薩摩を通じて鄭氏の襲撃をやめさせようと試みた琉球でしたが、その後も襲撃は続いたようです。1670年、鄭成功の子、鄭経による攻撃で琉球船が被害に遭ってしまいます。
これを知った薩摩藩は、幕府へこの事件を報告します。幕府は鄭氏の海賊行為を確認すべく、長崎に入港した鄭氏勢力の貿易船に調査を実施、鄭氏側が琉球船を襲撃した事実を認めました。そこで幕府は制裁として長崎奉行が鄭氏船から賠償金を取り立て、被害相当額を琉球へ支払ったのです。
幕府は琉球を「付属の国」として、オランダへも琉球への海賊行為の禁止を通達しています。琉球は薩摩藩の支配下に入りましたが、一方で日本の安全保障の傘の下に入ることにもなったのです。琉球は貿易活動を円滑に進めることが国家運営のために大事なことでしたから、利用できるものは何でも利用したといえるでしょう。
琉球は、その後も苦難が続きます。1673年、清に従っていた呉三桂らが反旗をひるがえし、再び中国が動乱となったのです(三藩の乱)。福建の靖南王も呉三桂に乗じて挙兵、福建は反乱軍の手に落ちます。福建を窓口にしていた琉球はモロにその影響を受けることに。当時の情報では三藩側が優勢と琉球に伝わっていました。
1676年、靖南王は琉球に火薬の原料となる硫黄の供出を求め、琉球はそれに応じ、硫黄を積載した靖南王と琉球の船が福建へ向かいます。琉球は三藩が優勢とみるや、清をあっさりと裏切って、靖南王支援にまわったのです。前回紹介した、あの「再び大明の世になれば…」という羽地朝秀のコメントが思い浮かびます。
ところが!中国情勢は清側が反撃に転じていて、靖南王は降伏。翌1677年に福建に到着した靖南王の使者は、靖南王の降伏を知ってただちに琉球から渡された靖南王あての手紙と硫黄を捨て、清側には「琉球はわれわれの支援要請に応じませんでしたよ」とウソの供述をします。
同じく福建へ来た琉球は、清に「乱が収まったのでご機嫌うかがいに来ました」とこれまたウソの報告。いぶかしがる清に「われわれは大清の恩を受けております。どーして靖南王に硫黄なんかを援助するでしょうか。支援要請は来ましたけど、ちゃんと拒否しましたよ。われわれは恩を感じてるからこそ、今回ご機嫌うかがいに来たんですよ!?」とシレーっと答えます。いちおう、琉球の弁解は靖南王側の供述とも一致したので、清は琉球を信じて、ギリギリのところで裏切りはバレずに何とかやりすごしたのです。
(つづく)
参考文献:木村直樹「異国船紛争の処理と幕藩制国家」(藤田覚編『十七世紀の日本と東アジア』)、紙屋敦之『幕藩制国家の琉球支配』
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