2011年9月20日 (火)

「テンペスト」が終わって

7月17日から始まったNHK・BSドラマ「テンペスト」、10回の放送が終わりました。あっという間の3カ月でした。評判は上々で皆様に楽しんでいただけたようで嬉しいです。

僕も若輩者ながら時代考証に参加しましたが、いろんな経験を積ませてもらいました。最初この話がプロデューサーの岡本幸江さんから持ちかけられた時には、僕は断ろうかと考えていました。時代考証は一つの専門分野にとどまらず、歴史全般を把握していないとできない「総力戦」ということがわかっていたからです。とても若輩者につとまる仕事ではない。そもそもあのぶっ飛んだ原作をドラマ化するなんて信じられませんでした。あの世界を表現できるのか?不安で悩みましたが、最終的には沖縄県民や全国の視聴者からフルボッコされる覚悟で引き受けました。

去年の12月から演出の吉村さんや美術の川口先生、考証の高良先生たちとロケ地の選定・下見。大森さんの脚本を通しで読んで細かい部分のチェックと訂正。演出監督からの琉球史に関する質問と、ドラマの「裏」設定(つまり表に出ませんが決めなくてはいけないこと。例えば首里城北殿の評定所に詰める役人の数や浅倉雅博の在番奉行所での位置づけ、寧温の給料の額など)。

役者の着る衣裳リストが空白のままエクセルの表で送られてきて、この空白を全部埋めてください、というのもありました。琉球では足袋をはくのか、どの身分からどの場面ではくのか、研究では詳しくわかってないことでも、映像にするために決めなくてはいけない事項が山のように送られてきました。例えば仲間由紀恵さん演じる孫寧温の衣裳は(1)冠の色、(2)簪の材質、(3)衣裳、(4)帯、(5)足袋の有無、(6)扇子などの持ち物をそれぞれ決め、同一人物でもドラマの回ごとにも変更していきました。こんな決め事を出演者すべてにしなくてはなりません。膨大な作業量に目まいがしました。

また撮影が始まると今度は細かい質問や問い合わせが昼夜問わず来ました。その範囲は多岐にわたります。真鶴がサトウキビを刈り取る際のカマの種類と形状、那覇港CGの地形と建物の位置、織物のデザイン、登場する文書の書式と読み方、八重山の民謡、市場に並ぶ野菜と魚の種類のチェック、はてはセミの鳴き声の種類までアドバイスしました。それから寧温が八重山へ流刑のため連行される際、付き添う役人は何人でどの位置に配置し、どのような衣裳を着たほうが適当か、という具合です。リアルタイムで撮影しているので、すぐさま回答しなくてはいけません。質問が来たら手持ちの文献を調べ、ない場合は図書館へ走って必死で文献を探し、ようやく答えたものもありました。同時並行でNHK放送「琉球王国の秘密~ドラマ“テンペスト”の世界~」の監修もやっていたので、ごっちゃになってワケがわからなくなることもありました。

もちろんどうしても回答できないものは、同じく時代考証を担当した高良倉吉先生に助けてもらうこともありました。考証は当然僕だけの力ではなく、高良先生や衣装や踊り指導の先生方がいなくてはできませんでした。それにしても、6カ月以上にわたる際限のないと思えた考証作業は、想像以上に大変でした。

こうした質問に回答したにもかかわらず、演出のほうでボツになり無駄骨だったものもあります。例えば御内原の織物を作る高機(たかはた)は本来あの時代には存在しないものです。その旨を伝えたにも関わらず、放送では高機が使用されていてガッカリしたこともありました。時代考証とはあくまでもドラマを面白くする演出の脇役でしかなく、僕は演出にアドバイスをするだけで、それを決定する権限は全くありません。

僕が気を付けたのは、ぶっ飛んだ原作と脚本のテイストをいかに壊さず、歴史的により「リアル」に見せるための手助けをするかでした。ドラマはあくまでもフィクションです。学術論文とはちがいます。それを重々ふまえたうえで、考証にのぞみました。なので、例えば孫嗣勇が踊っていた「花風」(本来は近代に誕生)は原作を尊重し、史実でないことを承知しつつ、そのままにしました。

もちろん今回の考証が完璧だったとは思っていません。反省すべき点、次に生かしていきたい課題はたくさんありますが、何とか「テンペスト」の世界を映像化できたことに安堵しています。NHKのスタッフも短い制作期間と限られた予算という「無茶ぶり」を強いられたにも関わらず、その制限されたなかで最上のものを作ったと思います。沖縄での撮影はスタッフの睡眠時間は毎日2時間だったと聞いています。撮影はとても大変ですね。たくさんの「縁の下の力持ち」がいなければ決してできなかったと思います。

本当はこうしたかった、ああすれば良かったというのはあります。でもドラマを見た視聴者の皆様がとても喜んでいただけたことが救いです。僕のブログでもドラマをより楽しむための解説をやってきましたが、少しでもお役に立てたなら幸いです。ドラマは終わりましたが、引き続き琉球の歴史に興味を持っていただけたらと思います。

というわけで、本来なら毎年この時期にはブログ夏休みをとるはずでしたが、返上で更新してきましたので、これから遅い夏休みをとりたいと思います。

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2011年9月18日 (日)

【ネタバレ】テンペスト解説(13)

