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2014年1月 4日 (土)

見えなかったことにしよう

琉球王国は奄美大島から与那国島までの領域を持っていました。近世になると奄美地域は薩摩藩の直轄領となりますが、それでも名目上は琉球の領域でした。

面白いことに、琉球王国は与那国島からさらに南の台湾やフィリピンまで進出することはありませんでした。南西諸島は12世紀頃のグスク時代に入ると「琉球文化圏」が形成され、その数百年後に王国が成立します。ところが王国体制はその文化圏のみにしか広がりませんでした。

つまり最初にぼんやりとした「文化圏」ができていて、琉球王国はそれをなぞるようにして確立していったといえるでしょう。この不思議な現象の理由は不明ですが、「琉球とは何か」を考える際、非常に興味深い問題です。

さて一番はじっこの与那国島、晴れた日には台湾をのぞむことができます。島に住む人は古来より台湾の存在を知っていたわけですが、近世になると琉球は幕藩制国家の支配下に入り、「鎖国」制度が適用されます。当然、住民が台湾へ渡ることは許されません。

そこで琉球王府はどのようなお達しをしたかというと、次のような禁令を出したようです。

台湾の見えるということは制禁なり(『大島筆記』)

つまり、台湾が見えると公言するのはタブーだったのです。与那国島の誰もが台湾を見ながら「あの島は見えなかったことにしよう」としていたわけですね(笑)幕藩制おそるべし。

参考文献:真栄平房昭「近世日本の境界領域」(菊池勇夫・真栄平房昭編『列島史の南と北』)

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コメント

明けましておめでとうございます。

 "最初にぼんやりとした「文化圏」ができていて、琉球王国はそれをなぞるようにして確立していった" 。。。
 そうすると、グスク時代以前の宮古八重山も奄美沖縄に通ずる文化圏だったと考えてよいでしょうか?

 台湾あたりから南下したオーストロネシア語族は先島諸島にもいたと考えますが、無土器時代には島々を去ったでしょうかね。

投稿: 琉球松 | 2014年1月 5日 (日) 18:42

>琉球松さん

いえいえ、本文で「グスク時代に入ると」と書きましたように、八重山地域とつながるのはそれ以降になります。

投稿: とらひこ | 2014年1月 5日 (日) 19:59

 ああっ、早とちりでした(笑)

 すみません、こんな調子ですが、今年も宜しくお願いします。

投稿: 琉球松 | 2014年1月 5日 (日) 22:08

興味深いお話ですね。

オランダや鄭成功が進出する前の台湾には統一した国はなく(高砂族などの民族の割拠状態)琉球が本気で併合しようとすればできたような気もします。

投稿: 志士 | 2014年3月 5日 (水) 13:16

>志士さん
そうですね。琉球は北(九州)には意識が向いて、中世の一時期には種子島や南九州の大名たちを従属させようとしていたことが最近の研究で明らかにされています。

南に意識が向かなかった理由が知りたいですね。

投稿: とらひこ | 2014年3月 6日 (木) 22:04

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