金丸は倭寇か?
第二尚氏王朝を創設した尚円王。王位につく前は金丸(かなまる)と名乗っていました。
この名前が日本風であるということから、金丸の出自が伊是名島に流れついた日本人、倭寇の出自であったという説が一部でまことしやかにささやかれています。
たしかに金丸という名前、日本風に見えます。ですがこれらをもとにした金丸=倭寇説はまったく根拠がありません。
金丸が伊是名島で名乗っていた名前は「松金(まつがね)」です(後に思徳金)。もろウチナー風。これは童名(わらびなー、どうなー)といい、かつては幼少期だけでなく大人になっても名乗っていた「本名」でした。金丸は後になって名乗った名前であって、彼の出自とは何の関係もありません。あえて言えば「松金」の「金」を使ったことぐらいでしょうか。
ちなみに護佐丸という名前も当時、彼が本当に名乗っていたか疑問です(こちら 参照)。また「~丸」という名称は古琉球においては特別なものではなく、「こしら丸」や「たから丸」など進貢船の名前、「千代金丸」や「治金丸」など刀剣名にも付けられるものでした。
以上から、金丸という名前をもとに、彼が倭寇出自であるという説はまったく成り立たないことがわかります。
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コメント
上里さんへ
金丸の母の名「瑞雲」というのは、尚円即位後のものだとしても、真言宗など権現の流れを持った集団かもですね?
そう仮定すると、かつての伊予水軍など反律令勢力の可能性もあるでしょうか。
つかみどころのない「倭冦」と言うより、瀬戸内海の海賊の末裔とも考えられると思います。
藤原純友処刑後の水軍の残党が、奄美(笠利湾?大島海峡?)〜沖縄諸島に根拠地を移した可能性は十分にありますしね。
金丸は、その末裔の奄美から伊是名に至ったのではと推測しますが、これもまた根拠が薄く説得力がないんですけどね(泣)。
投稿: 琉球松 | 2011年11月16日 (水) 10:54
>琉球松さん
う~ん…僕からみて金丸が日本出自であるとの証拠は他にもまったく見いだせないので、金丸は伊是名島の地元の人間だった以上のことは言えません。
真言宗の影響を考えるなら北のヤマトではなく南の那覇でしょう。この時代、すでに那覇の港町には仏教寺院が林立し隆盛を迎えてますから。古琉球の対日交流の中核は一貫して那覇で、他の地域は偶発的な事象を除けばそれほど活発ではなかったと考えられます。
投稿: とらひこ | 2011年11月17日 (木) 00:12
そうなんですよね。上里さんのおっしゃる事以上のことは言えないんですね。
仮に、金丸の祖先が海賊だったとしても、彼らはすでに奄美人であり沖縄人なはずです。
太宰府を襲った "奄美" の末裔の可能性はあるかもしれませんが、ビシっとした証拠もないわけですよ。
投稿: 琉球松 | 2011年11月17日 (木) 18:34
「丸」と倭寇もしくは本土出身者の関係・・は自分も某所で書き込んだことありますんで、気をつけますw
というか、今まで目にしたものでは有力説扱いされてますね。
あえてこだわるなら、何故この二人だけ丸がついたのかとか。
ところで琉球松さんの書かれた、天慶の乱の末裔ってお話ですが、沖縄が本土と明確に分かれる以前の時代ですよね。
琉球が独自化する時代は、史料も無いでしょうが興味深いです。
投稿: nagamati | 2011年11月17日 (木) 21:30
上里さん
丁寧に返答いただき、ありがとうございます。
金丸の出自に関する文献はもう出てこないでしょうし、伝承にも限界がありますよね。
僕としては、奄美諸島にそれがないか、比喩的にでも伝承されていないかなんて探してるんですけどね、なかなか見当たらないわけです(泣)。
余談ですが。。。金丸の稲作技術の優秀さの他に、伊是名島諸見の語源が「潮見?」など、海ン人との関連を指摘することもできるでしょうか。
伊是名&伊平屋の神歌群には、奄美諸島に対する親近感が強いというのも気になるんですよ。
まあ、もうちょっと頑張ってみますね。
投稿: 琉球松 | 2011年11月18日 (金) 10:02
久しぶりにコメント致します。
古琉球で「丸」を船や刀の名前に使っていたというのは、ヤマトと同じ文化と習慣が琉球にもあったということでしょうか?
ほかにも、質問致したいことで、「真牛」「思徳金」は男女どちらにも使われる童名だったんでしょうか?
この記事のテーマとは関係ないのですが、琉球八社が古琉球の時代に仏教寺院との併設で創建されて、信仰されてきたことについての質問もあります。
内地の人間の感覚では、沖縄の信仰といえば御嶽による琉球神道のイメージが強いとはいえ、古琉球の時代から琉球神道と内地の日本神道、内地から伝わった真言宗などの仏教とが併存していたと言えるながら、内地の日本神道は長らく国王と王族、士族にしか浸透していなかったようですが、仏教は国王と王族、士族以外にも浸透したのでしょうか?