ドラマ第10回「永遠の太陽」。ついにこの時が来てしまいました。「テンペスト」最終回。涙の完結でしたね。国は滅びましたが、真鶴と浅倉雅博は首里城で再会。二人の新たな出発です。

さてさて今回が最後のマニアック歴史解説です。

ポイント1:尚王家のその後

明治12年(1879年)、日本政府は処分官の松田道之と警官と軍隊400名を琉球へ派遣し、尚泰王に沖縄県の設置を通告します(琉球処分)。ここに500年にわたり続いてきた琉球王国は滅亡、尚泰王は首里城を明け渡し、華族として東京移住を命じられます。

尚王家は以降、東京に住むことになり、千代田区九段北に邸宅をかまえることになりました。ただ尚家は完全に沖縄と切り離されたのではなく、中城王子の邸宅だった首里の中城御殿が尚侯爵邸として使用され、首里城御内原の女官たちも移り住み、神々も移設されました。

また尚家はヤマトに留学した沖縄の学生に奨学金制度をもうけて支援したり、王家の資本をもとに「丸一商店」という会社を設立、中国からの茶貿易や海運などの事業にも乗り出しました。

さらに日清戦争で頼りにしていた清国が敗北した後、尚泰王の次男・尚寅(しょういん)をはじめとした士族層は「公同会」という政治結社を結成、尚家を世襲の沖縄県知事とする特別制度を求める運動を起こし、沖縄で7万人もの署名を集めて東京の日本政府に要求します。事実上の「王国復活運動」です。しかし政府はこれを拒絶、運動を継続した場合は国事犯として罰すると威嚇し、あえなく尚寅たちの夢はついえました。

※くわしく知りたい方は次の本を読んでください。
参考文献:国吉真永『沖縄・ヤマト人物往来録』(同時代社、1994)

ポイント2:銭蔵の古酒

多嘉良(藤木勇人)が王子誕生の宴席で王と真鶴に差し出した泡盛100年ものの古酒(クース)がありましたね。多嘉良は泡盛を管理する銭蔵という役所で働いていましたが、実際にはどのくらいの古酒があったのでしょうか。

実は沖縄には戦前までかなりの年数の古酒が残されていました。200年や150年ものも珍しくなく、また王国時代には最上の古酒である「康熙年間(こうきねんかん)」という300年もの(!)まであったといいます。

琉球を訪れたアメリカのペリー一行は歓待の宴席で王府より泡盛の古酒をふるまわれています。

小さな盃につがれた酒が出されたが、この酒はこれまでこの島で味わったものにくらべて、はるかに芳醇なものであった。醸造が古くて、まろやかに熟しており、きつくて甘味のあるドロッとした舌ざわりで、いくらかフランス製のリキュール酒に似ていた」(『ペリー日本遠征記』)

おそらくペリーたちにふるまわれた古酒はかなりの年数のもので、銭蔵が所蔵していたものではないかと思います。

※詳しくは次の本を。
参考文献:萩尾俊章『泡盛の文化誌』(ボーダーインク、2004)

ポイント3:「僉議(せんぎ)」とは

ドラマ中に正体が発覚した孫寧温(真鶴)を「僉議(せんぎ)」にかけて流刑に処することを決定したというシーンが出てきますが、この「僉議」とはいったいどういうものでしょうか。

「僉議」は摂政・三司官、表十五人衆を王府の最高機関である評定所(ひょうじょうしょ)が行う最高の協議、裁決のことです。死罪や流刑などの重大な事件、また士族の跡目相続や領地拝領に関することなどが協議されました。

ポイント4:真鶴が隠れた遍照寺

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罪に問われた真鶴が息子の明とともに身を隠したのが首里の遍照寺(へんしょうじ)という寺です。この寺はもと「万寿寺」といい、末吉宮の神宮寺(付属の寺院)でした。ドラマで孫嗣勇が躍った組踊(くみおどり)の「執心鐘入(しゅうしんかねいり)」の舞台となった場所としても有名です。

現在では末吉宮が本殿・拝殿ともに復元されたものの、遍照寺は石垣のみが残されています。

ポイント5:尚泰王の言葉「命どぅ宝」

ドラマで尚泰王が話した「命(ぬち)どぅ宝」という言葉、「命こそ宝」であるという意味ですが、本当にこのような言葉を発したのでしょうか。

実はこの言葉は戦前の沖縄芝居で琉球処分を題材にした「首里城明け渡し」のなかで脚本家の山里永吉が創作したフィクションです。

戦世(いくさゆん)終(しま)てぃ 弥勒世(みるくゆん)やがてぃ 嘆(なじ)くなよ臣下 命(ぬち)どぅ宝

(戦の世は終わって、平和な世の中がやがてくる。嘆くなよ臣下たち。命こそ宝なのだ)

という琉歌からの一節が「命どぅ宝」ですね。

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2011年9月11日 (日)

【ネタバレ】テンペスト解説(12)

ドラマ第9回「決別」。残すところわずかとなりましたね。ペリーが去った後の琉球は安泰というわけにはいきませんでした。開国した日本のなかで、薩摩藩もまた大きく生まれ変わろうとしていました。藩主斉彬の密命を受けた浅倉雅博は王府内で薩摩派を結集させます。真鶴との二重生活を送る孫寧温でしたが、ついに尚泰王の子を宿し、物語は怒涛の展開で最終回へと向かいます。

