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2009年12月17日 (木)

どこまでが琉球で、どこまでが日本か

来年の2月6日、沖縄県立埋蔵文化財センターで文化講座「どこまでが琉球で、どこまでが日本か」が開催されます。近年めざましい進展をとげる奄美諸島史の考古学を中心に、琉球の歴史とのかかわりを探っていこうとするものです。考古学の成果をきちんと整理したうえで、文化圏の相違、またその分布や相互の影響を探ることは大変意義のあることです。

しかし、昨今一部で展開されているような、その成果を安易にアイデンティティ論争に直結させるような動きや、最新の研究水準をふまえていない「沖縄島中心史観批判」に僕は違和感を感じています。本文化講座では拙速に「日本か琉球か、白か黒か」的な結論を出すのではなく(堅実な報告者なのでそうはならないと信じていますが)、ぜひ以下のような視点も念頭において、議論を深めていってもらえればと願っています。古琉球を研究している立場から書いた、「琉球の歴史の見方」についての僕の考えです。

琉球は東南アジアだ(原題)

 「上里君、古琉球は東南アジアだよ」

10年前、中世日本史の村井章介氏(東大教授)からこう言われて、その真意をはかりかねたことがある。だが古琉球のことを調べていくうちに、その歴史のなかに東南アジア的側面を強く感じることになった。それは個々の事例の相似によるものではない。社会や歴史のあり方そのものが共通しているのである。

古琉球はヤマト文化に近い関係を持ちながらも、国内外の体制は中国無しでは成り立たない政治・社会システムを築きあげた。政治・交易中枢は那覇・首里に一極集中し、港市にはさまざまな外来者が住み、単一のエスニシティを持たない彼らは、琉球の権力内部に他者ではない「われわれ」として深く関与した。このありようは東南アジアの港市国家と同じである。

桃木至朗氏(大阪大教授)は、東南アジアは固定化されない「不安定な生成流転の渦」によって成り立つ社会で、世界宗教・世界文明のような《原理的オリジナリティー》を主張しないと説く。また「国家を支える制度、神話、宗教などの諸要素は、インドや中国やアラビアからきたものばかりだ。オリジナリティーはそれらの採り入れ方、組み合わせ、機能のさせ方にある」と主張する(『歴史世界としての東南アジア』)。まさに古琉球の世界ではないか。ちなみに桃木氏も「琉球王国は東南アジア的性格をもつ」と述べる。

かつて伊波普猷や柳田国男は琉球文化に純粋な「日本」を見出そうとし、また戦後の歴史研究では「中国」の冊封体制に寄り添って中国的要素を強調し、ヤマトからの独自性を確保しようとした。だがどちらの純粋な原理的要素を抽出したところで、それらは全体の中のかけらにすぎない。

琉球・沖縄の「本質」を突き止めるために、起源や出自探しをするのはもうやめにしないか。どのような文化が流入し、どのような人々が来ようとも、南西諸島に住む人々は数百年の歴史の過程でそれらを選択的に受容、自己流に改造し、「琉球」と呼ぶしかない主体を自らの手で作り上げた。それこそが琉球の独自性なのだ。

(「琉球新報」2009年6月17日)

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コメント

久しぶり、失礼します。
大久保 潤氏が書いた『幻想の島 沖縄』という本の「奄美と沖縄」の項で、喜界島の「城久遺跡」で古代末から中世の大規模な建物跡が見つかった事に言及し、

「九州・大宰府の官人の駐在拠点と中国貿易を含む夜光貝の加工・物流センターであった可能性があるというのです。そうであれば、これまで薩摩侵攻(1609年)以前の歴史ではヤマトではなく沖縄の一地方と見られていた奄美諸島史が塗り替えられ、奄美はヤマトの最南端、しかもアジア交易の重要拠点だったことになるわけです。」
http://keybow49okinawan.web.fc2.com/ookubo/gensou.html

と書いています。これなども「安易にアイデンティティ論争に直結させるような」、及び「沖縄島中心史観批判」の言説ですよね。大久保氏は、佐野眞一氏の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』に何の検証も加えず引用し、「奄美出身者が沖縄で受けたすさまじい差別」にはやりきれなくなると書いています。
一事が万事、大久保氏の本は、全体に安直さが漂う沖縄への批判本になってると思います。

