« 2013年12月 | トップページ | 2014年2月 »

2014年1月29日 (水)

東南アジア貿易は途絶したのか

アジア各地へ交易活動を展開していた15世紀の琉球王国ですが、16世紀に入ると倭寇をはじめとした民間勢力の台頭で貿易は衰退し、1570年のシャム(タイ)派遣船を最後に東南アジア貿易は途絶した、というのがこれまでの通説です。

しかし、史料を探っていくと1570年以後も東南アジア貿易は続いていたことがうかがえます。

1598年には、堺商人の川崎利兵衛が琉球の「南蛮才府」に任命されています(『蒙姓家譜』)。彼は茶器を求めて琉球へたどり着き、そのまま定住して王府役人に登用された人物。「南蛮」とは東南アジア、「才府」とは現地で貿易品の買いつけを行う役職です。おそらく商才を買われ、王府にスカウトされたのでしょう。家譜には年月日が記載されてることから、家譜編集当時に南蛮才府の辞令書を参考にした可能性が非常に高いです。

さらに万暦年間(1573~1619年)には、ルソン(フィリピン)へ交易におもむいた新垣筑登之親雲上善房の例があります(『那姓家譜』)。注目されるのは、彼は「倭人」の自安大円宋治なる人物とともに交易をおこなったことです。

この時期、琉球の航海技術は低下し、遭難船が相次いでいました。そこで海域世界で活動する日本人海商たちに便乗、あるいは共同するかたちで東南アジア貿易を続けようとしていたのではないでしょうか。

琉球征服後の1615年、島津家久は琉球の尚寧王を介するかたちでフィリピン総督フワン・デ・シルバに書簡を送っていますが(『江雲随筆』)、そのなかで「琉球とフィリピンは20年来、通交しなかった」と記しています。逆算すれば1590年代まで通交は続いていたことになります。

フィリピンは16世紀当時、東南アジアの一大貿易拠点へと成長していました。琉球はシャムを撤退した後、新しい市場を開拓し、貿易を続けようとしていたとみられます(結局はうまくいきませんでしたが)。

このように琉球が1570年以後も東南アジア貿易を行っていたのは確実です。教科書や通史の記述もあらためる必要があるかもしれませんね。

参考文献:上里隆史『海の王国・琉球』

人気ブログランキングへ
訪問ありがとうございます。
応援クリック!お願いします

| | コメント (4)

2014年1月 4日 (土)

見えなかったことにしよう

琉球王国は奄美大島から与那国島までの領域を持っていました。近世になると奄美地域は薩摩藩の直轄領となりますが、それでも名目上は琉球の領域でした。

面白いことに、琉球王国は与那国島からさらに南の台湾やフィリピンまで進出することはありませんでした。南西諸島は12世紀頃のグスク時代に入ると「琉球文化圏」が形成され、その数百年後に王国が成立します。ところが王国体制はその文化圏のみにしか広がりませんでした。

つまり最初にぼんやりとした「文化圏」ができていて、琉球王国はそれをなぞるようにして確立していったといえるでしょう。この不思議な現象の理由は不明ですが、「琉球とは何か」を考える際、非常に興味深い問題です。

さて一番はじっこの与那国島、晴れた日には台湾をのぞむことができます。島に住む人は古来より台湾の存在を知っていたわけですが、近世になると琉球は幕藩制国家の支配下に入り、「鎖国」制度が適用されます。当然、住民が台湾へ渡ることは許されません。

そこで琉球王府はどのようなお達しをしたかというと、次のような禁令を出したようです。

台湾の見えるということは制禁なり(『大島筆記』)

つまり、台湾が見えると公言するのはタブーだったのです。与那国島の誰もが台湾を見ながら「あの島は見えなかったことにしよう」としていたわけですね(笑)幕藩制おそるべし。

参考文献:真栄平房昭「近世日本の境界領域」(菊池勇夫・真栄平房昭編『列島史の南と北』)

人気ブログランキングへ
訪問ありがとうございます。
応援クリック!お願いします

| | コメント (5)

« 2013年12月 | トップページ | 2014年2月 »