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2009年10月31日 (土)

島津侵攻秘話(5)

琉球に侵攻した島津軍の強さ

1609年に琉球を襲った島津氏の軍勢。その強さは戦国日本のなかでもトップクラスに入るものでした。ある人は「琉球はたった3000人の軍勢にやられた」と言います。たしかに兵数が勝敗に影響するのはそうなのですが、戦争は単純な数の勝負で決まるわけではありませんし、島津兵3000人が本当に「たったこれだけ」と言えるのかは、検討の余地があります。

琉球侵攻からさかのぼること11年前の1598年。豊臣秀吉の明征服戦争で朝鮮半島へ出兵した島津義弘・忠恒(家久)らは、慶尚道の泗川(サチョン)において明・朝鮮連合軍と激突します。董一元率いる兵数20万と号した明の主力軍です(実際には3万7000ほどだったとも)。対して泗川倭城に籠もる島津軍は5000にも満たない兵数です。しかもこの軍勢は独立した5つの寄せ集め軍団で成り立っていました。

10月、明・朝鮮軍が泗川倭城を攻撃します。義弘らは押し寄せる敵を鉄砲で撃退し、さらに明軍の大砲の火薬が誤爆すると、混乱する明軍の中へ島津軍が突撃しました。義弘・忠恒も自ら敵兵を討ち取る激戦となり、やがて明・朝鮮軍の全面的な敗走となりました。圧倒的に不利な戦況をくつがえしての島津軍の大勝利です。これが有名な「泗川の戦い」です。

この日討ち取られた明・朝鮮軍の兵士は実に3万余にものぼったといいます。この戦いによって明軍の主力を殲滅した島津軍は、明・朝鮮の人々から「鬼石曼子(グイシイマンズ)」と呼ばれ恐れられました。日本でも五大老・五奉行ら豊臣政権の首脳部は、日本軍10万の撤退成功は泗川での島津軍の勝利にあるとして、最大級の賛辞を贈っています。

ちなみに泗川の戦いでは、琉球侵攻軍の大将となるあの樺山久高も参加しています。この時、久高は激戦のなかで身長6尺(180センチあまり)の江南出身の明兵と格闘となりました。豪腕の明兵に対し、力不足の久高は組み伏せられ危険な状態となりましたが、家来の田実三之丞という者が駆けつけ鎗で明兵の顔を突き、ひるんだその隙に久高が明兵の首を掻き斬ったといいます(『本藩人物誌』)。危うく久高は討ち死にするところでした。

島津軍の琉球侵攻にはこうした歴戦の猛者が揃っていたのです。琉球には4000人ほどの軍事組織が存在したとはいえ、戦慣れしておらず装備も劣り、島津兵は3000人でも充分な数でした。

島津軍と琉球軍の戦いを、あえてわかりやすく現代に例えていえば、グリーンベレー・デルタフォースなど米軍の特殊部隊3000人と沖縄の警察官4000人が戦うようなものだったといえます。この場合、「沖縄県警は米軍の特殊部隊たった3000人に敗れた」とは決して言うことはできないように、「島津軍たった3000」とは言えないように思います。

参考文献:山本博文『島津義弘の賭け』、村井章介「島津史料からみた泗川の戦い」(『歴史学研究』736号)

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コメント

お久しぶりです
再開 歓迎しています

今年は沖縄についての知識は増えましたが 
増えるほどに「ちょっとつきあいにくい」面もつよく感じます
ですがとらひこさんのブログを読むとほっとします
こういう方がいるのだからこちらも考え続けよう と

いま 鹿児島県出身の好青年の美容師に髪を切ってもらっています
高卒で上京したという彼に 
「薩摩で育つと明治維新を含む日本の歴史についてどんなふうに意識するか」聞いてみました

東京人も「薩長に蹂躙された江戸」をいちおう(書物を通じてですが)記憶していますから
どんな答えか興味津々だったんですが
「そんなふうには考えたこともない」そうです
ちょっと拍子抜けしました^^

