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2011年11月30日 (水)

泰期の中国はじめて旅行

1372年、琉球は中国(明朝)の求めに応じて初めて公式の使者を中国に遣わしました。それが中山王・察度の弟、泰期(たいき)です。小さい沖縄の島から広大な大陸に渡った泰期ら一行は、おそらくド肝を抜かれたはずです。

神歌(オモロ)を集めた『おもろさうし』には、その様子をうかがえるようなオモロがあります。

一、宇座の泰期思いや
波出ぢへ
殿見ちへ 来よもん
又、意地気泰期思いや

(宇座の泰期思いが、海を渡って、〔外国の〕立派な建物を見て、帰ってきたのだ。すぐれて立派な泰期思いが)

※『おもろさうし』第十五

当時の寄港地は福建省の泉州。ここは、かのマルコ・ポーロが「世界最大の港」と称した国際都市。その建物をキョロキョロと興味深そうに見回しながら歩く泰期と、その様子を帰国後、周りに興奮気味に語る彼が想像できますね。

琉球使節が滞在した琉球館(来遠駅)はすでにその痕跡はなく、現在は石碑が立っているだけです。

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泰期らが通ったはずの、泉州城の南門(徳済門)の跡が現在でも残っています。琉球館はこの城壁のすぐ外、外国人居住区に位置していました。

Dsc00697

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コメント

毎回コメントにお返事を頂き、質問にお答えくださり、どうもありがとうございます。

中国の琉球館は、三山時代には福州ではなく、泉州に置かれてたんですね。

薩摩の琉球館のトップは「在番親方」の名称だったようですが、中国の琉球館のトップは何という名称だったのでしょうか?
薩摩藩側の役人で、琉球館に駐在する琉球の役人との交渉の責任者は、「聞役」の名称だったのですが、琉球側が薩摩の聞役に俸禄を与えて、聞役への給与が薩摩と琉球の双方からの二重払いになり、それで琉球が聞役を「買収」して、自国に有利なように計らわせたのは本当でしょうか?
薩摩の在番奉行所の藩士が琉球国王との接触が禁じられた一方で、琉球館の役人の薩摩藩主・家老(聞役との兼務以外)との接触も禁じられていたのも本当でしょうか?

投稿: 大ドラ | 2011年12月 1日 (木) 19:56

>大ドラさん
福州琉球館のトップは固定されていませんでした。ここが面白いのですが、朝貢使節団が滞在中は「正使」がトップで、彼らが引き払った後は下の役がその担当になるといった具合です。滞在人数は数百人から十数人と幅がありましたから、臨機応変に組織編成が変わったようです。

鹿児島琉球館のことについてはすみません、詳しくないのでちょっとわかりません。何かわかりましたらまたお知らせしますね。

投稿: とらひこ | 2011年12月 6日 (火) 19:09

小禄グスクの「金満 泰期(かにまん たいき)按司」について調べてますが、中山王・察度の弟、泰期と同一人物なのでしょうか?

投稿: 長嶺茂二 | 2012年11月28日 (水) 15:56

>長嶺茂二さん

泰期は通説では読谷の宇座の人物とされていますね。

投稿: とらひこ | 2012年11月29日 (木) 23:04

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