2014年12月28日 (日)
2014年12月23日 (火)
2014年12月14日 (日)
一中VS二中!100年前の野球試合
先日、来春の第87回選抜高校野球の選考結果が発表されました。残念ながら沖縄県代表の首里高校は21世紀枠の選考から漏れ、甲子園出場は果たせませんでした(ニュースはこちら)
首里高校は戦前の沖縄県立第一中学(県立一中)がその前身で、二中の那覇高、三中の名護高とともに沖縄の伝統校として知られています。ちなみに沖縄県で甲子園に初出場したのは首里高でした(1958年)。
沖縄でも戦前、野球が人気のスポーツだったようで、一中対二中の野球試合が行われていました。「沖縄版早慶戦」とでも言えるのではないでしょうか?その様子を戦前の新聞『琉球新報』が報じていたので紹介します(文中の太字は僕が便宜的にしたものです)。
試合は開始以前より話題になっていたようです。『琉球新報』の投書欄「読者倶楽部」には次のような投書があります。
名前:狂雀:1915(大正4)/2/11(木)
一中対二中の野球仕合(試合)は本日潟原(かたばる)で行わるるそうです。今度の戦が両校の関ヶ原を決することですから、定めし両校のチャムピオン諸君の腕は鳴っているでしょう。とにかく私は時間の鳴るのが待ち遠い。
そしていよいよ1915年(大正4)2月11日、試合開始です。
【学生欄】野球仕合雑観
10年ぶりに野球の仕合(試合)を見るべく潟原に出かけたのはおよそ9時半頃であった。ちょうど一中の和田先生が選手とともに塁(ベース)の配置やネットを張るやらラインを引いたりして、はや好球家の血を湧かせていた。
本塁の後方には一中・二中、その他学生連が道の上までいっぱいになって、開戦を今や遅しと待ちかねている。それに今日は紀元節(*)の祝日ときているから、若き教員官吏の好球家連が三々五々と杖を引いて集まってくる。中には5年ないし10年前に中学で腕を振った古武士(ふるつわもの)もチヤホヤ見受けた。彼らの胸中さだめて懐旧の感にたえぬであろう。あるいはまた皮肉の嘆(たん)にたえぬもあろう。
いよいよすべての準備ができた。2、3のノックがあった。後でようやく両軍選手が入り乱れて球受けの練習に見物の目をひいたりして、10時頃になって一中の攻勢で和田審判官「レデー、プレイボール」の下に拍手の中に戦いは開かれた。今やあまたの観衆は優劣いかんとP(ピッチャー)、C(キャッチャー)、バッターの投受打球に一心に注目しているところ、無残、一中の攻撃はもろくも3人とも枕を並べて討死。1点の得ることなくして守勢に転じた。
今度は二中の攻撃。守備で敵をなで斬りにした衝天の意気で1人1人打球者に出たが、いかにもよく打ち、よく攻めて1回に3点を得た。この攻守1回ずつの戦闘ぶりでほとんど両軍の勝敗が決まった感がしたのは惜しかった。
2回目での一中の攻撃はやや優勢で3点を得て少しく味方の見物を喜ばした。しかるに守勢に移るや不運にも失敗続出し、ゴロを逃がしフライを受け損じて、いたずらに敵に好機を与え、あたかも空塁を占領されるような観あらしめて、確か12、3の大得点を奪われたのは、返す返すも一中のために悲しかった。
これから後は互いに一得一失であるいは1点あるいは2、3点を得て、回を重ねるうちに点は両戦士の健闘を憫(あわれ)まずして雨を下し、和田審判また全身濡れねずみとなりて7回の中頃にいたりしが、雨いよいよ強くいたりて、この健児の競技を妨げたので、やむなく休戦を告ぐにいたった。しかるに暫時(ざんじ)にして雨勢また衰えたので、決勝すべく再戦を続行した。
8回を終えて9回目の一中の攻撃まででゲームセットとなり、二中の攻撃を残して29対21で8点の差でついに一中が敗れた。3回から後は一中もよく防ぎよく攻めたがすでに2回目の大敗で致命傷を受けたのだから、とても回復は不可能であった。
一中の宮城、二中の屋部・照喜名・両玉城のごときは選手中の好バッター、好ランナーである。かなり全選手の概評をこころみ、あわせて注文したいが、あまりに長くなるからやめておく。要するに今度の対戦でみると攻守とも10と8か、ないしは10と8分5厘の差はあろうと思った。両軍ともますます研究・努力あれ。(好球生)
*紀元節 …2月11日の神武天皇の即位日を記念する祝日。
(『琉球新報』1915年〔大正4〕2月15日)
一中対二中の試合は泊の潟原(泊にあった広大な干潟)で行われました。途中雨に見舞われたものの、9回表を終え29対21で二中の勝利となりました。それにしても打撃戦ですね。2回裏の二中による一挙12、3点の得点が効き、一中は猛烈に追い上げたものの、今一歩及ばなかったようです。
この時の試合のものではありませんが、戦前の一中対二中の試合を撮影した写真が残っています【こちら】。当時の試合の雰囲気はつかめると思います。
試合後、観戦者の感想が新報の投書欄「読者倶楽部」に掲載されています。
名前:狂雀:1915(大正4)/2/16(火)
一中対二中の野球試合はほんとに素晴らしいものでした。雨中を犯して戦う戦士ら諸君の勇姿は実に勇ましいもんでした。私はビッショリ雨に濡れながら轟(とどろ)く胸を押さえてこの勝負いかんと待ちかねたところ、ついに二中軍のめでたく勝利となった。
参考文献:『琉球新報』