再論「万国津梁の鐘」の真実(1)
ウチナーンチュ(沖縄の人)が歴史を語る際、好きな言葉のひとつが「万国津梁(ばんこくしんりょう)」です。その意味は「世界の架け橋」。琉球王国の時代、沖縄がアジアの海で中継貿易を行って繁栄していた時代に鋳造された「万国津梁の鐘」の銘文からきています。
その銘文の始めにはこうあります。
「琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀をあつめ、大明をもって輔車(ほしゃ)となし、日域をもって唇歯(しんし)となす。この二中間にありて湧出せる蓬莱(ほうらい)の島なり」
(琉球国は南海の景勝の地にあって、朝鮮の優れたものを集め、中国と日本とは非常に親しい関係にある。この日中の間にあって湧き出でる理想の島である)
琉球が各国と親密な関係を築いている様子をうたったものですが、日本・中国・朝鮮のうち、なぜか最初に朝鮮のことがあげられています。これはなぜでしょうか。このことについて「琉球王は朝鮮系の出身で深いつながりがあったから、文中で朝鮮のことを最初にあげたんだ。それに「三韓」は古い呼び方で、これにも深い意味がある」という説がごく一部でとなえられています。この説は以前の記事「万国津梁の鐘の真実」で明確に否定したわけですが、では、なぜ文中で最初に朝鮮のことをあげられているのか、それについて詳しく書きたいと思います。
まず大前提として。この鐘は本来、貿易の繁栄をうたったことが主旨ではなく、「国王が仏教を信仰し、琉球が平和な世の中になった」ことを伝えた内容です。文の作成者はヤマト禅宗の流れをくむ相国寺の渓隠(けいいん)和尚。鐘を製作したのは北九州出身とみられる鋳物師の藤原国善。つまり鐘は本来、仏教のことについて述べたものである、ということを確認しておきたいと思います。
ちなみに渓隠の出身地は不明ですが、文中で琉球を「南海」と位置づけることから、北を軸に置いた視点を持つ者であることはまちがいありません。その他の文書から、おそらく彼は北九州を掌握していた山口の大名・大内氏と面識のあった禅僧の可能性があります。
それと文中の「三韓」の表現ですが、これは単に朝鮮の雅号(風雅な名前。例えば琉球は「球陽」、日本は「扶桑」とか)で、中世日本では「三韓」という表現を普通に使っていましたので、とくに深い意味はありません。
実はこの時期、「万国津梁の鐘」にかぎらず、たくさんの鐘が琉球で製作されていました。1455~1459年の間に何と23口も集中的に作られています。その理由は、当時の尚泰久王が仏教を深く信じていたからだとされています。それは確かだと思いますが、実は鐘を作る大きなキッカケの事件があったと僕は考えています。それが朝鮮王朝から高麗版大蔵経が琉球にもたらされたことです。大蔵経とは仏教経典の大百科で、当時の朝鮮王朝が持っていた「お宝」でした。
琉球は第一尚氏の思紹王の頃からすでに仏教が深く浸透していたことがわかっています。仏教を信じる琉球にとって、この大蔵経は「国家鎮護の源泉」としてノドから手が出るほど欲しい貴重なものでした。同じく仏教がさかんだった室町時代の日本では、この経典をゲットするために日本各地の領主・大名・将軍などさまざまな人たちが朝鮮を訪れ、「大蔵経ください」とお願いしています。とくに室町将軍らはこのお経を入手するためだけに朝鮮とお付き合いしていたほどです。
1455年、琉球からこの大蔵経を求める使者が朝鮮へ向かいます。そして1457年、大蔵経が初めて琉球にもたらされました。これは当時としては国家的大事件です。この入手と軌を一にするかのように、1457年には首里城正殿の雲板(禅宗のドラ)、越来グスクの鐘、翌年の1458年には首里時城正殿に掛けられた「万国津梁の鐘」、大里グスクの雲板と、王家関連のグスクに梵鐘や雲板が次々と作られていっています。これらは大蔵経の獲得を記念した国家的なモニュメントとしての目的があったのではないでしょうか。
