大里グスクの正殿
南城市(旧大里村)の島添大里グスクは三山時代、大里按司の居城だったと伝えられている場所です。『明実録』には南山王・承察度(うふさと)が登場することから、南山グスク(糸満市)ではなく、こちらが南山王の居城であった可能性が指摘されています。
「三山」の政体は多くの人々がイメージする「国家」という強固な体制ではなく「按司連合政権」であり(南山はとくにその傾向が強い)、「王(世の主)」はその中の最有力者程度のものであったことが明らかになっていますので、僕は「どっちも南山王の居城だった」としたほうが妥当だと考えています。たとえ血がつながっていなくても有力な按司の持ち回りで「王」として朝貢することは可能だからです。
大里グスクは大里按司が佐敷の思紹・尚巴志に滅ぼされて以降も、首里に移るまで第一尚氏の根拠地として使用されていました。王国統一後も「旧宮」として機能していたようです。1458年銘の「大里城の雲板」の存在もそのことを裏付けています。
この大里グスクは2008年度からグスク中枢の正殿付近の詳しい調査が開始されています。2009年12月10日に行われた現場説明会で撮影したグスク正殿付近について紹介しましょう。
今回の調査で明らかになったのは正殿を支える礎石群と建物の大きさです。この正殿は南山時代ではなく、第一尚氏王朝期のものと考えられます。
大里グスク正殿跡
そのままの位置で残る礎石
そして驚いたのが礎石に残った建物の柱のかたちです。
おわかりになったでしょうか?丸い礎石の中央に四角の柱の痕跡が残っています。
つまり大里グスクの正殿の柱は首里城正殿のように丸くなく、四角だったのです。古琉球時代の木造建築は残っていませんので、当時の建物の姿をうかがうことができる重要な資料です。礎石から8間×5間(22×13m)になることが判明しています。
また正殿付近からは、謎の石積みの穴も見つかっています。中からは陶磁器の破片などが出土していますが、用途は不明とのこと。
大里グスクは戦後、採石などで破壊されてしまいましたが、現在でもわずかながら当時のまま残っている石垣もあります。
石垣は自然石をそのまま積んだ「野面(のづら)積み」ですが、これは裏込めの石積みであって、この表面に切り石(布積み)があったようです。基礎部分にいくつか加工石が残存していることからわかります。砕石で切り石はごっそり持っていかれてしまったんですね。
基礎部分に残る切り石
南城市では国史跡への指定に向けて整備を進めるそうですから、やがて勝連や中城のようなグスクの姿を現すはずです。楽しみに待ちましょう。
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コメント
糸満市名城のエージナ島近辺をもっと調査してほしいです。
1.名城部落の公民館地はトゥマンザ(十万座?)といい見晴らしがよい場所です。
2.名城部落へ通ずる北側の国道はクシンジョウ(後門?)と呼びます。
私は名城部落全体が城後だと思っています。
投稿: 新垣 | 2012年5月11日 (金) 15:42
>新垣さん
情報ありがとうございます。
名城とエージナ島の関係は、確かに鍵になりそうですね。
投稿: とらひこ | 2012年5月23日 (水) 17:21