2015年4月 8日 (水)

緑茶大好き琉球人!?

沖縄でおなじみのお茶と言えば、ジャスミンの香りが特徴のサンピン茶。中国から伝わって現在でも親しまれています。ウーロン茶も本土で広まる以前からすでに沖縄で飲まれていました。しかし琉球王国の時代には「清明茶」や「高山茶」といった中国系のお茶のほかに、日本の緑茶も広く飲まれていたのはあまり知られていない事実です。

古琉球の時代、都の首里や港町の那覇には多くの禅宗寺院がありました。発掘調査では寺院跡から天目茶碗などが多く出土していて、仏教とともにお茶の文化も入っていたようです。1600年前後には堺から喜安という茶道に通じた日本人が渡来し、茶道の師範として王府に取り立てられました。堺といえば、あの千利休のいた場所ですね。喜安も利休の流れをくむ茶人だったと伝えられています。やがて琉球で茶道は士族のたしなむ芸の一つとして位置づけられていきます。

当時の琉球人はどのようなお茶が好みだったのでしょうか?最近の研究によると、熊本県人吉市と球磨(くま)郡一帯で作られた求麻茶(くまちゃ)が人気だったといいます。求麻茶は士族から庶民まで広く好まれ、薩摩藩を通じて琉球に大量に輸入されていました。その理由は、求麻茶が緑茶のなかでも香りが強い種類だったこと。どうやら琉球の人々は、サンピン茶のような香りのあるお茶が好きな傾向があったようです。ただ、あれだけ人気のあった求麻茶は、現在の沖縄では忘れ去られてしまいました。

お茶は輸入するだけでなく、琉球国内で生産することも試みられました。1627年に薩摩からお茶の種を持ち帰って現在の宜野座村漢那で栽培したのが最初で、1673年には久米島でも茶園が作られています。1733年には浦添に王府経営の茶園が開かれ、王家のために和漢の茶が生産されました。浦添市にある茶山団地がその場所です。現在では茶園の痕跡はありませんが、その名前だけが当時を伝えているわけです。王国滅亡直後の1882年(明治15)には年50斤(約30キロ)が生産されたといいます。

琉球の人々はサンピン茶だけでなく、さまざまな種類のお茶を楽しんでいたことがおわかりでしょう。ただ、あまりの琉球人の求麻茶好きぶりに、産地の農民たちはお茶の増産、重労働を強いられ、ついには生産者たちが百姓一揆を起こしてしまいます。まさか琉球の人々は自分たちが楽しんでるお茶のおかげで、海の向こうでそんな事態を巻き起こしてしまったとは夢にも思わなかったでしょう…

参考文献:武井弘一「茶と琉球人」(『南島における民族と宗教 沖縄研究ノート』19号)

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2015年4月 7日 (火)

沖縄は昔から「長寿の島」だった?

沖縄といえば「長寿の島」として知られています(最近はメタボ化でヤバイですが…)。食べ物や気候、ストレスをためない大らか(テーゲー)な気風が影響しているとも言われますが、歴史的にみてどうなのでしょうか。

王国時代といえば現在よりも医療設備は未熟で、栄養や衛生面でも劣っています。たとえば士族の毛氏(久米村)家譜をみると記載の256名中、平均寿命は47.4歳。幼少期に死んでいる例で最年少は1歳、18歳以下の死亡者数は19名(約7%)です。やはり年少者の死亡率は現在よりも高いのはまず間違いないでしょうが、一方でどれだけの長生きの人たちがいたのでしょうか。

王国の正史『球陽』には、18世紀に入るとしばしば長寿のお年寄りを表彰する記事が登場します。たとえば1753年には読谷山間切(現・読谷村)の楚辺村に住んでいた真刈(まかる)島袋が100歳になったので王府に表彰され、親雲上の位と糸綿、綿布を与えられています。こうした長寿の表彰記事は1746~1876年の間に51件も出てきます。

そしてその最高齢は…なんと105歳!伊良部島の佐和田村に住む女性、志良屋さん。1843年に表彰されています。日本の渚百選にも選ばれている佐和田の浜が心身を癒していたためでしょうか?(笑)おそらく王国時代の最高齢記録はこの方でしょう。彼女は王府より、毎月米1斗2升を支給されることになりました。亡くなった年齢はわかりませんが、表彰後もしばらく存命だったはずです。

全体の傾向をみると、高齢者の暮らしている地域は首里や那覇、離島地域が若干多いものの、とくに大きな偏りはなく、また身分によって差があるということでもないようです。プレゼント品はだいたい木綿布とか紬。まれにお米支給や扁額も与えられています。たとえば1869年に100歳になった首里の仲嶺里之子親雲上元孟さんは「太平上寿」と書かれた額をもらっています。あと、与えられるのは名誉称号や位もあります。「黄冠(親雲上)の妻」や間切の名目上の領主などです。

