尚巴志時代の城下町
琉球王国の都は首里。首里城は500年にわたって国王の居城となりました。その王宮を中心に首里には城下町が形成され、とくに国王を支える高級士族の豪華な屋敷や庭園、寺院が立ち並び、整備された石畳の街路がはりめぐらされていました。その様子は沖縄戦の被害に遭うまで残されていたわけです。
それでは琉球を統一した尚巴志の時代、首里城の周りに広がる城下町はこのようなものだったのでしょうか。実は首里城から那覇へ続く綾門大道(あやじょう・うふみち)に隣接する天界寺の発掘調査が行われたのですが、その際に、寺院建立以前の様子が明らかになりました。
天界寺は琉球三大寺院のひとつで、尚泰久王の時代、1450年代に建立された琉球有数の名刹です。その天界寺の下の層から、なんと村跡が発見されたのです。この村跡は14世紀後半から15世紀前半頃のもの、つまり尚巴志の時代のものと推定されています。
ではここからは立派な建物跡や屋敷囲いの石垣、整備された石畳の跡が出土したのでしょうか。いえ、そんなものはまったく出てきていません。見つかったのは、仕切りのない空間に無秩序に空けられたおびただしい建物の柱の穴、そしていくつもの円形の遺構です。この区画には屋敷を隔てる石垣跡はまったくありません。これらの無数の柱の穴は、簡素な建物を何度も何度も建て直した跡で、円形の遺構は竪穴式住居の跡のようです。
竪穴式住居!この建物は貝塚時代の集落にもみられる非常に粗末なものです。尚巴志の時代、首里城に続く一番のメインストリートのすぐ脇に、バラックや竪穴式住居などが無秩序に密集していた、いわば「スラム街」的な状況が存在していたことを意味します。
まったく同じではないですが、イメージでいうと以下のような感じでしょう(画像は仲原遺跡)。
これはいったいどういうことでしょうか。われわれが想像する王国中枢の様子とはまったく異なる姿です。整備された綾門大道をのぼり首里城へ向かう左右の町並みは立派な士族層の屋敷ではなく、あばら家が並ぶような様相だったということなのでしょうか。士族たちはこうした家に住んでいたのでしょうか?尚巴志を王に任命するために中国から派遣された冊封使も、こうした光景を見ながら首里城へ入っていったのかもしれません。
現在、グスクの様子はいろいろと調べられ、その姿が明らかになっていますが、その周囲にあった集落、城下町に関してはそれほど関心がよせられておらず、ようやく研究が始まったばかりです。解明されつつあるその姿からは、近世の首里城下町のイメージを古琉球、第一尚氏王朝の時代にそのまま当てはめてはいけないことを教えてくれます。
参考文献:山本正昭「天界寺考―発掘調査成果を参考にして―」(『紀要沖縄埋文研究』1号)
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コメント
とらひこさん、いつもブログ興味津々で拝見しています。
なのに…こんな大事な記事を見逃していたとは!
昨年ジュンク堂のトーク会でサインを頂いた、さいとうと申しますo(_ _)o
琉球王朝時代をイメージした絵を描いたりしている者です。
以前、まさに
>>尚巴志を王に任命するために中国から派遣された冊封使
を
>>整備された綾門大道をのぼり首里城へ向かう左右の町並みは立派な士族層の屋敷
な感じで描いてしまったので、今日この記事を発見して滝汗…です。
oh... そんな発掘調査があったのですね。
勉強不足でございました。
描く前に調べてもどうしても分からなかったので、1450年代に天世寺が建ったのなら、1425年頃はバラックの間に新しい建物が次々に作られている途中で、冊封使が通る道だけでもなんとか体裁を整えていたんじゃないか…?という想定で風景を描いていました。
(こんな風に↓)
http://art.jcc-okinawa.net/rekishi/akemodoro/tyuzanmon.php
そもそも中山門も建つのは3年後ですし、安国寺らしきものも、中城御殿らしきものも後世の建物を参考にしていて、正確でないのは分かっていました。が、どうにか15世紀の首里を、晴れやかなイメージで描きたかったのです。
これを描いた3年前は、資料の少なさに途中でギブアップしそうでした。
なので、こういった調査が進められていると聞くと嬉しくなります!
いつか、ちゃんと根拠に基づいて、古琉球再現画が描けるんじゃないかと…や〜、めっちゃ描いてみたいです!!
というわけで、とらひこさんや、研究者の皆さんのご活躍を、いつも応援しております。
そして私も、もっと勉強して描きますね…。
投稿: さいとう | 2011年3月 5日 (土) 20:53
>さいとうさん
どうもお久しぶりです。
イラストはあくまでもイメージでいいと思いますよ。さいとうさんの絵はとてもキレイに仕上がっていて見ていて楽しいですしね。
本当に厳密に書くと、おそらくすごく不恰好というか殺風景の景色になってしまったはずです。イラストは写真ではないので、こういうところはどんどん自由に描いていいと思います。
ちなみに本当に厳密に書こうとすれば、当時の中山門は板葺きで、男性の髪型は頭の左側に結髪するカタカシラ、ハチマチはこの当時は普及していません。・・・本当にこれを描くと、どこの場所かわかならくなってしまいますが・・・
古琉球の詳細は拙著『誰も見たことのない琉球』をご参照くださいね。
投稿: とらひこ | 2011年3月 6日 (日) 08:23
お返事頂き、どうもありがとうございましたm(_ _)m
『誰も見たことのない琉球』は参考にしすぎてもうボロボロですよー^^;
それを参考に、”元祖カタカシラ”も描いてみたんですが…
あまりにも見たことのない髪型だったので、説明無しで画中に登場させるのはあきらめました。
本当にどこの絵だか分からなくなってしまうので、古琉球イメージイラストは近世のイメージを使いつつ、それっぽさをかもし出して行くのが今のところ最善なのかと、思ったり、悩んだり…試行錯誤中です。
それにしても、イメージとは別に、リアルな当時を知ることができるビジュアル本は『誰も見たことのない琉球』シリーズだけなので、貴重ですね。
とらひこさんが描かれているイラストの、真剣に&楽しんで描いてるタッチも好きです^^
投稿: さいとう | 2011年3月 9日 (水) 00:18
>さいとうさん
拙著読んでくださり感謝です。
僕のイラストは下手くそなので、さいとうさんのようなプロの方がどんどん描いていってほしいと思います。
投稿: とらひこ | 2011年3月12日 (土) 22:21