« 2012年1月 | トップページ | 2012年3月 »

2012年2月25日 (土)

那覇港でサメに食われた話

王国の港として栄えた那覇港。国場川の下流域にあたるこの場所は、広い内海状の地形になっていました。穏やかな海で人々は釣りや漁をしていたようです。その様子は王国時代に描かれた絵図などでも確認できます。

ところが!この那覇港湾、当時はサメがよく出没していました。歴史書『球陽』には1828年、次のような事件があったことが記されています。

この年(1828年)6月の間に、那覇港においてサメが人を襲い、命を失わせることがあった。このため王府の命令によってサメを捕獲しようとしたが、いまだ捕えるにはいたっていない。那覇港ではしばしば(サメが)人を襲う心配がある。

那覇港にサメがうようよしていたとは、現在では想像できない話です。このほかにもサメの被害に遭った事件がありますので、那覇港湾の海はけっこうキケンな海だったことがわかります。

参考文献:『球陽』

人気ブログランキングへ
訪問ありがとうございます。
応援クリック!お願いします

| | コメント (6)

2012年2月23日 (木)

ジュンク堂で売上1位!

拙著『海の王国・琉球』、刊行からまだ間もないですが、なんとジュンク堂那覇店で全書籍売り上げ1位となりました!

今話題の『共喰い』や『あんぽん』も抜いての1位です。やはり沖縄の皆さんは地元の歴史に非常に関心があるようです。これから全国でも琉球の歴史に興味を持っていただけたらと思います。

人気ブログランキングへ
訪問ありがとうございます。
応援クリック!お願いします

| | コメント (7)

2012年2月22日 (水)

伊平屋島の歴史ツアー!

沖縄本島の北に位置する伊平屋島で、ワタクシ上里による監修のツアー開催です!

なななんと!ガイドは島のちびっこたち!そして現代版組踊「屋蔵大主物語」の観賞も!

貸し切りバスで行く!伊平屋島ツアー 琉球王朝のルーツが残る「てるしの」の島 尚巴志王ゆかりの地を訪ねる

821

(こちらのチラシは県内向けです)

開催日は2月17・24日、3月2日の出発(3泊4日)。東京・大阪・名古屋・金沢、そして沖縄県内(1泊2日、2月18・25日、3月3日出発)から参加可能です!

お問合わせ・お申込みは

(株)ジャンボツアーズ TEL:050-5530-2828
【営業時間】月~金 10:00~18:30、土 10:00~15:30 (日祝休み)
E-mail: r01@jumbotours.co.jp

詳しくは【こちら】をごらんください。

屋蔵大主(やぐらうふぬし。やぐらうふしゅとも言う)とは琉球を統一した尚巴志のひいおじいさんに当たる人物。伊平屋島のヒーローです。

今回の舞台のマスコットキャラクター・屋蔵大主は「カリスマ琉球歴女」の和々さんによるイラスト!

B143202a8690227ec269c80ee6e93542

伊平屋島には日本の古代神話に登場する「天の岩戸」ではとの説もある「クマヤ洞窟」や、古い集落に残る神殿「神アシャギ」などがあり、見どころたくさんです。ちびっこたちのかわいいガイドも見ものですよ!ぜひぜひご参加ください!

なお、宿も船も自分で手配するという方は、参加費1000円でツアー&舞台を観賞できます。個人的に行かれたい方はそちらの参加も歓迎です。

お問い合わせは、一般社団法人タオファクトリー TEL:098-983-0144 

くわしくは【こちら】を参照してください。

人気ブログランキングへ
訪問ありがとうございます。
応援クリック!お願いします

| | コメント (5)

2012年2月18日 (土)

再論「万国津梁の鐘」の真実(2)

「万国津梁の鐘」の製造の目的でよく言われていたのが、1458年に起こった護佐丸・阿摩和利の乱で戦に疲れた尚泰久王が、平和を望んで鐘を造ったというものです。たしかに銘文の内容は仏教を信仰し、世の中が平和になったことが記されています。やはり戦乱の終結を記念したものなのでしょうか。

