再論「万国津梁の鐘」の真実(2)
「万国津梁の鐘」の製造の目的でよく言われていたのが、1458年に起こった護佐丸・阿摩和利の乱で戦に疲れた尚泰久王が、平和を望んで鐘を造ったというものです。たしかに銘文の内容は仏教を信仰し、世の中が平和になったことが記されています。やはり戦乱の終結を記念したものなのでしょうか。
鐘の銘文をよく見てみましょう。銘文の最後には、この文章を書いた年月日が書かれています。そこには「戊寅六月十九日」とあります。ここで護佐丸・阿麻和利の乱を思い出してみましょう。護佐丸が謀反の疑いをかけられ、阿摩和利率いる王府軍に中城グスクを攻められた時、グスク内では月見の宴が行われていました。この宴は「秋の最中」(『毛氏先祖由来伝』『夏姓大宗由来記』)に開催された、中秋の名月を観賞するものだったようです。つまり乱は秋以降に起こったもので、この時すでに鐘は製作されていたことになるのです。
銘文を作成してから鐘が完成するには若干のタイムラグがありますが、少なくとも6月の時点で鐘の製作にはとりかかっていたわけで、護佐丸・阿摩和利の乱とは関係ないところで作業が進んでいたことは間違いありません。前回みたように「万国津梁の鐘」は単体で造られていたのではなく、王権関連のグスクに鐘や雲板を設置する動きのなかで造られた一つです。
近世史書が本当に真実を伝えているかとの疑問もたしかにありますが、もし記述が本当だとしたら、やはり鐘についての従来の考えを見直さなくてはいけなくなるでしょう。
参考文献:沖縄県教育委員会文化課編『金石文』
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コメント
と言うことは、むしろ三山統一後の不安定な状況の改善を目した政策でしょうか?
外からの圧迫もそれほど感じられらい時代のようですし、奄美宮古八重山にしても、ほとんど驚異でもなさそうですね。
投稿: 琉球松 | 2012年2月19日 (日) 11:00
>琉球松さん
大きく見えればそのように言えると思いますが、僕は直接的な理由は、やはり朝鮮からの大蔵経伝来の記念のためのモニュメントではないかと思います。
投稿: とらひこ | 2012年2月19日 (日) 15:29