さて今回もマニアックな歴史解説。ドラマに秘められた裏話を紹介します。

ポイント1:フランス軍艦の購入について

薩摩藩主・島津斉彬の密命によって、琉球を隠れみのにしたフランス軍艦の購入が浅倉より命じられましたが、これも史実がもとになっています。

実際に斉彬は琉球を利用した富国強兵策に乗り出していました。腹心の市来四郎を琉球へ派遣し、またオランダと密かに協議して奄美大島と沖縄の運天港を開港することを内諾させていました。

また斉彬は市来を通じて王府に対し、(1)ヨーロッパへ琉球人留学生を派遣すること、(2)中国福建の琉球館へ薩摩商人を送り貿易させること、(3)奄美大島・運天港でオランダ・フランスと通商を開くこと、(4)蒸気船と最新鋭の武器をフランスから購入すること、などの密命を下しました。つまり浅倉は市来の役をドラマのなかで果たしていたわけですね。

あわせて目的達成の障害になる守旧派の座喜味親方(この人物はドラマの同名の三司官とは別人です)を更迭、親薩摩派の翁長親方を三司官に、牧志(当時は大湾)朝忠を表十五人衆に抜てきするよう強硬に迫り、これを認めさせました。

1858年、牧志は市来とともにフランス軍艦と武器購入に奔走し、ついにフランス側と合意、契約書もかわします。しかし斉彬が急死して計画は中止。さらに抑えつけられていた守旧派が巻き返し、親薩摩派は失脚し、親薩摩派は贈賄などの罪を着せられて投獄。牧志朝忠も解任され拷問のすえに流刑の判決を受けます。まあ今でいう「国策捜査」のようなものでしょうか。

琉球は中国との関係を従来通り守ろうとする守旧派が再び実権をにぎり、明治12年の琉球処分(王国滅亡)を迎えることになります。歴史に「もし」は禁物ですが、斉彬がもう少し長生きしていれば、琉球はあるいはちがった未来があったかもしれません。

ポイント2:朝薫が左遷された役職は?

王府内の薩摩派の画策により表十五人衆から降格された喜舎場朝薫でしたが、ポストとしてあてがわれたのは「首里三平等総与頭(しゅりみひら・そうくみがしら)」でした。

総与頭は総与方(そうくみほう)という役所のトップですが、この組織は消防を担当する部署でした。通常は表十五人の吟味役などが兼任していました。首里三平等(みひら)とは首里の3つの行政区画で、真和志(まわし)の平等、西の平等、南風(はえ)の平等からなります。

部署専用の建物はなく、総与頭の邸宅をそのまま役所にしており、火事が起きた時のほか、盗難などの事故防止にもつとめたそうです。

ポイント3:琉球の消防組織

琉球の消防組織は、前述のように「総与方」という部署が担当していました。火事が発生した際には、総与方がドラを鳴らして付近の住民を動員し、総与方の指揮のもと消火活動にあたりました。

その方法は住民が桶などを持ち寄って水をかけて鎮火したり、類焼を防ぐために家を壊したり、芭蕉の茎で火の粉を叩いたり、また救火水龍(きゅうかすいりゅう)という消火ポンプを使うものでした。全住民が活動に当たらないといけないので、野次馬は許されません。不参加者は罰せられました。

津波古が起こした火事には、総与方が出動したわけですね。ただし朝薫の担当区域は首里なので、那覇の総与方とはまた別になります。

ポイント4:孫寧温の就いていた日帳主取とは?

フランスとの交渉を拒否したため更迭された寧温の「日帳主取(ひちょうぬしどり)」ですが、この職は表十五人衆のなかの「鎖之側(さすのそば)」の次官で、外交や教育、また那覇の行政などに当たりました。今でいうと外務省や文科省などの事務次官に相当するでしょうか。史実で牧志朝忠が就いたのもこの職です。

ドラマの中では後任に儀間親雲上(ペーチン)が就きましたが、彼が外交担当としてフランス軍艦購入に当たったという設定になっています。

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2011年9月 6日 (火)

【ネタバレ】テンペスト解説(11)

「テンペスト」のなかでもとくに疑問の多いものについてもお答えします。

そもそも孫寧温(真鶴)は実在するのか?

結論からいうと、実在しません。物語のなかで創作されたフィクションの人物です(そもそも琉球には宦官も存在しませんでした)。しかし、モデルになったとみられる人物はいます。

真相は原作者に聞かないとわかりませんが、おそらくベースになった人物は、牧志朝忠(まきし・ちょうちゅう)でしょう。彼は「テンペスト」の時代と同時期に生きていた人物(1818~1862年)で、王府の通訳(異国通事)、外交官として活躍しました。

彼はヒラの士族でしたが優秀な才能を持ち、中国に留学した後に欧米艦隊との交渉で英語に長けていた安仁屋政輔(あにや・せいほ)から英語を学んで通訳として、来航する欧米列強を相手に活躍しました。ペリーとの交渉も担当しています。

朝忠は薩摩の島津斉彬から注目され、斉彬のバックアップのもとに異例の出世をとげ、ついに評定所(内閣)の表十五人衆に大抜てきされます。しかし斉彬の急死の後に政変が起こって失脚、流刑となります。彼の才能を惜しんだ薩摩が彼の身柄引き渡しを要求し、薩摩へ向かう途中に謎の投身自殺をして45歳の生涯を終えます。

当時の琉球の中では語学や世界情勢にも通じた、ずば抜けた才能を持っている人物でした。もう少し長く生きて王府の政治を動かしていれば、琉球もあるいは変わっていたかもしれません。

なお第一尚氏の末裔である孫氏も実在します(初代・尚思紹王の次男の系譜)。実際には素性を隠すということはせず、すでに周知のものでした。代々の名乗り頭の「嗣」という名前もこの一族が使っていたものです。なので寧温の父の嗣志や兄の嗣勇の名前も、これにもとづいているわけですね。

「カリーデービル」ってどういう意味?