鐘の銘文をよく見てみましょう。銘文の最後には、この文章を書いた年月日が書かれています。そこには「戊寅六月十九日」とあります。ここで護佐丸・阿麻和利の乱を思い出してみましょう。護佐丸が謀反の疑いをかけられ、阿摩和利率いる王府軍に中城グスクを攻められた時、グスク内では月見の宴が行われていました。この宴は「秋の最中」(『毛氏先祖由来伝』『夏姓大宗由来記』)に開催された、中秋の名月を観賞するものだったようです。つまり乱は秋以降に起こったもので、この時すでに鐘は製作されていたことになるのです。

銘文を作成してから鐘が完成するには若干のタイムラグがありますが、少なくとも6月の時点で鐘の製作にはとりかかっていたわけで、護佐丸・阿摩和利の乱とは関係ないところで作業が進んでいたことは間違いありません。前回みたように「万国津梁の鐘」は単体で造られていたのではなく、王権関連のグスクに鐘や雲板を設置する動きのなかで造られた一つです。

近世史書が本当に真実を伝えているかとの疑問もたしかにありますが、もし記述が本当だとしたら、やはり鐘についての従来の考えを見直さなくてはいけなくなるでしょう。

参考文献:沖縄県教育委員会文化課編『金石文』

人気ブログランキングへ
訪問ありがとうございます。
応援クリック!お願いします

| | コメント (2)

2012年2月11日 (土)

再論「万国津梁の鐘」の真実(1)

Cimg1148

ウチナーンチュ(沖縄の人)が歴史を語る際、好きな言葉のひとつが「万国津梁(ばんこくしんりょう)」です。その意味は「世界の架け橋」。琉球王国の時代、沖縄がアジアの海で中継貿易を行って繁栄していた時代に鋳造された「万国津梁の鐘」の銘文からきています。
その銘文の始めにはこうあります。

琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀をあつめ、大明をもって輔車(ほしゃ)となし、日域をもって唇歯(しんし)となす。この二中間にありて湧出せる蓬莱(ほうらい)の島なり
(琉球国は南海の景勝の地にあって、朝鮮の優れたものを集め、中国と日本とは非常に親しい関係にある。この日中の間にあって湧き出でる理想の島である)

琉球が各国と親密な関係を築いている様子をうたったものですが、日本・中国・朝鮮のうち、なぜか最初に朝鮮のことがあげられています。これはなぜでしょうか。このことについて「琉球王は朝鮮系の出身で深いつながりがあったから、文中で朝鮮のことを最初にあげたんだ。それに「三韓」は古い呼び方で、これにも深い意味がある」という説がごく一部でとなえられています。この説は以前の記事「万国津梁の鐘の真実」で明確に否定したわけですが、では、なぜ文中で最初に朝鮮のことをあげられているのか、それについて詳しく書きたいと思います。

まず大前提として。この鐘は本来、貿易の繁栄をうたったことが主旨ではなく、「国王が仏教を信仰し、琉球が平和な世の中になった」ことを伝えた内容です。文の作成者はヤマト禅宗の流れをくむ相国寺の渓隠(けいいん)和尚。鐘を製作したのは北九州出身とみられる鋳物師の藤原国善。つまり鐘は本来、仏教のことについて述べたものである、ということを確認しておきたいと思います。

ちなみに渓隠の出身地は不明ですが、文中で琉球を「南海」と位置づけることから、北を軸に置いた視点を持つ者であることはまちがいありません。その他の文書から、おそらく彼は北九州を掌握していた山口の大名・大内氏と面識のあった禅僧の可能性があります。

それと文中の「三韓」の表現ですが、これは単に朝鮮の雅号(風雅な名前。例えば琉球は「球陽」、日本は「扶桑」とか)で、中世日本では「三韓」という表現を普通に使っていましたので、とくに深い意味はありません

