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2009年11月21日 (土)

尚徳王=倭寇?

尚徳王は第一尚氏王朝最後の王です。この王は別名「八幡之按司」という神号であり、1466年、自ら兵2000を率いて喜界島を征服した際、その勝利を記念して那覇の安里に八幡宮を建立しています。尚徳王が八幡を信仰していたことから、彼が倭寇の流れをくんでいるという一部の説があります(ナ、ナンダッテー!)。「八幡神は倭寇の守護神である」との理由からです。この説は妥当な説なのでしょうか。

結論からいうと、この説には疑問を持たざるをえません。倭寇うんぬん以前に、八幡神が本来持っていた性格を看過しているからです。それは八幡神の「軍神」としての性格です。

尚徳王がなぜ八幡宮を建立したのか。喜界島に遠征する前、尚徳王は八幡大菩薩に一矢で鳥を射たら遠征成功、はずれれば失敗と願をかけ、見事に射落としました。やがて鳥を落とした地に八幡宮を建て、弓矢・甲冑・鐘を奉納したのが始まりです。つまりこの由来譚からわかるように、尚徳は喜界島との戦争の勝敗に関連してこの宮を建てたのであって、この八幡神が軍神としての性格に関連していたのは明白です。素直にこの状況から考えれば、わざわざ強引に倭寇説を持ち出すまでもありません。倭寇説の可能性はゼロではないにせよ根拠としてはかなり薄弱で、「歴史論は100パーセント過去の事実を証明できない」という点から単にゼロではないというだけの話です。

「琉球の王なのに日本の神を祭っている!やはり倭寇か!」と思う方もいるかもしれませんが、ちょっと待ってください。15世紀当時の琉球で日本の神々を祭るのは珍しいことではありません。1452年(尚金福の時代)、王府ナンバー2の地位にいた中国人の懐機は海中道路(長虹堤)の完成を記念して、那覇に伊勢神宮を勧請しています。中国人が日本の神社を建てたのです。尚徳王=八幡=倭寇という同じ論理でいくと懐機=日本人=倭寇だったと結論づけられるでしょうか?いや、僕はならないと思います。

さらに尚巴志は1436年、懐機とともに中国道教(正一教。五斗米道)の総本山に護符を要請しており(『歴代宝案』)、彼が道教を信仰していたことがわかっています。尚徳王=八幡=倭寇とまったく同じ理屈でいうと尚巴志は中国人だった!?あれ?尚徳って尚巴志の孫だったのでは・・・とすると尚徳=中国人!?・・・・もちろん尚巴志=中国人の可能性はゼロではありませんが、ちょっと無理があります。尚徳=八幡=倭寇の場合もそれと同じことです。

当時の那覇は諸民族雑居の国際港湾都市で、外の世界からさまざまな人がやってきて住みついていました。彼らがもたらした外来の各宗教は、尚徳王代の時点ですでに天妃・道教信仰や仏教の禅宗・真言宗、熊野信仰、伊勢信仰などが存在し、定着していました。これらの宗教はやがて融合し、琉球在来の宗教とも混交していきました。例えば15世紀中頃、中国の天妃宮・道教の天尊廟には仏教寺院の鐘が設置され、何とヤマト禅宗の流れをくむ僧が常駐していました。『おもろさうし』には明らかに天妃信仰を謡ったオモロもあり、また日本の神・仏をノロ(神女)が降ろすというミセゼル(神託)もあります。

懐機も尚徳も日本の神々がすでに琉球で信仰され、日常的な風景になっていた状況で神社を勧請したわけで、尚徳は八幡大菩薩が軍神だと知っていたからこそ喜界島との戦争でその霊験を頼ったのです。それが尚徳が八幡宮を建てた理由です。なお尚徳の神号は同時代史料では「世高王」「せだかあんじおそい(世高按司添)」としかなく、「八幡之按司」は後世の記録でしか確認されていません。これこそ近世に「装われたもの」ではないでしょうか?

ちなみに沖縄を研究した鎌倉芳太郎のノートによると、安里八幡宮のご神体は何と熊野権現であったと記しており、尚徳王が奉納した弓矢と尚徳佩用の甲冑、そして別堂に祭ってあった為朝公の面は明治14、5年(1881~82)頃、鹿児島より来た山伏に持ち去られたとメモしています。事の真相は不明ですが、八幡神と熊野神がごっちゃになって信仰されていた可能性もあるのです。「純粋」な日本の神々ではない琉球の宗教の状況を念頭に置きながら、こうした問題をみていく必要があるように思います。

※琉球王倭寇出自説に関しては【こちら】もご参照ください。三山虚構説については【こちら

参考文献:池宮正治「琉球国王の神号と『おもろさうし』」(『琉球大学法文学部日本東洋文化論集』11号)、上里隆史「15~17世紀における琉球那覇の海港都市と宗教」(『史学研究』260号)、吉成直樹・福寛美『琉球王国と倭寇』、『琉球王国誕生』、『鎌倉芳太郎ノート 雑録』

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コメント

喜界島が注目されてますね。吉成直樹や谷川健三の本にも書かれてました。
城久遺跡の発掘から大交易拠点だったのではないかと。
尚徳にとってまだ看過できない勢力が喜界島にあったんでしょうか。

投稿: kayano | 2009年11月21日 (土) 11:39

>kayanoさん
考古学の成果ではかなり大規模な遺跡であることがわかってきているようですね。ただこの古代の遺跡群と15世紀頃の喜界島の勢力がどうつながるのかはまだ不明だと思います。

喜界島は琉球王府が連年遠征していたようですが、失敗に終わっていたようです。そこで尚徳が自ら兵を率いて決着をつけたということでしょう。

投稿: とらひこ | 2009年11月21日 (土) 13:19

色んな信仰が当時から受け入れられて
たんだなあ。
倭寇ってのもありえるかもしれんが決定
的ではないね。
でも可能性は皆無では無いかな?そもそ
もアウトカーストの人間はハングリー精神
旺盛だし成り上がっても不思議じゃない。
秀吉は父方が公家だと言い張ってたし。
家康も祖父が河原者の血を引いてるけど
やっぱり隠した訳だし。

投稿: 龜蟲 | 2015年5月 7日 (木) 13:44

>龜蟲さん

倭寇の線は可能性はゼロではありませんが、かなり薄いと思います。

これまでその根拠としてあげられたものは、本文で書いてあるものも含め根拠になっていないと僕は判断しています。

投稿: とらひこ | 2015年6月 4日 (木) 22:50

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