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2011年9月 4日 (日)

【ネタバレ】テンペスト解説(10)

ドラマ第8回「ペリーとの対決」、いよいよ物語の佳境!圧倒的な武力を背景にした、ペリーの強硬な要求に窮地に追い込まれた王府でしたが、真鶴から変身した寧温が復活、見事ペリーを追い返しましたね。外交は最終的には人と人との付き合いであり、本音でぶつかることが大事だ、との寧温の考えがペリーを動かしたといえるかもしれません。

それでは今回もマニアック解説。

ポイント1:ペリーは琉球に来たのか

史実でもペリーは琉球を訪れています。1853年5月26日、サスケハナ号をはじめとしたアメリカ艦隊が琉球の那覇に現れます。目的は太平洋航路における補給港の確保でした。強大な武力を背景にした圧力に対し、琉球側は架空の政府と役職を作って対応、のらりくらりと交渉を先延ばしにします。

琉球側の対応にペリーは「東洋的な隠れんぼう外交」といらだちをあらわにします。琉球は架空の役職で交渉をたらい回しにして時間をかせぎ、またアメリカ側への回答マニュアル「異国人江返答之心得」を作成して対応していました。軍事力で勝てない小国が、必死に相手に呑まれないように知恵をしぼったやり方だったといえるでしょう。

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ペリーは首里城訪問を試みますが、琉球は国母が病気とのウソの理由をつけて拒絶します。ドラマで朝薫が話していたことは史実に基づいていたわけですね。結局ペリーは訪問を強行し、やむなく王府は首里城北殿で迎えますが、国王と会うことはありませんでした。

ペリーは蒸気船の燃料となる石炭貯蔵庫の建設も要求しますが、琉球側は得意の引き伸ばし戦術の後に、簡素な倉庫を建てただけで、しかも所有権は決してアメリカ側に渡しませんでした。琉球は最小限の譲歩でペリーの要求をかわしたわけです。

1854年7月、日本から琉球へ戻ったペリーは琉米修好条約を王府と結びますが、王府はダミー政府の名義で調印したため効力はさほどなく、また両国は条約をあまり守ることなく、実質的な意味を持ちませんでした。

※くわしく知りたい方は、以下を読んでみてください。
参考文献:高良倉吉・玉城朋彦編 『ペリーと大琉球』(琉球放送、1997)

ポイント2:首里城へ向かうペリーの行列

首里城へ向かうペリーの行列ですが、当時の記録をもとに再現してあります。ミシシッピ号の軍楽隊と海兵隊2個中隊、2門の野砲に、輿(こし)に乗ったペリーとベッテルハイム博士らが付き添った総勢200名の行列でした。

ペリーの輿は屋根付きの椅子で中国人の苦力(くーりー。労働者)がかついでいました。これは急造のものでペンキとパテを塗り、赤と青の掛け布がしてあるものでした。軍楽隊は「ヘイル・コロンビア」を演奏しています。

ポイント3:守礼門の額について

ドラマでは残念ながら再現できませんでしたが、ペリーが首里城を訪れた際、守礼門には通常の「守礼之邦」という額ではなく、「中山府」という額に架け替えられていたようです。守礼門前のペリーの一行を描いた絵を見ると、3文字で漢字が書かれています。漢字を知らないアメリカ人の手による絵なので判別しにくいですが、「中山府」と書いてあるのがわかると思います【こちら】。

「守礼之邦」とは直訳すると「礼節を守る国」という意味で、もともとは国王を承認する中国の冊封使が来た時だけに掛けられていました。「我々は中国に対して礼節をわきまえている」という意味が込められていたわけです。招かざる客のペリーに対し、琉球は単に琉球王府を意味する「中山府」の額にわざわざ変え、暗に歓迎していないことを示したようです。