ドラマの第8回で、孫寧温がペリーを日本へ向かわせた後、首里城で多嘉良(藤木勇人)たちが「カリーデービル!」と寧温を迎えますが、この言葉はいったいどういう意味でしょうか。「カレーの悪魔」のことではありません(笑)

「カリー」とは「嘉例(かれい)」、つまり「めでたいこと、縁起のいいこと」を意味し、「デービル」は「~です、~でございます」という意味。「喜ばしい」とか、あるいは「万歳」のようなニュアンスでしょうか?

ちなみに沖縄ではお酒の席で乾杯する時にも「カリー」と言ったりしますね。僕は言葉についてはあまり詳しいわけではないので、今回は方言指導の方がこの言葉を採用しました。

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2011年9月 4日 (日)

【ネタバレ】テンペスト解説(10)

ドラマ第8回「ペリーとの対決」、いよいよ物語の佳境!圧倒的な武力を背景にした、ペリーの強硬な要求に窮地に追い込まれた王府でしたが、真鶴から変身した寧温が復活、見事ペリーを追い返しましたね。外交は最終的には人と人との付き合いであり、本音でぶつかることが大事だ、との寧温の考えがペリーを動かしたといえるかもしれません。

それでは今回もマニアック解説。

ポイント1:ペリーは琉球に来たのか

史実でもペリーは琉球を訪れています。1853年5月26日、サスケハナ号をはじめとしたアメリカ艦隊が琉球の那覇に現れます。目的は太平洋航路における補給港の確保でした。強大な武力を背景にした圧力に対し、琉球側は架空の政府と役職を作って対応、のらりくらりと交渉を先延ばしにします。

琉球側の対応にペリーは「東洋的な隠れんぼう外交」といらだちをあらわにします。琉球は架空の役職で交渉をたらい回しにして時間をかせぎ、またアメリカ側への回答マニュアル「異国人江返答之心得」を作成して対応していました。軍事力で勝てない小国が、必死に相手に呑まれないように知恵をしぼったやり方だったといえるでしょう。

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ペリーは首里城訪問を試みますが、琉球は国母が病気とのウソの理由をつけて拒絶します。ドラマで朝薫が話していたことは史実に基づいていたわけですね。結局ペリーは訪問を強行し、やむなく王府は首里城北殿で迎えますが、国王と会うことはありませんでした。

ペリーは蒸気船の燃料となる石炭貯蔵庫の建設も要求しますが、琉球側は得意の引き伸ばし戦術の後に、簡素な倉庫を建てただけで、しかも所有権は決してアメリカ側に渡しませんでした。琉球は最小限の譲歩でペリーの要求をかわしたわけです。

1854年7月、日本から琉球へ戻ったペリーは琉米修好条約を王府と結びますが、王府はダミー政府の名義で調印したため効力はさほどなく、また両国は条約をあまり守ることなく、実質的な意味を持ちませんでした。

※くわしく知りたい方は、以下を読んでみてください。
参考文献:高良倉吉・玉城朋彦編 『ペリーと大琉球』(琉球放送、1997)

ポイント2:首里城へ向かうペリーの行列

首里城へ向かうペリーの行列ですが、当時の記録をもとに再現してあります。ミシシッピ号の軍楽隊と海兵隊2個中隊、2門の野砲に、輿(こし)に乗ったペリーとベッテルハイム博士らが付き添った総勢200名の行列でした。

ペリーの輿は屋根付きの椅子で中国人の苦力(くーりー。労働者)がかついでいました。これは急造のものでペンキとパテを塗り、赤と青の掛け布がしてあるものでした。軍楽隊は「ヘイル・コロンビア」を演奏しています。

ポイント3:守礼門の額について

ドラマでは残念ながら再現できませんでしたが、ペリーが首里城を訪れた際、守礼門には通常の「守礼之邦」という額ではなく、「中山府」という額に架け替えられていたようです。守礼門前のペリーの一行を描いた絵を見ると、3文字で漢字が書かれています。漢字を知らないアメリカ人の手による絵なので判別しにくいですが、「中山府」と書いてあるのがわかると思います【こちら】。

「守礼之邦」とは直訳すると「礼節を守る国」という意味で、もともとは国王を承認する中国の冊封使が来た時だけに掛けられていました。「我々は中国に対して礼節をわきまえている」という意味が込められていたわけです。招かざる客のペリーに対し、琉球は単に琉球王府を意味する「中山府」の額にわざわざ変え、暗に歓迎していないことを示したようです。

ちなみにペリーをもてなした琉球の料理は冊封使に出すものよりランクを下げていたようです。

ポイント4:クラシン御門について

寧温が御内原へ戻るために通った暗いトンネルのような門がありましたね。あれが「クラシン御門(うじょう)」と呼ばれる門です。正式な名称は「左掖(さえき)門」と言います。黄金御殿(くがにうどぅん)という王妃の居住建物の1階部分が通路になっていて、首里城の御庭から御内原に抜けられるようになっています。

