護佐丸の墓に落書き(1)
今から100年前の「琉球新報」投書欄に、次のようなものがありました。
名前:久沢生:1915(大正4)/2/16(火)
去る11日は神武天皇のご即位、紀元節に相当しているので、我々同志者、相集まり協議一決して中城まで遠足した。同日午前8時10分の発車に乗って四方八方の話の交換して行くうちには、間もなく与那原停車場に着いた。【復元された昭和期の与那原駅】
ただちに下車してまたまた人車軌道に運ばれ津覇村に向かった。目的地の中城城めがけて一生懸命に通って行く。みなは元気旺盛にして目的地を踏んだのはちょうど1時半頃であった。城の物見台に登って新鮮なる空気を吸いつつ見ると、下は甘蔗(サトウキビ)が青々と生えている。海面に見える知念﨑と勝連半島とは海中に突き出し、津堅、久高の小島はあたかも軍艦のごとく並んでいる。海上に飛び回る千鳥は淋しく泣いている。その景色は筆にも書き尽くされないほどであった。
【戦後まもなくの中城湾。久沢生が見た風景と近いでしょう】
城内にある役場にて護佐丸の遺物として保存せられたる剣、遺伝、書物、飯碗、煙草盆などを見ると同時に護佐丸の面影がしのばるる。それから護佐丸の御墓に参詣して墓の周囲に生えている福木に記念として「琉球新報」と削って帰った。
ある青年が休日に、友人とともに那覇から中城グスクまで遠足したという内容です。当時開通したばかりの軽便鉄道で那覇から与那原まで行き、そこからは人が客車を押して進む人車軌道(与那原―泡瀬間の沖縄軌道。当時は与那原―津覇間まで開通)に乗って中城グスクに到着したようです。
グスクで中城湾の絶景を堪能した後は、一の郭にあった中城村役場で「護佐丸の遺物」なるものを見学しています。(護佐丸の生きていた15世紀にはまだタバコは伝来していないので、後世のものでしょうが…)
そしてその後は、グスクの近隣にある護佐丸の墓を参詣。敷地にあるフクギに記念として「琉球新報」と掘りこんだとのこと。これはいけませんね(笑)しかし、木に掘りこんだということは、もしかしたら現在でもその痕跡が残っているかもしれません。
ということで、実際に護佐丸の墓に行ってきました(笑)はたして久沢生の記念掘りこみはあったのか!?その結果は次回ということで。
参考文献:「琉球新報」
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