自由に船が着けたのか?
南西諸島は海に囲まれた環境で、どこでも自由に船が着岸でき、港として使えるようなイメージが何となくあると思います。しかし、南西諸島の島々はサンゴ礁で覆われていて、船の航行にとっては非常に厄介な場所でした。
18世紀の政治家・蔡温は『独物語』のなかで、港と船についてこう述べています。
諸間切浦々の干瀬ども石原にて着船の港これ無き候に付いて、商売船逆風に逢い候時、入着まかり成らず破損に及び候船、多々これ有り候。右石原割除き、間切毎に浦々の場所見合せをもって港作り置き候わば、商売船は申すに及ばず、その余の諸船の天気荒立次第、則々港へ走入り、絶えて難儀これなきつもりに候。
〔諸間切の浦々は岩礁(リーフ)ばかりで着船する港が無く、商売船が逆風にあった時に着岸できず破損する船がたくさんある。このような岩礁は掘削し、間切ごとに浦々の場所を検討して港を作れば、商売船は言うまでもなく、そのほかの諸船も悪天候になればただちに港へ入港し、決して問題を起こすことはないだろう〕
ここからわかるのは、近世期の18世紀の段階になっても、マーラン船(ヤンバル船)クラスの中小型船でさえ強風が吹いた際に岩礁にぶつかり破損する船が続出していたことがわかります。一時的に外海に船を留めて小船で陸と往来するならいざ知らず、恒常的に船を運行するにあたっては、一定の水深とスペースを持ち、波の影響を受けない港湾の存在が非常に重要な存在だったことがわかります。
ましてや海外貿易をするような外洋航海の大型船は、近世の進貢船で全長30メートル、乗員100名近くの規模。さらに古琉球の進貢船は乗員300名、中国の八百料船や千料船クラスの超大型船(船の容積3000石、540トンほど)で、そこらの小川や入江、リーフにつなぎとめておくことなど不可能です。これまでの沖縄の港の研究では、こうした船のサイズと港湾地形の関係という視点が欠けていたと思います。域内航行のマーラン船と外洋航海の進貢船を一緒くたにすることはできません。
では大型船はどこに停泊することができたのでしょうか。それを示すのが近世の国絵図です。国絵図には沖縄島に港湾が記載されていますが、そのなかで「大船」が停泊可能な場所として書かれているのはたった3ヵ所しかありません。それは今帰仁の運天港(50隻停泊可能)、那覇港(30隻停泊可能)、そして読谷の大湾渡具知(5、6隻停泊可能)です。驚くべきことに、あとの海岸はすべて「船繋がり自由ならず(停泊するのに困難)」または「干瀬(リーフ)」「干潟」「船かかりならず(停泊できない)」と記されるのみなのです。
国絵図の記載は伝承や近現代人の何となくのイメージではなく、当時実際に帆船を使用していた状況で描かれたものなので疑う余地はありません。これらの記載は蔡温の「諸間切の浦々は岩礁ばかりで着船できる港がない」とのコメントを裏付けています。
そして興味深いのは、この地図と符号するかのように、1609年の薩摩島津軍の侵攻は、この大型船が停泊可能な港湾をルートとして経由していることです。これは偶然ではなく、80~100隻の大船団が停泊可能な場所がこの3ヵ所しかなかったことを示す決定的な証拠です。
以上からみると、なぜ琉球のなかで那覇港が海外との交易拠点として使われ、王国の中心になっていったかがわかるのではないでしょうか。
※画像はサンゴ礁に囲まれた与論島。リーフと外海の境界がはっきりとわかります。
参考文献:真栄平房昭「蔡温の海事政策」(『しまたてぃ』38号)、岡本弘道『琉球王国海上交渉史研究』、上里隆史『琉日戦争一六〇九』、「古琉球における社会構造と沖縄島の港湾機能」(近日刊行)