つまり「三韓の秀」とは「朝鮮のすぐれたもの=高麗版大蔵経」を具体的に指していると考えられるのです。
参考文献:上里隆史「琉球の大交易時代」(荒野泰典・石井正敏・村井章介編『日本の対外関係4 倭寇と「日本国王」』)
| 固定リンク
コメント
おはようございます。
「この日中の間にあって湧き出でる理想の島である」
励みになります、ありがとうございました。
投稿: クンバタ | 2012年2月11日 (土) 08:37
東アジアで一番小国だったのに琉球って凄かったんですね。
21世紀の現代の沖縄は、日米安保やTPP、中国の台頭とアジアへの過剰な干渉、など難問が山ずみですが、昔の人達に負けないように我々も頑張らないといけない!と思いますね。
投稿: まりきん | 2012年2月11日 (土) 10:04
「三韓」が朝鮮の雅号とは初めて知りました。古代に弁韓と辰韓、馬韓の三国や、高句麗と百済と新羅の三国に分かれてたからでしょうね。
朝鮮(韓国)では、高麗では仏教が非常に重視された一方、李朝朝鮮では儒教の重視で仏教が重視されなくなって仏教が衰えたみたいなので、外国にこのような貴重な仏教の書物を贈ったのは、李朝が高麗ほど仏教が重視されなくことによるような気がします。李朝も高麗と同じくらい仏教を重視したなら、外国に貴重な仏教の書を渡さなかったように思います。
儒教は、朝鮮(韓国)では李朝時代以降にあらゆる階層に浸透したものの、日本では江戸時代に盛んになったとはいえ、石田梅岩の心学が町人に広がった以外、ほとんど武士の間だけでしたが、琉球では王様と王族、士族の間だけに儒教が浸透したのでしょうか?
上里さんは、その大蔵経を納めた経堂が、今の首里の弁天堂の場所にあり、経堂が薩摩の侵攻で焼けたことを、以前にご教示くださいましたが、失われたのは残念なことに思います。
投稿: 大ドラ | 2012年2月11日 (土) 21:15
高麗にとって大蔵経は、諸外国の侵略に対抗するための精神的支えだったでしょうね。
この経典は、尚泰久王にとっても内戦後?を安定させるために必要だったでしょうか。
投稿: 琉球松 | 2012年2月12日 (日) 19:11
珍しい知見、御教示ありがとうございます。
当時の北九州から、琉球に対しても大内氏との関係が強かったのでは、という御高説、
興味深く読みました。
15世紀半ば、幕府をも脅かす西国の雄が大内家でしたし、
朝鮮中国との交易にも手を伸ばし、
資金力が豊富でしたから琉球もその資金調達戦略の一端にあったのかもしれません。
山内家に対抗し、力を伸ばしていった大友家が琉球に関心を示した形跡が見受けられないのは、何かご意見ありますでしょうか?
投稿: sam bockarie | 2012年2月12日 (日) 23:24
>クンバタさん
この文言は県庁にありますし、沖縄のヒトが奮い立つ文章ですよね。
>まりきんさん
琉球の歴史は、小国が逆境の中をいかに切り抜けてきたかの歴史です。今の日本にもっとも必要な教訓が秘められていると思います。
>大ドラさん
ご指摘のように、経典が朝鮮国外に流出していったのは、儒教を大事にしたことと関連してるようですね。
琉球では近世以降、庶民たちに儒教をもとにしたテキスト「御教条」を布達してますから、ある程度は浸透したように思います。
大蔵経、残ってたら国宝級だったでしょうね。
>琉球松さん
大蔵経は仏教国家ならぜひともなくてはならない聖典のような位置づけだったように思います。
>sam bockarieさん
現在の研究では、16世紀に琉球通交の主導権を握っていたのは島津氏ではなく大内氏であったことが明らかになっています。
大友氏についても、実は琉球通交をした記録があります。さかんだったかどうかは不明ですが、考証を試みたのは確かなようです。
投稿: とらひこ | 2012年2月19日 (日) 15:26