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2009年11月30日 (月)

琉球・山川港交流400周年イベントを終えて(1)

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11月28、29日に鹿児島の山川で開催された「琉球・山川港交流400周年イベント」に参加してきました。僕は坊津や志布志などの港町は行ったことがありましたが、山川は初めて。大変良いイベントでした!山川のみなさんの熱烈な歓迎ぶりに、ただただ感動しました。

僕は今年の1月5日、琉球新報の連載コラム「落ち穂」で「400年目の和解」という文章を書き、そのなかで鹿児島との和解に乗り出し、今年を鹿児島・奄美との相互理解を深める「交流元年」にしてはどうか、と提起しました。2009年もまもなく終わろうとするなか、そのような主旨のイベントに実際に参加させていただいたことは、非常に感慨深いものがありました。

イベントはまずNHK大河ドラマ「篤姫」の時代考証・脚本を手がけた原口泉先生(鹿児島大教授)の基調講演から始まり、近世における琉球と薩摩の交流などを紹介しました。その後パネルディスカッション。

沖縄・鹿児島県両副知事のお話では、両県はすでに「南の海洋連携軸構想」として両県共通の問題・課題を話し合う連携を行っているとのこと。恥ずかしながら、行政の具体的な交流が進展していると知りませんでした。2009年を機に、こうした路線がさらに活発となることを期待したいです。

通称「奄美のトラさん」こと花井恒三さんは奄美の歴史副読本が作られることが決定したとの報告。地元の歴史を奄美の子供たちが学ぶことになるのです。もちろん副読本の前提となる奄美の歴史研究がまだ充分とはいえない状況という課題はありますが、奄美の自画像を描く大きな一歩であると思います。

山川港と琉球との関わりで南九州地域史研究家の松下尚明さんは、島津軍の琉球侵攻に従軍した山川衆の内田浄休が征服後、琉球から女性を連行してきたとの伝承があるとの事実を明らかにしました。この伝承は僕は全く知らず、史料からはうかがえない、地元をよく知る方ならではの研究をされていると思いました。

僕は1609年前後の山川港と琉球との広範な民間交流について、新史料を紹介しながらいくつかの事例をあげて話しました。歴史の話を通じて僕がとくに強調したかったのは、沖縄側から十把一絡げにされてしまう《薩摩》には、地域のそれぞれの具体的な「顔」があるということです。戦国・江戸時代の大名権力としての《薩摩・島津氏》、抽象化・記号化された《薩摩・鹿児島》ではなく、今回のシンポジウムは「山川港」と「琉球」と銘打ったことは非常に良かったと思います。

本イベントを主催した実行委員会の永田和人さんによると、もともとこのイベントはさまざまな縁で実現したとのことです。山川はこのイベントが開始される以前より沖縄と交流していましたが、今回のイベントが開催されたのは、山川港にあった樹齢300年のアコウの木が台風で倒れ移植した際、この木が琉球から来たとの話を聞いたのがきっかけだったそうです。

それから永田さんらは有志を集め、仕事の合間に沖縄の歴史の勉強会を重ね、協賛金を募り、スタッフの数も充分ではない中、行政はほとんどノータッチでこの大きなイベントを実現させました。これには両副知事も驚かれていました。民間でこれだけできるんだ、ということを証明した格好になったと思います。

長くなりますので、続きは次回に。

※【画像】は山川から見た日の出。対岸に見えるのは大隅半島。

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2009年11月21日 (土)

尚徳王=倭寇?

尚徳王は第一尚氏王朝最後の王です。この王は別名「八幡之按司」という神号であり、1466年、自ら兵2000を率いて喜界島を征服した際、その勝利を記念して那覇の安里に八幡宮を建立しています。尚徳王が八幡を信仰していたことから、彼が倭寇の流れをくんでいるという一部の説があります(ナ、ナンダッテー!)。「八幡神は倭寇の守護神である」との理由からです。この説は妥当な説なのでしょうか。

結論からいうと、この説には疑問を持たざるをえません。倭寇うんぬん以前に、八幡神が本来持っていた性格を看過しているからです。それは八幡神の「軍神」としての性格です。

尚徳王がなぜ八幡宮を建立したのか。喜界島に遠征する前、尚徳王は八幡大菩薩に一矢で鳥を射たら遠征成功、はずれれば失敗と願をかけ、見事に射落としました。やがて鳥を落とした地に八幡宮を建て、弓矢・甲冑・鐘を奉納したのが始まりです。つまりこの由来譚からわかるように、尚徳は喜界島との戦争の勝敗に関連してこの宮を建てたのであって、この八幡神が軍神としての性格に関連していたのは明白です。素直にこの状況から考えれば、わざわざ強引に倭寇説を持ち出すまでもありません。倭寇説の可能性はゼロではないにせよ根拠としてはかなり薄弱で、「歴史論は100パーセント過去の事実を証明できない」という点から単にゼロではないというだけの話です。

