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2010年5月29日 (土)

謎のグスクついに判明

沖縄各地に点在するグスク。その数は300以上あるといわれ、まだまだ謎の多い遺跡です。

謎のグスクとして「アギナの城」があります。このグスク、550年前の様相を描いた『海東諸国紀』や『琉球国図』に登場するのですが、地図上には沖縄島南部の西側に小島があり、そこに「阿義那(あぎな)之城」と記されています。このグスク、いったいどこのグスクに当たるのかはっきりせず、いろいろと推測されてきました。

名前から「安慶名グスク」じゃないか、との説がありますが、安慶名グスクは中部にあり(うるま市)、場所がまったくちがうのでかなり厳しいです。また小島という地形から、瀬長島の瀬長グスクじゃないかという説もあります。たしかに瀬長島にはグスクがあり立地的な条件としてはピッタリですが、名前がまったくちがいます。瀬長島が安慶名という別名で呼ばれていたとは確認されていません。

では、この「阿義那之城」とはいったいどこなのでしょうか。正解はものすごく単純でした。地図上の地点に当たる場所を忠実にみていけば良かったのです。江戸時代に作成された国絵図には、糸満の海岸部に小島がひとつ描かれています。その名前は「あいけな島」。現在ではエージナ島と呼ばれる島で、北名城ビーチの対岸に位置します。「エージナ」は「あいけな」が沖縄風になまって、こう呼ばれているようです。つまり「阿義那之城」は、エージナ島にあったグスクだったのです。あまりにも小さな島だったので全然気にも留めずウカツでした。完全に見落としていました。

大きな地図で見る

ただ、ここでまた新たな謎が浮上します。『海東諸国紀』や『琉球国図』に記されているグスクは550年前の当時、実際に機能していたグスクを書き記したと考えられ、首里城や勝連グスク、浦添グスクなど世界遺産クラスの大型グスクばかりであり、小さなグスクは除外されています。エージナ島に大型グスクがあったとは寡聞にして知りません。エージナ島は3つの島が連なり、干潮時には歩いて渡れるそうで、居住するのにそれほど不便ではありません。同じようなタイプに伊計島の伊計グスクがあります。しかしこのような小島になぜ「城」を築く必要があったのか。誰が住んでいたのか。謎は深まるばかりです。

いずれにせよ、550年前、このエージナ島に南山グスク、大里グスク、玉城グスクに匹敵するような有力グスクがあった可能性を『海東諸国紀』や『琉球国図』は示してくれています。これまでエージナ島はグスクの分布調査でも未調査の区域らしいです。ぜひ糸満市のほうで実施してもらいたいものです。思わぬ発見があるかもしれません。

※グスクを調査した結果は、来週報告します。お楽しみに。

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2010年5月22日 (土)

ホントの女房とウソの女房

約100年前、大正時代で起きた珍事件をご紹介します。戦前の新聞「琉球新報」に載っている記事を現代読みになおしました。

***************

○ホントの女房とウソの女房
中頭郡浦添村字●●、安和良盛(30)は数年前、同字の某娘マカタ(28)と結婚し赤ん坊までできたが、村吏員の不注意によりマカタとの結婚届をマカタ妹、カマタ(20)とまちがえて戸籍簿に記入し、今まで知らずにそのままになし置きしが、それがため良盛夫婦は何かのことにまちがいを生じ、戸口調べの巡査がやって来て、

戸主は良盛か、戸主の妻がカマタか

と聞かるる時、良盛は怪訝な顔をして

カマタではない、マカタである

と訂正を申し込むと、

ウソを言え、巡査の戸籍簿は役場の戸籍簿をチャンと引き当ててある

と言う。良盛が

マカタでもカマタでも同じ文字が3つあり、マカの字がカマに転倒した違いで差し支えはないが、カマタは現在妻マカタの妹で、間違えられてはチト迷惑でござる

と説く。巡査が

ナニ、マカタがカマタになって差し支えない法があるか、ウソと思うなら役場行って調べてみるがよい

などと言って帰る。良盛は

こんなうるさい質問を受けること、たびたびなるに、これはチト様子が変だわい

と1日、村役場に出頭して戸籍をくって見たところ、まったく巡査の説くとおり、マカタがカマタに転倒してるので大いに驚き、ソコソコ裁判所へ訂正の訴訟を提起したり。

(「琉球新報」大正2年〔1913年〕10月3日)

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2010年5月15日 (土)

