« 逮捕と放送延期のお知らせ | トップページ | 「テンペスト」が終わって »

2011年9月18日 (日)

【ネタバレ】テンペスト解説(13)

ドラマ第10回「永遠の太陽」。ついにこの時が来てしまいました。「テンペスト」最終回。涙の完結でしたね。国は滅びましたが、真鶴と浅倉雅博は首里城で再会。二人の新たな出発です。

さてさて今回が最後のマニアック歴史解説です。

ポイント1:尚王家のその後

明治12年(1879年)、日本政府は処分官の松田道之と警官と軍隊400名を琉球へ派遣し、尚泰王に沖縄県の設置を通告します(琉球処分)。ここに500年にわたり続いてきた琉球王国は滅亡、尚泰王は首里城を明け渡し、華族として東京移住を命じられます。

尚王家は以降、東京に住むことになり、千代田区九段北に邸宅をかまえることになりました。ただ尚家は完全に沖縄と切り離されたのではなく、中城王子の邸宅だった首里の中城御殿が尚侯爵邸として使用され、首里城御内原の女官たちも移り住み、神々も移設されました。

また尚家はヤマトに留学した沖縄の学生に奨学金制度をもうけて支援したり、王家の資本をもとに「丸一商店」という会社を設立、中国からの茶貿易や海運などの事業にも乗り出しました。

さらに日清戦争で頼りにしていた清国が敗北した後、尚泰王の次男・尚寅(しょういん)をはじめとした士族層は「公同会」という政治結社を結成、尚家を世襲の沖縄県知事とする特別制度を求める運動を起こし、沖縄で7万人もの署名を集めて東京の日本政府に要求します。事実上の「王国復活運動」です。しかし政府はこれを拒絶、運動を継続した場合は国事犯として罰すると威嚇し、あえなく尚寅たちの夢はついえました。

※くわしく知りたい方は次の本を読んでください。
参考文献:国吉真永『沖縄・ヤマト人物往来録』(同時代社、1994)

ポイント2:銭蔵の古酒

多嘉良(藤木勇人)が王子誕生の宴席で王と真鶴に差し出した泡盛100年ものの古酒(クース)がありましたね。多嘉良は泡盛を管理する銭蔵という役所で働いていましたが、実際にはどのくらいの古酒があったのでしょうか。

実は沖縄には戦前までかなりの年数の古酒が残されていました。200年や150年ものも珍しくなく、また王国時代には最上の古酒である「康熙年間(こうきねんかん)」という300年もの(!)まであったといいます。

琉球を訪れたアメリカのペリー一行は歓待の宴席で王府より泡盛の古酒をふるまわれています。

小さな盃につがれた酒が出されたが、この酒はこれまでこの島で味わったものにくらべて、はるかに芳醇なものであった。醸造が古くて、まろやかに熟しており、きつくて甘味のあるドロッとした舌ざわりで、いくらかフランス製のリキュール酒に似ていた」(『ペリー日本遠征記』)

おそらくペリーたちにふるまわれた古酒はかなりの年数のもので、銭蔵が所蔵していたものではないかと思います。

※詳しくは次の本を。
参考文献:萩尾俊章『泡盛の文化誌』(ボーダーインク、2004)

ポイント3:「僉議(せんぎ)」とは

ドラマ中に正体が発覚した孫寧温(真鶴)を「僉議(せんぎ)」にかけて流刑に処することを決定したというシーンが出てきますが、この「僉議」とはいったいどういうものでしょうか。

「僉議」は摂政・三司官、表十五人衆を王府の最高機関である評定所(ひょうじょうしょ)が行う最高の協議、裁決のことです。死罪や流刑などの重大な事件、また士族の跡目相続や領地拝領に関することなどが協議されました。

ポイント4:真鶴が隠れた遍照寺

Cimg07142_2

罪に問われた真鶴が息子の明とともに身を隠したのが首里の遍照寺(へんしょうじ)という寺です。この寺はもと「万寿寺」といい、末吉宮の神宮寺(付属の寺院)でした。ドラマで孫嗣勇が躍った組踊(くみおどり)の「執心鐘入(しゅうしんかねいり)」の舞台となった場所としても有名です。

現在では末吉宮が本殿・拝殿ともに復元されたものの、遍照寺は石垣のみが残されています。

ポイント5:尚泰王の言葉「命どぅ宝」

ドラマで尚泰王が話した「命(ぬち)どぅ宝」という言葉、「命こそ宝」であるという意味ですが、本当にこのような言葉を発したのでしょうか。

実はこの言葉は戦前の沖縄芝居で琉球処分を題材にした「首里城明け渡し」のなかで脚本家の山里永吉が創作したフィクションです。

戦世(いくさゆん)終(しま)てぃ 弥勒世(みるくゆん)やがてぃ 嘆(なじ)くなよ臣下 命(ぬち)どぅ宝

(戦の世は終わって、平和な世の中がやがてくる。嘆くなよ臣下たち。命こそ宝なのだ)

という琉歌からの一節が「命どぅ宝」ですね。

人気ブログランキングへ
訪問ありがとうございます。
応援クリック!お願いします

|

« 逮捕と放送延期のお知らせ | トップページ | 「テンペスト」が終わって »

コメント

とうとう終わってしまいましたね……
限られた時間の縛りの中で、
ドラマはドラマで十分に楽しみました!
最後まで「暗しん御門」に粘着しすが(笑)、
最終回に首里城の俯瞰シーンがありましたが、
黄金御殿の位置が違いましたね(笑)
今回の解説で「命どぅ宝」がフィクションだと初めて知りました。
今度は映画ですね!
3D「テンペスト」も楽しみにしています!

