« 南山王・他魯毎は生きていた!? | トップページ | 『日本の対外関係』ついに刊行! »

2010年7月 3日 (土)

琉球人は何を売ってたか

アジアの海で交易活動で活躍した琉球。そのやり方は他国の特産品を転売し、利益をあげる中継貿易でした。琉球の主力商品は中国製の陶磁器や日本製の刀や扇子、東南アジア産の胡椒や香料などといわれています。こうした高価な品々を琉球の人々はとりあつかっていたわけですが、それだけだったのでしょうか。実は500年前のポルトガル人の記録に興味深い記述があります。

かれら(琉球人)は玉ねぎやたくさんの野菜を運んで来る。

なんと、東南アジアへ向かう琉球船には玉ねぎや野菜がたくさん積まれ、これらをマラッカなどで売りさばいていたのです。なぜ!?

さらに不思議なのが、玉ねぎです。玉ねぎは中央アジアが原産といわれますが、アジアへは伝わらず、日本では明治になってからとり入れられた野菜でした。琉球でも玉ねぎが栽培されていたことは、僕が知っているかぎりでは確認できません。

このナゾに対する答えは、ふたつあります。ひとつはヨーロッパ人が見た琉球の玉ねぎとは、実際に玉ねぎではないが非常に似た野菜だったという可能性。つまり誤認です。そしてもうひとつは、琉球人は本当に玉ねぎを持ってきていたが、それは琉球で栽培したものではなく、別の場所で買っていた可能性です。

玉ねぎは500年前、ヨーロッパですでに栽培されており、大航海時代のなかでアメリカ大陸へも広まりました。ヨーロッパ人はアジアへも訪れており、彼らが持ってきた玉ねぎを琉球人は直接買いつけたか、あるいは商品として出回っており、これを東南アジアでの取引で購入した可能性のほうが高いような気がします。琉球から東南アジアへは数ヶ月間かかりますから、生鮮食料品を持っていった場合、日持ちしないからです。

いずれにせよ、琉球の交易は『歴代宝案』などの公式記録には出てこない世界があったことは間違いないでしょう。500年前のウチナーンチュが東南アジアで、「安っさいびーんど~。買ーてぃくぃみそーれ~」と野菜を売り歩いていたと考えたら面白いですね。

参考文献:トメ・ピレス『東方諸国記』

人気ブログランキングへ
応援クリック!よろしくお願いします

|

« 南山王・他魯毎は生きていた!? | トップページ | 『日本の対外関係』ついに刊行! »

コメント

こんにちは。いつも楽しく読んでいます。
野菜を売っていたのですね!

琉球船では脚気を予防するために、
船に土を持ち込んで
野菜を栽培していたというのは、
以前、なにかで読んだことがありましたが、
それとも関係しているのでしょうか。

これからも楽しい話題を待っています!

投稿: 門前 | 2010年7月 8日 (木) 23:54

>門前さん
いつもありがとうございます。

琉球の貿易船の上で野菜を栽培していたことは、僕が知るかぎりではありません。鄭和の南海遠征の際にはそうしたことがあったと記憶していますが、その船は巨大なものであったため(当時世界最大)、可能だったのではないでしょうか。

琉球船も大型船とはいえ300名の食糧何ヶ月分の野菜を船上で栽培するとなると、ちょっと無理があるような気がします。やはり陸上の野菜を搭載していたのではないでしょうか。

投稿: とらひこ | 2010年7月10日 (土) 00:06

東アジアの、中国、朝鮮、日本、琉球の中でも飛び切り琉球はロマンにあふれた国のように感じます。 しかもこれらの中で一番小さい島国なのに。


昔の沖縄の人の方がバイタリティもインテリジェンスもあるような気がして、余計にイメージが掻き立てられますね。


これからも、とらひこさんのブログ大変楽しみにしています。

投稿: まりきん | 2010年7月13日 (火) 10:13

>まりきんさん

たしかにかつての琉球はすごいですよね。僕も今の沖縄の人より何倍もバイタリティもインテリジェンスがあったと思います。そうしなくては小さな国が一人立ちすることは不可能だったでしょうから。

今後ともブログをよろしくお願いします。

投稿: とらひこ | 2010年7月17日 (土) 16:42

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 南山王・他魯毎は生きていた!? | トップページ | 『日本の対外関係』ついに刊行! »