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古琉球の禅僧
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古琉球は仏教がさかんに信仰された「仏教王国」でした。首里と那覇にはたくさんの寺院が建立され、ヤマトから禅宗の僧侶たちが渡来して住職などをつとめていました。彼らは各地の港町を渡り歩き布教する民間の宗教者たちであり、琉球王府は彼らを重用して王国の外交業務などにも従事させていました。とくに有名なのは、京都南禅寺の流れを汲む禅僧の芥隠(かいいん)です。彼は琉球円覚寺の開山住持となりました。
投稿者 【連絡はこちらから】上里 隆史 時刻 00:00 評論・その他 | 固定リンク Tweet
とらひこさん初めまして。 わたしも以前、琉球仏教と鎌倉仏教は関係が深いって 聞いた事があります。以前、鎌倉観光に行った時 「やぐら」と言う鎌倉独特の墓があって沖縄の「堀抜き墓」? に似てる思った事があります。 あの当時から行き来があったのは以外だと思いました。 あの足利学校に琉球からの留学生もいたって聞いたような 気がしますが、本当なら驚きです。
投稿: ひで | 2010年5月21日 (金) 22:53
>ひでさん はじめまして。最近の研究ですと、琉球の仏教は鎌倉よりも京都のほうがつながりが深かったことがわかっています。たとえば16世紀になりますと、京都の大徳寺派の影響が強く見られるようになります。
琉球僧はちょくちょく大和に留学していました。たしかに鶴翁という僧は足利学校にも行っていたようですよ。
中世という時代はけっこう移動がさかんで、琉球には大和からの移住者もたくさんいました。その逆に、琉球からもたくさんの人が本土に行っていたようです。
鎌倉の「やぐら」との関係はどうなんでしょうかね。
投稿: とらひこ | 2010年5月23日 (日) 09:51
琉球は鎌倉よりも京都との繋がりが深いのがわかりました。それにしても足利学校に琉球人がいたと言うのもそうですが、琉球からヤマト向けの公文書は漢文でなく和文だったとゆう事をとらひこさんもおっしゃってましたが、それは琉球は独立国でありながら「日本の藩に準じた国」と言う意識がお互いにあったのかもしれませんね。日本自体藩と言う小さい国の集まりだったわけだし。。
投稿: ひで | 2010年5月25日 (火) 10:23
>ひでさん 中世、琉球と日本との間には広範な交流があり、文化的親近感も確かにありましたが、それがただちに「日本の藩に準じる位置づけであった」ということにはならないように思います。
室町幕府は琉球を下位に位置付けながらも、明らかに他の諸大名とは違う対応をしていました。それは日本の「藩」ではなく、朝鮮への外交的な対応と比較すべきだろうと思います。
琉球を下位にみなすという考えも、強いていえばそれは「日本側の論理」であって、琉球側は貿易のため日本側の設定した世界観・華夷秩序にあえて乗っていたととらえたほうが妥当です。交渉相手の世界観・外交論理に合わせて貿易を行うのは、古琉球の基本的な交渉スタイルでした(中国しかり、朝鮮しかり、そして日本しかりです)。
また以前の記事でも書きましたが、琉球は公用文にひらがなを使いましたが、ヤマトとはまったく異なる使い方をします。ひらがな使用は「ヤマトと一緒だった」というよりもむしろ「外来のものを採用して独自の使い方をする」のが事の本質だと思います。交流の存在や文化的親近感がただちに支配体制や「国」意識に直結するわけではないことに注意すべきだろうと思います。
古琉球と日本・中国との関係についての僕の考えは、以下の記事を参照してください。 http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2009/12/post-449c.html
投稿: とらひこ | 2010年5月25日 (火) 15:00
朝鮮出兵で秀吉が琉球にも派兵要請をした件もあって てっきり「琉球は藩に準じた扱い」かと思ってましたが。 とらひこさんのコメントで違う事がわかりました。。。 日本と文化的に近くても琉球は独立国だったと言う事ですね。
投稿: ひで | 2010年5月25日 (火) 18:49
日本国内の方言が通じない者同士が意志を伝え合うのに候文は役立ったようだが、とらひこさんのコメントですと琉球の公文書が平仮名で書かれていても中身は琉球語なので大和の人には殆んどわからなかったってことなんですね。なのにあえて、平仮名を使ったのは大和の送り先の相手との精神的距離を縮めるか?それとも深い意味はないのかな。たまたま使ってみたのかな。
投稿: ひで | 2010年5月26日 (水) 00:11
>ひでさん ひらがなは国内使用の公文書で、日本向けは和様漢文(日本風の漢文)を使っていました。
つまり相手の作法に合わせるのが琉球スタイルなんです(それは中国に対してもそうです)。
投稿: とらひこ | 2010年5月28日 (金) 14:48
>ひでさん 江戸幕府と中世の室町幕府の外交姿勢は、日本を中心とした華夷秩序の枠組みはあったと思いますが、時代が違うので、基本的に別個のものとして考えたほうがいいと思います。
江戸時代における琉球使節の江戸入城の場所はちょっとわかりません。
投稿: とらひこ | 2010年6月 1日 (火) 10:47
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内容:
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コメント
とらひこさん初めまして。
わたしも以前、琉球仏教と鎌倉仏教は関係が深いって
聞いた事があります。以前、鎌倉観光に行った時
「やぐら」と言う鎌倉独特の墓があって沖縄の「堀抜き墓」?
