「王相」の呼び名
第一尚氏王朝の時代、国王を補佐したのが「王相(国相)」です。この役職は華人が就き、王茂(おうも)や懐機(かいき)といった人物が知られています。
この王相という役職名は琉球独自のものではなく、もとは明朝皇族の家政機関「王府」の役職からきたものです。古琉球の華人集団「久米村」は、この王府制度をモデルにした組織を編成していて、その頂点に立つのが「王相」だったようです。そして、やがてこの「王府」という呼称を琉球の現地王権もとりこんで「首里王府」などと自称していきました。
琉球では国王のことを「世の主」とも呼んでいました。この呼称は国内と対ヤマト向けのみに使用され、16世紀中頃まで国王号と併用されていました。琉球は中国明朝の冊封・朝貢体制に組み込まれていましたが、中国との完全同化を志向していたのではなく、国内は国内向け、海外はそれぞれの地域向けに合わせた「顔」を使い分けていました。
こうした中国風の呼び方と琉球風の呼び方の使い分けは、国王だけではありませんでした。たとえば「三司官」は「世あすたべ(世の長老たち)」、「摂政」は「お世おわつかい(お扱い)」といった感じです。それでは華人が就いた「王相」には「国王=世の主」のように琉球風の別名があるのでしょうか。
実はこの「王相」の別の呼び名があるのです。15世紀初頭、日本の室町幕府の管領・細川持之が琉球の「代主(よのぬし)」とともに、琉球の「王将軍」へ返信の書簡を送っています(「足利将軍御内書并奉書留」)。「王将軍」には「琉球国執事」との注記がされています。このことから「王将軍」は「王相」のことだと考えられます。細川氏は琉球側から送られてきた書簡の署名をそのまま使って返信していることから、「王将軍」が「王相」の対ヤマト向けの名称であったといえるのです。「世の主」が対ヤマト向けとともに国内称号であった例から、国内でもこう呼ばれていた可能性が高いといえます。
「摂政」ではなく「王将軍」。聞きなれない言葉ですが、「執事」つまり国王の補佐役を、もしかしたら日本の「天皇―征夷大将軍」との関係になぞらえてこう呼んでいたのかもしれません。
次の謎は、「王将軍」がどのような意味を持っているかです。返書には年代が記されていませんが、細川持之の管領在職期間が1432~1442年なので、この間に出されたと考えられます。この当時の「王相」に該当するのは王茂か懐機です。王茂だったとすると、「王(茂)将軍」ともとらえられるし、懐機の場合には「王将軍」が一つの言葉であったとも考えられます。どちらが正しいのかは不明ですが、いずれにせよ古琉球では「王相」にも琉球風の呼び方があり、国内では「王将軍」と、「世の主」や家臣たちから呼ばれていたようです。
【追記】1427年の「安国山樹華木碑記」で懐機が「国相」とあったので、文書の「王将軍」は王茂ではなさそうです。とすると、「王将軍」という呼称はどういう意味になるのでしょうか…
参考文献:上里隆史「琉球の大交易時代」(『日本の対外関係4 倭寇と「日本国王」』)
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