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この門の構造は特異なものでした。通路は窓がないので昼間でも洞窟のように真っ暗。なので「クラシン(暗闇の意味)」という別名が付いていました。しかもクランク状に曲がっていて、直進ができないという構造です。この門はあまり使われることのない門だったので、寧温はここを利用して気づかれずに表と奥の世界を行き来することができたわけですね。

戦前まで残っていたクラシン御門の写真は【こちら】。正殿の右側にある南殿に隣接する建物にポッカリと開いている四角の門がそれです。

ポイント5:宣教師ベッテルハイムについて

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ドラマにしばしば登場する宣教師ベッテルハイムも実在の人物です。彼はハンガリー生まれのユダヤ人で、イギリスに帰化してプロテスタントとして琉球でのキリスト教の布教を試みます。琉球は当初彼の滞在を拒否しますが、最終的にはしぶしぶ認め、護国寺で妻と2人の子供の家族とともに8年間すごしました。

滞在中に琉球で布教活動を行いますがことごとく王府の妨害にあい、目的を果たすことはありませんでした。王府は彼を厄介者扱いし、欧米船が来るたびに彼について苦情を述べています。中国皇帝に懇願し、中国滞在のイギリス公使にベッテルハイムをひきとってもらうよう頼んだこともあるほどです。

ベッテルハイムは13カ国語を操る語学の天才にして医師でもあり、無料の診療所も開設して住民たちへの医療活動も行います。とくに天然痘のワクチンである牛痘法を伝えたのは有名です。琉球の人々からは「ナンミンヌガンチョー(波の上のメガネ)」と呼ばれ、親しまれました。またペリーが来航した際には通訳もつとめました。

ベッテルハイムは琉球滞在中に妻との間に娘が生まれますが、名前を「ルーチュー(琉球)」と名づけています。やがて彼らはペリー艦隊とともに琉球を去ることになります。

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【護国寺のベッテルハイム居住の碑】

※彼についてくわしく知りたい方は、次の本をどうぞ。
参考文献:与那原恵『まれびとたちの沖縄』(小学館101新書、2009)

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2011年8月28日 (日)

【ネタバレ】テンペスト解説(9)

ドラマ第7回「再び王宮へ」ですが、物語はさらに加速度を増し、いよいよ終盤へさしかかりました。真鶴は側室となり御内原へ、上原多香子演じる真美那も初登場!お嬢様全開でしたね。サトウキビ畑での浅倉との再会、そしてペリー艦隊の来航。琉球はいったいどうなってしまうのでしょうか。

さてさて恒例のマニアック歴史解説です。

ポイント1:側室選考の黄金のハサミ

側室の最終選考に残った真鶴と真美那が最後に受けたのが、畳の下に隠された黄金のハサミを当てることでした。奇妙な選抜方法ですが、これは王妃の選考試験に実際にあったものです。ドラマでは王妃試験の方法を、側室にも適用したという設定になっています。

※王妃の試験については【こちら】を参照してください。

ポイント2:御内原での機織り

御内原では真美那や真鶴が機織りに従事していました。身分の高い側室がなぜこのような下っ端の女官がやるような仕事をしているのでしょうか。実はこれも史実に基づいた再現です。面白いことに、首里城の御内原では、女性たちは身分にかかわらず機織り作業をすることがしきたりになっていました

王妃はじめ御内原の女性は職務の合間には必ず糸をつむぎ、機織りをしていたのです。時おり参内する王族の婦人や三司官の奥方にも、対談の際に糸つむぎの道具と芭蕉の繊維が配られ、談笑の際にも絶えず手を動かし糸をつむいでいたそうです。ちなみに出来上がった布は王の家族用や御内原の女官たちに与えられました。

八重山でかたせ梨乃演じる思徳金(大勢頭部)が「御内原の世界でも、優れた機織りの腕を持つ女官は重宝がられるだけではなく、尊敬される」と真鶴に話していたのは、こういうわけがあったからです。

なおこの時代には機織りは高機ではなく地機です。もちろん事前に知っていてNHKにもその旨を進言しましたが、制作上の都合で実現できませんでした。

※実際の御内原の世界を詳しく知りたい方は、以下を参照してください。
参考文献:真栄平房敬『首里城物語』(ひるぎ社、1997)

ポイント3:トキとは

真美那の懐妊の日取りを占った「トキ」という者ですが、これは古琉球より続く神事の日選びをする占い師のことです。とくに王府内で働いていた者を「時の大屋子(おおやこ)」と言いました。沖縄では霊能力者として「ユタ」が有名ですが、ユタが女性なのに対してトキは男性とされ、古い記録には「トキ・ユタ」と総称されています。トキが占いで使うのが「トキ双紙(ぞうし)」という書物で、現在でもいくつか残されています。

彼らは迷信をもって人をたぶらかすということで、王府はしばしばトキ・ユタ禁止令を出しましたが効果はなく、その後も残り続けます。現在でもユタが沖縄各地にいることは周知の通りです。

ポイント4:進貢船に乗って一儲けしようとした津波古

辻の聞得大君のもとへ訪れた遠藤憲一演じる津波古が「進貢船の水夫として中国へおもむく」と話すシーンがありましたね。聞得大君は絹織物と銀杯を大量に買ってくるようにと助言していました。中国へ向かう進貢船は王府が派遣する公的船です。貿易品も搭載されましたが、これは基本的に王府が公的に売買するための官品でした。津波古のような水夫がプライベートで貿易できたのでしょうか。