に似てる思った事があります。
あの当時から行き来があったのは以外だと思いました。
あの足利学校に琉球からの留学生もいたって聞いたような
気がしますが、本当なら驚きです。
投稿: ひで | 2010年5月21日 (金) 22:53
>ひでさん
はじめまして。最近の研究ですと、琉球の仏教は鎌倉よりも京都のほうがつながりが深かったことがわかっています。たとえば16世紀になりますと、京都の大徳寺派の影響が強く見られるようになります。
琉球僧はちょくちょく大和に留学していました。たしかに鶴翁という僧は足利学校にも行っていたようですよ。
中世という時代はけっこう移動がさかんで、琉球には大和からの移住者もたくさんいました。その逆に、琉球からもたくさんの人が本土に行っていたようです。
鎌倉の「やぐら」との関係はどうなんでしょうかね。
投稿: とらひこ | 2010年5月23日 (日) 09:51
琉球は鎌倉よりも京都との繋がりが深いのがわかりました。それにしても足利学校に琉球人がいたと言うのもそうですが、琉球からヤマト向けの公文書は漢文でなく和文だったとゆう事をとらひこさんもおっしゃってましたが、それは琉球は独立国でありながら「日本の藩に準じた国」と言う意識がお互いにあったのかもしれませんね。日本自体藩と言う小さい国の集まりだったわけだし。。
投稿: ひで | 2010年5月25日 (火) 10:23
>ひでさん
中世、琉球と日本との間には広範な交流があり、文化的親近感も確かにありましたが、それがただちに「日本の藩に準じる位置づけであった」ということにはならないように思います。
室町幕府は琉球を下位に位置付けながらも、明らかに他の諸大名とは違う対応をしていました。それは日本の「藩」ではなく、朝鮮への外交的な対応と比較すべきだろうと思います。
琉球を下位にみなすという考えも、強いていえばそれは「日本側の論理」であって、琉球側は貿易のため日本側の設定した世界観・華夷秩序にあえて乗っていたととらえたほうが妥当です。交渉相手の世界観・外交論理に合わせて貿易を行うのは、古琉球の基本的な交渉スタイルでした(中国しかり、朝鮮しかり、そして日本しかりです)。
また以前の記事でも書きましたが、琉球は公用文にひらがなを使いましたが、ヤマトとはまったく異なる使い方をします。ひらがな使用は「ヤマトと一緒だった」というよりもむしろ「外来のものを採用して独自の使い方をする」のが事の本質だと思います。交流の存在や文化的親近感がただちに支配体制や「国」意識に直結するわけではないことに注意すべきだろうと思います。
古琉球と日本・中国との関係についての僕の考えは、以下の記事を参照してください。
http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2009/12/post-449c.html
投稿: とらひこ | 2010年5月25日 (火) 15:00
朝鮮出兵で秀吉が琉球にも派兵要請をした件もあって
てっきり「琉球は藩に準じた扱い」かと思ってましたが。
とらひこさんのコメントで違う事がわかりました。。。
日本と文化的に近くても琉球は独立国だったと言う事ですね。
投稿: ひで | 2010年5月25日 (火) 18:49
日本国内の方言が通じない者同士が意志を伝え合うのに候文は役立ったようだが、とらひこさんのコメントですと琉球の公文書が平仮名で書かれていても中身は琉球語なので大和の人には殆んどわからなかったってことなんですね。なのにあえて、平仮名を使ったのは大和の送り先の相手との精神的距離を縮めるか?それとも深い意味はないのかな。たまたま使ってみたのかな。
投稿: ひで | 2010年5月26日 (水) 00:11
>ひでさん
ひらがなは国内使用の公文書で、日本向けは和様漢文(日本風の漢文)を使っていました。
つまり相手の作法に合わせるのが琉球スタイルなんです(それは中国に対してもそうです)。
投稿: とらひこ | 2010年5月28日 (金) 14:48
>ひでさん
江戸幕府と中世の室町幕府の外交姿勢は、日本を中心とした華夷秩序の枠組みはあったと思いますが、時代が違うので、基本的に別個のものとして考えたほうがいいと思います。
江戸時代における琉球使節の江戸入城の場所はちょっとわかりません。
投稿: とらひこ | 2010年6月 1日 (火) 10:47