ラッコとサメの贈り物

ラッコといえばあのカワイイ海の動物で、水族館の人気者です。北海道から千島列島、アリューシャン列島、アラスカにかけての寒い海に生息しています。

1434年、琉球王府ナンバー2の地位にあった華人の懐機(かいき)は国王の尚巴志とともに、日本刀や金箔の屏風などともに何とラッコの皮100枚を中国皇帝に献上しています(『歴代宝案』)。献上品のリストには「海獺皮」と記されています。

ラッコの皮??ラッコは沖縄の海には生息していません。懐機はどうしてこんなものをプレゼントできたのでしょうか。

このラッコの皮は、エゾ地(北海道)のアイヌたちの重要な交易品でした。この当時、彼らは「交易の民」として和人たちと対等以上にわたりあっていました。アイヌは狩猟民としての性格が強調されますが、狩猟はむしろ交易品を調達するためであったといえるでしょう。アイヌたちが獲ったラッコの皮はやがて和人たちに売りさばかれ、日本海を通って、やがて琉球へとたどり着いたのです。おそらく北方の重要拠点だった青森の十三湊(とさみなと)を経由したことでしょう。

今から約600年前に、北海道と沖縄はつながっていたんですね。ウチナーンチュはラッコを(皮ですが)見たことがあったということです。

ちなみにこの時、尚巴志と懐機はラッコの皮のほかにサメの皮(あるいはエイの皮)4000枚、ヤコウ貝8500個、タカラ貝550万個をいっぺんに贈っています。これだけのぼう大な海産物を調達したということは、琉球中の海人(ウミンチュ。漁師)たちを総動員したのかもしれません。

サメはさらに2年後の1436年にも皮3000枚贈られています。短期間に7000頭も乱獲して大丈夫だったのでしょうか(汗)。逆に考えれば、当時の沖縄の海にはサメがうようよしていたということでしょうか。沖縄には現在もサメがいるので絶滅はしていないわけですが、もしかしたら沖縄近海にしばらくサメが見えなくなったかもしれませんね。

参考文献:真栄平房昭「琉球王国における海産物貿易」(『歴史学研究』691)

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2010年5月10日 (月)

県立博物館で講座!

またまた沖縄県立博物館で歴史講座を開催します!

第396回 博物館文化講座

「古琉球と海域アジア」

講師:上里隆史(早稲田大学琉球・沖縄研究所客員研究員)
日時:2010年5月15日(土)14時~16時(開場13時30分)
場所沖縄県立博物館・美術館講堂(3階)

※入場無料、先着200名、予約不要

内容:14~16世紀、アジアとの中継貿易で栄えた琉球王国。「大交易時代」を生み出した要因を、海域世界と港湾都市・那覇、そしてそこに住む外来者の視点から描き、その実態を明らかにします。

当日は沖縄県が日本に復帰した記念日です。この記念の日に沖縄の歴史をたどり、考えてみませんか。入場無料なので気軽にご参加ください。

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2010年5月 8日 (土)

海が歴史をつくる

沖縄の歴史は海とともに育まれてきました。人々は移動手段として船を利用し、島嶼間をさかんに往来しました。船と移動、海に囲まれた地理的環境を念頭に置きながら、沖縄の歴史をみていく必要があるように思います。

南西諸島ではどこの海岸でも船の停泊ができると思うかもしれませんが、実はそうではありません。島々はほとんど周囲をサンゴ礁で囲まれており、風を頼りに移動する帆船は座礁する危険が常にありました。また台風の際には、外海に船を停泊させていると波の影響をもろに受け沈没してしまいます。海外に渡航するような大型船が停泊できる場所は、沖縄にほとんどなかったのです。

18世紀の政治家・蔡温は『独物語』のなかで、琉球には良い港が少なく、リーフ(干瀬)で船の座礁が続出していることを挙げ、サンゴ礁を開削して各間切に港を新設することを提案しています(真栄平房昭「蔡温の海事政策」)。近距離を移動する中小型船でさえ、このありさまだったのです。

ところで、当時の海を移動する人々の地理感覚をうかがえる興味深い史料があります。15世紀中頃の様相を記した『琉球国図』(沖縄県立博物館蔵)です。南九州―琉球間の航海図で、作成には博多の海商が関与したと考えられています。図中には赤い線で航路、島々と博多からの距離が記されています。

そこで注目されるのが「港」の記載です。沖縄島には4つの港湾拠点しか記されていません。那覇・泊港(泊は域内専用港)、運天港、瀬底浦(本部の渡久地港か)、そして中城湾です。海をよく知る当時の航海者たちがこれらの場所を停泊拠点と認識していたことは大きな意味を持ちます。

