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2009年10月 8日 (木)

島津侵攻秘話(4)

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おかゆを流したのはなぜ
1609年の島津軍侵攻は琉球がこれまで経験したことない、大きな「いくさ」でした。琉球で平和に暮らしていた人々は、この外からの脅威に対してどのように対応したのでしょうか。

1609年3月に薩摩の山川港を出発した3000人の島津軍は、那覇をめざして奄美諸島を南下していきます。琉球側は手をこまねいていたのではなく、徳之島に軍勢を集めて防ごうとしました。ここでは刀や弓矢を持った兵士だけではなく、村の人たちもそれぞれの家からある「武器」を持って出てきました。

その「武器」とは、グツグツと煮た粟(あわ)のおかゆです。人々はこのおかゆを道や坂に流すという奇妙な行動に出ます。徳之島の人にとって、この行為はれっきとした戦闘行為でした。実は、奄美では粟のおかゆは悪霊を払う力を持つと信じられており、たとえば奄美大島の名瀬では神女(ノロ)が村の背後にある拝み山で粟のおかゆを流し、悪霊から村を守る儀式を行っていたそうです。つまり、彼らは侵入してくる島津軍を悪霊と同じように考え、普段の生活で行われてきた方法で、外敵を撃退しようとしたのです。

また神女たちの神歌を集めた歌謡集(『おもろさうし』)には、侵入してきた「大和前坊主(やまと・まえぼじゃ。チョンマゲの武士を馬鹿にした言葉)」をニライ・カナイの底へ沈めよ、と歌ったものがあります。沖縄には海のかなたにニライ・カナイという別世界が存在すると信じられていて、そこからは幸せだけでなく災いももたらされると考えられていました。

沖縄の年中行事には「アブシバレー(畦払い)」という、農耕の害虫などを小船に乗せて海へ流すという儀式がありますが、これはニライ・カナイから来た災い(害虫)を元の世界へ戻そうとするものです。つまり、神女たちは侵入してきた日本の武士たちを害虫と同じように扱い、海の向こうへ追い返そうとしたのです。

当時の琉球では、神女の霊力は実際の戦闘力と同じ力があるとかたく信じられていました。ある石碑には「沖縄は聞得大君(ノロの頂点にいる女性)の霊力で守られている」と記されています。実際には島津軍に何のダメージも与えられませんでしたが、琉球の人々は日常生活の儀式を応用して、外敵に対抗しようとしたわけです。これも生活の知恵といえばそうなのかもしれませんね。

参考文献:波照間永吉編『琉球の歴史と文化―『おもろさうし』の世界―』

※【画像】今帰仁崎山の神アシャギ。ノロが神々を招いて祭祀を行った。

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コメント

>神女たちは侵入してきた日本の武士たちを害虫と同じように扱い、海の向こうへ追い返そうとしたのです。

そのような世界観は実に面白い。ギリシア神話の世界みたいで。
アブシバレーの虫は、幼虫でしょうか、それとも成虫がいいのでしょうか。
手製の小さなお舟に載せて、珊瑚礁の海から流すんですね。

投稿: kayano | 2009年10月 9日 (金) 00:45

>kayanoさん
アブシバレーでは害虫のみならず害獣(ねずみなど?)を流すそうですが、虫の種類まではちょっとわかりません。

400年前にかぎらず、われわれは理解できない事態がやってきたとき、これまでの枠組みで理解し、対処しようとするのかもしれませんね。

投稿: とらひこ | 2009年10月13日 (火) 23:12

おかゆを流した話しは、うちの田舎にも似たような話しが伝わっているので、興味深く読ませていただきました。小さいときに祖母から聞いた話しでは、嘉手納の比謝橋からロータリー方面に向かう坂道は、昔はもっと急勾配な坂道だったそうで、その坂で島津軍を防ぎ止めようと考えた当時の人らはぐつぐつ煮えたぎるアチコーコーのおかゆを大量に坂下に流したそうです。そのため、その坂は本当は天川坂(アマカービラ)という坂道なんですが、ウケーメービラとも呼ばれるようになったそうです。また、この話しには落ちが付いていて、せっかく流したアチコーコーのおかゆも坂を流れていくうちに冷め切ってしまい、お腹を空かしていた薩摩軍がそれを食べて力を盛り返したそうです。落ちは後世の人が付け足したものなんでしょうけど、400年前当時の人らは真剣に呪詛を唱えながらおかゆを流したんでしょうね。呪詛と言えば、今でも地方の綱引き行事では、女性陣が綱の先頭に立って太鼓を叩きながら相手陣営を罵ったりしますよね?沖縄の古い言葉で「女は戦の先走り(イナゴーイクサヌサチバイ)」と言うのは、呪詛を吐きながら戦陣を導くノロや神人たちがいたことに由来するんでしょうね。

投稿: かみぢゅー | 2009年11月 7日 (土) 20:29

>かみぢゅーさん
嘉手納にもそのような伝承が残っているんですね。たしか同じような話は沖永良部島にも残っていました。

女性が琉球社会のなかで霊的なパワーを帯びていたと考えられていたので、普段の生活だけでなく戦争もふくめた人々の営み全般のなかでその「力」を発揮しようとしたんだと思います。

投稿: とらひこ | 2009年11月 8日 (日) 09:31

こんにちは、はじめまして。
お粥を流す話はよく聞きますね。
でも奄美には琉球軍と戦った記憶などが、
その薩摩戦当時残っていなかったのかなあと、
いつも疑問に思っています。
琉球は奄美の住民を完全に非武装化していたのでしょうか?
また沖縄本島以外の常備軍配置などがわかると面白いですね。

投稿: ああ? | 2009年11月 9日 (月) 17:22

>ああ?さん
江戸時代、トカラ七島衆が記したとされる『琉球入ノ記』には、奄美大島の屋喜内間切での戦闘を経験した古老の証言がありますが、戦後しばらくは島津軍との戦いの記憶というのが語られていたようです。

琉球側は沖縄島のほか徳之島に防備を集中させていたことがわかっています。全島に均等に兵を配置していたのではなく、要所要所を守ろうとしていたようですね。

投稿: とらひこ | 2009年11月12日 (木) 16:16

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