こうしてみると、意外にも沖縄は昔から長寿の島だったんじゃないかと思えてきます。では全体として長寿の人がどれだけいたのでしょうか。1872年には王国全体の高齢者の数が調査されています。それによると80歳以上の高齢者は2005名(男552名、女1453名)。この当時の全人口は16万6782名なので(『琉球藩雑記』)、高齢者の割合は1.2パーセントほどです。現在の沖縄県の人口に対する75歳以上の高齢者の割合はおよそ8パーセントですから(2010年時点)、やはり高齢化は進んでいると言えるのではないでしょうか。

ちなみに1872年の調査で、王府は高齢者の皆さん全員に扇子やタバコ、タバコ入れを配ったそうです。

参考文献:『球陽』、田名真之『沖縄近世史の諸相』、沖縄県「沖縄県高齢者保健福祉計画(平成21年度から23年度)」、『久米毛氏四百年記念誌 鼎』

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2015年4月 4日 (土)

安慶名グスクに新たな穴!

安慶名グスクの石積みに不思議な穴が開いているのはブログでも紹介しましたが、以前この穴の方角をはかったところ、みごとに東西の方角に一致していました(こちら)。この穴は軍事用の銃眼ではなく、意図的に方角を合わせた宗教的な意味があったのではないかと推測しました。

その後、たまたま安慶名グスクに行ったところ、草が刈られた城壁外から別の穴らしきものを発見(クリックで画像拡大)。

Img_4012_2
さらに調査を重ねたところ、同行の田本翼氏が該当箇所の城壁内においても穴を発見、その穴は外部に貫通していることを確認しました。安慶名グスクはこれまで知られていた穴のほかに、もう一つの穴が存在したのです(すでに教育委員会で確認済かもしれません)。

Img_4004
Img_3988
そして、気になる穴の方角。なんとこの穴は南北の方角に一致するではありませんか!これは偶然の一致ではなく、意図的に穴を東西・南北の方角に合わせたとしか考えられません。なお画像を見てもわかるように、奥行きと穴の大きさから銃眼として使用するのはかなり無理があります。

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今回の調査の結果、以前僕が唱えた「グスクの穴と方角の思想」(『琉球新報』2010年12月2日)の推論が証明されたといえるのではないでしょうか。

中城グスクも同様に、グスクの城壁に東西南北の穴を通す慣行があったことは間違いありません。次の問題は、それらが具体的にどのような意味を持っていたのか、そのナゾを解明することです。後続の研究を待ちたいと思います。

※調査に同行し協力いただいた田本翼氏に記して感謝します。

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2015年4月 1日 (水)

古琉球ハチマチの巻き方(試案)

琉球役人の冠として知られるハチマチ。古琉球時代は1枚の布を巻いたターバンでした(こちら参照)。

このハチマチ、どのように巻いていたのでしょうか。先に紹介したベトナムのカン・セプから「再現可能では?」と思い立ち、現存する冠化したハチマチの形状から推定して復元してみました(画像はクリックで拡大)。

Photo
この方法で巻いたものは次のようになりました(布が短かったのでヒダヒダは少ないですが、構造は同じです)。

Img_3961
別の巻き方である可能性も当然ありますが、ひとまず冠状ハチマチの巻き方と同じように再現できました。これから古琉球の歴史ドラマが制作されるなら、これでいけそうな気がします(笑)さらに検討を重ねていきたいと思います。

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2015年2月28日 (土)

ベトナムの「ハチマチ」

琉球のハチマチはベトナムのターバンの影響を受けた説(東恩納寛淳)がある、と「ゆるゆる琉球史マンガ(1)」で描きましたが、ベトナムのターバンについてより詳しい解説がありましたので、紹介します。

(1:15頃から)これはまさに「ハチマチ」ではありませんか!

ベトナムのターバンは「カン・セプ」や「カン・ドン」と言われるもので、現在では冠状に固定され売られているそうです(これもまたハチマチと同様ですね)。琉球のハチマチは18世紀以降に上部にフタが付いたので、それ以前はカン・セプと同じような姿をしていたはずです。

またマレーシアにも「タンコロ」と呼ばれるターバンがあり、これもハチマチのようです。

「カン・セプ」についての詳しい解説は【こちら
「タンコロ」についての詳しい解説は【こちら

15~16世紀、琉球は東南アジアとさかんに貿易していました。ハチマチはそうした交流のなかで生まれた可能性があります。琉球・沖縄文化というと中国や日本(ヤマト)の影響が常に議論されていますが、「沖縄のなかの東南アジア」を探してみるのもオモシロイかもしれませんね。