実はできました。各船員には「乗り間(のりま)」という船室内のスペースが与えられていて、その範囲内であれば私的に物資を載せてもオッケーだったのです。進貢船のスタッフたちは王府の公的な貿易に従事するかたわら、個人的に商売をし、「乗り間」に貿易品を積んで琉球へ帰ることができました。いわばスタッフたちへのボーナスとして与えられていた権利だったのです。

実際、慶良間諸島には中国への進貢船にスタッフとして乗り込んだ者たちが中国貿易で財を築き、故郷の島で立派な家を建てた例もあります(例えば慶留間島の高良家など)。津波古もこのチャンスを活かして貿易を成功させれば人生の一発逆転が可能だったのです。

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慶留間島の高良家

ポイント5:ペリー来航を伝えた火砲「ヒヤー」

ペリー艦隊の来航を首里に伝えるために、港口から火砲が発射されたシーンがありましたが、あれは「ヒヤー(火矢)」と呼ばれる沖縄の銃砲です。形式は火縄銃が伝来する以前の中国式の火砲(手銃)で、ハンドキャノンとも呼ばれます。近世では行列の際の礼砲などに使われていました。

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※火矢と同形式の中国式火砲の発射動画は【こちら

もう一つの案としては、港口の屋良座森グスクという砲台から仏郎機(フランキ)砲という大砲を空砲で発射するという案もありましたが、ドラマのシーンは火矢を採用することになりました。ちなみに仏郎機砲は海賊対策のため、中国へ向かう進貢船に搭載されていました。

なお僕がこの火矢の研究を専門分野の一つにしていることは、ここだけの秘密です(笑)

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2011年8月21日 (日)

【ネタバレ】テンペスト解説(8)

ドラマ第6回「八重山の流刑者」。話の舞台は首里から八重山へと移ります。ここで寧温はついに真鶴へと変身!「女性」になるにともない声色も変わりましたね。物語は新たな局面に入りました。果たして真鶴となった寧温は首里城へと返り咲けるのでしょうか。

また今回のみどころ!沖縄で大ヒットのローカルヒーロー番組「琉神マブヤー」に出演した「ハブデービル」こと仲座健太さん、「ケン」こと山城智二さんが八重山の役人として登場!マブヤーのヒットは彼らがいなければ絶対にありえませんでした。沖縄を代表する芸人さんたちがいい役どころで全国出演したので良かったです!ただ個人的には仲座さんを多嘉良役に推していたのですが、八重山の頭役も彼のカラーを充分に出せていたと思います。

さてさて今回もマニアック解説。首里とは異なる八重山のいろいろをご説明します。

ポイント1:八重山の役人組織はどうなってるの?

八重山は首里の王府の直接統治ではなく、現地の「蔵元(くらもと)」という役人組織がありました。トップは「頭(かしら)」といい、その下に「諸座・諸方」という「ミニ王府」のような組織が整備されていました。蔵元の役人たちは八重山各地の村々を治める「首里大屋子(しゅりおおやこ)」や「与人(ゆんちゅ)」が兼任したりしていました。

首里の王府からは、彼ら蔵元の役人たちを監督する「在番」という王府役人1名、「在番筆者」2名が首里から派遣されていました。彼らは任期付きの役職でやがて首里に帰っていきますが、八重山の政治は基本的には蔵元の現地役人たちが行っていました。ドラマ中で真鶴が踊りを披露した宴席に参加していた黄色のハチマチ3人はこの在番と在番筆者です。

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ポイント2:イギリス船の八重山砲撃事件は史実?

孫寧温が八重山へ流刑になる途中、欧米船が石垣島へ砲撃しているシーンがありました。あの事件は史実です。1852年に起きたロバート・バウン号事件です。中国福建省を出発しアメリカのカリフォルニアをめざしていたバウン号ですが、途中で船長らの虐待に怒った中国人苦力(肉体労働者)が反乱を起こし、船を乗っ取りました。船は台湾へ向かう途中に石垣島の崎枝村の沖で座礁して中国人苦力が石垣島へ上陸。対して欧米側はイギリス・アメリカ船を現地へ派遣して中国人らを砲撃、上陸して彼らを射殺、捕縛したという事件です。史実では孫寧温のような人物は現れませんでしたが、琉球側は苦力を丁重に扱い、一部の苦力らを中国福建に送還しています。現在でも石垣島にはこの事件で亡くなった苦力たちを慰霊する唐人墓が残されています。

ポイント3:「マキー」という病気

現在では医療技術の発達で克服されましたが、かつて琉球ではマラリヤやフィラリア症という恐ろしい風土病がありました。寧温もこのマラリア(マキー。黒水熱)に罹ってしまいましたね。王国時代の八重山ではとくにマラリアの被害を大きく、しばしばマラリア蚊の発生しやすい村の移動も行われています。また八重山ではマラリア蚊の発生しにくい土地に村を作り、日中はマラリア蚊の発生する湿潤地帯の水田へ遠くから通っている例もありましたが(新城島から西表島へ船で渡って耕作する例など)、これもできるだけ感染を防ぐ知恵でした。マラリア蚊は夜行性で日中に有病地帯へ行っても感染する可能性は低かったからです。