Photo

『琉球国図』の港と航路

3つの港湾の近くには琉球の政治的な重要拠点がありました。那覇港には琉球王府が所在する首里城。運天港には北山王と北山監守の居城であった今帰仁グスク。中城湾にはその繁栄ぶりをヤマトの鎌倉に例えられた勝連グスク。これは偶然の一致なのでしょうか。いや、そうではないと思います。海から港湾へ流入する富と力を得たことによって、彼らは勝者となることができたのではないでしょうか。

権力者が港を生み出したのではなく、港が権力者を生み出したのです。

参考文献:真栄平房昭「蔡温の海事政策」(『しまたてぃ』38号)、上里隆史・深瀬公一郎・渡辺美季「沖縄県立博物館所蔵『琉球國圖』-その史料的価値と『海東諸国紀』との関連性について-」(『古文書研究』60号)

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2010年5月 2日 (日)

満員御礼!追加ツアー決定しました

Photo_2

4月28日に東京丸の内で行われたトークセミナー「目からウロコの琉球古道」ですが、おかげさまで超満員、熱気のなかで無事終えることができました。参加されたみなさんに琉球の歴史世界の魅力をお伝えすることができたかと思います。

セミナーの様子は【こちら

そして『琉日戦争1609』著者と行く「目からウロコ」歴史探検ツアー~薩摩侵攻の史跡を歩く~ですが、5月8日のツアーはお申し込み殺到で満員になりました!ありがとうございます!

ですが、まだまだ申し込みが続いていまして、急きょ、追加ツアーを決定しました。6月5日(土)にふたたびツアーを開催します。

ツアー概要は【こちら】をご参照ください。

今回のお申し込みは、

(有)FECオフィス文化事業部
TEL: 098-927-8841
FAX: 098-861-2362
E-mail: info[アットマーク]kubougrande.com

までよろしくお願いします。ご参加の代表者のお名前、人数、性別(保険に必要なため)、乗車地点(沖縄バス本社、宇地泊バス停、宜野湾市役所バス停、中の町バス停のいずれか)をお知らせください。お待ちしています!

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2010年5月 1日 (土)

金城はなぜキンジョウか

アジアで活躍する俳優の金城武。父親が沖縄出身というのはよく知られた事実です。実は初めて彼の名前に接した時、僕は「キンジョウ」と読んでしまいましたが、実際には「カネシロ」だったのは意外な感じがしました。

現在、金城さんは「キンジョウ」が一般的な呼び方ではないかと思います。沖縄の姓とその読み方は独自の歴史・文化を反映して本土とは異なるものが多いです。金城の呼び方も本来は「カネ(ナ)グスク」でした。

近代になって日本に組み込まれた沖縄では、戸籍法によってすべての人が姓を持つようになりました。しかし同化政策のなかで、奇異・難読な沖縄姓はヤマト風に改姓、もしくは読み替えられていったとされます。「キンジョウ」も戦前の読み替えによって生まれたもの、その程度しか考えていませんでした。

以前、ある会合で沖縄姓を研究している武智方寛氏にお会いすることができました。武智氏は戦前から戦後にかけての沖縄の人々の姓についての資料を収集し、変化の要因などを探っています(「沖縄の姓の変遷についての考察」)。武智氏によると、少なくとも1912年(大正元)には方言から標準語読みへの変更が行われたことが確認されています。

注目すべき点はこの時期、金城姓の「キンジョウ」読みが一般化していなかったことです。大正期の移民名簿や人事録には「カナグスク」とあって城を「ジョウ」と読ませる事例はなく、また昭和期には、県外在住の金城姓は地域ごとに「カネシロ」「キンジョウ」などの読み替え傾向に違いがあり、国外の移民先では「キンジョウ」が確認できないといいます。どうやら呼称が統一されていなかったようなのです。

では金城姓の「キンジョウ」読みが主流となるのはいつでしょうか。実は戦後のことなのです。つまり、ヤマトの差別や同化政策のもとでの改姓の動きとは直接関係がなかったということなのではないでしょうか。武智氏はこの変化の理由についてまだ解明していないといいます。僕は米軍統治下でアメリカ人の呼びやすい読み方を採用したのかと推測しましたが、確証はありません。今後、氏の興味深い研究が進展するのが楽しみです。

参考文献:武智方寛「沖縄の姓の変遷についての考察」(『具志頭村立歴史民俗資料館年報』4号)

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