茂知附按司は倭寇か?
前回に続いて倭寇シリーズ。勝連には茂知附(もちづき)按司という人物がいて、領民を苦しめたために阿麻和利によって討たれたと伝わっています。
この茂知附按司、その名前が沖縄になじみのないことから、望月という倭寇出自の者ではないかとの説が一部でまことしやかにささやかれています。
たしかに茂知附という名前、日本風に見えます。ですが、これらをもとにした茂知附=倭寇説は根拠薄弱です。
「もちづき」という名前は、実は琉球の高級神女「三十三君」にいた神女の名前に使われた名称でした。現代のわれわれにとって馴染みがないだけで、古琉球の人々にとっては聞きなれた琉球の名前だったのです。この「もちづき」は勝連にゆかりのある神女で、勝連の海岸に降臨して人々を祝福していた様子が『おもろさうし』からうかがえます。
つまりこの「茂知附按司」とは、渡来した日本人の名前に由来するのではなく、もともとあった琉球在来の美称に由来する可能性が高いといえます。
このような美称を冠して按司を呼ぶ例はほかにもあります。阿麻和利の妻であった王女の百度踏揚(ももとふみあがり)は記録では「踏揚按司」と出てきます。彼女の名前は個人名ではなく、「三十三君」にいる神女名です。「茂知附按司」の語はとくに珍しい用法でもありません。
以上から、「もちづき」だから短絡的に日本からの流れ者、倭寇だと結論づけられないことがわかります。
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コメント
"領民を苦しめたために" って言うのも、何かアマワリ側の口実なんでしょうかね。
「モチズキ」と聞くと、やっぱり真言宗や天台宗を連想しますが、少なくとも倭寇って感じではないですよ。
この方が女性だとすれば、金武湾周辺にも濃厚に残る「アーマンチュー」の巨人伝説の影響でしょうか?
そうだとすれば、これはもうアマミキヨの再来みたいな、救世主的な扱いだと思いますね。
投稿: 琉球松 | 2011年11月23日 (水) 13:13
>琉球松さん
歴史は勝者が通常書くものですから、領民を苦しめたとするのは口実の可能性もあるかもですね。
僕も「もちづき」から倭寇を連想することはないですが、そう唱えている一部の人もいます。
「茂知附按司」自体は神女と同一人物というわけではないですが、神女としての「もちづき」は現地の伝承とも結びついているかもしれません。まあ僕はこれについては詳しく分析したわけではないですが。
投稿: とらひこ | 2011年11月23日 (水) 14:12
沖縄に古語が残ってるっていうのはよく聞きますが、(古語ってほどじゃないですが)「もちづき」まであったんですね。
別段に倭寇を持ち出す必要はありませんが、おもろそうしなどでの用例もあるんですか?