※ハチマチとの関係については【こちら】も参照

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2014年11月 1日 (土)

座喜味グスクの穴

前回は護佐丸と座喜味グスクについて書いたので、関連して座喜味グスクの「穴」について紹介しましょう。

座喜味グスク、最近はイベントのためか城郭外部の周辺がキレイに草刈りされていました。僕をふくめて座喜味グスクを訪れる観光客は内部は見学しますが、城壁外をじっくり見て回ることはまずありません。そこで良い機会なので座喜味グスクの外を一周してみました。

Img_1590

すると…一の郭の北側城壁の根本に、何やらおかしなものがあるじゃないですか。「穴」です。

Img_1605_2
よく見ると、穴の下部は平らな石灰岩を敷いていて、これは排水口だと考えられます。座喜味グスクは1970~80年代に修復工事が行われていて、全ての石積みが護佐丸の時代のものではありません。しかし、この「穴」部分の石積みを見ると明らかに修復されたものではなく当時のもので、復元工事の際に追加した可能性は低いかと思います(なお、この穴の隣にもう一つ同じような穴があり、石垣は修復したもののようです)。

Img_1601
内部をのぞいてみると、底にはしっかりと石が敷かれ、かなり奥まで続いています。底は傾斜がついていて、やはり排水のための設備のようです。座喜味グスクの報告書を見ると一の郭で3ヵ所の排水口が見つかったとありますが、いずれも城壁内側のもので(現在は東側に一つ確認できます)、あるいは内部の穴がこちらに連結しているのかもしれません。

Img_1608

ここで思い出すのが、中城グスク北の郭外側で見つかった排水施設です。グスクが排水機能なども考えて築かれていたわけですが、中城グスクへの引っ越し以前にも、護佐丸はすでにこのような設備を備えたグスクを作っていたことがわかります。

参考文献:『国指定史跡 座喜味城跡環境整備報告書(Ⅱ)』

【追記】座喜味グスクの穴の方角をはかったところ、見事に南北方向に一致し、また一の郭内部の穴は東西方向にほぼ一致していました。ここの穴は排水を目的としたものですが、わざわざ東西南北に一致させるというのは、何か宗教的な意味も併せ持っているのでしょうか。

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2014年10月25日 (土)

護佐丸が引っ越した年

護佐丸といえば琉球史では有名な武将。尚巴志の琉球統一をささえ、やがて1458年に護佐丸・阿麻和利の乱で勝連按司の阿麻和利によって滅ぼされます。

彼はもともと恩納間切(現恩納村)の山田グスクの出身です。当時、沖縄は三山という3つの勢力に分かれていましたが、中山の尚巴志にしたがい、やがて読谷山(現読谷村)に座喜味グスクを築き、読谷山按司となります。

山田グスクから座喜味グスクへと移った時期については、これまで北山滅亡(1416年)後とされてきました。しかし北山の脅威がなくなってから、わざわざ多大な労力と資材を投じてグスクを築くのか?という疑問をずっと感じていました。

これについて、18世紀に護佐丸子孫が書いたとされる『異本毛氏由来記』には次のようにあります(一部現代読みになおしました)。

山田城より読谷山地方は中山第一の関所にて候ゆえ、永楽八、九年(1410~11年)ごろ、尚巴志様御世代、中城按司護佐丸、右鎮守のため読谷山按司に封ぜられ、その地へ城をあい構え候。

つまり読谷は中山と北山の接する最前線の要所なので、北山滅亡以前の1410年頃に座喜味グスクを築いたということです。こちらの記述のほうが自然で矛盾なく説明できます。なお「中城按司」という記述は当時こう呼ばれていたのではなく、近世期の書き手が護佐丸を最終の肩書で彼を表現したものです。

いわゆる「正史」以外の文献もじっくりみていくと、ほかにも面白い発見があるかもしれませんね。

参考文献:曽根信一「護佐丸について、琉球国時代に書かれた文献資料」(『読谷村率歴史民俗資料館紀要』19号)、上里隆史『海の王国・琉球』

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2014年9月20日 (土)

復元!中城グスク正門

世界遺産のグスクの一つ、護佐丸の居城であった中城グスク。現在のグスクの入口は実は裏門で、本来なら反対側のアーチ門ではない箇所が正門でした。

正門の構造は石垣の上に櫓を載せる形式です。残念ながら当時の建物はすべてなくなっています。そこで今回、画像を加工して想定復元してみました【画像。クリックで拡大】。櫓は首里城瑞泉門を使用しました。

