欧州に渡った古琉球漆器
琉球の伝統工芸と知られる漆器。かつて王国時代には近世で「貝摺(かいずり)奉行」と呼ばれる官営の工房があり、ここで漆器などの工芸品が制作されていました。王府で制作された漆器は国内の家臣、神女などに与えられるほか、外国へのプレゼントまたは貿易品として海外へ輸出されました。
たとえば薩摩の島津忠良に贈られた古琉球漆器の椀が最近発見されましたが、これは忠良の遺品の中にありました。16世紀の黒漆・沈金の技法の漆器椀はこれまで例がなく、非常に貴重なものです(くわしくは【こちら】のサイトの「加世田」の項を参照)。
さらにヨーロッパに渡った古琉球漆器もあります。場所はなんとオーストリアのチロルです(チロルチョコの由来となったところですね)。この漆器はヨーロッパで一番古い沖縄関係の資料で、朱漆(しゅ・うるし)で花鳥をかたどった箔絵(はくえ)の椀です。この椀はオーストリア・ハプスブルク家のチロル大公・フェルディナンド2世の所蔵品で、1596年に作成された目録のなかにすでに見えています。つまり1596年以前に琉球漆器がヨーロッパへ渡っていたことを意味しているのです。
フェルディナンド2世は当時、南アメリカ・アジアに広大な植民地を獲得していたスペイン国王・フィリップ2世のいとこでした。スペインは1571年にフィリピンのマニラに植民都市を建設しています。おそらく琉球漆器はマニラ経由でスペインへ渡り、さらに一族のチロル大公のもとへ届いた可能性が非常に高いといえます。そうなると、1571~1596年の間に琉球漆器を入手したことになります。
定説では琉球は1570年に東南アジア貿易が途絶したといわれています。ところが、琉球はそれ以降(1600年頃まで)もフィリピンと貿易を続けていたことが明らかになっています。チロルに残る琉球漆器の存在は、まさにこれを裏付けるものであるといえるのではないでしょうか。
※琉球漆器については【こちら 】も参照。
参考文献:安里進「仙台と薩摩に伝世した琉球漆器の祭具」(『漆工史』29号)、上里隆史「古琉球・那覇の「倭人」居留地と環シナ海世界」(『史学雑誌』114編7号)、クライナー・ヨーゼフ「ヨーロッパにおける沖縄関係コレクションの歴史と現状」(『沖縄の宗教と民俗』)
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コメント
こんばんは。以前、袋中上人のお話でコメントした者です。
そうしますと、戦国時代末期や江戸時代初頭の琉球貿易は、王国が直接タッチしたものではなく、私的貿易船の商人達による交易活動に支えられていたという所なのでしょうか?
投稿: スポッツ | 2010年2月20日 (土) 19:36
>スポッツさん
王府はこの時期の貿易にも直接携わっています。家譜にもちゃんとフィリピン交易を行ったことが記されています。それはご指摘のように民間商人などを登用し王府の使者として派遣するかたちで、当時活発に活動していた民間の力に支えられたものでした。
ただしこうした民間人を活用するやり方はこの時期だけの特徴ではなく、15世紀にもみられるやり方です。
投稿: とらひこ | 2010年2月20日 (土) 21:38
こんばんは。初めてコメントします。
去年の今頃からこのブログを読ませてもらってます。
ブログを読むたびに、生まれてからずっと沖縄に住んでいても自分の知らない歴史や文化がたくさんあることを知り、毎回とても楽しく読んでいます。
質問があるのですが、数年前にテレビで首里城の近くに
『琉球王国時代に、王国が作った道路の第1号がある』
というようなことを言っていました。一度行ってみたいのですが、記憶が曖昧でよく分かりません。何か知っていましたら情報をよろしくお願いします。
(とりあえず、金城町石畳は行ってみました。テレビで言っていた場所かどうか分かりませんが……)
投稿: RR | 2010年2月21日 (日) 23:29
>RRさん
いつもありがとうございます。
琉球王国の道路1号は、15世紀初頭に造られた「綾門大道(あやじょう・うふみち)」だと思います。守礼門から那覇に下る500メートルの区間です。
この道路が王国が計画的に造成した最初の道路でしょう。
投稿: とらひこ | 2010年2月24日 (水) 18:24
ありがとうございます
さっそく来週くらいに行ってみます
投稿: RR | 2010年2月24日 (水) 18:39
>RRさん
どういたしまして。綾門大道は金城町の石畳のように残っているわけではなく普通の道路ですが、雰囲気だけはつかめると思います。
守礼門から中山門跡(今の琉染まで)の区間です。
投稿: とらひこ | 2010年2月25日 (木) 08:11