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2010年4月17日 (土)

察度王の肖像画

察度王といえば浦添グスクを拠点とした「世の主」で、1372年に中山王として中国明朝に初めて入貢した人物です。この察度、実は肖像画を残していました。

歴代国王の肖像画で確認されているものといえば、第二尚氏王朝(1470~)の尚円王からです。御後絵(おごえ)と呼ばれた肖像画は沖縄戦で焼けてしまいましたが、幸い焼失前に白黒写真で撮影されており、その姿を知ることができます。

察度王の肖像画はこれをさかのぼるもので、末吉宮の神宮寺である万寿寺に収められていました。

Cimg07142_3

万寿寺跡

この肖像画、残念ながら1610年(万暦38年)9月22日、寺の失火によって焼けてしまいました。残されていれば、彼がどういう顔をしていたのかを知ることができたはずです。

そしてさらなる疑問は、彼はいったいどのように描かれていたのかということです。琉球の肖像画は基本的に中国の影響を受けた様式で描かれています。椅子に座り、真正面を向いた姿です(中国皇帝の肖像画は【こちら】参照)。ところが察度王の在位は中国との公的関係を築く以前にも及んでいます。

この肖像画がいつ描かれたかはわかりませんが、もしかしたら、これまで知られている国王肖像画の様式とはまったく違うものだった可能性もあります。彼は皇帝より皮弁冠服をたまわっていません。つまり第二尚氏の御後絵のような格好をすることはできないのです。もしかしたら、座敷に座って斜め横を向いている日本様式の画だったかもしれません。

いろいろ考えるとおもしろいのですが、焼失してしまった今では真相は闇の中です。それにしても察度王の顔、見たかったですね。

参考文献:『球陽』

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コメント

『沖縄学入門―空腹の作法』を紹介したブログ記事がありました。

http://d.hatena.ne.jp/hirokuma/20100421

投稿: kayano | 2010年4月22日 (木) 02:36

>kayanoさん
情報ありがとうございます。僕も少しですがコラムを書いていますが、サブタイトルの「空腹の作法」というのは直前まで知りませんでした。

投稿: とらひこ | 2010年4月22日 (木) 09:28

とらひこさん。
武寧王は明に閹者67名を明に贈っていますよね。
三山時代から宮刑制度があったんですか?

投稿: コザの猫 | 2010年5月15日 (土) 22:29

>コザの猫さん
三山時代に宮刑、宦官制度があったことは確認されていません。後の首里城後宮にもそのような慣習もないので、一般的ではなかったと思います。

明に送ったというのは明の制度に合わせて特別にそのようにしたのではないでしょうか。

投稿: とらひこ | 2010年5月17日 (月) 15:35

とらひこさん、私の疑問。

初代王が華人という可能性はありませんか?

■英祖(1229-1299年)の時代に南宋から僧侶が来流(1265年)。

①なぜ、いきなり南宋から仏僧が隔絶された小さな島に来たのか?
英祖が華人で南宋から呼び寄せたのではないでしょうか?
たまたま、琉球に仏僧がたどり着いたという論理であれば、大陸(福建)に近い台湾は琉球よりも早い段階で文明化された、と思うんですね。偶然来琉したのではない気がします。


■1392年に福建からビン人(クンニダ)来琉。

察度(1321年 - 1395年)
武寧(1356年 - 1406年)
尚巴志(1372年-1439年)

②なんで、こんなに多くの華人を呼び寄せたのか?
しかも、懐機を側近にしているのも怪しいです。
グンニダが来琉してわずか30年程度で華人が国王の側近になるって不思議で仕方がない。
本来異国人である人達ですよ。
こんなにも早く琉球に溶け込んでいるのが不思議です。

源為朝が琉球の王や上層部の前身勢力であるなら、グスクなんか造れなかったと思うんですね。
織田信長の時代でも、石積みの技術は琉球の方が優れていたようですし。

投稿: コザの猫 | 2010年5月17日 (月) 19:57

明に送ったというのは明の制度に合わせて特別にそのようにしたのではないでしょうか。 >

わかりました。どうもありがとうございます。

投稿: コザの猫 | 2010年5月17日 (月) 19:58

>コザの猫さん

古琉球時代の王の出自の問題は、歴史史料が皆無なため確定的なことはいえません。

琉球に初渡来した僧侶・禅鑑の出自も「異域」より来たとあるだけで、北宋であると確定していません。ただ補陀落僧と名乗ったことから、補陀落浄土(南海の極楽世界)を目指す信仰、すなわち日本の熊野から渡来した可能性があります。

また久米三十六姓の渡来は近世に確立した「神話」で、1372年以前より華人が琉球に居住していたことが明らかになっています。呼び寄せたのではなく、自分たちで渡来していたのです。

当時の琉球では民族や国境はあまり意識されていません。なので外来者はとくに区別されず、すぐに溶け込めました。王府は華人を登用したのみならず、日本人も多数採用して王府のなかで働かせていました。

このあたりの話はすでにブログで書いています。以下を参照してください。
http://torohiko.ti-da.net/

http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2009/12/post-449c.html

英祖の時代は中国方面よりも北、すなわちヤマトからの流れが圧倒的でした。実際、英祖一族の骨には中世日本人の特徴を持つ骨もあります。為朝が渡来したというのは伝承にすぎず真実ではありませんが、その話が流布するような背景はあったわけです。ただし一方で一族のDNAからは中国南部・東南アジア系統の者もいました。外からのさまざまな影響を受けている様子がここからうかがえます。

グスクの石造技術は英祖王の頃は簡素な自然石を積んだ野面積みのグスクしかありませんでした。今見るようなグスクは14、15世紀のものです。また14世紀の浦添グスクは水堀や土でも構成されています。中国だけでなく、日本もふくめた外来技術を取り入れていたことがわかります。

投稿: とらひこ | 2010年5月17日 (月) 21:24

読んでない過去記事が沢山ありますので、記事を最初からチェックしてみますね。どうもです。

投稿: コザの猫 | 2010年5月17日 (月) 22:16

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