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大正時代の「琉球新報」紙上に、ある青年のやらかした失敗談が投書されていました。
名前:白波:1915(大正4)/4/11(日)僕の失敗談を紹介します。今朝4時頃、変装して知り合いの家に這入り、何か取ろうとしたら皆が目を覚めて失敗。
これ普通に泥棒でしょう(笑)掲載する新聞も新聞です。今なら大問題になるでしょうね(笑)
投稿者 上里隆史【ご依頼は下記】 時刻 00:00 琉球人の肖像 | 固定リンク Tweet
本当に普通に泥棒ですね (笑)
いくら大正時代でも、もし読谷だったら、その方の家族含めて村八分か他島に追い出されいる事でしょう。
投稿: まりきん | 2014年8月16日 (土) 08:51
早朝4時って、海んチュは起きる頃ですよ。
この現場、泊か?垣花か? いや、糸満かも(笑)。
投稿: 琉球松 | 2014年8月16日 (土) 13:01
今回の記事とは関係ないのですがどこへ質問したらよいかわからなかったのでこちらへ失礼いたします。ドラマ・テンペスト楽しく見ていました。劇中に禁書のシーンがありました。実際に禁書は存在したのでしょうか?とするならばどういった類の書が禁じられていて禁を犯したらどういった処罰が加えられたのでしょうか?新刊拝読させていただいたのですが触れられていなかったので質問させていただきました。それと嘉手納の知人によると薩摩侵攻時に比謝矼近くの坂で粥を流して抵抗したそうです。このように読谷上陸後に王府直轄軍以外での交戦は他にもあったんでしょうか?その規模や戦術、戦果、犠牲はいかほどだったのでしょう?ほとんど時間稼ぎ程度にしか機能しなかったと想像しますが…。薩摩軍は上陸後は無抵抗で南下できたと思っていたので意外に感じました。
投稿: 衆口難調。 | 2014年8月16日 (土) 14:42
「ネットに投稿して目立ちたい」という今の若者と通じるところ、ありません? コンビニの冷蔵庫に横になったり、バンズの上に大の字に寝たり、牛丼やで全裸になったり…。
「若いモンは、モラルがない!」と怒る年配者(私も含む)、たぶん何千年も前から同じ構図だと思います。
投稿: 南ふう | 2014年8月18日 (月) 22:40
>まりきんさん この時代は、軽いノリでスゴイことをしてるなーと現代人の感覚では思いますね(笑)
まあ、今もツイッターなどで騒動を起こすヒトと一緒なのかも(笑)
投稿: とらひこ | 2014年8月22日 (金) 21:46
>琉球松さん 場所は残念ながらわかりませんね。それよりも変装というのがどのような恰好だったか気になります(笑)
>衆口難調さん ドラマ視聴ありがとうございました。
禁書についてはその分野についてはちょっと詳しくありませんが、トキ(占い師)の使う時双紙が禁止されていたり、またベッテルハイムがキリスト教関連本を各家に投げ入れた際に、「国禁の書」として返還されています。
そもそも、琉球の出版文化の研究についてはそれほど進んでいないようです(最近では高津孝『博物学と書物の東アジア』に少し触れられています)。
薩摩軍侵攻については、各地に同じようなお粥に関する伝承がありますが、史料で確認できるのは徳之島の例です。比謝川の伝承はそれらをもとにしたものと思われます。
その他、各地での戦闘の記録はないので実態は不明ですが、例えば恩納村の仲泊では薩摩軍船が座礁した大和干瀬があり、付近の坂では戦闘が行われたとの伝承もあります。
>南ふうさん 僕も真っ先に、そのことが頭に思い浮かびましたよ(笑)
投稿: とらひこ | 2014年8月22日 (金) 22:52
記事とは関係ないコメントへの丁寧なレスありがとうございました。古の琉球ではどういった本が流通していたのか興味をひかれます。禁書があったという事は少なくとも出したいという需要があったのかなと想像します。白バラ事件のようなエピソードがあったり、とか。
港湾や首里城以外での戦闘もそれなりにあったのですね。彼岸の戦力差を前にセジに頼るしかなかった住民像が浮かび上がるようです。ありがとうございました!
