2009年7月 1日 (水)

カタツムリと虫の食べ方

みなさんはエスカルゴをご存じでしょうか。カタツムリの入った殻にガーリックバターを練りこみ、オーブンで焼いたもの。エスカルゴはフランス料理の高級食材として知られ、ワインの産地でもあるブルゴーニュ地方の代表的な料理です。食感は肉質のやわらかい貝類といったところでしょうか。

カタツムリを食べるなんて気持ちが悪いと考える人もいるかもしれませんが、実はこのカタツムリ、かつての沖縄では一般的な食材で、実に1950年代まで食べられていました。食料難だった時代には貴重なたんぱく源だったのです。

〔追記〕1970年代まで食べられていたとのコメントをいただきました。

石垣久雄「カタツムリの食べ方」(『南島考古』22号)で、聞き取りをもとにカタツムリの調理方法が紹介されています。それによると、カタツムリは主に汁にして食べられていたとのこと。

(1)畑などにいるカタツムリを採取する。雨の日だとたくさんゲットしやすい。

(2)カタツムリをしばらく置いて、体内の内容物(要するに糞)を排出させる。

(3)カタツムリを入念に水洗いしてヌメリをとってからナベなどで煮る。鍋からカタツムリが逃げないよう、ナベの縁には塩をこすり付けるとよい。

(4)沸騰したら野草などを入れて出来上がり。さあ、めしあがれ!

※よいこのみなさんはマネしないでください。

八重山の近世(江戸時代)集落からは、廃棄された大量のカタツムリの殻が見つかるそうです。1479年の朝鮮漂着民の証言(『朝鮮王朝実録』)によると、琉球の各島では日常的にカタツムリを煮て食べていたといいます。

また約3400年前の熱田原貝塚(南城市)からも、陸上産のマイマイが海の貝とほぼ同じ量で出土しています。カタツムリは沖縄古来の「伝統」食材だったわけです。カタツムリ食は、豊かさを獲得した現代においてその歴史的役割を終えましたが、もしかしたら洗練されて琉球版エスカルゴとして発展していた可能性もあったかもしれません。

ところで、朝鮮漂着民の証言で気になる部分がありました。

「沖縄島ではイナゴ・キリギリスのような虫がいて、大型である。人は好んでこれを食し、市場で売られている」

イナゴを食べる習慣は本土に残されていて、たとえば長野では今でもスーパーにイナゴの甘露煮が並びます。証言ではその大きさを特徴として挙げていることから、オキナワキリギリスの可能性があります。この虫は琉球列島の固有種で大型。現在、絶滅も懸念される希少昆虫です。

オキナワキリギリスの個体数が減少した理由として、沖縄で食用だったことの影響もあったかどうかは定かではありませんが、いずれにせよ古琉球の人々は昆虫が大好物だったことがわかります。

参考文献:石垣久雄「カタツムリの食べ方」(『南島考古』22号)、高宮廣衞『沖縄の先史遺跡と文化』

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2009年5月27日 (水)

本当だった?泉の伝説

生活になくてはならないのが水。今でこそ県内にはいくつもダムが作られ、水道の蛇口をひねればいつでも水が出てきます。では水道が整備される以前はどうしていたのでしょうか。人々の暮らしを支えていたのは、各地にあった「カー(川)」や「ヒージャー(樋川)」と呼ばれる天然の湧き水でした。

南西諸島で多く見られる琉球石灰岩は太古のサンゴが堆積してできた岩です。石灰岩は細かい穴が無数にあいているため、雨が降ると地下にしみ込んでしまいます。地下水はさらに水を通さない泥の層で止まり、やがて石灰岩と泥の層のすき間から地上に湧き出てくるのです。

こうした環境を活かし、沖縄の人々は湧き水を中心に生活を営んできました。村々には共同水場であるムラ(村)ガー、産湯で使うウブ(産)ガーなどがあり、泉は信仰の対象にもなっていました。