「琉球の王なのに日本の神を祭っている!やはり倭寇か!」と思う方もいるかもしれませんが、ちょっと待ってください。15世紀当時の琉球で日本の神々を祭るのは珍しいことではありません。1452年(尚金福の時代)、王府ナンバー2の地位にいた中国人の懐機は海中道路(長虹堤)の完成を記念して、那覇に伊勢神宮を勧請しています。中国人が日本の神社を建てたのです。尚徳王=八幡=倭寇という同じ論理でいくと懐機=日本人=倭寇だったと結論づけられるでしょうか?いや、僕はならないと思います。

さらに尚巴志は1436年、懐機とともに中国道教(正一教。五斗米道)の総本山に護符を要請しており(『歴代宝案』)、彼が道教を信仰していたことがわかっています。尚徳王=八幡=倭寇とまったく同じ理屈でいうと尚巴志は中国人だった!?あれ?尚徳って尚巴志の孫だったのでは・・・とすると尚徳=中国人!?・・・・もちろん尚巴志=中国人の可能性はゼロではありませんが、ちょっと無理があります。尚徳=八幡=倭寇の場合もそれと同じことです。

当時の那覇は諸民族雑居の国際港湾都市で、外の世界からさまざまな人がやってきて住みついていました。彼らがもたらした外来の各宗教は、尚徳王代の時点ですでに天妃・道教信仰や仏教の禅宗・真言宗、熊野信仰、伊勢信仰などが存在し、定着していました。これらの宗教はやがて融合し、琉球在来の宗教とも混交していきました。例えば15世紀中頃、中国の天妃宮・道教の天尊廟には仏教寺院の鐘が設置され、何とヤマト禅宗の流れをくむ僧が常駐していました。『おもろさうし』には明らかに天妃信仰を謡ったオモロもあり、また日本の神・仏をノロ(神女)が降ろすというミセゼル(神託)もあります。

懐機も尚徳も日本の神々がすでに琉球で信仰され、日常的な風景になっていた状況で神社を勧請したわけで、尚徳は八幡大菩薩が軍神だと知っていたからこそ喜界島との戦争でその霊験を頼ったのです。それが尚徳が八幡宮を建てた理由です。なお尚徳の神号は同時代史料では「世高王」「せだかあんじおそい(世高按司添)」としかなく、「八幡之按司」は後世の記録でしか確認されていません。これこそ近世に「装われたもの」ではないでしょうか?

ちなみに沖縄を研究した鎌倉芳太郎のノートによると、安里八幡宮のご神体は何と熊野権現であったと記しており、尚徳王が奉納した弓矢と尚徳佩用の甲冑、そして別堂に祭ってあった為朝公の面は明治14、5年(1881~82)頃、鹿児島より来た山伏に持ち去られたとメモしています。事の真相は不明ですが、八幡神と熊野神がごっちゃになって信仰されていた可能性もあるのです。「純粋」な日本の神々ではない琉球の宗教の状況を念頭に置きながら、こうした問題をみていく必要があるように思います。

※琉球王倭寇出自説に関しては【こちら】もご参照ください。三山虚構説については【こちら

参考文献:池宮正治「琉球国王の神号と『おもろさうし』」(『琉球大学法文学部日本東洋文化論集』11号)、上里隆史「15~17世紀における琉球那覇の海港都市と宗教」(『史学研究』260号)、吉成直樹・福寛美『琉球王国と倭寇』、『琉球王国誕生』、『鎌倉芳太郎ノート 雑録』

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2009年11月18日 (水)

「奄美と沖縄をつなぐ」イベント、終了

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11月14日(土)に東京新宿で行われた「奄美と沖縄をつなぐ」イベント、大盛況のうちに終わりました。参加された皆さん、どうもありがとうございました!また主催者の喜山さん・持田さんをはじめ、出演者の皆さんも大変お疲れ様でした!

僕はイベントの第1部「異種格闘型トークセッション」にパネラーとして参加しました。そのほかの参加者は『奄美自立論』著者の喜山荘一さん(与論島出身)、東京で奄美料理の店「奄美の家」を経営する圓山和昭さん(奄美大島出身)、そして元「りんけんバンド」でうちなー噺家の藤木勇人さん(沖縄島出身)です。それぞれ異なった出身というだけでなく、さまざま分野で活躍されている方が集った異色の組み合わせです。ここでは1609年の島津軍侵攻から400周年を迎え、隔てられていた奄美と沖縄をどのようにつなげられるのか、奄美や沖縄、それぞれの立場から模索しました。