そ、それと。先日久しぶりに首里城を見学してきたのですが芭蕉扇を長くしたような扇の解説が無くなっていました。この扇の名前がどうしても思い出せなくて再インプットできると楽しみに思っていたのですが...。誠に身勝手なお願いではありますがよろしければこちらもご教授願えませんでしょうか。
投稿: 衆口難調。 | 2014年8月24日 (日) 18:36
>衆口難調さん
琉球はさすがに江戸時代ほどの出版文化はありませんでしたが、暦書や儒学書、詩文集といったものが主だったようですね。娯楽としての出版の側面はあまりなかったようです。詳しくは先述の高津氏の著書を参照してください。
薩摩軍との各地での戦闘は、実際にあったものと伝承とを区別してみていく必要があるでしょうね(例えば金武の億首川の逸話なんかはほぼ伝承でしょう)。
首里城の芭蕉扇?については何を指しているのかちょっとわかりません。僕自身、首里城を見学してそういうものを記憶していないので…首里城公園のHPかブログなどで質問してもいいのではないでしょうか。
投稿: とらひこ | 2014年8月24日 (日) 19:54
再度の不躾な問いにも丁寧に対応していただき深く感謝いたします。紹介された文献、今度読んでみますね。
億首川の話を金武の方に初めて聞いた時は最初ギャグなのかと思いました。盛るにしても億はいきすぎなような。伝承と実際の差が垣間見えますね。言葉足らずでした。申し訳ありません...。
首里城の芭蕉扇とは以前見た時は何の絵かは覚えてないのですが壁にかかった絵にバリフラッグを左右対称にしたようなデザインの身の丈の倍ほどもある扇を童子?が振っている絵(細部に自信ないですが薄れた記憶ではそう)に解説がついていて「○○扇」と。御涼傘(こちらも解説付)の隣に展示してあったのです。いずれにしても首里城に問い合わせるのが筋ですね。お騒がせいたしました。
重ね重ねありがとうございました!ブログも著書もいつも楽しみにしています。これからもお体に気をつけて益々の活躍を期待しています!
投稿: 衆口難調。 | 2014年8月25日 (月) 17:47
名前の白波って、焼酎かと思ったらどうやら泥棒って意味らしいですね。 泥棒って名前で投稿するのなら、「商売あがったりだ!」とでもあれば面白かったのに(笑)
投稿: haisai | 2014年8月29日 (金) 09:42
>衆口難調さん いえいえ、どういたしまして。今後もこのブログをよろしくお願いします。
> haisaiさん そうみたいですね。しかし愉快犯にしては、実際に家に侵入された方はたまったもんじゃありませんよね(笑)
この時代の投稿は結構ペンネームもこっていて、例えば当時の中国総統の袁世凱をもじって「厭世慨」としたり、肥料船に抗議する投書者が「衛生小僧」と名乗っていたりと、ペンネームだけ見ていても面白いですよ。
投稿: とらひこ | 2014年8月30日 (土) 13:22
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内容:
上里隆史: マンガ 沖縄・琉球の歴史
上里隆史: 新聞投稿に見る百年前の沖縄: 恋愛、悩み、つぶやき、珍事件
上里隆史: 尚氏と首里城 (人をあるく)
上里隆史: 「琉球戦国史」(歴史群像 2015年 2月号) [雑誌]
上里隆史: あやしい!目からウロコの琉球・沖縄史
上里隆史: 知れば知るほどおもしろい 琉球王朝のすべて
たくさんのふしぎ 琉球という国があった [雑誌]
上里隆史: 海の王国・琉球 (歴史新書)
上里隆史・富山義則: 琉球古道---歴史と神話の島・沖縄
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本当に普通に泥棒ですね (笑)
いくら大正時代でも、もし読谷だったら、その方の家族含めて村八分か他島に追い出されいる事でしょう。
投稿: まりきん | 2014年8月16日 (土) 08:51
早朝4時って、海んチュは起きる頃ですよ。
この現場、泊か?垣花か? いや、糸満かも(笑)。
投稿: 琉球松 | 2014年8月16日 (土) 13:01
今回の記事とは関係ないのですがどこへ質問したらよいかわからなかったのでこちらへ失礼いたします。ドラマ・テンペスト楽しく見ていました。劇中に禁書のシーンがありました。実際に禁書は存在したのでしょうか?とするならばどういった類の書が禁じられていて禁を犯したらどういった処罰が加えられたのでしょうか?新刊拝読させていただいたのですが触れられていなかったので質問させていただきました。それと嘉手納の知人によると薩摩侵攻時に比謝矼近くの坂で粥を流して抵抗したそうです。このように読谷上陸後に王府直轄軍以外での交戦は他にもあったんでしょうか?その規模や戦術、戦果、犠牲はいかほどだったのでしょう?ほとんど時間稼ぎ程度にしか機能しなかったと想像しますが…。薩摩軍は上陸後は無抵抗で南下できたと思っていたので意外に感じました。
投稿: 衆口難調。 | 2014年8月16日 (土) 14:42
「ネットに投稿して目立ちたい」という今の若者と通じるところ、ありません?