王国時代の那覇は「浮島」と呼ばれた島でしたが、ここでは井戸を掘っても塩分をふくんだ水しか出ず、対岸の落平(ウティンダ)という場所から湧き出る水を飲料水にしていました。くんだ水は船で那覇の浮島まで運ばれていました。那覇港に海賊などの敵が侵入した際、王府は落平に兵士を派遣して防御することを定めていましたが、水源が那覇の生命線だったことを示すエピソードです。

また首里城・瑞泉門の横にある龍樋(りゅうひ)は国王だけではなく、中国から来た冊封使の飲み水としても利用されていました。龍樋の水は毎日、那覇の冊封使のもとまで届けられたといいます。

ところで沖縄各地の湧き水には動物にまつわる伝承があります。例えば糸満市の嘉手志川(カデシガー)。昔、ひでりが続き村人が苦しんでいた時、ずぶぬれになった一匹の犬が山から現われたので、この犬を追ったところコンコンと湧き出る泉を見つけた、という伝承です。動物が泉を発見したという説話は沖縄各地に見られますが(牛や馬など)、犬が発見したという話がもっとも多いそうです。

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【嘉手志川】

この話は伝承にすぎないのでしょうか。実は、天女伝説で有名な森の川(宜野湾市)付近の遺跡(真志喜富盛原第二遺跡)から、グスク時代のものと考えられる7匹以上の犬の遺体が発見されました。犬は水路の近くに葬られていて、琉球犬とみられます。湧き水に対して、犬が何らかの特別な宗教的意味を持っていたことがうかがえます。

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【森の川】

この泉が犬の発見したものだったかどうかは定かではありませんが、現代に伝わる泉と犬の伝説がグスク時代にまでさかのぼる可能性がある、ということだけは言えそうですね。

参考文献:東恩納寛惇『南島風土記』、宜野湾市教育委員会文化課『宜野湾市文化財調査報告書第27集:真志喜富盛原第二遺跡・真志喜蔵当原遺跡』

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2009年4月29日 (水)

渡嘉敷に恐竜!?

史料をめくっていると、たまに不可解な出来事を記述した箇所に出くわすことがあります。琉球王国の正史『球陽』には、なんと1698年に渡嘉敷島の海で「異獣」が目撃された怪事件が記されています。

それによると、渡嘉敷島の海浜を巡視していた役人たちが、付近の黒島の海中から突如出現しサンゴ礁のフチにうずくまる異様な動物を発見したとあります。その動物の体は黒いウシに似ていて、顔と耳・目はブタのようであったとのこと。4本の脚には水かきが付いており、まつ毛とヒゲは白色、尾はまっすぐで約30センチ、太さ約10センチ。鳴き声はウシのようで、うずくまる姿は犬のようであったといいます。驚いた役人たちは村へ知らせに行き、翌日、大勢の村人たちと現場へ向かいましたが、すでに怪生物の姿はありませんでした。

慶良間諸島の近海にはクジラが出現することが知られていますが、身体的特徴からみると、どうもちがいます。ジュゴンとも一致しません。我々が見たことのない新種の生物なのでしょうか。まさか絶滅せずに生き残った恐竜の一種?ネッシーやイエティ(雪男)のようなUMA(未確認生物)なのでは!?(ナ、ナンダッテー)

・・・と一瞬思ったのですが、いろいろ考えたところ、可能性として高いのはアシカやアザラシのたぐいではないかと思いつきました。2002年に東京の多摩川に現れ、日本中で話題になったアゴヒゲアザラシのタマちゃんをご記憶でしょうか。渡嘉敷島の「異獣」はいわばタマちゃんの琉球バージョンであり、今なら「トカちゃん」とでも命名され、見物客が殺到するかもしれないシロモノなのではないでしょうか。