実はこの時期、「万国津梁の鐘」にかぎらず、たくさんの鐘が琉球で製作されていました。1455~1459年の間に何と23口も集中的に作られています。その理由は、当時の尚泰久王が仏教を深く信じていたからだとされています。それは確かだと思いますが、実は鐘を作る大きなキッカケの事件があったと僕は考えています。それが朝鮮王朝から高麗版大蔵経が琉球にもたらされたことです。大蔵経とは仏教経典の大百科で、当時の朝鮮王朝が持っていた「お宝」でした。

琉球は第一尚氏の思紹王の頃からすでに仏教が深く浸透していたことがわかっています。仏教を信じる琉球にとって、この大蔵経は「国家鎮護の源泉」としてノドから手が出るほど欲しい貴重なものでした。同じく仏教がさかんだった室町時代の日本では、この経典をゲットするために日本各地の領主・大名・将軍などさまざまな人たちが朝鮮を訪れ、「大蔵経ください」とお願いしています。とくに室町将軍らはこのお経を入手するためだけに朝鮮とお付き合いしていたほどです。

1455年、琉球からこの大蔵経を求める使者が朝鮮へ向かいます。そして1457年、大蔵経が初めて琉球にもたらされました。これは当時としては国家的大事件です。この入手と軌を一にするかのように、1457年には首里城正殿の雲板(禅宗のドラ)、越来グスクの鐘、翌年の1458年には首里時城正殿に掛けられた「万国津梁の鐘」、大里グスクの雲板と、王家関連のグスクに梵鐘や雲板が次々と作られていっています。これらは大蔵経の獲得を記念した国家的なモニュメントとしての目的があったのではないでしょうか。

つまり「三韓の秀」とは「朝鮮のすぐれたもの=高麗版大蔵経」を具体的に指していると考えられるのです。

参考文献:上里隆史「琉球の大交易時代」(荒野泰典・石井正敏・村井章介編『日本の対外関係4 倭寇と「日本国王」』)

人気ブログランキングへ
訪問ありがとうございます。
応援クリック!お願いします

| | コメント (6)

2012年2月 9日 (木)

新刊!『海の王国・琉球』

ワタクシ上里の新刊『海の王国・琉球―「海域アジア」屈指の交易国家の実像』(洋泉社歴史新書y)がついに発売されました!

本書は古琉球史(12~17世紀)研究の最新成果と、僕がこれまで発表してきた論文や著書をまとめた新書です。琉球の歴史を「海域史」という新視点から大胆に読みなおす試みです。新書ながら、僕が大学1年からはじめた研究の集大成という位置づけになります。

目次など、くわしくは【こちら】をどうぞ。

琉球とは何か。その本質は「日本」なのか「中国」なのか。その答えは本書にあります。全国の書店で発売中なので、ぜひご覧ください!

人気ブログランキングへ
訪問ありがとうございます。
応援クリック!お願いします

| | コメント (3)

2012年2月 4日 (土)

あるはずのない王冠

琉球国王は中国皇帝から冊封(任命)されていたことはよく知られている事実です。明代には皇帝から皮弁冠(ひべんかん)や皮弁服(ひべんふく)など衣装一式を与えられ、儀式の際に着用していました。

皮弁冠服はよく知られているのですが、古琉球時代の1545年に朝鮮よりの漂着民はこう証言しています。

王は紅錦の衣を着て、平天冠をかぶり、一人の僧侶と対面して紫禁城遥拝の儀礼を行っている」(『朝鮮明宗実録』)

ここで注目されるのは、国王が「平天冠(へいてんかん)」をかぶっているという証言です。琉球国王には皮弁冠や烏紗帽(うしゃぼう)は与えられましたが、平天冠が与えられたとの記録はありません。つまり、琉球で勝手に自作しているということが言えるのです。

残された国王の肖像画にも平天冠を着用したものはありません。平天冠をかぶる琉球の王は想像がつきませんが、現在のわれわれが知る以上に、琉球の服飾はバリエーションがあったようです。

参考文献:豊見山和行『琉球王国の外交と王権』

人気ブログランキングへ
訪問ありがとうございます。
応援クリック!お願いします

| | コメント (2)

« 2012年1月 | トップページ | 2012年3月 »