コンビニの冷蔵庫に横になったり、バンズの上に大の字に寝たり、牛丼やで全裸になったり…。
「若いモンは、モラルがない!」と怒る年配者(私も含む)、たぶん何千年も前から同じ構図だと思います。
投稿: 南ふう | 2014年8月18日 (月) 22:40
>まりきんさん
この時代は、軽いノリでスゴイことをしてるなーと現代人の感覚では思いますね(笑)
まあ、今もツイッターなどで騒動を起こすヒトと一緒なのかも(笑)
投稿: とらひこ | 2014年8月22日 (金) 21:46
>琉球松さん
場所は残念ながらわかりませんね。それよりも変装というのがどのような恰好だったか気になります(笑)
>衆口難調さん
ドラマ視聴ありがとうございました。
禁書についてはその分野についてはちょっと詳しくありませんが、トキ(占い師)の使う時双紙が禁止されていたり、またベッテルハイムがキリスト教関連本を各家に投げ入れた際に、「国禁の書」として返還されています。
そもそも、琉球の出版文化の研究についてはそれほど進んでいないようです(最近では高津孝『博物学と書物の東アジア』に少し触れられています)。
薩摩軍侵攻については、各地に同じようなお粥に関する伝承がありますが、史料で確認できるのは徳之島の例です。比謝川の伝承はそれらをもとにしたものと思われます。
その他、各地での戦闘の記録はないので実態は不明ですが、例えば恩納村の仲泊では薩摩軍船が座礁した大和干瀬があり、付近の坂では戦闘が行われたとの伝承もあります。
>南ふうさん
僕も真っ先に、そのことが頭に思い浮かびましたよ(笑)
投稿: とらひこ | 2014年8月22日 (金) 22:52
記事とは関係ないコメントへの丁寧なレスありがとうございました。古の琉球ではどういった本が流通していたのか興味をひかれます。禁書があったという事は少なくとも出したいという需要があったのかなと想像します。白バラ事件のようなエピソードがあったり、とか。
港湾や首里城以外での戦闘もそれなりにあったのですね。彼岸の戦力差を前にセジに頼るしかなかった住民像が浮かび上がるようです。ありがとうございました!
そ、それと。先日久しぶりに首里城を見学してきたのですが芭蕉扇を長くしたような扇の解説が無くなっていました。この扇の名前がどうしても思い出せなくて再インプットできると楽しみに思っていたのですが...。誠に身勝手なお願いではありますがよろしければこちらもご教授願えませんでしょうか。
投稿: 衆口難調。 | 2014年8月24日 (日) 18:36
>衆口難調さん
琉球はさすがに江戸時代ほどの出版文化はありませんでしたが、暦書や儒学書、詩文集といったものが主だったようですね。娯楽としての出版の側面はあまりなかったようです。詳しくは先述の高津氏の著書を参照してください。
薩摩軍との各地での戦闘は、実際にあったものと伝承とを区別してみていく必要があるでしょうね(例えば金武の億首川の逸話なんかはほぼ伝承でしょう)。
首里城の芭蕉扇?については何を指しているのかちょっとわかりません。僕自身、首里城を見学してそういうものを記憶していないので…首里城公園のHPかブログなどで質問してもいいのではないでしょうか。
投稿: とらひこ | 2014年8月24日 (日) 19:54
再度の不躾な問いにも丁寧に対応していただき深く感謝いたします。紹介された文献、今度読んでみますね。
億首川の話を金武の方に初めて聞いた時は最初ギャグなのかと思いました。盛るにしても億はいきすぎなような。伝承と実際の差が垣間見えますね。言葉足らずでした。申し訳ありません...。
首里城の芭蕉扇とは以前見た時は何の絵かは覚えてないのですが壁にかかった絵にバリフラッグを左右対称にしたようなデザインの身の丈の倍ほどもある扇を童子?が振っている絵(細部に自信ないですが薄れた記憶ではそう)に解説がついていて「○○扇」と。御涼傘(こちらも解説付)の隣に展示してあったのです。いずれにしても首里城に問い合わせるのが筋ですね。お騒がせいたしました。
重ね重ねありがとうございました!ブログも著書もいつも楽しみにしています。これからもお体に気をつけて益々の活躍を期待しています!
投稿: 衆口難調。 | 2014年8月25日 (月) 17:47
名前の白波って、焼酎かと思ったらどうやら泥棒って意味らしいですね。
泥棒って名前で投稿するのなら、「商売あがったりだ!」とでもあれば面白かったのに(笑)
投稿: haisai | 2014年8月29日 (金) 09:42
>衆口難調さん
いえいえ、どういたしまして。今後もこのブログをよろしくお願いします。
> haisaiさん
そうみたいですね。しかし愉快犯にしては、実際に家に侵入された方はたまったもんじゃありませんよね(笑)
この時代の投稿は結構ペンネームもこっていて、例えば当時の中国総統の袁世凱をもじって「厭世慨」としたり、肥料船に抗議する投書者が「衛生小僧」と名乗っていたりと、ペンネームだけ見ていても面白いですよ。
投稿: とらひこ | 2014年8月30日 (土) 13:22