当時の気候寒冷化と関連させ、この「異獣」をオットセイと推測する説もありますが、アシカの可能性も考えられます。かつて日本沿岸にはニホンアシカが1年を通じ生息していました(こちら参照)。この種は1975年を最後に目撃されなくなり、絶滅したと考えられています。300年前には相当数いたはずのニホンアシカが、まれに沖縄に回遊してきても不思議ではありません。

1581年にも名護の久志付近でアザラシらしき目撃例がありますが、沖縄周辺海域はアシカやアザラシの主要な生息地ではなく、沖縄で確認された事例があるのか、さらに調査する必要があるでしょう。みなさんも沖縄の海で泳ぐだけでなく、海面をながめてみては。もしかしたら変な生物が見つかるかもしれませんよ。

参考文献:『球陽』、北村伸治「沖縄の雪の古記録、沖縄近海の異獣古記録」(『沖縄技術ノート』4号)

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2009年4月 1日 (水)

これが元祖『御願ハンドブック』

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近年の沖縄県産本のスーパーヒットといえば、『よくわかる御願(うぐゎん)ハンドブック』(ボーダーインク刊)。沖縄で古くから行われている年中行事や「拝み」の儀式をわかりやすく解説したマニュアル本です。この本の爆発的ヒットという現象は、伝統的行事や儀式がいまだに現代の沖縄社会のなかで生き続けていることを示しています。逆にマニュアル本の流行に「最近の若い者は御願のやり方もわからんくなったさ~」というオジイ・オバアのなげきも聞えてきそうです。

実はこの『御願ハンドブック』の大流行の約300年も前、同じように琉球で御願のマニュアル本が流行したことがあります。そのマニュアル本とは、1738年に書かれた『四本堂家礼(しほんどう・かれい)』。これが元祖『御願ハンドブック』です。この本の作者は蔡文溥(さい・ぶんぷ)。またの名を祝嶺親方天章(しゅくみね・うぇーかた・てんしょう)といい、久米村の出身の学者として有名な人物です。「四本堂」とは彼の別名で、『四本堂家礼』とは要するに「蔡さんの家の礼法」という意味なのです。

蔡文溥は清代初めての国費留学生として中国で学び、帰国後は国王の教師にまでなっています。そして彼は子孫の守るべきしきたりとして、自分の家で行われている儀式や慣習を中国古来の礼法を記した『朱子家礼』を参考にまとめたのです。その内容は冠婚葬祭や年中行事の礼法85項目からなります。位牌の形式や供えものの種類、祭壇への配置の仕方まで図入りで丁寧に解説してあります。この『四本堂家礼』は蔡氏個人の家だけでなく、やがて王府の高官のみならず久米島や石垣までの士族の間にも広まり、琉球の士族全体の『御願ハンドブック』として活用されたのです。

現在、沖縄の人たちが行っている伝統的な年中行事には、この元祖ハンドブックが元になっているものが結構あります。例えば旧暦3月に行われる清明祭(シーミー)。1768年に王家の墓・玉陵で行われたのが初めてとされていますが、実は、この40年前に書かれた『四本堂家礼』には清明祭の記述があり、蔡氏一門がすでに行ってたことがわかります。蔡家は琉球の御願の最先端をいっていたのです。

ただこの元祖のハンドブックには、現在拝みの対象になっていない神様もあります。それは「大和神」です。中国系久米村の家に何と神棚があって大和神(善興寺境内にあった天神)を祭っていたのです。さらにこの大和神は火の神(ヒヌカン)と習合していて、さらに「火神菩薩」とも呼ばれています。かつての火の神は台所のカマド神だけではない側面を持っていたようです。中国で学んだ蔡文溥は、琉球の御願をより中国風にすべく元祖ハンドブックを書いたはずなのですが、それでも彼は大和神について何の疑問をいだくことなく、拝みの対象にしています。琉球が「中国化」する以前、中国系久米村においてすら文化は「純粋培養」されていたわけではなく、様々な要素が混ざり合っていたのです。