前回のレスにてロケ地の情報ありがとうございました。
今度、訪沖したら、なんちゃって三重城で
なんちゃって琉歌を口ずさみます(笑)

投稿: かわた | 2011年9月18日 (日) 23:45

上里 様

初めまして!
マロヤと申します。(ウェブネーム)
貴殿のブログを有意義に拝読させて頂いております。
NHKBSドラマ:テンペストも昨日で幕を閉じましたね。
毎回に興味を抱いて観させて頂きました。
制作の労に感謝いたします。

さて、少々お尋ねしたい件があります。
お返事を頂ければ幸いです。
■設問:歴代琉球国王の位置づけについて
1)舜天 英祖 察度を琉球国王として位置づけるべきか否か?
2)尚 巴志~尚 徳~尚 円~尚 泰を琉球国王として位置づけるべきか否か?
3)尚 思紹~尚 巴志~尚 徳~尚 円~尚 泰を琉球国王として位置づけるべきか否か?

それらの分別を明確に掌握してないもんですから戸惑っているのです。
以上お取り計らいくだされば・・・

私はエンジニアですが最近になって琉球史に興味を持つようになり
ズブの素人なりの試みで概略的琉球史をブログに綴っています(笑い)

ご都合がよろしければ
myBLOG
おもろの島々
http://blog.goo.ne.jp/goopx

投稿: マロヤ | 2011年9月19日 (月) 11:47

 上里様

 那覇産まれの琉球松と申します。見ー知ッチョーティウタビミシェービリ。

 『テンペスト』、終わりましたね。上里さんもご苦労様でした。
 昨日の正殿内御差床のシーンでの孫寧温のセリフ「首里天ガナシ、御ウンチ拝ナビラ!」。。。これはもう涙グルグルーでしたよ。再放送が楽しみですね。

投稿: 琉球松 | 2011年9月19日 (月) 17:00

>かわたさん
ついに完結しましたね。楽しんでいただけたようで何よりです。黄金御殿の位置はまったく気づきませんでした。さすが細部まで見逃しませんね(笑)再度チェックしてみます。

ぜひ浅倉(?)になったつもりで琉歌を三重城で口ずさんでください(笑)

>マロヤさん
はじめまして。ご質問についてですが、確実に「琉球国王」と位置付けられるのは1429年に琉球三山が統一されてからですから、尚巴志からでいいのではないでしょうか。それ以前は三山のうちの中山王ということでいいでしょう。

なお三山はそれぞれ「王国」ではなく、正式には「琉球国○山王」という立場になります。「琉球国」という国の中での一地方の王ということですね。

ブログも拝見しますね。

>琉球松さん
はじめまして。ドラマの視聴もありがとうございます。

御差床での即位式のシーン、王国滅亡後の誰もいなくなったあの場所で行われたのが涙をさそいましたね。

再放送はこれからされると思います。地上波にはも早く降りてくればいいですね。今後ともよろしくお願いします。

投稿: とらひこ | 2011年9月19日 (月) 23:49

はじめまして。
 「命どぅ宝」という言葉について、薩摩と琉球の二重の搾取によって貧困に追い込まれた農民が、自らの子どもを遊郭などに行かさなければならなくなった時、子どもにそれを納得してもらうために使われたという解釈もあるようなのですが、どうお考えになりますか。

 幸せになるとか以前に、生きるということ自体を賛美するこの言葉は、極めて苦しい境地(生きるか死ぬかの瀬戸際のような)に立たされた者でないと浮かばない発想だと私も感じたのですが。

投稿: ahaha | 2013年9月 7日 (土) 17:47

>ahahaさん
はじめまして。「命どぅ宝」というフレーズ自体が別の場面でも使われたかどうかは、ちょっと僕は把握していませんが、琉歌ほか伝承などでもそのような事例が確認できるとしたら、普遍的な思想でもあるのでありえる話かもしれません。

ただし尚泰王の発したとされる「命どぅ宝」は、戦前の山里永吉の創作であることははっきりしています。問題は、山里が何を参考にしたかだと思います。

投稿: とらひこ | 2013年9月19日 (木) 18:20

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 逮捕と放送延期のお知らせ | トップページ | 「テンペスト」が終わって »