ちなみにペリーをもてなした琉球の料理は冊封使に出すものよりランクを下げていたようです。

ポイント4:クラシン御門について

寧温が御内原へ戻るために通った暗いトンネルのような門がありましたね。あれが「クラシン御門(うじょう)」と呼ばれる門です。正式な名称は「左掖(さえき)門」と言います。黄金御殿(くがにうどぅん)という王妃の居住建物の1階部分が通路になっていて、首里城の御庭から御内原に抜けられるようになっています。

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この門の構造は特異なものでした。通路は窓がないので昼間でも洞窟のように真っ暗。なので「クラシン(暗闇の意味)」という別名が付いていました。しかもクランク状に曲がっていて、直進ができないという構造です。この門はあまり使われることのない門だったので、寧温はここを利用して気づかれずに表と奥の世界を行き来することができたわけですね。

戦前まで残っていたクラシン御門の写真は【こちら】。正殿の右側にある南殿に隣接する建物にポッカリと開いている四角の門がそれです。

ポイント5:宣教師ベッテルハイムについて

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ドラマにしばしば登場する宣教師ベッテルハイムも実在の人物です。彼はハンガリー生まれのユダヤ人で、イギリスに帰化してプロテスタントとして琉球でのキリスト教の布教を試みます。琉球は当初彼の滞在を拒否しますが、最終的にはしぶしぶ認め、護国寺で妻と2人の子供の家族とともに8年間すごしました。

滞在中に琉球で布教活動を行いますがことごとく王府の妨害にあい、目的を果たすことはありませんでした。王府は彼を厄介者扱いし、欧米船が来るたびに彼について苦情を述べています。中国皇帝に懇願し、中国滞在のイギリス公使にベッテルハイムをひきとってもらうよう頼んだこともあるほどです。

ベッテルハイムは13カ国語を操る語学の天才にして医師でもあり、無料の診療所も開設して住民たちへの医療活動も行います。とくに天然痘のワクチンである牛痘法を伝えたのは有名です。琉球の人々からは「ナンミンヌガンチョー(波の上のメガネ)」と呼ばれ、親しまれました。またペリーが来航した際には通訳もつとめました。

ベッテルハイムは琉球滞在中に妻との間に娘が生まれますが、名前を「ルーチュー(琉球)」と名づけています。やがて彼らはペリー艦隊とともに琉球を去ることになります。

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【護国寺のベッテルハイム居住の碑】

※彼についてくわしく知りたい方は、次の本をどうぞ。
参考文献:与那原恵『まれびとたちの沖縄』(小学館101新書、2009)

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コメント

今回の孫寧温がペリーの前で述べた演説には泣きそうになりました。
その後の琉球王国がたどった運命を思うと…

ところで、劇中に出てきた「御内原寝所の掟」は実際に存在してたのでしょうか?
「声を立ててはなりませぬ」だの「挑発してはなりませぬ」だの、何だか恥かしいのですけど。

投稿: まりおんfrom大阪 | 2011年9月 4日 (日) 23:32

>まりおんfrom大阪さん
ベッテルハイムと寧温との別れも泣かせましたね。

さて御内原の掟は原作者の創作、フィクションです。実際の御内原については『首里城物語』の元女官たちの証言でも、そのような掟はありませんでした。

投稿: とらひこ | 2011年9月 5日 (月) 23:06

テンペストも怒涛の展開で終わり間近ですね。あれを2時間にまとめるとは信じがたいですよw


>ルーチュー
そういや明治のことですが、上杉茂憲公が沖縄県令を解任された時、妊娠中の夫人は大事をとってそのまま沖縄で出産したのですが、そこで生まれた娘は「琉」と名付けられてますね。

投稿: nagamati | 2011年9月 6日 (火) 20:53

>nagamatiさん
上手にまとまっているのは、さすが脚本家の大森さんの力量ですね。

上杉県令の娘さんの話は恥ずかしながら初耳です。情報ありがとうございます。

投稿: とらひこ | 2011年9月 7日 (水) 19:33

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