喜山さんはこのイベントを企画するに当たり、このテーマが自らにとって切実なテーマであったことを述べ、従来の400周年に関わるシンポジウムが歴史そのものを探ることに偏重していること、若い世代の参加が少ないことをあげていました。そうした問題意識のうえで本イベントを立ち上げたとのこと。著書の『奄美自立論』では、ときに激しい言葉で奄美の置かれた「二重の疎外」を訴える喜山さんですが、僕はこうした批判が決して机や研究室から座って生まれた観念的なものではなく、喜山さん自身の置かれた立場・環境からくる切実な実感からくるものであることは、重く受け止める必要があるように思いました。トークセッションでのお話から、そのような喜山さんの気持ちを感じることができたように思います。

沖縄で知らない人はいない藤木勇人さんのトークは、まさにプロ。口を開けば一気に聴衆を魅了し、爆笑の渦に引きずりこみます。どちらかというと話が苦手な僕は大変勉強になりました。また今回、藤木さんのご両親が奄美出身であったことを初めて知りました。コザと奄美の話から、両者の戦後の歴史の歩みの相違が浮き彫りになったような気がしました。基地の島として開発・整備されていく沖縄とひどく貧しい状況だったという奄美との対比です。ただそのため藤木さんが「奄美には古い沖縄が残っている」とお話しされていたのも印象的でした。

圓山さんは「奄美の家」のお店で働いているそのままで登場。いわば「正装」ですね。奄美大島でも龍郷の出身である圓山さんは「奄美は奄美だ」という郷土への熱い想いを語っていました。その想いが伝わったのでしょう、会場からの声援と拍手がとくに多かったような気がします。奄美にいた頃の「シマ」を中心に生活していた感覚、「奄美大島」すらも意識する機会がなかったというお話は興味深いものでした。

僕はいちおう歴史をやっている人間として、奄美と沖縄がかつてつながっていた時代(古琉球)の頃の話と、僕の奄美体験などを紹介しました。実は僕は以前、沖縄の地域史編纂に関する調査で奄美大島を訪れ、奄美の地域史の状況などをインタビューしたことがあります。それをもとに、歴史像を構築するという面から今後の奄美と沖縄についての展望を提案するつもりでしたが、残念ながらタイムオーバーで詳しく話せず。

琉球史研究においては、沖縄側から奄美地域の歴史を積極的に組み込んでいこうとする動きは確実に起こっています(昨今、一部の研究者から主張されている「沖縄島中心史観」批判なるものは10~20年前の水準の研究を対象としており、必ずしも最新の動向が追えていないように見えます)。こうしたことにくわえ、奄美における歴史の普及は研究面だけで進めるのではなく、かつて沖縄側が実行し成功した「総合プロジェクト型」を参考に進めていくのも選択肢のひとつとして考えてもいいように思いました。・・・まあこの話は次の機会にということで。

トークセッションの次は第2部「シマウタ流れコンサート」。これがまた斬新な内容で、5つのテーマごとに各島のウタを披露していくもの。同系統のウタが島によってどうちがうのか、同じなのかが楽しみながら実感できます。最後はお客さんも揃ってカチャーシー(笑)。非常に盛り上がりました。

イベント自体はこれで終わりましたが、「奄美と沖縄をつなぐ」試みはこれからも継続していく必要があります。僕の今度発表する予定の論文は古琉球時代の喜界島に関する内容です。今後、僕も奄美を自身の研究テーマとしてふくめていこうと思っています。

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2009年11月14日 (土)

新刊、ついに登場!

みなさま、大変長らくお待たせしました。わたくし、とらひこの著作第3弾がようやく完成です!

タイトルは・・・

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『琉日戦争一六〇九 ―島津氏の琉球侵攻―』

です!今回は前作、前々作とはうってかわって硬派な歴史ノンフィクション!総ページ数352ページに及び、読み応えのある重厚な内容です!

【本の帯より】

本格的歴史ノンフィクション登場!
独立王国・琉球、最大の危機
戦(いくさ)の嵐、迫る。

最新の歴史研究の成果で「島津軍の琉球侵攻」を、琉球王国、日本、そして海域アジアを巡るダイナミックなスケールで描き出す!

独立王国・琉球を狙う「九州の覇者」、薩摩島津氏。そしてアジア征服の野望を抱く豊臣秀吉、対明講和をもくろむ徳川家康。ヤマトの強大な力が琉球に迫る。これに立ち向かう琉球王国・尚寧王と反骨の士・謝名親方。海域アジア空前の「交易ブーム」の中、うごめく海商・禅僧・華人たちが情報戦(インテリジェンス)に絡み合う。『目からのウロコの琉球・沖縄史』『誰も見たことのない琉球』で大注目の若き琉球歴史研究家、満を持しての書き下ろし!