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この元祖御願ハンドブックから140年後、王国末期に書かれたマニュアル本に『嘉徳堂規模帳(かとくどう・きもちょう)』があります。ここでは拝みの対象に大和神は消え、床の神と中国の文昌帝君が加わり、より中国的信仰が濃くなっています。この本は現在伝わるしきたりのカタチに近いといえますが、それでもなお火の神は「火神観音」として観音信仰と結びついています。

このように御願は時代を経てだんだんと変わっていき、その中で生まれた慣習がマニュアル本によって琉球全体に広まっていったことがわかります。ただ、そこでも唯一変わらないものは、人々が幸せを願う「祈り」そのものであるといえるでしょう。現代の『御願ハンドブック』は、人々の「祈り」の新しいカタチとして、これから次の時代へと伝えられていくのかもしれません。

参考文献:『よくわかる御願ハンドブック』、小川徹『近世沖縄の民俗史』

(図は『嘉徳堂規模帳』に記された位牌や供え物の配置図)

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2008年11月27日 (木)

馬社会だった沖縄

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最近になってようやくモノレールができた沖縄ですが、まだ鉄道などの輸送機関はなく、移動するにはもっぱら車です。戦前には軽便鉄道や路面電車がありましたが戦争で壊されてしまい、戦後の沖縄は自動車に頼る車社会となっています。

もうひとつ、戦争以前の沖縄で重要な輸送・移動手段となっていたのが馬でした。今でこそほとんど残っていない沖縄の在来馬ですが、かつては想像もできないくらい多くの馬が存在していました。戦前の統計によると、県内にはピーク時4万7000頭もの馬がいたといいます。沖縄は「車社会」ならぬ「馬社会」だったのです。この大量にいた馬は沖縄戦で3万8000頭が死んでしまいます(実に5頭のうち4頭が死んだ計算)。戦争の被害は人だけではなく、馬にまで及んだのです。戦後はアメリカからの輸入で2万頭まで回復したものの、社会の近代化・機械化の波で結局は減少し現在にいたります。

王国時代も馬は琉球の特産で、中国への朝貢品として硫黄とともに毎年送られていました。最盛期は三山の時代で、1年に110頭も送られたことがあります。さらに中国から直接買いつけにくる場合もありました。1383年には何と983頭の馬をいっぺんに購入し、中国へ持ち帰っています。大量買い付けの理由は明朝が北方のモンゴルへの備えとして軍馬が必要だったと考えられていますが、いずれにせよ、琉球では一度に千頭を輸出できるぐらいの馬を飼育していたことがわかります。

これほど大量の馬をどこで飼っていたのでしょうか。実は読谷村と嘉手納町の境、比謝川と長田川に挟まれた場所に「牧原(まきばる)」という丘陵上の台地があるのですが、ここが王府直営の牧場でした。その広さは、何と25万8000平方メートル(東京ドーム5.5個分に相当)。牧原には現在でも牧場を囲うための4、5メートルの人工の土手が残されています。この牧場の起源は不明ですが、古琉球にさかのぼる可能性もあります。

馬は輸出用だけでなく、農耕用やサトウキビの圧搾機をまわす動力源、また役人や神女(ノロ)の移動手段としても使われました。各村には馬場が作られ、年中行事に競馬(馬勝負)がさかんに行われ、娯楽としても親しまれていました。やがて馬場は道路や公園に変わりますが、馬場跡は現在確認できるだけで何と198ヵ所もあるそうです。今でも地方に行くと、集落内に大きくまっすぐな道路が見られる場合がありますが、それらはだいたい馬場跡であることが多いようです。

広大な牧場を駆ける数千頭の馬たち…想像もつかない沖縄の風景です。それが今では馬が車に姿を変え牧場が駐車場となり、馬場は車道になって、ヒトとモノを乗せてせわしなく行き来しているわけですね。

