南山王・他魯毎は生きていた!?
南山最後の王に他魯毎という人物がいます。この王は1429年頃に中山の尚巴志によって滅ぼされますが、実は彼は死んでおらず、しかもその後100年、尚真王の時代まで生き続けていたとしたら!?(ナナンダッテー)
その証拠をお見せしましょう。1513年、琉球より東南アジアのジャワに派遣された使節のリストに、こうあります(『歴代宝案』)。
管船直庫、他魯毎
デター他魯毎!やはり彼は生きていた!?不死身の男!
・・・というわけはありません。この他魯毎は南山王ではなく、同名の別人です。「他魯毎」は「他」が姓で「魯毎」が名なのではなく、琉球の名前を漢字で表したものです(こちら参照)。これは「太郎思い(たるもい)」と読みます。同じ頃の1518年、シャム(タイ)へ派遣された人物に「達魯毎」がいますが、これも「太郎思い」の当て字で、こちらは同じ人物である可能性が高いといえます。ちなみに「管船直庫」とは船を護衛する守備隊長のような役割とみられます。
同じく『歴代宝案』には「他魯(太郎。タルー)」や「麻他魯(真太郎。マタルー)」、「寿達魯(四太郎。シタルー)」なども登場します。
そして1609年。島津軍侵攻の情報を中国へ伝えた際、琉球は副将の平田増宗のことを「他魯済」と記しています。これは増宗が「太郎左衛門尉」だからで、「たろうざ」の当て字で「他魯済」と表記したのです。琉球で「他魯」が「太郎」の漢字表記であることはもはや明白です。
三山時代の琉球の人物名ですが、華人以外の名前が【琉球語→漢字の音を当てて表記】というルールで記載されてることはまちがいありません。教科書や概説書の人物読みもそろそろこうした点を考慮する必要があるように思います。
参考文献:『歴代宝案』