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2010年11月27日 (土)

魅惑!すずりの世界

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沖縄には古い文字記録がほとんど残ってないといいます。たしかにその通りなのですが、ゼロに近いというわけではなく、わずかながらも現存しているものはあります。そして、文字を書く際に必需品だったのが筆とすずり。紙に書かれた文字記録は失われても、すずりから文字を書いていたことはうかがえます。つまり沖縄で出土する「すずり」の存在は、前近代の人々が各地で文字を書いていた証拠となりえるのです。僕も少し関心を持っていましたが、遺跡から出土する「すずり」の全体像はどれだけのものかはわかりませんでした。

そんななか、今帰仁村教育委員会の宮城弘樹氏から連絡が届きました。やってくれました、何と遺跡出土の「すずり」を集めて企画展を行うというのです。おそらくこの試みは初めてではないでしょうか。

◆平成22年度今帰仁村埋蔵文化財保存活用整備事業
企画展 掘り出された硯(すずり)
~琉球・沖縄の硯から見た歴史と文化~

期間:2010年12月1日~26日
場所今帰仁村歴史文化センター3階談話室
休館日:年中無休
開園時間:午前9時~午後5時
※歴史文化センター入場料400円が必要です。

※展示品解説会(ギャラリートーク)
日時:2010年12月4日(土)10:00
場所:今帰仁村歴史文化センター3階談話室
解説:有銘倫子(今帰仁村教育委員会)

【企画展の紹介文】
沖縄最古の文字記録は、15世紀までさかのぼることができます。(略)こうした文字記録などから、グスクが築かれ実際に機能していた時代の社会では、意思伝達手段の一つとして文字が用いられ、また必須の道具となる硯や筆などがグスク内で使われたことが想像されます。

しかし文字記録を残した人々がいた場所や、実際に使われた道具はどんなものだったのでしょうか?その証拠の一つである出土する遺物に記された文字や硯から、当時の文字を使用する人々やその道具を、ひいては琉球・沖縄の歴史や文化について探求することを目的、展示会を企画しました。

展示会ではグスク時代から現代までの実際に使われた硯を中心に、墨をする時に硯へ水を入れる水滴のほか、今帰仁城跡出土の金属製の印章などもご覧いただくことができます。

私たちの祖先が育んだ歴史や文化の中で、硯がどのような場面で使われ、またどのような役割を担ったのか、硯とそれにまつわる人々の話など、沖縄の歴史や文化のおもしろさを紹介できれば幸いです。

【問い合わせ先】
今帰仁村教育委員会(文化財係) TEL:098-056-3201
今帰仁村歴史文化センター TEL:098-056-5767
〒905-0428今帰仁村字今泊5110
E-mail: mn-bunkazai【アットマーク】woody.ocn.ne.jp 

これはシブイ!文献を扱っている僕にとっても見逃せない内容です。この企画展で、新たな古琉球史像が浮かび上がるかもしれません。とくに12月4日は10時から解説付きで展示品を見ることができますのでオススメです。県内出土のすずりが一同に会する機会はめったにありませんよ。みなさま、ぜひ今帰仁村にお越しください!

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2010年11月23日 (火)

ぞくぞく!トーク&サイン会

次の日曜日、『ぞくぞく!目からウロコの琉球・沖縄史』刊行記念、トーク&サイン会を開催します!

ボーダーインク刊『ぞくぞく!目からウロコの琉球・沖縄史』発売記念
琉球・沖縄史の歴史家 
上里隆史 トーク&サイン会

■日時:11月28日(日)15:00~ 参加無料
■場所:ジュンク堂那覇店1F入り口前特設会場

●ボーダーインク刊『ぞくぞく!目からウロコの琉球・沖縄史』をお買い上げのお客様先着100名の方に整理券を配布致します。
●当日、整理券をお持ちの方にサインいたします。
●トークショーは参加無料です。

この前ゲリラ的に行ったサイン会はほとんど人がいなくて大変さみしい思いをしました・・・(泣)みなさま、ぜひ当日はジュンク堂に来ていただいて、トークだけでも聞いてやってください。よろしくお願いしますm(_ _)m

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2010年11月20日 (土)

安慶名グスクで新発見!

かつてこのブログでいくつかのグスクの石垣に謎の穴があることを紹介したことがあります(こちら参照)。外から寄せてくる敵を鉄砲や矢で攻撃するための銃眼(矢狭間)だと言われています。

しかし、攻撃のためなら本来、あらゆる方向で銃眼を設けなければならないのに、グスクの石垣にある穴は少なく、安慶名グスクにいたっては全体でたった1個しかありません。銃眼として使われたのが確実なのは、那覇港口にあった砲台、三重グスク・屋良座森グスクですが、屋良座森グスクには海側と対岸側に計16個もの銃眼がまんべんなく設置されており、他のグスクの穴はこのようにはなっていません。

僕は本当にグスクの穴が銃眼として使われたのか疑問である、と以前述べたのですが、つい先日、安慶名グスクを見学に行った際、この穴の謎について解明する大きな手がかりを得ることができました。

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一緒に見学した同僚の仲嶺真輝(なかみね・まさてる)氏がこの穴を見て、その石垣のぶ厚さから「これはどう見ても銃眼として使えないよな~」とつぶやきながら、ふと穴に向けてその方角を調べたのです。

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すると・・・驚くべきことに、その穴の方角は東西の軸にピッタリ一致するではありませんか・・・!!