※【画像】は今帰仁村に残されている仲原馬場。クリックで拡大。

参考文献:西村秀三「馬場と馬勝負―沖縄における農村娯楽の一側面」(『沖縄文化』99号)、「歴史の舞台・『琉球』ロマンを訪ねて(32)」(「沖縄タイムス」2000年12月16日)

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2008年6月26日 (木)

按司の本名

按司(あじ)というと、琉球が統一される以前に各地のグスクに割拠していた首長(領主)として知られます。支配する領域の地名を冠して、たとえば「中城按司」とか「名護按司」とか呼ばれます。この按司、かつては沖縄島だけでもかなりの数がいたはずですが、一部の按司(たとえば護佐丸や阿麻和利など)をのぞいて、彼らの名前はまったく知られていません。

近世(江戸時代)になると、大城按司・真武とか南風原按司・盛忠などの名前が士族の元祖として各家の系図に登場します。しかしこれらの名前は当時の命名方法からは大きくはずれています(古琉球の時代は名乗り頭も持つ名前は存在せず、童名しかない)。彼らが当時、本当にその名で呼ばれていたかは確かではなく、後の時代に付けられた可能性が高いといえます。

では彼ら按司はいったいどういう名前だったのでしょうか。実は中国の記録に彼らの名前が残っています。これは琉球から中国に派遣されたため、その名が記されたというわけです。中国側では按司のことを「寨官(さいかん)」と表現しています。「寨」とは「とりで」を意味します。つまり「グスクの官」という意味で、按司のことと考えられています。

名前には、たとえばこんな例があります。

1392年に中国に派遣された寨官の子、実他盧尾(したるもい)。1413年に派遣された寨官の子、周魯毎(じるもい)・恰那晟其(ちゃなさち=茶湯崎?)。

難しい漢字で書かれていますが、これは琉球語の音を漢字で当てたものなので(こちら参照)、「実他盧尾」は「四太郎思い」、「周魯毎」は「次郎思い」と考えられます。「思い」とは接尾美称で、たとえば尚真王の別名「おぎやかもい」は「おぎやか+思い」、親雲上の古琉球での名称「大屋子もい」は「大屋子+思い」となります。

彼らは「寨官」の子とあって按司その人ではありませんが、後に帰国し成長した際には父の按司の座を継いだ者もいたはずです。

つまり、中国側に残されている按司の子の名前は、ちゃんと当時の琉球風の名前の付け方にのっとっていることがわかりますね。リアルタイムで記された史料で按司の名前が残されているのは1501年の玉陵(王墓)の碑文ですが、そこには按司がすでに王族の名称に転化しているものの「ごゑくのあんじ、まさぶろかね(越来の按司、真三郎金)」というふうに表現されていて、古琉球期の按司の呼び方をうかがわせます。「真三郎金」の「真」は接頭、「金」は接尾美称です。

というわけで、三山時代や按司が割拠していたグスク時代には、按司は「~の按司、○○○」と呼ばれていたと考えられます。先に紹介した大城按司真武は、童名が「思武太金(うみむたがね)」なので、「大城の按司、思武太金(うふぐすくのあんじ、うみむたがね)」と呼ばれていたはずです。

参考文献:『明実録』、沖縄県教育委員会文化課編『金石文』

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2008年5月26日 (月)

喜界島の不思議な墓

奄美諸島の喜界島で、大宰府との関連が指摘される「城久(ぐすく)遺跡群」が発見されたことは前に紹介しましたが(こちら参照)、今も調査は継続中で、さまざまな新事実が明らかになってきているようです。今回はそのなかのお墓について紹介したいと思います。

城久遺跡群は喜界島中央の段丘上に立地している8つの遺跡の総称で、全体で13万平方メートルという広大な面積をもっています(ちなみに首里城の面積は4万7000平方メートル)。9世紀から14世紀頃まで使われたようで、100棟以上の建物跡や本土産の土器、中国陶磁器などの外来のモノが多数見つかっています。南西諸島では類を見ない大規模な遺跡です。

