入れていきます。

例えば首里城で行われる儀式。近世以前の王府儀礼は中国の拝礼様式を参考にしつつも、何とヤマトの陰陽道の方式が取り入れられていました。王府の重要な儀礼のひとつである元日の天を拝む儀礼では、年ごとに縁起のいい方角に向かって王や官人が拝んでいましたが、これは「歳徳神(恵方)」の信仰にもとづくものです。この信仰は節分に食べる恵方巻き(まるかぶり)を思い浮かべていただければわかりやすいと思います。

しかし、この恵方を拝む古琉球伝統の風習は1719年に廃止され、北方の方角(中国皇帝のいる北京の紫禁城)を拝むという方法に変更され、より中国的な形式が強調されます。琉球の天を拝む儀式はヤマトの信仰に影響されつつも、王を“太陽(テダ)”や“天”と一体と見る古琉球の伝統的な考えをもとにしていましたが、本来、天を拝む儀式は中国皇帝(天子)だけに許されたものでした。近世になり中国的な考えが意識されだすと、「これはけしからん」という批判が出てきます。そこで王府は、この儀礼は中国皇帝の方向を拝むためだと何とか理由づけして、中国風に変更して続けていくのです。

さらに近世の琉球社会では、中国の儒教をもとにした価値観が広まっていきます。それ以前の儒教は中国系の久米村など一部で受け入れられていたにすぎませんでした。ところが、琉球王府は儒教イデオロギーを国家的な思想として採用していきます。

久米村によって主宰されていた孔子廟の祭礼は、やがて国家的祭礼に引き上げられ、歴代王に対する祭祀も久米村の意見を聞いて、可能なかぎり中国式の祭祀方法に変更します。国家の教育も儒教をもとに行われるようになり、庶民には儒教倫理のテキスト「御教条」を読み聞かせていきます。さらに中国の風水思想も導入され、風水にもとにした亀甲墓・シーサー・石敢当・ヒンプンなどが次々と琉球に定着します。こうした文化が琉球全体に普及したのはこの時期です。

琉球の「中国化」はこれだけではありませんでした。何と、琉球の海を航行する船も「中国化」します。意外に思うかもしれませんが、かつて琉球の一般的な船は中国のジャンク船ではなく、和船タイプの船でした。ジャンク型の進貢船はむしろ例外的なものだったのです。18世紀になると、琉球の船は王府の指導によって「マーラン(馬艦)船」と呼ばれるジャンク船タイプにモデルチェンジされます。マーラン船は安価で頑丈な造りの高性能船だったので、またたく間に広まっていくのです。

なぜヤマトの支配下に入ったはずの琉球で、中国的志向が強められていったのでしょうか。ひとつは羽地朝秀から蔡温の時代にかけて行われた琉球の構造改革が影響していると考えられます。古い時代に代わる新しい価値として、儒教に代表される中国的なものが重視されたのではないでしょうか。また、中国・清朝が次第に琉球の朝貢貿易を縮小させようとしたことにも原因があるとみられます。琉球はこうした清朝の動きに対し、「中華」に忠実に従う「優等生」ぶりをアピールすることで、従来の関係を維持しようと考えたのです。中国との関係をこれまで通り維持することは、貿易活動のみならず、中国皇帝の権威によって王が国内での求心力を得るために絶対必要でした。

それともうひとつ。近世の琉球はヤマトの幕藩制国家に従属した存在となって様々な政治的規制を受け、また経済面においてはヤマトとの一体化が進行していました。琉球はヤマトに完全に呑み込まれないように、中国を拠りどころにして新たな琉球のアイデンティティを確立しようとしたと考えられるのです。日中両国の間で絶妙のバランスをとって「琉球」という主体を存続させようとした戦略をそこに見ることができるのではないでしょうか。

参考文献:豊見山和行『琉球王国の外交と王権』、赤嶺守『琉球王国』

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2007年12月11日 (火)

将軍と皇帝に会った琉球人

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近世(江戸時代)の琉球は中国(清朝)の朝貢国でありながら日本の幕藩制国家にも従属する国家で、中国と日本に使節をそれぞれ派遣していました。中国へは北京の皇帝のもとへ朝貢使節を派遣していたことはよく知られています。一方、日本へは江戸の徳川将軍と薩摩藩の島津氏のもとへ不定期ですが使者を派遣して服属の儀礼を行っていました。いわゆる「江戸上り」と「中城王子上国(じょうこく)」です。