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僕はグスクの穴に何らかの宗教的意味があるのではないかと考えていましたが、漠然とそう思っていただけで、詳しく調べたわけではありませんでした。あらためて見てみると、そこには答えが示されていたのです。言われてみれば、「ああ、そんなことすぐわかるよ」と言えますが、指摘されるまでまったく気づかずにいました。まさに仲嶺氏の「コロンブスの卵」です。

さらに安慶名グスクと同じく穴が開けられている中城グスクについても、図面上で調べてみました。

すると・・・・!!何と全ての穴が東西南北の軸に一致していたのです。北の郭にある1つの穴は南北方向、南の郭の3つの穴は東西方向です。正門横の穴は若干ズレている感じですが、ほぼ東西方向。防御のための銃眼なら、わざわざ方角を一致させる必要があるでしょうか。しかも2つのちがうグスクで方角の一致が見られたことは、この事実がけっして偶然ではなく、明らかに意識してこの方角に向けて穴を開けているとしか考えられません。そうすると従来唱えられてきた「銃眼説」は大きく揺らぐことになります。

ではこの東西南北の軸にはどのような意味があり、どのような用途で使われたのでしょうか。現段階ではどうにもわかりませんが、グスクの城門はその向きが夏至の日の出方向に一致するものも多数あることから(こちら参照)、やはり宗教的な意味合いが強いように思います。

グスクにはまだまだ謎が隠されているということですね。詳細が判明しましたら、また追って報告したいと思います。ご期待ください。

参考文献:當眞嗣一「火矢について」(『南島考古』14号)

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2010年11月13日 (土)

死後の世界はあった?

琉球王国の正史『球陽』には、奇妙で怖い事件がしばしば記されています。次の記事は1731年に起こった事件です。

『球陽』巻十二
与那城間切宮城村に、喜也宇大翁なる者あり。七十歳にして死す。臨終の時、子孫に謂いて曰く、我が神歌を唱うるは、汝らの共に知るところなり。もし陰間、生前に異ならざれば、すなわち死後三日、必ずこれを唱え、もって汝らに聴かせんと。期にいたり、ともに往きてこれを聴くに、果たして歌声あり。

与那城間切(現うるま市)の宮城村に、喜也宇(きやう)オジイという者がおり、70歳で死んだ。臨終の時、子や孫に対して言うには、「私が神歌を歌っていたのは、お前たちも知っていることだ。もしあの世が生前と同じであれば、私は死後3日、この神歌を必ず歌い、お前たちに聴かせよう」と。その時がいたって(死ぬこと)、家族がともに墓に行って聞くと、彼の歌声が聞こえてきた。

喜也宇オジイは自分が死んだ後、あの世がどうなっているのか子や孫たちに伝えようとしたのです。オジイの歌声が聞こえてきたということは・・・死後の世界は生きている世界と変わらない、ということなのでしょうか!?

ちなみに当時の琉球の葬り方は風葬で、遺体を一定期間、放置して白骨化させる方法をとっていました。なのでオジイの遺体はそのまま墓室(もしくは風化させるための施設)に安置されていたわけで、家族たちはその場所に行ったということです。

さて、みなさんはこの奇妙な事件をどう考えますか。ただ一つ、確かなことは、この事件が王国の正史に記されているという事実です・・・

参考文献:『球陽』

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2010年11月 8日 (月)

『テンペスト』作者が推薦!

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11月7日のNHK-FMの番組「新たな視点で 歴史を読み解く」で、あの大ヒット小説『テンペスト 』の作者、池上永一さんに拙著『琉日戦争一六〇九』を紹介していただきました!

大変光栄です!僕が扱った時代は1609年の薩摩侵攻の時なので、王国末期の『テンペスト』の時代とはちがいますが、大国のはざ間で生き残りを賭ける琉球の状況は変わらないのかなと思います。そうした点を共感していただけたのかなーと勝手に思っています(笑)

ラジオは、あの『武士の家計簿』の磯田道史さんも出て面白かったです。池上さん、どうもありがとうございました!

