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2011年5月28日 (土)

久高島民の水泳伝授

琉球王国の正史『球陽』附巻には、久高島に関する面白い記事があります。

1863年、薩摩藩の島津久光から「薩摩藩内の漁民たちに水泳術を伝授せよ」との命令が久高島民に出されたのです。そこで久高島から4人の島民が鹿児島へ派遣されました。1年後、水泳術を教えた島民は琉球へ帰り、王府から褒賞されました。

久高島はエラブウミヘビ漁で知られています。1850年代の奄美の様子を記録した『南島雑話』には、久高島民が船で奄美大島まで渡り、近海で素潜りのウミヘビ漁をしている姿が描かれています。

久高島民はさらに北の屋久島まで渡り、ウミヘビ漁だけでなく交易もしていました。その様子を知った薩摩藩は、琉球へ彼らを取り締まるように通告しています。琉球の人々は勝手に薩摩の領内へ渡ることは禁止されていたからです。

薩摩でも海を越えてやって来る久高島の漁民のことは知られていたのでしょう。水練達者な久高島の人々を知り、薩摩の殿様は水泳を教わることを思いついたのかもしれませんね。

参考文献:『球陽』、入間田宣夫・豊見山和行『日本の中世5』

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コメント

種子島、屋久島の方々も、江戸時代から昭和の初め頃まで那覇旅と言って、漁師の子供達は糸満などに修行に行かされていたようです。

両島は大和文化圏のはずですが、
昔テレビで見て、正月やお盆の料理は沖縄そっくりで驚いたことがありました。

投稿: まりきん | 2011年5月28日 (土) 11:12

>まりきんさん

海の男たちは島や国境を軽々越えて生きていたんですね。我々の陸上視点にはない視野が彼らにはあったはずですね。

投稿: とらひこ | 2011年5月29日 (日) 09:09

御返事有り難うごさいます。

さて、又屋久島の話ですが古い民謡は、奄美や琉球の唄そっくりなものもあったそうです。

それどころか、両地方の歌がそのまま屋久島の民謡になってたりしたそうです。
政治的にも、種子島屋久島は関ヶ原の合戦までは日琉両属状態とも聴いたことがあります。

とらひこさん的には、種子島屋久島と琉球との関係はどうお考えなのでしょうか?

投稿: まりきん | 2011年6月 3日 (金) 19:11

>まりきんさん
種子島は中世、琉球王に忠誠を誓って船を派遣してたという文書が残ってますので、ご指摘のように両属のような立場だったと思います。

屋久島はそういったことは確認されてませんが、トカラ列島は明確に琉球の勢力圏にあったようです。

あと近世になると種子島の船なんかが琉球との交易も行っていたようですね。

投稿: とらひこ | 2011年6月 7日 (火) 18:48

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