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なんと!立派な正門ではありませんか。名将・護佐丸のお宅にピッタリの威厳ある姿です。首里城瑞泉門の櫓を合成したのは、中城グスクとほぼ同時期のもので門が同形式であるからです。中城からは古琉球当時の瓦は大量に出てこないので、屋根はおそらく板葺きだったと考えられます。また1461年の朝鮮漂着民の記録では、首里城正殿の壁面は朱色の顔料で塗られていたとありますから、門も同じ仕様と推定されます。

しかし実際に視覚化してみると、中城グスクのイメージが変わってしまいますね。

※中城グスク写真は『琉球戦国列伝』掲載の和々さん撮影

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2014年9月13日 (土)

沖縄最古の木製墓

沖縄独特のお墓といえば亀甲墓が知られていますが、こうした形式は近世になって導入されたもので、それ以前は崖下のくぼみや洞窟を利用したお墓でした。浦添ようどれや小禄墓に見られるように、崖下のくぼみに石を積んでふさぎ、墓室としますが、さらに古いものになると、その場所に木製の建物を設置します。今帰仁の百按司墓が代表的な木製の家型墓です。

あまり知られていませんが、宜野座村にも古い時代の木製家型墓が残されています。漢那のウェーヌアタイ遺跡にあるもので、洞窟の壁際に置かれています。部材はチャーギ(イヌマキ)を使い、内部には実に170体以上の遺骨が安置されていました。この墓は近代まで使われており、最後に葬られたのが大正元年(1912)だそうです。

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その形式は今帰仁の百按司墓のものとほぼ同じです。実は現地にあるこの墓は2005年に復元されたもので、現物は宜野座村立博物館で見学することができます。

Img_0839
解体修理の際、墓の木材が年代測定にかけられました。すると…驚くべき事実が明らかとなりました。この木製墓が製作された年代が、1350年頃のものと判明したのです。1350年といえば、察度王が即位した年。中国への朝貢も開始されておらず、尚巴志も生まれていません。まだ沖縄島が三つに分かれている時代です。つまり、この墓は沖縄で最古の木造建築ということになるのです。

尚巴志の築いた首里城や、南山の大里グスク、阿麻和利の勝連グスクにあった正殿もまだ建てられていない時代といえば、その古さが実感できるかと思います。700年近くも風雨に耐え、現存しているのです。

沖縄各地にはまだまだ調査が進んでいない木製墓があります。こうした墓も年代測定すれば、さらなる発見もあるかもしれません。今後の調査が進むことを期待しましょう。

参考文献:パリノ・サーヴェイ株式会社「漢那ウェーヌアタイ木製家型墓の放射性炭素年代および樹種」(『宜野座村立博物館紀要 ガラマン』12号)、宜野座村立博物館「漢那ウェーヌアタイ木製家型墓」

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2014年6月22日 (日)

護佐丸の墓に落書き(2)

前回の続き)

100年前の落書きは、はたして残っているのでしょうか。実際に護佐丸の墓に行ってみました。

行ってみると、護佐丸の墓の前には確かにフクギがあります!久沢生が彫ったのもフクギ。投書にあった通りの木です!これまで墓にばかり注目して、フクギはまったく目に入っていませんでした。

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フクギの幹を見てみると…何やら表面がデコボコになっています。これは掘り込みの跡なのか、あるいは自然の造形なのでしょうか?

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そして…並んでいるフクギの木の1本を見てみると、これは…!自然の造形ではなく、明らかに人工的な掘り込みがあるではないですか!読んでみると、「首里バス」と見えます。

Img_0938_2
赤線で囲うと、こうなります。

Photo_3
先に紹介したフクギも赤線で囲うと、「水?試?四?」らしき文字に見えます。これも誰かが彫り込んだものの可能性が高いです。これは「水産試験場」の略でしょうか?ちなみに沖縄の水産試験場は1921年(大正10)に発足しています。

Photo_4
残念ながら久沢生の「琉球新報」の文字を確認することはできませんでした。しかし、確認できた「首里バス」は、1935年(昭和10)から1974年(昭和49)まで運行されていたバス会社。つまり、掘り込みは古ければ戦前に、新しくても復帰直後に彫り込まれたものであると考えられます。

今では護佐丸の墓を訪れる観光客はほとんどいませんが、戦前から戦後・復帰直前の時期にかけて護佐丸の墓が観光スポットとなり、見学客が記念として敷地内のフクギに文字を彫る習慣があったことがうかがえます。

久沢生の彫った文字は見つからなかったものの、今回の発見で忘れ去られていた数十年前のヒトたちに出会えた気がして、ちょっと感動してしまいました。フクギの幹をより丹念に見ていけば、もしかしたら「琉球新報」の文字を発見することができるかもしれません。

皆さんも護佐丸の墓に行く機会があれば、ぜひ久沢生の落書きを探してみてください。

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