遺跡からは11~12世紀頃のものとみられる火葬や土葬された墓がたくさん発見されたことも注目を集めています。これらの墓で特徴的なのは、通常のやり方とはことなる不思議な葬られ方をしていること。土葬した墓を一度掘り返して、白骨化した遺体をさらに火葬してから木製容器などに入れ、土に埋め戻しているのです。このような埋葬方法は中世の日本ではまず見当たらず、本土の影響を受けた墓とは考えにくいようです。また副葬品として徳之島産の硬質土器(カムィヤキ)の壷などが置かれる場合があります。

沖縄で一般的な葬り方といえば、遺体を一定期間放置して白骨化させ、それを洗骨して葬る「風葬」です。城久遺跡群の葬り方も、一度白骨化させるという点では風葬と共通していますが、風化させるために土に埋めることと、骨だけを焼いて再び土葬するのは全くちがったやり方です。しかし、例えば奄美大島の宇宿貝塚で出土した骨(10世紀頃)にみられるように、九州から南西諸島にかけて若干の事例は確認できるので、まったくの未知の方法というわけではないようです。これらの埋葬の例と城久遺跡群との関連ははっきりわかりません。

実は沖縄でも、浦添ようどれの石棺内から風葬の骨とともに火葬された骨が見つかっていて、仏教文化の影響も指摘されていますが、もしかしたら喜界島の墓のように、白骨化した後に火葬にしてから安置した可能性もあります。いずれにせよ、これらの埋葬法は後世に広がることなく、一時的なもので終ったようです。とくにヤマトとの関連で注目される喜界島の城久遺跡群ですが、それだけではない要素も持っていることを、この事例は示しているように思います。

参考文献:澄田直敏・野崎拓司「喜界島城久遺跡群」、狭川真一「城久遺跡群の中世墓」(池田榮史編『古代中世の境界領域―キガイガシマの世界』)

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2008年5月 1日 (木)

流された江戸っ子

江戸時代には罪を犯した人たちに対して「遠島」という罰がありました。遠い辺境の島へ追放してしまう刑罰、いわゆる「島流し」です。琉球も多くの島々で成り立っていた国なので、流刑は一般的な罰でした(コラム「ニート君は島流し」を参照)。

あまり知られていない事実ですが、琉球は江戸時代の日本にとっての流刑地にもなっていました。琉球は1609年に薩摩藩に征服されて以降、日本の幕藩制国家のなかに組み込まれます。そこで琉球は隠岐や八丈島、長崎五島などとともに、最南端の流刑地となっていたのです。

たとえば琉球を征服した薩摩軍の副将・平田増宗の息子は藩内の勢力争いに敗れ、罪を着せられ勝連間切(現在のうるま市)に流されています(1634年に処刑)。また1678年、江戸京橋の大工、五兵衛の甥の長太郎が罪を犯して琉球の越来間切の石川村(現在のうるま市石川)へ流刑となり、江戸湯島の吉左衛門も羽地間切(現在の名護市)の源河村へ預け置かれています。彼らは二人とも江戸へ帰ることなく、琉球で一生を終えています。

このように、罪を犯した江戸っ子たちが琉球へも流されていたのです。1706年の人口調査では、琉球の総人口15万5000人あまりのうち、日本からの流人が5名(男性のみ)いたという記録があります。総人口からするとほんのわずかな人数ですが、たしかに彼らは琉球に来ていたのです。流人は逃亡して現地にまぎれこまないよう、額に入れ墨をしていました。なので琉球の人々は、ひと目見ただけで彼らがヤマト(日本本土)からの流人だということがわかったはずです。