このような歴史的な性格から、琉球では当時の東アジアでも珍しい体験をする人物が登場します。その一人を紹介しましょう。彼の名は毛維基(もう・いき、城田親方)。久米村の毛氏5世で、元祖は17世紀に中国から渡来した華人です。維基は久米村行政のトップ(総役)の地位についたエリートで、書道や芸能にも通じていました。彼は何と、中国皇帝・徳川将軍・琉球国王という3カ国の「元首」に会ったことのある人物なのです。

1752年、国王尚穆(しょうぼく)の即位によって、それを承認したお礼として琉球から使節団が江戸へ向かいます。この時、維基は音楽や舞踊を指導する監督官(楽師)として江戸へ同行しています。使節団は薩摩から大坂を経由して、江戸城で将軍・徳川家重(吉宗の長男)に謁見。将軍の前では維基が指導した琉球音楽を披露して、彼は将軍から白銀を与えられました。

また維基は福建の琉球館(いわば大使館)に駐在するスタッフとして中国へも行っています。彼が属する久米村は中国系の渡来者を中心とした士族のグループで、中国への外交文書作成や通訳、そして琉球国内において儒教教育などを担当する仕事に多くの人が従事していました。そして1769年、彼は朝貢使節のナンバー2(副使)として北京へ向かい、紫禁城の午門(ごもん)で乾隆帝(けんりゅうてい)に会い、その顔を見ています。乾隆帝といえば中国史上最大の領土を有した清朝最盛期の皇帝。彼に直接対面した維基は「これは千年に一度あるかのめぐり会いで、家門の栄光である!」と感激しています(日本の将軍と会った時にはコメントなしでしたが…)。

当時は身分制社会で、そこらにいる普通の人間が支配者の顔を見るなど滅多にありません。また江戸時代の「鎖国」政策に代表されるように、自由に国や地域を移動できない状況でした。そのようななか、一人の人間が3カ国の「元首」に直接会ってその顔を見ることは異例中の異例です。当時の日本では中国皇帝の顔を見た人間などまず、いません。もちろん中国で徳川将軍の顔を見た人も。

維基がなぜこのような珍しい体験ができたかというと、先に述べたように、近世の琉球王国が日本と中国との外交関係を維持して成り立っていたことと関係しています。琉球では外交や交易の仕事をすること(旅役といいます)が大きな功績としてカウントされ、多くの琉球人が海外へ出向いていきました。毛維基のような国際体験をすることは、当時の琉球の人々にとって決してありえないことではなかったのです。

※【画像】は今帰仁グスクにある「山北今帰仁城監守来歴碑記」(1749年建立)。この碑文の文字は毛維基が書いた。

参考文献:渡辺美季「毛維基の生涯―「山北今帰仁城監守来歴碑記」の文字を書いた人物―」(『今帰仁グスク』創刊号)

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2007年10月30日 (火)

100年前のグウタラ対談

100年前の「琉球新報」にはまだまだ面白い対談があります。今回は大正時代のダメダメさんたちの対談です。以下に紹介するのは当時そのままの文章で、決して僕の創作ではないことにご注意。

************

◎対話(琉球新報・大正2年9月18日)

場所:バクチャ屋(那覇の辻付近)に近き墓と墓の間の芝生、月は無けれど星の降るような晴れたる夜。風なく蒸し蒸しする晩なり。前方のかなた、闇に包まれたる海、波立たず夢のごとくに映る。後ろの方、廓内より三味線の音とともに艶めかしき歌など聞こゆ。墓地のかなたの方に2、3人連れ酔客彷徨(*)す。男2人ビール瓶に酒を満たしラッパ呑みに飲みつづけながら帰る。連れの娼妓2人を背にし、やや離れたるところにて■のうなるように歌を歌う。

甲の人「・・・本当に君、何か方法を尽くして僕は生活を変えなくちゃならないね。モット真実な心持ちで自分で尊敬ができるような生活をたどるようにして、今みたような(今みたいな)、こうしたグウタラな生活から脱したい。真実そう思うんだから・・・」

乙の人「むろん生活の転換は早晩こなくちゃならないさ。今通りの生活をいつまでも続けていられるものか。だが生活転換の一方法として君が内職をするとしても、一切酒色の誘惑が断たれると思うのか。一心になって仕事はするはずだが、今まで荒らし歩いた廓の華やかさに心が引かれないという事が一切ないと思うのか。

