喜瀬さん夫妻の大ゲンカ
王国時代、庶民たちはどのように暮らしていたのでしょうか。王さまや政治の動きは見えても、こうした一般の暮らしはなかなかイメージしにくいと思います。ですが、実は王国末期の庶民たちの夫婦ゲンカの記録が詳細にのこされています。これは裁判記録にあるもので、事件になったことでそのいきさつを細かく知ることができます。約140年前のリアルな夫婦ゲンカの様子をご覧ください。
事件の当事者は喜瀬筑登之(36)と妻の真牛。彼ら夫婦は那覇久米村の玉代勢オバアの屋敷の一角を借りて生活していました。当時も賃貸物件があったわけですね。喜瀬さんは百姓で、那覇泉崎村生まれの三男坊。クシ作りの職人でした。
1869年7月15日の夜、喜瀬夫婦は質入していた衣類をめぐって口論が起こってしまいます。やがて言い争いはエスカレートし、怒った妻の真牛さんはついに「あなたとは離婚よ!」と夫の喜瀬さんに向かって言い放ちます。それを聞いた彼、「うぐぐ、ちくしょー!」とくやしくなって家を飛び出し、そのまま焼酎3合を買い求め、ヤケ酒をしてしまいます。ちょうどその日はウークイ(先祖霊送り)。喜瀬さんはほろ酔い気分で兄の実家に行き、そこでウークイの残り酒をごちそうになり、そのまま徹夜で飲み、翌朝帰途につきます。帰宅途中で美栄地あたりにあった知人の石川筑登之の家に立ち寄り、何とまた酒を飲みはじめます。ウークイだったので、そこかしこの家でお酒が準備されていたのです。
二日酔い気味の喜瀬さん、夫婦ゲンカのことはすっかり忘れ午前8時に朝帰り。ところが、妻がいない。家主の玉代勢オバアに聞くと「家財道具を持って家を出ていったさぁ」とのこと。喜瀬さんは「ほんのちょっとした口論なのに、本当に別れるつもりなのか!?」とがく然とします。
動転した彼は、酔っ払った頭で考えたところ、妻は仲良しの盛島家に妻がいるはずだと思いつきます。そこで喜瀬さんは久米村の盛光寺に間借りする盛島家を訪れました。すると案の定、妻の真牛さんは盛島さん夫妻とちょうどお茶を飲んでいる最中でした。さすが夫。妻の考えてることはお見通しですね。妻を見つけた喜瀬さんは激怒し、森島さんの家へ上がりこみすごい勢いで突進してきたため、驚いた真牛さんと森島さん夫妻は逃げ出しました。
妻を取り逃がしてしまった喜瀬さんは、今度は盛光寺の住職の寝室に侵入、蚊帳を持ち出そうとたくらみます。ちょうどそれを住職が便所付近で発見します。「おいお前、何してるんだ!」と驚く住職に、喜瀬さんはそのまま蚊帳を持って「これを持っていけば、わかるんだ!」と言い、いちもくさんに逃亡。喜瀬さんはベロンベロンに酔っ払った頭で、「ささいなことで離婚を切り出し、女一人で寺へ行くとは、きっと盛光寺の坊主とデキてるにちがいない」と考え、寺の何かを持ち帰れば妻は追いかけてくるだろう、と蚊帳を盗んだのです。「これを持っていけばわかる」とは、これで妻の浮気がわかる、ということだったんです。まったくもって理解不能な思考ですが、酔ってたのでこんな感じだったのでしょう。
盗んだ蚊帳は知人の饒平名筑登之の家にあずけに行きますが、喜瀬さんは何とその際にもそこでウークイで残った酒を飲んでいます。酔いがますます回って自宅に戻ったところ、妻はまだ帰ってきていません。妻はまだ寺にいるはずだ、と思い、今度は包丁を持って再び盛光寺へ向かいます。この包丁は妻を傷つけてやろうとしたのではなく、こらしめのため妻の髪を切ってはずかしめてやろうと考え、持ち出したものでした。
ところが盛光寺の門前では盛島さん夫妻や近所の人たちが待ちかまえており、皆で喜瀬さんを寺の中に引きずりこみ、蚊帳の盗人としてあえなく御用(逮捕)。このドタバタ劇ですが、裁判の結果、次にような判決が下されました。
《判決》
夫の喜瀬筑登之は宮古島へ流刑(島流し)。
通常、大酒飲みが乱暴を働いた処罰の先例では、寺入り(謹慎)40日、罰金200貫文(現代価値で約20万円)でしたが、今回の場合は喜瀬さんの親類から「彼を島流しにしていただきたい」との要請が出されたので、さらに罪の重い島流しにされてしまったのです。働かないニートやどうしようもない人間を親や親類が役所に訴えて島流しにしてもらうことは、この時代行われていました。今回、親類に愛想をつかされてしまった喜瀬さんに、それが適用されたわけですね。
ささいな夫婦ゲンカがとんでもない結末になってしまった事件でしたが、刑期を終えた喜瀬さんがその後どうなったのか、離婚したのか、今まで通り仲良くやったのかは不明です・・・
真栄平房昭「夫婦ゲンカの社会史-琉球の慣習法と裁判をめぐる一考察-」(『沖縄県女性史研究』2号)
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