投稿: nagamati | 2011年11月23日 (水) 20:51
先ほどもご教示いただき、ありがとうございます。
「ビジュル」の語を見て、そういえばビンジュルが壷屋にあるな、と思いました。
琉球でヤマトと同じような固有名詞があるというと、「山田」「上原」の名字は、内地だけでなくて、沖縄の土着の人々の間でも一般的だということを、思い出しちゃいました。
歴史の上で敗者が悪者にされたというと、中国史では隋が早く滅んだあとで、煬帝は悪い皇帝とされてきたということもありますよね。
一方から見ては悪だけど、他方から見ると英雄というと、オヤケアカハチは沖縄本島と宮古では反逆者扱いのようですけど、八重山では英雄みたいですね。
余談ですが、ナポレオンは一般に英雄とされるけど、オーストリアではいくらか憎まれているみたいですし…。
投稿: 大ドラ | 2011年11月23日 (水) 21:09
上里さん
『沖縄古語大辞典』には、「もちづき」は神女名以外にも "人名・勝連按司あまわりの先妻" とありますから、もうほとんど美称辞以上の意味はないと考えたいですね。
あの方も望月、この方も望月。。。こちらも阿麻和利、あちらも阿麻和利でしょうか。
それから、『おもろさうし』に見えるということは、金武湾周辺はもちろん、奄美&沖縄諸島の島々村々の神歌に原型がある可能性がありますが。。。で、知らべてみました。『南島歌謡大成沖縄編上』にも同奄美編にもまったく出てきません。カスリもしません(見落としがあるかもしれませんが)。
ということは、「もちづき」は『おもろさうし』に新たに挿入されたと考えられますから、だいたいの年代がわかりますね。
投稿: 琉球松 | 2011年11月23日 (水) 23:06
>nagamatiさん
『おもろさうし』における「もちづき」は勝連の浜に降臨する神女の名称として使われたりしています。
>大ドラさん
ご指摘のように一見「ヤマト風」の地名はありますから、その点も留意すべき必要があると思いますね。
歴史はやはりそれぞれの視点、角度からみてちがいますから、単純な善悪ではかるのは慎重にすべきだと思います。
>琉球松さん
『南島歌謡大成』のご教示ありがとうございます。『おもろさうし』は単純に沖縄の「古層」を映しているのではなく、歴史的に新たな要素が加わっていることも留意する必要がありそうですね。たとえばオモロの中の天妃や権現など、琉球古来の信仰ではないものも混ざっているように。
投稿: とらひこ | 2011年11月28日 (月) 19:10
>とらひこさん
あ、ちょっと伝わりにくかったですね。
「もちづき」と言うと、道長の「この世をばわが世とぞ思うもちづきの~」が思いつきます。
で、琉歌・古文でもそのように歌に詠まれるような一般的単語だったのかなあと。
投稿: nagamati | 2011年11月28日 (月) 20:06
nagamatiさん
『おもろさうし(巻19−1315)』は以下ような感じですよ〜。
*** だしまおしかさが(大島のオシカサ神女様が)
とよみよるおゑさともり みちやる
又 だきりおしかさが
又 にるや/てりあがり(太陽)
又 かなや/もちづき(望月)
又 これる うらはる
又 これる あきみよ
又 とよみよるおゑさと ***
え〜っと、ちなみに「おゑさともり」は、沖縄島南部の聖地「上里杜」ですから、上里隆史を賛美する歌でしょうか(嘘です)。
投稿: 琉球松 | 2011年11月28日 (月) 23:48
琉球松さん、ありがとうございます。
太陽と並び称されて良く出る単語だったんですね。
ただ、おもろさうしの3巻以降は17世紀のものでしたよね?
できれば15-6世紀までの用例を教えていただければ幸いです。
投稿: nagamati | 2011年11月29日 (火) 19:37
>nagamatiさん
琉歌ではちょっと「望月」の用例を調べたことがないのでわかりません。
『おもろさうし』は確かに大部分が17世紀以降の編集で同時代のものではありませんが、謡っているオモロの内容は必ずしも17世紀以降のものと考えなくてもいいと思います(ここが難しいところですが…)。古琉球のものと考えてもいいような気がします。オモロの「もちづき」の用例も、年代は特定できませんが古琉球のものと考えて大過ないと思います。
>琉球松さん