「テンペスト」でも、ニンブチャーの話があるので、そのような疑問を持ちました。
ちなみに、今年の夏の沖縄旅行で、那覇の居酒屋で隣の席に座った地元の方から、沖縄の人は内地の人ほど仏教の宗派の違いをはっきり区別しない考えだという話も聞きました。
奈良の興福寺は本来春日大社との併設で、私の地元は岐阜で、県内の垂井にある美濃の国の一ノ宮の南宮大社も朝倉山真禅院との併設だったのですが、それらと同じ神仏習合も、琉球にもたらされたんですね。
蛇足ですが、神仏習合が長くヤマトで続いて琉球にももたらされたことを考えても、神仏分離と廃仏毀釈は愚かなことだったと思うのですが…。
投稿: 大ドラ | 2011年11月18日 (金) 19:38
nagamatiさん
上里さんのご返答かと思いました。失礼しました。
金丸のことを色々語るというのも、上里さんにとっては釈迦に説法でしょう(笑)。
ただ、どうでしょうかね。大ドラさんご紹介の「神仏習合」は、こちら琉球圏でも古神道と初期仏教がくっついている事さえ知らなかったと思います。
琉球八社の七社以外にも徳之島など奄美の権現もあるわけですから、10世紀頃にはすでに伝わっていると考えていいと思います。
瀬戸内海の水軍の多くは「オオヤマツミ」を信仰していますから、仏教よりも女性の宗教権?を認める集団だったんじゃないでしょうか?
奄美に逃れた一派が、さらに南下し、琉球王国の始動に参加したと推測しますね。金丸の祖先もすでに熊野権現に関わっていたとの想定は十分考えられると思うんです。
投稿: 琉球松 | 2011年11月19日 (土) 21:17
>琉球松さん
琉球に日本の権現信仰がもたらされたのは14~15世紀頃で、またその信仰の中心は港町の那覇でした。五月雨式で各地に伝来したのではなく、日本人の住む那覇を起点にして各地へ波及したとみられます。
水軍や海賊だけでなく、琉球には商人や文化人や僧侶などの宗教者、技術者や女性など中世日本のあらゆる人々が那覇に渡来していました。これまで海賊衆がやたらと注目されてきましたが、それらは全体の交流のほんの断片にすぎないといえます。
なので日本との交流を探る際には、那覇に中世日本社会がまるごと存在したことと、そうした交流全体の状況を念頭に見ていく必要があると思います。
> nagamatiさん
「丸」という語を琉球で使用するのは、中世日本社会が那覇にあり、そうした文化の一端を琉球でも採り入れていたことを意味します。金丸はそうした背景で松金から金丸に改名したわけです。
>大ドラさん
「真牛」「思徳金」は男女どちらにも使う名前でした。
仏教は琉球において庶民間にも浸透しました。ただそれは「ヤマト風」ではなく、琉球風にアレンジ、変化して受容された点が特徴です。各地に残るビジュル(賓頭盧)やティラ、グンギン(寺、権現)という祠、観音堂などがそれです。
また琉球では仏教は禅宗と真言宗がほぼ大半を占めていたことも特徴です。現在ではそれほどないですが、戦前まではお寺は那覇・首里を中心に結構ありました。
沖縄の神社ではすべて神宮寺が併設されていることからもわかるように、琉球では中世に神仏習合の権現信仰がもたらされていました。沖縄ではかつての神仏習合の痕跡が今でも残されているわけです。
廃仏毀釈はたしかに日本の「伝統」や文化を壊してしまったと思います。鹿児島でとくにそれを感じました。
投稿: とらひこ | 2011年11月19日 (土) 21:53
上里さん、ニフェーデービル!
彼の祖先がどうであれ、金丸自身がリアルタイムの倭冦でないのは確実でしょうね。
権現信仰の伝来はもう少し古いのではと思うんですけども、しかし14〜15世紀の那覇って、タイムマシンに乗って行ってみたいものです。ニューヨークのマンハッタン島みたいな活気ある時代でしょうかね。
この時代をテーマにしたドラマとかあるとイイな〜。
投稿: 琉球松 | 2011年11月20日 (日) 09:00
コメントがついつい長文になり、申し訳ありませんでした。
ご多忙の中、質問についていろいろとご教示いただき、どうもありがとうございます‼
ビジュル(ビンジュル、びんずる)は、内地では撫で仏が主ですが、沖縄ではそうではないんでしょうか?
那覇で壺屋の街を歩いたのですが、残念ながら、ビンジュルグァーを見落としちゃいました…。
あ、そう言えば、ミルク(弥勒)信仰も沖縄では伝統的にありますね。
琉球松さんがおっしゃるように、僕も、古琉球時代の那覇がどれほどにぎわっていたかとは思いますね。
古琉球から現代までの琉球(沖縄)は、古代地中海世界のフェニキア人の国々(カルタゴなど)のような感じもありますね。
投稿: 大ドラ | 2011年11月20日 (日) 18:08
沖縄尚家のDNAを調べれば、沖縄の民族集団のお里が判明すると思います。
どこから来たのかについて、さまざまな説が出てますが、
現在不明だと思います。
尚の一族のDNAを細かく分析して、沖縄民族とその歴史の解明をするべきではないのか?
投稿: にゃむにゃむ | 2011年11月22日 (火) 15:03
>琉球松さん
那覇の活況は今よりもすごかったはずですね。地形も今とは全然ちがいますし、僕もできればタイムマシーンで見てみたいです(笑)
>大ドラさん
ビジュルは沖縄では霊石信仰と結びつき、およそ仏の姿をしていない丸っこい砂岩などがご神体となりますね。
那覇の港町や外来信仰についてまとめた本が来年早々に出る予定なので、よろしければこちらを参考にしてみてくださいね。
>にゃむにゃむさん
プライバシーなどの問題から、王家の末裔の方をサンプルに分析するのは現実的に厳しいのではないかと思います。王家はすでに普通に生活する人たちですし、すでに本土の方々とも結婚を繰り返していますし…
できるとすれば、歴代王の遺骨でしょうね。
投稿: とらひこ | 2011年11月23日 (水) 14:10
伊是名、伊平屋の人と水軍と血の繋がりもあったりすのですか?DNAなど調べたことはあるのですか?
投稿: ナカモトマサノリ | 2023年1月29日 (日) 18:48