鄭成功に襲われる!(1)
1644年、中国の北京が李自成らの反乱軍によって陥落、明朝は滅亡しました。満洲族・清の軍勢が万里の長城を越え、中国は動乱の時代を迎えます。明の遺臣たちは南へ逃れ亡命政権をつくり、明朝復興の機会を狙っていました。
明朝の朝貢国だった琉球もこの動乱に巻きこまれていきます。当初は明に従っていた琉球ですが、すったもんだの末、1653年には清朝の要請に従ってその傘下に入ります。
ところが、これに怒ったのが福建の厦門(アモイ)などを拠点に明朝復興をめざして抵抗運動を続けていた鄭成功です。彼は中国では民族英雄として称えられていますが、それは一面で、彼は日本や東南アジアなど海域アジアの各地に拠点を持つ、倭寇王・王直に続く海上勢力の雄でした。
中国へ朝貢に向かう琉球ですが、「裏切り者」の琉球に対し武力行使に出ます。そのときの様子を伝える琉球の政治家・羽地朝秀(はねじ・ちょうしゅう)のおそらく薩摩側に宛てた文書がありますので、それを見てみましょう。若干、意訳してあります。
琉球は昔より中国へ往来して商売をし、着物や身の回りの道具などにいたるまで(取引が)続いている状態でしたが、近年(中国が)戦乱になり、国姓爺(鄭成功)が海賊行為をしたため、通交ができず、万事が不自由になってしまいました。
そのうえ国王の位も中国から授与されています。また8、9年前に韃靼(だったん。清のこと)へ使者を遣わし、総勢40人ほどになりますが、いまだ帰国していません。このような捨て殺しのような状態になっており、気の毒です。
国姓爺は毎年日本へ船を派遣していると聞いています。それについて私が思いますのは、琉球船が中国へ行く時は、異議なく通過させるように国姓爺陣営へ話せば、(幕府・薩摩の)ご意向に背くことにならないだろうと思います。
「琉球も韃靼陣営へ従っていますが、それは本意ではなく、しかたのない次第です。また大明の時代がやってきたならば、いよいよ以前のように朝貢することもある」などと言えば、(彼らも)納得することもあるでしょう。何とぞ通交ができるように工面をひとえにお願いいたします。
右の内容は先日、口頭で申し上げましたが、忘れないようにと思い、このように(書面で)申し上げた次第です。
寅(1662年)3月15日 羽地(朝秀)
面白いのは、清に従っている琉球ですが、彼らのことを「韃靼」となかば蔑視して呼んでいることです。当時、清は北方の夷狄(野蛮人)ぐらいにしか思われていませんでした。「中華」はあくまでも漢民族の明朝だったのです。
羽地は明側の鄭成功に対し、今はやむなく従っているのだ、やがて明が優勢になれば再び朝貢するよ、と説得を試みようとしています。清に従っているのはあくまでもポーズだよ、と。羽地の本音は明側を慕っていることを意味するのではなく、要するに琉球は貿易ができれば、どっちでもいいということなのです。
小国・琉球のしたたかさが、かいま見えますね。
(つづく)
参考文献:『沖縄県史料 前近代1』
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コメント
クリスマスおめでとうございます!
女真(満州族)主体の清が中国大陸を制圧したのちも、琉球は最初、「韃靼」の王朝として面従腹背の姿勢を取ってたんですね。
琉球は中国から東シナ海で隔てられた島々の国なので、秀吉の朝鮮侵攻で朝鮮は明の支援を受けられたのに、薩摩の侵攻で琉球は明の支援を受けられなかった一方、朝鮮が軽蔑していた女真の清に武力で屈辱的な服従をさせられたのに、琉球は清に武力で攻められずにうまく面従腹背の姿勢を取ったとは思います。
この文を読んで、琉球のしたたかさでは、薩摩の属国ながら薩摩をうまく利用しようとするところも感じられますね。
投稿: 大ドラ | 2011年12月25日 (日) 12:36
はじめまして。
m(_ _)m
沖縄の歴史、文化的背景に興味を持ち、
とらひこさまのブログを頻繁に拝見しております。
知らないことばかり御教示いただき勉強になります。
この時代は、琉球の交易黄金時代を過ぎ、
斜陽の時代だったと思っておりましたが、
まだまだ明、清との交易は大きな経済的基盤を
なしていたんでしょうね。
それにしても面白い文面です。
薩摩にそれとなく中国の情報を提供して、なんらかの
利、幕府への取りなしとかを要求しているようにも読めるのですが。
したたかでなければ滅びるしかなかったでしょうから。
投稿: sambockarie | 2011年12月26日 (月) 23:03
>大ドラさん
琉球は1653年まで明朝の年号「隆武」を国内で使っていますから(清朝はこの頃「順治」)、やはり気持ちは明朝にあったようです。ただ一番大事なのは自分たちの国益ですからね。攻め込まれずに「勝者」についたのは的確な判断だったと思います。
> sambockarieさん
はじめまして。いつもありがとうございます。
交易で繁栄した古琉球の時代より、薩摩征服後のこの時代のほうが琉球の強さやしたたかさが本当に発揮されたのではないかと思います。
ご指摘のように、当然薩摩や幕府を利用しようとする魂胆がありました。詳しくは次回にご紹介します。
投稿: とらひこ | 2011年12月28日 (水) 20:32