尚寧王の花押
琉球は中国の朝貢国ということもあり、文書に印を押す文化が発達していました(辞令書などがその代表)。ところが1609年、薩摩島津軍の征服後、琉球は外交文書にヤマト風の花押(かおう。いわゆるサイン)を強制されることになります。
先月、東大の史料編纂所で島津家文書中の琉球関係の文書を見る機会がありましたが、そこで尚寧王の花押が書かれた文書も確認しました。それが以下のようなデザインです。
鏡もちや雪ダルマのようで何だかカワイイですね(笑)これがどのような花押を参考に作成されたのかはまだ突き止めていませんが、かなり書きやすいデザインであることがわかります。花押の経験のない尚寧王が書きやすいものを選んだとも考えられます。
なお琉球国王が花押を使用した初めての事例は尚寧王で、しかも1611年の島津氏に忠誠を誓う起請文で使用されています。その花押を見ると慣れていないのか、筆跡はかすれ、花押の丸部分もいびつな形になっています。
後の花押はマイナーチェンジを繰り返しながら図で示したような形になりますが、その時にはキレイな筆跡で乱れはなくなります。書き慣れたといえるのかもしれませんが、起請文への花押、もしかしたら島津氏へ屈服する尚寧の気持ちが筆跡に表れていたかもしれないと考えると、少々切なくなりました。
参考文献:「島津家文書」
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コメント
これ、面白いですね。
花押は漢字文化圏で盛んに使用されていたようですが、デザインのもとは漢字でしょうか?
そうだととすると、この尚寧王の花押は「亶(タン)」の略のようにも思えますね。
投稿: 琉球松 | 2014年10月 9日 (木) 11:37
>琉球松さん
デザインのもとは何でしょうね?尚豊以降の王ですと、花押は自分の名前をもとにしていくようです。(たとえば尚育王は「育」の字を使用)
投稿: とらひこ | 2014年10月15日 (水) 10:11