入れ墨は江戸時代、一般的に行われた刑で窃盗犯などに適用されたようですが、この場合は島流しの付加刑としてなされたようです。入れ墨刑は各藩によって異なっていて、例えば「悪」の文字や十文字、1度罪を犯すごとに「犬」の字を一画ずつ額に加えていく例などがあります。入れ墨はまた前科者の証明ともなっていました。

彼ら江戸っ子が琉球でどのような暮らしをしていたのか、あずけられた琉球の村の人々とどのような交流があったのかは不明です。数が少なすぎたので、琉球全体の「記憶」としては残らなかったのかもしれません。しかし、せっかちと言われる江戸っ子が、南の島のノンビリ適当(てーげー)な琉球の人々とドタバタ劇を演じていたかもしれないと想像すると、ちょっと面白いですよね。

参考文献:真栄平房昭「近世日本の境界領域」(菊池勇夫・真栄平房昭編『近世地域史フォーラム1 列島の南と北』)

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2008年3月25日 (火)

塩をくれ!

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沖縄の塩といえば「シマ・マース(島の塩)」。沖縄の豊かな海からつくられたミネラル分を多く含む天然の塩は健康食品ブームに乗り、今や県産の人気商品となっています。海が近くにある沖縄では、太古からさかんに塩をつくっていたと思うでしょう。しかし事実はそうではありません。王国時代、沖縄では塩をつくれず、しかも海外から塩を輸入していたとしたら?そんな話信じられない!!と思う方もいるかもしれませんが、いったいどういうことなのか説明しましょう。

近世(江戸時代)、琉球が海外から塩を輸入していたのは事実です。塩の製造は全く存在しなかったわけではありませんが、本格的な製塩は1694年、那覇の泊付近にある広大な干潟(潟原。かたばる)で、那覇泉崎に住む宮城という百姓が薩摩藩(鹿児島)の弓削(ゆげ)次郎右衛門という人物から製塩法を学び、生産を開始してからです。百姓はこの功績で「塩浜」という名と士族の身分を与えられました。現在も沖縄にいる塩浜という姓は、「浜で塩をつくる人」という意味だったんですね。

このように那覇を中心に塩の大量生産が開始されたのですが、琉球の全ての地域がそうだったわけではなく、八重山では製塩を全く行っていませんでした。ではどうやって塩を入手していたかというと、八重山にやってくる薩摩商人から塩を買っていたのです(!)。琉球が薩摩の支配下に入ってから薩摩・琉球間の流通は薩摩商人が独占していました。彼らは藩から許可を得て琉球各地の島へ渡り、また琉球が薩摩藩に納める税(年貢)の運送請負もやっていたのです。

薩摩商人は様々な商品とともに八重山へ塩を持って行き、高値で売りつけていました。塩は人間が生きていくうえで必要不可欠なものです。八重山の人はボッタくられても買わざるをえませんでした。塩は現地の米と交換されましたが、そうすると王府へ納める米が少なくなってしまいます。そこで王府は八重山での塩の生産に乗り出します。

王府は八重山の農民を集め、海水を炊(た)いて塩をつくろうとしますが、農作業が忙しい時には人手が足りなくなり、うまくいきません。さらに各地の村々からは製塩の反対願いが出されます。新たな労働徴発で負担が増したことにくわえ、塩を炊くために樹木を伐採しなければならず、不満が出たのです。また八重山では塩を炊くと災いが起きるという伝承があったらしく、みな製塩をやりたがらなかったようです。

困った王府、今度は燃料を使わない天日干しの製塩法を八重山で実行しますが、これまた雨が降るとそれまでの作業が全て水の泡になってしまうため採算がとれず、中止されてしまいます。雨がよく降る気候では、この製法は向かなかったようです。結局、各村のナベを使い塩を炊く方法でホソボソと製塩が続けられたようですが、島内の需要をまかなうまでにはならず、王府によって再三の増産指示が出されています。

つまり、王国時代の八重山では鹿児島産の塩が使われていたわけですね。何ともおかしな話ですが、今でこそ簡単に手に入る塩、昔は生産に大変な手間がかかり、貴重品だったということがわかります。