勝連以外でも「上里森」に関連して「もちづき」を謡うオモロがあるんですね。詳しく丹念には調べていないので初見でした。
あと高宮城宏『真説阿麻和利考』には、地元の口伝ながら茂知附按司の名前の由来は、按司が九州の油津に貿易に行って、その場所で「望月(茂知附)」の名前を与えられたとの話があるようです。茂知附按司はあくまでも日本人ではなく、先代の浜川按司の子供であると。
投稿: とらひこ | 2011年11月29日 (火) 22:20
『おもろさうし』の巻2、5にも「もちづき」は神女名として出てきます。
巻5には「オギヤカモイ」が散見されますから、「もちづき」が古琉球の頃から使われていた可能性は高いですし、『巻5ー225』から解釈すると、首里グスク内の高級神女と考えられますね。
また "名が日本風だとしても"。。。これも理解できます。
僕の同年女子の多くは、時代的に「ミチコ」を授かってるんですけどね。ハイ、皆んな産まれた時からウチナ〜ン人です(笑)。
『おもろさうし(巻5−225)』
*** 首里ま玉杜
せ高あじおそいや
君よせ きらくせ 見もん
又 君の望月や
せ高あじおそいや ***
投稿: 琉球松 | 2011年11月30日 (水) 00:49
これは、聞いた話です。
茂知附安司から5代目の男子が勝連南風原から首里、円覚寺に子坊主として来ました。長じて円覚寺の住職もつとめました。求道長老とも我ら石川一門(新参蒸氏)からは勝連長老(カッチンチョウロウ)とも呼ばれています。
彼は、若いころ日本本土か中国か他の国かはわかりませんが、渡り、そこから弥勒菩薩の絵を戴いてきました。それは、民間で持つのはふさわしくないということで、首里王府に召し上げられました。そのレプリカとして今ある着ぐる身というかお面と衣装、杖を王府から戴いたそうです。それらは大石川ウフイシチャー(首里赤田の宗家)に安置され信仰の対象になりました。
彼は妻帯ができなかったので、弟を勝連から呼び、弟の子を養子として首里石川家の祖となりました。
江戸末期、沖縄でも本土でもコレラが大流行しましたが、
我ら一門には罹患者が少なく「弥勒信仰のお陰」だとして「一門のみのミルクではなく、赤田村全体の弥勒様に・・・」と請われ宗家ウフイシチャーで合議の上、石川のミルクから赤田のミルクになったそうです。ミルクウンケーは戦後40数年の時を経て先年復活しました。以上弥勒石川「ミルクイシチャー顛末記』でした。
本筋とはずれるかもしれませんが、モチズキアンジによせて・・・長文失礼。
投稿: 石川ミルク | 2011年11月30日 (水) 17:07
>琉球松さん
ご指摘のオモロからも「望月」が神女名として定着していたことがわかりますね。
>石川ミルクさん
情報ありがとうございます!伝承からも史料の少ない望月按司の実像がうかがえるかもしれません。地方から寺院へ出家したのは興味深いですね。
投稿: とらひこ | 2011年12月 6日 (火) 18:54
昔、勝連には茂知附按司の子孫を名乗る方がいらっしゃいました。
確か佐敷の安次冨家は子孫では無いのでしょうか?
真実は解りませんが、口承では孫子の兵法の戦うべからずで、策を使い無血開城も伝わっております。
歴史は勝者に有り。
現代では状況証拠でも判断が可能となった時代ですから、ぜひ、各家のみならず歴史は墓の中に有りに終わらせたくないですね。
歴史に学ばざるもの久しからずや。色々な方のお話が聞きたいです。
投稿: kuma | 2014年6月 8日 (日) 07:40
口承では、亜摩和利は拾い子です。子供のいなかった城主夫婦と家臣達に城内で大切に育てられました。
亜摩和利は孫子の兵法の戦うべからずの策を使い 、無血開城で茂知附按司を城から出したと言われます。
茂知附按司には彼の正義が有ったと思われます。
そこには子孫もおり、佐敷にも子孫がいると聞きます。
歴史は勝者のものですが、状況証拠が証拠として認められる世の中になったのですから知ろうと思えばわかるかもしれませんね。
歴史に学ばざるもの久しからずや。賢く学びたいですね。
投稿: kuma | 2014年6月 8日 (日) 08:04
>kumaさん
情報ありがとうございます。僕のほうでは佐敷の安次冨家についてはちょっと把握してないですが、子孫のお宅に何か伝来のものでもあったら、さらにオモシロイですね。
投稿: とらひこ | 2014年6月17日 (火) 12:23