投稿: キー坊@沖縄人 | 2009年12月17日 (木) 12:29

>キー坊@沖縄人さん
『幻想の島 沖縄』は本屋でパラパラめくっただけでちゃんと読んでないですが、ご指摘の部分は確かにそうですね。

城久遺跡群は確かに大規模であり、南西諸島で重要な役割を果たしていたのは間違いありません。しかし、遺跡群が機能していた当時、奄美の物流ネットワークは当時日本最大の貿易港・博多とのつながりのほうが強く、「アジア交易の重要拠点だった」とする評価は適当ではないと思います。そもそも奄美諸島の研究は緒についたばかりで、早計な結論を下すべきではありません。大久保氏のように研究結果もよく消化しないまま、議論が上滑りするのは非常に危険です。

何よりも問題だと思うのは、こうした議論を先行する一部の「専門家」と称する人々ではないかと思います。厳密な検証抜きに結論ありきで議論を進め、その結果、地域ナショナリズムと地域対立を煽るようなことになってはならないと思います。

投稿: とらひこ | 2009年12月17日 (木) 13:28

どうも発表者です.。

博多との関連を発表内容に反映してみます。
考古学的には日本、琉球の話にはならないのでご安心を。

投稿: 発表者 | 2009年12月20日 (日) 00:59

>発表者さん
わざわざのコメントありがとうございます。

発表者のみなさんはしっかりとした研究をされている方々だと思います。その点に関しては心配しているわけではありませんが、第三者がその成果を恣意的につまみ食い的に利用する可能性があるのではないかと思い、今回記事で取り上げさせていただきました。

報告頑張ってください。

投稿: とらひこ | 2009年12月20日 (日) 07:41

はじめまして、質問がございます。
琉球時代の人物名の読み方についての質問です。

数年前から、琉球時代にさかのぼった我が親族の家譜を詳しく調べはじめました。 現在、主人の勤務先、外国に滞在中ですが、二人の息子の為に残しておける貴重な記録なので、父方の直系を1500年代(第一尚氏王統)までウェブを通して入手ができました。 
ローマ字で人物名を記入していますが、1世(1500年代)から11世(1700年代)までの人物名が読めず、作業がとどまったままの状態です。 
琉球家譜・系図についてのウェブサイトなどで、上記の件でお心当たりのサイトをもしご存知でしたら、お教え願えないでしょうか。 
お願いいたします。

 

投稿: 嘉陽 歩 | 2010年2月13日 (土) 01:23

>嘉陽歩さん
はじめまして。系図の読み方を解説するサイトはちょっとわかりませんが、琉球の士族の読みは基本的に音読みです。例えば朝秀だと「ともひで」ではなく「ちょうしゅう」、「盛春」だと「もりはる」ではなく「せいしゅん」です。

なので単純に書かれている漢字を音読みしていくだけでよろしいかと思います。

家系記録の作成、頑張ってください。

投稿: とらひこ | 2010年2月13日 (土) 09:06

とらひこ様、

 ご返信、ありがとうございます。 
まずは、辞書を開いて、両方の読みを確認しながら組み合わせてみます。 

再度、お礼申し上げます。

投稿: 嘉陽 歩 | 2010年2月14日 (日) 15:25

>嘉陽歩さん
どういたしまして。また何かありましたらお知らせください。

投稿: とらひこ | 2010年2月20日 (土) 00:02

かつてトカラは琉球と薩摩との両属で朝鮮人が漂着した時は半分を琉球経由、半分を薩摩経由で朝鮮へ帰したって聞いた事あります。琉球王府の勢力が大和文化圏内に及んでた事になります。それとも当時は琉球文化圏でその後に大和化したんでしょうかね?朝廷から異民族しされていた鹿児島の熊襲が琉球人だったって事はないんですかね?

投稿: ひで | 2010年5月25日 (火) 19:58

当時の国境は現在イメージされるような固定化されたものではなく、漠然、あいまいとしてグレーゾーンの「境界」というべきものでした。

なのであるときは琉球、あるときはヤマトと揺れ動いていたわけです。

古代に北からのヒトの流れがあったことは確かですが、それが熊襲だったかどうかは資料がないため、はっきりしたことはわからないと思います。

投稿: とらひこ | 2010年5月28日 (金) 14:53

琉球に日本人町があったのも、新聞でとらひこさんの
記事を読んでからです。いつも私たちが知らないことを
知らせてくれて有難うございます。

投稿: ひで | 2010年5月29日 (土) 23:18

>ひでさん
どういたしまして。また新聞記事等をチェックしていてください。

投稿: とらひこ | 2010年6月 1日 (火) 10:52

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