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2014年10月25日 (土)

護佐丸が引っ越した年

護佐丸といえば琉球史では有名な武将。尚巴志の琉球統一をささえ、やがて1458年に護佐丸・阿麻和利の乱で勝連按司の阿麻和利によって滅ぼされます。

彼はもともと恩納間切(現恩納村)の山田グスクの出身です。当時、沖縄は三山という3つの勢力に分かれていましたが、中山の尚巴志にしたがい、やがて読谷山(現読谷村)に座喜味グスクを築き、読谷山按司となります。

山田グスクから座喜味グスクへと移った時期については、これまで北山滅亡(1416年)後とされてきました。しかし北山の脅威がなくなってから、わざわざ多大な労力と資材を投じてグスクを築くのか?という疑問をずっと感じていました。

これについて、18世紀に護佐丸子孫が書いたとされる『異本毛氏由来記』には次のようにあります(一部現代読みになおしました)。

山田城より読谷山地方は中山第一の関所にて候ゆえ、永楽八、九年(1410~11年)ごろ、尚巴志様御世代、中城按司護佐丸、右鎮守のため読谷山按司に封ぜられ、その地へ城をあい構え候。

つまり読谷は中山と北山の接する最前線の要所なので、北山滅亡以前の1410年頃に座喜味グスクを築いたということです。こちらの記述のほうが自然で矛盾なく説明できます。なお「中城按司」という記述は当時こう呼ばれていたのではなく、近世期の書き手が護佐丸を最終の肩書で彼を表現したものです。

いわゆる「正史」以外の文献もじっくりみていくと、ほかにも面白い発見があるかもしれませんね。

参考文献:曽根信一「護佐丸について、琉球国時代に書かれた文献資料」(『読谷村率歴史民俗資料館紀要』19号)、上里隆史『海の王国・琉球』

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