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2014年5月31日 (土)

リア充爆発しろ(100年前)

100年前の「琉球新報」投書欄に、次のような投書がありました。

名前:若狭町牛生:1914(大正3)/11/15(日)
潟原(かたばる)の砂台は男女の密会所だ。新しい男女の徘徊するのを見受けるが、今後はこういう不貞な奴らは捕えて相当の制裁を与えたいものだ。すなわち潟原は男女の快楽場だ。

潟原とは、現在の那覇市泊の付近にあった広大な干潟。どうやらここは「リア充」カップルたちの集う場所になっていたようです。投書した人は潟原の近所である若狭町に住んでいたとみられることから、おそらくリア充たちのイチャイチャぶりを日々見せつけられて、腹にすえかねていたんでしょう(笑)

それにしても、捕まえて制裁をくわえるとは、穏やかではありませんね…この投書に対して、後日に批判が寄せられます。

名前:閑村:1914(大正3)/11/26(木)
若狭町牛生君、君は本欄に「潟原は腐敗男女の快楽場」というようなことを書くが、余は君に対し疑問を起す。悪きを見て素破抜くとは怪しからん、君同類ではないか。以後慎まんと素破抜いてやるぞ。

素破抜(すっぱぬ)くとは「暴露する」ということ。新聞紙上で氏素性をバラすということです。

しかしその後、衝撃の暴露が!

名前:三良小:1915(大正4)/1/22(金)
若狭町牛生は辻には足を入れんというが、一昨夜、僕に見つかったんじゃないか。近いうち三合はもらいにくるぞ。今後でも君が事実、足を止めえるなら僕が十の指を切ってみせる。

なんと、マジメぶっていた牛生君が辻の遊郭通いをしていたところを目撃されたのです!…う~ん、どうやら牛生さんは、潟原のカップルが単にうらやましかっただけのようです…(笑)

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2014年5月17日 (土)

「那覇」表記の起源

沖縄県の県庁所在地の那覇市。王国時代には沖縄随一の交易港として栄えました。この「那覇」という地名、一説では漁場を表わす「なば」からきてるとも、また那覇の浮島にあったキノコ状の形をした石灰岩(ナバ=奈波)からきているとも言われています。

それでは、「なは」という地名に「那覇」の漢字があてられるようになったのはいつ頃のことでしょうか。確認できるかぎりでは、1521年の三司官から種子島時堯へ宛てた書状(『旧記雑録』)。「那覇之奉行」という文言で登場します。

1542年の大内氏奉行人・相良武任の書状には「奈波」とあり(「中川家文書」)、この頃は表記が定まっていなかったようです。

1559年には「那覇主部(なはぬしべ)」から島津氏の老中あてに書状が送られていますが、ここでは「那覇」と表記されています。どうやら16世紀後半から「那覇」表記が一般的になったようです。

書状では琉球側から「那覇」と表記し、本土側からは「奈波」とあることから、あるいは琉球自身では16世紀前半の時点ですでに「那覇」表記が固まっていたのに対し、日本側では適当な漢字をあてていたのかもしれません。

なお1615年に那覇港を訪れたウィリアム・アダムスは日記のなかで那覇のことを「nafa(ナファ)」と呼んでいます。琉球語読みの「ナーファ」は、400年前にはすでに定着していたことがわかります。

参考文献:山下重一「三浦按針(ウィリアム・アダムス)の琉球航海記」(『南島史学』47号)

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