【目次】

第1章 独立国家、琉球王国 ~プロローグ・琉球の章~ 
 
(1)南方の海洋王国  
(2)嘉靖の大倭寇  
(3)衰退する中継貿易  

第2章 九州の覇者・島津氏と琉球 ~プロローグ・島津の章~ 

(1)戦国大名・島津氏への道  
(2)あや船一件  
(3)九州の覇者・島津氏  

第3章 豊臣秀吉のアジア征服戦争 

(1)秀吉のアジア征服への野望  
(2)琉球使節、聚楽第へ  
(3)琉球発インテリジェンス、明を動かす  
(4)王府内部の確執  
(5)「鬼石曼子」と泗川の戦い    
 
第4章 徳川政権の成立と対明交渉    

(1)朝鮮からの撤退と琉球・島津氏  
(2)日明講和交渉と聘礼問題  
(3)戦争回避、最後のチャンス 

第5章 島津軍、琉球へ侵攻 

(1)奄美大島制圧  
(2)徳之島での奮戦  
(3)今帰仁グスク陥落  
(4)つかの間の勝利  
(5)首里城明け渡し 

第6章 国敗れて

(1)尚寧王、徳川将軍に謁見 
(2)掟十五カ条  
(3)「日本の代なり迷惑」  

第7章 「黄金の箍(たが)」を次代へ ~エピローグ~

今年は1609年の島津軍の琉球侵攻からちょうど400年目。この歴史的事件を最新の研究、新史料をもとに描き出しました。しかも研究者向けの専門書ではなく、一般書として書き下ろしです。一般向けですが、内容はおそらく、どの関連書・関連論文よりも新しい内容となっています。

新刊はまもなく発売されますが、まずはボーダーインクのサイトのほうで先行予約を行います。400年前のあの事件とは何だったのか。現代の沖縄を考えるためにも必読の書です!ぜひ読んでみてください!

予約はこちらからどうぞ!】 ※送料無料!

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2009年11月 8日 (日)

とらひこと行く古道ツアー!

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わたくし、「とらひこ」による東京発の歴史ツアーのお知らせです。

【琉球古道を歩く旅】

琉球王国の時代、王都の首里城から沖縄島各地にはりめぐらされた街道の「宿道(すくみち)」。現在では戦争や土地開発などで多くが改変されてしまいましたが、それでも一部は往時の姿をとどめています。今回のツアーは『目からウロコの琉球・沖縄史』著者の座学による琉球の歴史と道の解説にくわえ、尚寧王が築いた首里城から浦添グスク間の街道、そして宿道のなかでも最も残りのよい国頭方西街道のうち、恩納村の仲泊―真栄田の一里塚間を実際に歩き、琉球の歴史ロマンに思いをはせます。

旅行期間:2009年12月11日(金)~12月13日(日)
募集人員:20名(最少催行人員15名)
添乗員:同行致します
募集締切:2009年11月30日(火)まで

【日程表】

◆12/11
羽田空港⇒(ANA121便)⇒那覇空港→昼食兼上里先生による事前学習(約2時間)→
→首里城【『中頭方西街道』を歩く(首里城~大名~経塚~安波茶~浦添城址)】→ロワジールホテル那覇泊

朝食×
昼食○
夕食○

◆12/12
ホテル→【『国頭方西街道』を歩く(仲泊一里塚~仲泊遺跡~山田の石橋~山田グスク~フェーレー岩~真栄田一里塚)】
→琉球村にて昼食→【バスにて「座喜味城址」・「喜名番所」見学】→ロワジールホテル那覇泊

朝食○
昼食○
夕食○

◆12/13
ホテル→【バスにてグスクロードを巡る(斎場御獄~知念城址~垣花樋川~糸数城址)】→国際通り自由行動(昼食各自)
→那覇空港⇒(ANA130便)⇒羽田空港

朝食○
昼食×
夕食×

【旅行代金等】
1名1室:110,000円/2名1室:89,000円/3~4名1室:86,000円

【旅行代金に含まれるもの】
旅行日程に明示した運送機関の運賃・料金、食事代、施設利用料金(入場・拝観・ガイド等)、及び消費税等諸税。宿泊費、食事代、及びそれぞれの税、サービス料金。

【旅行参加条件】
3日間で約15km程度歩きますので、参加は12歳以上の方で、旅行参加にあたり健康上支障の無い方に限らせていただきます。

今回のツアーのポイントは、街道を歩くというこれまでにない新しい歴史ツアーであること、僕が事前に座学を行い、さらに同行して解説することです。本土にお住まいでありきたりの沖縄の旅に飽きた方、沖縄の歴史と文化をより深く知りたい方、誰も見たことのない沖縄の風景を堪能したい方、ぜひこのツアーにご参加ください!

くわしくはこちらまで!

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