※【画像】は那覇市の渡地村跡で発見された製塩所の跡とみられる遺構。

参考文献:仲地哲夫「近世における琉球・薩摩間の商品流通」(『九州文化史研究所紀要』36号)

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2008年3月16日 (日)

コトバを超えて

国際化する現代社会。そこで必要とされているのは意思疎通をはかるための「言葉」だといえるでしょう。世界には様々な言葉があり、その人たちとお付き合いするためには、彼らが使う言葉を理解するか、あるいは共通の言葉をお互い知っていなくてはいけません。

かつての琉球王国は交易をなりわいとしていたので、様々な国の人たちとやりとりすることが必要でした。つまり他の国と商売し交渉するために通訳が必要だったのです。ウチナーグチ(琉球語)を一方的にしゃべったところで、相手は「???」ですからね。琉球の人々はどうしていたのでしょうか。

それには自分たちで外国語を勉強して通訳を養成するのが常道なのですが、それはコストもかかるし時間がかかります。交易がさかんだった古琉球の時代、実は沖縄には通訳養成を専門とする機関がありませんでした。最も国際化していた頃の琉球に通訳学校がない!?にわかには信じられないかもしれませんが、まったく問題はありません。当時、琉球の港湾都市だった那覇にたくさんの外国人が住んでいたので、彼らを通訳として使っていたのです。

まずあげられるのが中国人の居留地だった久米村の人々。中国明朝や東南アジアへの使節団を派遣する際、琉球王府は彼らのなかから「通事(通訳)」を選んで一緒に連れていってます。東南アジアは当時たくさんの中国人がコミュニティをつくって定着していたので、中国語がわりと通用していたようです。

日本との交渉は琉球の禅宗寺院にいた日本僧や那覇の「日本人町」にいた日本人たちが通訳として活躍しました。例えば薩摩(鹿児島)の大名・島津氏との交渉の際、琉球使節の話す言葉を島津氏側は理解できなかったので、あいだに日本人の「筑殿(ちくどの)」と日本僧が入って通訳した、という記録があります。

また豊臣秀吉をビックリさせた我那覇親雲上秀昌(がなは・ぺーちん・しゅうしょう)という人物は祖父が日本僧で、祖母・母もみんな日本人でした。つまり彼は日系の家に生まれ育ち、日本語がペラペラだったのです。そして外国での交易品買い付け係や「大和通事(日本語通訳)」となっています。おそらく彼は那覇の「日本人町」の住人だったのでしょう。

自前で通訳を養成するより、ウチナーグチが理解できる外国人を手っ取り早く通訳として雇い、活用するのはとても合理的な方法です。通訳業務に限らず当時の琉球は「アウトソーシング」をすることに非常に長けていました。琉球の繁栄の原動力はここにあったといっても過言ではありません。

一方で、外交・交易を行う相手側の国々は、自前で琉球語の通訳を養成していました。中国明朝では福建省に「土通事(どつうじ)」と呼ばれる琉球語を話す中国人がいて、代々家業を継いでいました。例えば泉州のイスラム教徒だった林親子が琉球語通訳をしていたことがわかっています。

また朝鮮王朝でも当初は琉球語を理解できる者が全くいなかったので、1437年(第一尚氏の時代)、倭学生(日本語を学ぶ生徒)に琉球語も学ばせた、という記録があります。遠い昔、異国の地で必死にウチナーグチを学ぶ人たちがいたのです。「アガー!」とか「シムサ」とか「ジンムッチョーミ?」とかいう言葉が学校から聞こえてきたはずですね。

参考文献:上里隆史「古琉球・那覇の「倭人」居留地と環シナ海世界」(『史学雑誌』114-7)、王連茂「泉州と琉球」(『琉球―中国交流史をさぐる』)、『朝鮮世宗実録』

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