ポイント4:孫寧温と第一尚氏王朝の系図について

孫寧温が第一尚氏王朝の末裔であることを証明した系図ですが、歴代王の系統を記した「中山王代記」については実際に残る「王代記」という史料と、記載された文面については『中山世譜』中の第一尚氏時代の系図を参考に作成しました。

明へ渡ったという第一尚氏の末裔ですが、これは史実ではありません。フィクションとして最後の王、尚徳の子「黄金子(くがにしー)」が明へ渡ったという設定にしてあります。そして明へ渡って名乗った「孫截渓(そん・さいけい)」という名前ですが、これは実際の尚徳王の子供の名前を採用しています。沖縄では尚徳王の子供たちの詳しい名前は判明していませんが、実は朝鮮の『海東諸国紀』という史料には、尚徳の子供に中和、於思、截渓という人物がいたことが記されています。琉球では抹殺されてしまった名前ですが、今回はこのうち截渓が第二尚氏のクーデター前に明国へ渡ったという設定にしました。

ちなみに琉球の家系記録は個人で勝手に作れるものではありません。王府がその人物の素性を調査し、正確だと認定したうえで公的記録として作成します。なので全士族の家系記録は首里城の系図座という建物に所蔵されているわけです。琉球の身分は「士族」「百姓」の二つしかありませんが、それを分ける指標は、王府発行の家系記録を持っているか、持っていないかで判断します。なので琉球では士族の別名を「系持(けいもち。家系記録を持ってる者)」、百姓を「無系(むけい。家系記録を持っていない者)」とも称します。

ポイント5:孫寧温が投獄された豚小屋について

孫寧温が投獄されてしまったあの豚小屋ですが、あれはフール(豚便所)です。沖縄では大正時代頃までこのタイプの便所がよく見られました。要するに人が出したウ○コをブタに食べさせ、大きくなったブタを人間が食べるという究極のエコです(笑)大正時代以降は不衛生ということでどんどん無くなっていきましたが、現在でも古い民家にはそのフールを見ることができます。ちなみに当時の沖縄の豚は黒い豚しかいませんでした。白い豚、ヨークシャー種などが入ってくるのは明治末期になってからです。絶滅しかけた在来種を復活させたのが、有名な「アグー」です。

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2011年8月14日 (日)

【ネタバレ】テンペスト解説(7)

ドラマ第5回「宦官の野望」、GACKT演じる徐丁垓が大暴れの回でしたね!せっかくの活躍だったのに、この回で徐丁垓がいなくなってしまうのは何だか寂しいですね…名君の尚育王ももう見れないのは残念です…というか、今回はありえない超展開の「神回」で最後のシーンは僕も大爆笑させてもらいました(笑)次回以降も急展開が続きますので、まだまだ目が離せませんね!

さてさて、今回もマニアック解説です。

ポイント1:尚育王の死

ドラマ中では尚育王があっけなく逝ってしまいましたが、史実ではどうなのでしょう。実際に尚育王は1847年に34歳で急死しています。死因については正式な記録では残っていませんが、ペリー来航の際に琉球側が作成した回答マニュアル「異国人江返答之心得」によると、尚育王の死因をアメリカ側から質問された時には、「癪気(しゃっけ)」と答えるようにとの指示がされています。

この「癪気」ですが、急激な胃痙攣や胃痛という意味があり、どうやら急性の消化器系の病気で突然死したようです。

ポイント2:馬天ノロの勾玉

孫寧温が自宅のガジュマルで見つけた勾玉、これこそが聞得大君が探していた馬天ノロの勾玉でした。第一尚氏王朝の神女の絶大な霊力を持つとされる勾玉ですが、実は戦前まで実際に残っていました

戦前、沖縄を調査した鎌倉芳太郎は、沖縄島南部の佐敷を訪れ、馬(場)天ノロとその祭祀道具などをスケッチしています。そのスケッチによると勾玉は「灰乳青色」をしており、大きさは2.8寸(約8センチ)。水晶玉54個でつながり、長さは2尺(約60センチ)であったといいます。ドラマ中ではピンク色をしていますが、あれは演出側のアレンジです。

なお馬天ノロは「場天大のろくもい」といい、第一尚氏王朝の故地である佐敷を管轄する神女で、かつては「てだしろ(太陽の依り代)」と称されていましたが、第二尚氏時代に、聞得大君にはばかられる畏れ多い名前ということで改名されたとのこと(『琉球国由来記』)。

※実際のスケッチをご覧になりたい方は以下を参照してください。
参考文献:沖縄県立芸術大学附属研究所編『鎌倉芳太郎資料集(ノート篇) 第2巻 民俗・宗教』(沖縄県立芸術大学附属研究所、2006)685ページ

ポイント3:国相とは

徐丁垓が就任した「国相(こくしょう)」は、ドラマ中で「琉球王府最高の官職」という解説がありましたね。

ドラマ中では400年ぶりに国相に就任うんぬん…というくだりがありました。琉球史に詳しい方なら「国相とは摂政のことだから400年ぶりはちがう!」という意見も出るかもしれません。たしかに王族が就任する「摂政(せっせい)」という名誉職があり、国政をつかさどる三司官よりも上の地位にあります。

ですがこの「国相」という役職、近世の「摂政」と古琉球の「国相(王相)」とでは実質的にはまるで別物だったことがわかってきています。最初に「国相」についたのは14世紀の阿蘭匏(あらんほう)という中国人で、以降も中国人が就く役職でした。当時は実質的に国政や外交をとりしきる強力な権限があったようです。