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2010年11月 6日 (土)

尚巴志時代の城下町

琉球王国の都は首里。首里城は500年にわたって国王の居城となりました。その王宮を中心に首里には城下町が形成され、とくに国王を支える高級士族の豪華な屋敷や庭園、寺院が立ち並び、整備された石畳の街路がはりめぐらされていました。その様子は沖縄戦の被害に遭うまで残されていたわけです。

それでは琉球を統一した尚巴志の時代、首里城の周りに広がる城下町はこのようなものだったのでしょうか。実は首里城から那覇へ続く綾門大道(あやじょう・うふみち)に隣接する天界寺の発掘調査が行われたのですが、その際に、寺院建立以前の様子が明らかになりました。

天界寺は琉球三大寺院のひとつで、尚泰久王の時代、1450年代に建立された琉球有数の名刹です。その天界寺の下の層から、なんと村跡が発見されたのです。この村跡は14世紀後半から15世紀前半頃のもの、つまり尚巴志の時代のものと推定されています。

ではここからは立派な建物跡や屋敷囲いの石垣、整備された石畳の跡が出土したのでしょうか。いえ、そんなものはまったく出てきていません。見つかったのは、仕切りのない空間に無秩序に空けられたおびただしい建物の柱の穴、そしていくつもの円形の遺構です。この区画には屋敷を隔てる石垣跡はまったくありません。これらの無数の柱の穴は、簡素な建物を何度も何度も建て直した跡で、円形の遺構は竪穴式住居の跡のようです。

竪穴式住居!この建物は貝塚時代の集落にもみられる非常に粗末なものです。尚巴志の時代、首里城に続く一番のメインストリートのすぐ脇に、バラックや竪穴式住居などが無秩序に密集していた、いわば「スラム街」的な状況が存在していたことを意味します。

まったく同じではないですが、イメージでいうと以下のような感じでしょう(画像は仲原遺跡)。

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これはいったいどういうことでしょうか。われわれが想像する王国中枢の様子とはまったく異なる姿です。整備された綾門大道をのぼり首里城へ向かう左右の町並みは立派な士族層の屋敷ではなく、あばら家が並ぶような様相だったということなのでしょうか。士族たちはこうした家に住んでいたのでしょうか?尚巴志を王に任命するために中国から派遣された冊封使も、こうした光景を見ながら首里城へ入っていったのかもしれません。

現在、グスクの様子はいろいろと調べられ、その姿が明らかになっていますが、その周囲にあった集落、城下町に関してはそれほど関心がよせられておらず、ようやく研究が始まったばかりです。解明されつつあるその姿からは、近世の首里城下町のイメージを古琉球、第一尚氏王朝の時代にそのまま当てはめてはいけないことを教えてくれます。

参考文献:山本正昭「天界寺考―発掘調査成果を参考にして―」(『紀要沖縄埋文研究』1号)

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2010年11月 3日 (水)

琉球古道を歩こう!

お待たせしました!ついに琉球古道ツアーの登場です!

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琉球古道ツアー~尚寧王の道を歩こう!~

かつて琉球王国にあった街道「宿道(しゅくみち)」。各地にはりめぐらされていた古道は、今でもわずかながらその姿をとどめています。約400年前、尚寧王が築いた首里城-浦添グスク間の街道を沖縄でベストセラーの歴史本『目からウロコの琉球・沖縄史』著者・上里隆史と一緒にめぐってみませんか。古琉球の時代にタイムスリップした気分になって、琉球古道をのんびりと歩いてみましょう。

【コース】首里城守礼門前→龍潭→中城御殿・耳切坊主出現ポイント→安谷川御嶽→太平橋→難所・ニシノヒラ・フェーノヒラ→経塚→安波茶橋→浦添番所前・龍福寺跡→仲間集落内→浦添城の前の碑→解散

◆日時:2010年11月14日(日)、12月12日(日)、12月29日(水)13:00(所要時間:約3時間)
◆代金:3,800円(税、保険料などふくみます)
◆定員:15名(最少催行人数1名)
◆集合場所:首里城守礼門前の通り、城西小学校校門付近(ガイドが旗を持ってお待ちしております)。
◆準備するもの:歩きやすい服装・靴。帽子、傘など。ペットボトルなどの飲料。

※本ツアーは現地集合・現地解散型のツアーです。出発地と到着地の場所がちがいます。ツアー解散後は各自バス・タクシー等でお帰りいただくことになります。ご了承ください。
※本ツアーは3時間程度、徒歩で目的地に行くウォーキングツアーとなっております。急斜面の坂道など、歩くのに厳しい場所もございますので、お客様の体調や体力を考慮してご参加ください。
※解散場所の浦添市安波茶付近から出発地の首里城へタクシーで料金1500円前後です。

【集合場所画像。クリックで拡大します】

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※わからない場合は「首里城公園前」のバス停をめざしてください。集合場所の守礼門のある通りは歩行者専用の道路となっていますので、すぐわかると思います。

◆お申し込みは【こちら】まで!

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