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2011年5月21日 (土)

護佐丸をめぐる謎

15世紀、沖縄島が尚巴志によって統一された時期に活躍した武将に護佐丸(ごさまる)という人物がいます。

護佐丸はもと山田按司でしたが尚巴志の北山攻略に功績をあげ、やがて座喜味グスクの主となり、その後は中城グスクへ移って勝連の阿麻和利を監視しますが、1458年、阿麻和利の策略によって滅ぼされてしまいます。

彼は沖縄では有名なのですが、あるナゾが残されています。護佐丸が生きていた当時の記録に、彼の名前がまったく出てこないのです。たとえばオモロ(神歌)を集めた『おもろさうし』には、勝連の阿麻和利を称える歌はあるのに、護佐丸を謡ったものはありません。また座喜味グスク周辺の民話や伝承を探っても、護佐丸に関するものは一切ないのです。これはいったいなぜでしょうか。

これを解くヒントがあります。

『毛姓家譜』には、護佐丸について「童名・真牛」とあります。童名(ワラビナー)というのは幼少期の名前のことですが、彼が生きていた古琉球では成人になってからも使った本来の名前でした。つまり、護佐丸が生きていた時期に、彼は「真牛」と呼ばれていたのです。当時の慣習からいけば「読谷山の按司、真牛」や「中城の按司、真牛」と呼ばれていたのは間違いありません。

では護佐丸という名前は何か。護佐丸の先祖が後世に記した『異本毛氏由来記』(18世紀後半)には、「神名ハ護佐丸、号名は亨(キョウ)と申し候」と書かれています。「神名」とは神々によって授けられた名前か、もしくは死後贈られる諡(おくりな)であると考えられます。

そもそも「護佐丸」という名前自体、「(王を)護り補佐する」という、彼が忠臣であることを示す意味合いで付けられた意図的な感じがします。

同時代に護佐丸の名前が一切出てこないのは、こうした理由が一つの要因になっているのではないでしょうか。

参考文献:曽根信一「護佐丸について 琉球国時代に書かれた文書資料」(『読谷村立歴史民俗資料館紀要』19号)、『国指定史跡座喜味城跡環境整備報告書』

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コメント

真牛という童名は女児用…というイメージがあったのですが
(テンペストの影響で ^^;)
男性にも使われていたんですね~。

でも護佐丸が真牛だったとは、
これまでのイメージが変わるようで面白いですネ♪

「護佐丸」が神名だったとは…。
名前に「丸」がつくのは本土の人間の流れ、という話も聞いたことあります。
(金丸然り)

でも「護佐丸」が後につけられた名前だとするとなんか色々と納得★ですね。


とりあえず、
「阿麻和利のおもろはあるのに、護佐丸のおもろはない。
よって、阿麻和利は売名行為のために自分のおもろを自作したのではないか」
という説はとりたくないワタシでした~(笑)

投稿: 和々 | 2011年5月21日 (土) 05:53

>和々さん
テンペストから入るとどうしてもあの強烈なキャラの印象がついてしましますよね(笑)

金丸も実はもとの名前ではなくて、彼が生まれた時につけられた童名は「松金」です。名前の下の文字「金」をとって尚泰久時代に金丸を名乗ったみたいですね。

阿麻和利が売名でオモロを、なんてことはないと思いますよ。そもそもオモロは神女によって謡われるものですし、この時代は周囲の支持を得ていなければ支配者になれませんし。

投稿: とらひこ | 2011年5月21日 (土) 09:10

そうだったんですか。。。納得です。。。

史実を紐解くといろんなことが関連していることがわかってくるんですね。

ウチナーンチュでありながら、知らないことが多すぎますね。
もっと、勉強したいです。

投稿: 読谷の鮫川 | 2012年12月 9日 (日) 22:12

>読谷の鮫川さん

護佐丸については謎のほうが多く、丹念に調べれば今後新たな事実もわかってくるかもしれません。山田の護佐丸父祖の墓内部もまだ調査されていなかったと思いますし。

沖縄の歴史でしたら、ぜひ拙著でお勉強を…(とさりげなく宣伝ですが。笑)

投稿: とらひこ | 2012年12月10日 (月) 17:32

 縁あって、護佐丸上里支流龜川家の先祖を探すことになった。龜川本家が滅亡し、盛武の孫四男家が龜川当主を継ぎ墓も移そうと考えている。龜川家10代目として継ぐことと孫が生まれることとあって、先祖の墓や城を回って祈願することとした。①天孫25代大里思金松金王(大里南風原)、②西原王子(浦添)、③惠祖世之主(浦添)、④英祖王(浦添ようどれ)、⑤湧川王子(今泊川)、⑥仲今帰仁按司(丘春・泊城)、⑦仲今帰仁若按司(比謝川)、⑧伊覇按司(石川トンネル近く)、⑨恩納山田按司、⑩中城護佐丸、⑪沢岻親方盛里(繁多川)、⑫龜川(大名)と先祖の墓を探してとうとう全部回りました。
 驚いたのは我が家が、天孫氏・英祖王・仲今帰仁按司・護佐丸に繋ぐ系統だと言うことがわかったことだ。天孫氏西原王子の子から各王統がつながっていることも『琉球王国の真実』の系図等からわかったこと。そのため、尚巴志の妃は伊覇按司の長女が嫁ぎ、尚円王妃に護佐丸の孫オギヤカが嫁いでいる。我が家の系図に至っても向家との繋がりは深い。なぜ、護佐丸につながる女性が王家の嫁になったのか。琉球の各王家の出発点が西原王子にあった。
 つぎに、護佐丸が滅ぼされた本当の理由は隠されている。天孫氏系と舜天系の戦い、南山系と北山系の戦いが幾度となく北山・中山・南山で繰り返されている。お互いに本当に姓名を名乗ると殺し合う関係なので大変だったと思う。さて、何百年も続く両氏の殺し合いの根源はどこにあったのか。舜天が天孫氏系の王を滅ぼしたことに起因しているのでは。そのように理解するとわかりやすい。
 舜天王統が源為朝だと言うのはどうも作られ話である。薩摩により虚構された歴史をそろそろ廃止、真実を表にだしたい。歴史学者はこんなこともできないのか?
 さらに、アマミク族や天孫氏が何者か隠された真実を掘り起こすことはできないものだろうか。
 日本の歴史も沖縄の歴史も負けた側の真実の歴史が歪曲される。書物はそういう意図で書き残すのが常識だ。したがって、海賊や農民が王様になったという歴史のうそをはっきりできないものか。沖縄の貝が貨幣として使われた事や古墳に沖縄の貝の装飾品がある理由や中尊寺に沖縄の夜光貝があること、また、蒙古襲来に戦ったという証拠等。知りたいことは山ほどだ。琉球に3万年前から人が住み、古墳時代には日本とつながった天孫氏が沖縄の首長として治めていたと予想しているが・・。いずれにしても沖縄が自立しやっていくために日本本土より早くから人が住み、しっかりした文化を持っていた事をすこしでも明らかにしてもらいたい。真実について隠す勢力と明らかにしようとする勢力がある。もうそろそろこのような呪縛からとかれて真実が人類に貢献する歴史学等が現れてもいいのではないか。

投稿: 龜川盛敏 | 2015年12月15日 (火) 11:14

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