ところがこの役職はしばらく途絶え、17世紀になって「摂政」が改めて常設されるようになります。どうやらかつて存在した「国相(王相)」という中国人専任職を、新たに解釈しなおして琉球人の王族が就く役職にしたことがうかがえるのです。

さらにマニアックな解説をしますと、華人の就いた国相の琉球語の呼称は《王将軍》で、王族の就く摂政は《お世おわつかい(世のお扱い)》と呼んでいたので、別物であることがわかります。

まあ要するにドラマ中の「400年ぶりに国相が…」というセリフはきちんと根拠があるわけです。

ポイント4:徐丁垓が国相に就任した時の辞令書

これまたマニアックですが、徐丁垓が尚泰王からたまわった国相就任の辞令書は、実際の文書をもとにして作っています。

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実際には国相に与えられた辞令書は確認されていませんので架空の文書になりますが(近世に清国人が国相に就いた例はありません)、当時出すとすれば必ずこうしただろうという様式になっています。

※辞令書について詳しく知りたい方は、次の文献を参考にしてください。
参考文献:高良倉吉『琉球王国の構造』(吉川弘文館、1987)

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2011年8月 8日 (月)

【ネタバレ】テンペスト解説(6)

ドラマ「テンペスト」について、ツイッターでこういう疑問がありましたので回答します。

NHK BSドラマ「テンペスト」第3話で清国の役人の前で掌と拳を合わせるしぐさを見せる琉球の役人・・・が描かれていますが、これは正しい時代考証?掌と拳を合わせるのは「明」の字。反清復明のバーバルではなかったか。詳しい方解説宜しく~

寧温たちが天使館で冊封使にしていた「拱手(こうしゅ)」という礼ですが、これはキチンと当時の資料に基づいて再現されています。

「テンペスト」とだいたい同じ時期の李鼎元『使琉球記』(1800年)には、天使館に赴いた琉球官人が拱手でもって清朝の冊封使に礼を行ったとあります。なので適当にやってるわけではないんですよー。超マニアックな細か~いところもちゃんと考証しています(まあ全部こちらのアドバイスが通ったわけではありませんが)。

ドラマそのものもとてもオモシロいですが、こういう誰も気づかない歴史考証も見ていただけると、また違った楽しみ方ができるのではないかと思います。

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2011年8月 7日 (日)

【ネタバレ】テンペスト解説(5)

ドラマ第4回「阿片疑惑」ですが、孫寧温と喜舎場朝薫のタッグでついにアヘン密売事件が解決しましたね。識名園雑用係から一転、糾明奉行となって首里城に乗り込んでいく様は痛快でした。ちなみに史実では琉球にアヘンが入ってきた事例は確認されていません。

さて今回もドラマに登場した各シーンのマニアック解説です。言われないと見逃してしまうものをご紹介します(笑)

ポイント1:表十五人や三司官など王府の役職はどうなってるの?

ドラマ中に出てくる役職ですが、本土の視聴者の皆さんには馴染みがない名前なのでイメージしにくいと思います。琉球王府の組織を簡単に説明しましょう。琉球王府の政治機構ですが、現在の内閣に当たる国政の最高機関が「評定所(ひょうじょうしょ)」と呼ばれる組織で、王族の「摂政(せっせい)」と三人制の大臣である「三司官(さんしかん)」、そして国務大臣・事務次官に当たるのが「表十五人衆」です。彼らはほぼすべて高い身分の門閥から構成されていました。そして彼らを実質的に支えていた事務方が「評定所筆者」たちで、今で言えば内閣官房に当たります。そのリーダーは「筆者主取(ひっしゃぬしどり)」でその下に「筆者」や見習いの筆者たちが続きます。

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ポイント2:アヘンを隠してあった首里城の洞窟、あれ本当にあるの?

女官大勢頭部がアヘンをスイカから取り出していた洞窟、あれは本当にあるのでしょうか。実はあるんです。場所は瑞泉門の下、龍樋と呼ばれる湧き水の奥にあります。石積みで隠されていますが、あの内部は奥行き30メートルの洞窟になっています。そして湧き水の水源はこの一番奥にあります。ただし洞窟はドラマ中のように高さはなく、トンネルのような感じになっているそうです。

ポイント3:寧温たちの頭に載ってる弁当箱みたいなもの、あれ何?

あれは「ハチマチ(八巻、鉢巻)」と呼ばれる琉球王朝の「冠」です。本来は4メートルの布を頭にぐるぐる巻きにしたターバンでした(こちら参照)。やがてフェイクのターバンとして冠状のものが登場し、現在私たちが知るようなハチマチになったのです。ハチマチのひだひだ、あれがターバン時代の名残ですね。身分によって色が異なり、高いほうから紫―黄―赤―青となります。王族は浮織冠で、オレンジ色に浮織の刺繍がされています。

ポイント4:糾明奉行に任命する文書の裏話

孫寧温と喜舎場朝薫が尚育王より糾明奉行に任命されて首里城に再び乗り込み、表十五人の喜屋武親方に王の辞令書を見せる場面があります。あの辞令書もマニアックにこだわっていますよ。「中山王 尚育」の署名に実際の花押(サイン)を採用しています。1秒も映らない一瞬のシーンですが、録画された興味のある方は一時停止でご覧ください(笑)

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