思い出すと浮き浮きとした心持ちに飛び出すはずだよ。今のグウタラな生活をなぜ恐れる、あくまで続けてみるさ。酒も飲む、女郎も買うさ、して仕事も全力をあげて勤めていけば心もすく暇はなくてクヨクヨ思うこともないさ」

甲の人「それくらいの元気があるなら何も思わないさ。が、夜遅くまで酒を飲んだり女と夜をふかしたりすると、もう翌日ダルクテ頭の中がねばついているようで物憂くもなるし、また何でもないのに恐怖に襲われたりして無為に1日を暮らすのが怖い。こうしていたずらに身心を腐らせていって、末はどうなるかと思えば心細くもなる。

僕は4、5日前、母が10銭(今の価値で500円)くらいの駄菓子を買ってお寺参りに行く後姿を見て泣くにも泣かれない気になっていた。アノヨボヨボした母の姿、黒焦げになってアノ年まで働く母の苦労を思うて、ツイツイ不甲斐なき身が呪わしくなる。

貧乏の家庭で貧しく育つのだから兄姉の仲も面白くはない。1日だって家族とともに楽しんだということはない。家が面白くないのだから飛び出して歩きまわるが、何ら帰趨(*)するところもないから、一生こうヤキモキで暮らし終わるだろう。40か50くらいになって落ち着く頃になると、どこか場末の裏長屋で呑気な鼻歌を歌うだろう。夏になっても暑苦しい袷(*)を着て貧乏ゆすりで模合金(*)の5、60銭(今の価値で3000円)を調達に駆けまわったりするはずだろう」

(女2人に挨拶もせず静かに彼方、廓内へ降りて行く)

乙の男「いくら栄達を望んだところで達し得られないのだから生きられるだけ生きてみるさ。僕だって同じさ。家に万の金を貯えて、雇い人も数人使役し、西洋間の一室くらいあって、そこで気楽に寝起きができれば道楽も思いきっての道楽をするし、妾の2、3人は養って君らみたいな貧乏人は1年も2年も遊ばしておいて娼妓の1人くらい引かせて(*)進上するね。アア金が欲しい、金なるかなだ。マネー、イズ、アウルマイテイ(Money is almighty)だよ」

甲の人「ん、あいつめ(連れの娼妓)は逃げやがったねー。こんな心細い話をするのだから愛想を尽かして帰ったんだよ。いいさ僕が惚れてるんでなし、心安くしてくれるんだから行き行きしていただけだ。愛想尽かしを喰えば結局幸いだ。

だが僕はツクヅク女郎に金を貢ぐというのが馬鹿馬鹿しくなったね ―と言ってもたかだか月に5円(今の価値で2万5000円)もやってはいないが― 底ぬけ騒ぎで思う存分遊ぶのが真実楽しいならそれだけの報いに金もつかうが、もう酒飲んで遊ぶというのも大して興味がなくなったし、心底から女に惚れるという心の張りもないし、縦し(たとえ)したたか惚れてみたところで女郎と一生の苦楽をともにすることなどはできた話でもないのに切々と通って、いったい何で金を使うのか疑わしくなるね。本当にふるいつきたいほどの新生活を開拓しなくては浮かぶ瀬はないね」

乙の人「とにかくお互いに生活難などと話はするが、体全体を震撼するほどまでに痛切に感じないからこうグウタラな日を送っているはずさね。何か魂を振るわすような新奇な驚異なものにでもブッつからなきゃ駄目だろう。結局内容が僕らは貧弱だ。生活に対する奮闘力がとぼしいからこう苦しむのだ。時代の罪だ、社会が悪いんだ」

(おわり)

彷徨(ほうこう) …当てもなく歩き回ること。さまようこと。
帰趨(きすう) …行き着くところ。
(あわせ) …裏地をつけて仕立てた着物。秋から春先にかけて用いる。あわせの衣。
模合(もあい) …頼母子講や無尽講の一種で、広く沖縄の庶民に親しまれている相互扶助的な金融のしくみ。
引かす …芸者・遊女などの借金を払って、自由な身にしてやる。身受けする。

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二人の対談によると、結局時代と社会が悪いそうです(苦笑)。これって今でもしばしば耳にするような・・・

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