ますますのご健筆 期待しております

投稿: ayuda | 2009年10月31日 (土) 17:10

王国軍は百戦錬磨の薩摩軍には勝つのは難しいでしょう。
気が狂った輩の剣術だといわれる示現流には敵わんな。

朝鮮から陶工などを拉致してきたそうですが、島津もそうだったのかな。
川辺川ダムで問題になった五木村などは拉致朝鮮人の村だったと聞いたことがあります。
おどまぼんぎりぼんぎり♭

投稿: kayano | 2009年11月 1日 (日) 05:30

忘れてました。
新刊は、ノンフィクションふうに書かれるそうですね。
楽しみだな。

最近、「薩摩藩士朝鮮漂流日記」(池内敏、講談社選書メチエ、2009年発行)を借りて読んでます。
これもおもろい。

投稿: kayano | 2009年11月 1日 (日) 05:35

>ayudaさん
どうもお久しぶりです。たしかに沖縄に興味を持たれた方がやがてそのように感じてしまうことはあると思います。

僕は歴史をやってるからこそ思うのですが、「歴史は歴史、現在は現在」としてひとまず峻別して、冷静に過去のことを考える必要があると思っています。僕は「歴史」を現在において何かを糾弾するためのカードとして使うべきではないとの考えです(400年前の歴史を忘れろということではありません)。

>kayanoさん
島津軍に拉致された朝鮮の被虜人たちは苗代川などに集住させられたようですね。「薩摩焼」は彼らによって作られ、また一部の被虜人は薩摩から琉球へ渡り、陶芸の祖になりました。

新刊は今月中に刊行予定です。お待たせして申し訳ありませんが、しばらくお待ちください。

投稿: とらひこ | 2009年11月 2日 (月) 15:26

関ヶ原でも寡兵にもかかわらず敵中突破で義弘を見事脱出させたほどの強兵ですからね、島津軍は。

投稿: 御座候 | 2009年11月 4日 (水) 22:16

>御座候さん
そうですね。戦国期の島津軍の強さには目を見張るものがあります。

あれだけの猛者たちを真正面から食い止めることは琉球にはできなかったでしょう。

投稿: とらひこ | 2009年11月12日 (木) 16:13

始めまして琉球の歴史に興味がありましたのでブログを拝見させて頂きました!薩摩軍が強すぎたから琉球が3000の兵で制圧されたというのは疑問が生じます。

まず主力の部隊は参戦していない点、もう一点は薩摩の認識ではこれは戦ではなく征伐であるので戦に参加してる者も勝ったところでサラリーは増えないと分かっていました(当時は戦と呼ばれる戦闘以外で恩賞を貰えることはあまりありませんでした、現に総大将の樺山久高は3000の兵で琉球を制圧する武功に対して薩摩藩主は彼に恩賞を与えませんでした)

当時は琉球征伐と呼んでいたので戦慣れしてる彼等はこの戦いの功績によって恩賞が出ないことを十分に認識していたと思います。なので士気はあまり高くなかったと思います。

一方琉球側は生まれ育った土地が侵略されているのですから言われてるほど士気は低くなかったのではないかと思っています。最初のうちは場数を踏んでいる薩摩が有利だったと思いますが戦闘が長引けば薩摩軍3000に対しては琉球側に十分に勝機はあったと思います。

しかし薩摩の先遣隊に勝利してもその背後には薩摩の増員兵や幕府の連合軍が控えています。そして琉球王は琉球国として一応の体面が保てる条件の内に和睦してしまおうと考え、あんなに短期間で薩摩の勝利となったのではないかと思います。

なので薩摩軍が強すぎたというのは少し違うかと思います。長々と失礼致しました。


投稿: 沖縄大好き | 2013年3月16日 (土) 13:01

>沖縄大好きさん

はじめまして。

ご指摘のように当時の島津軍は必ずしも士気が高いわけではありませんでしたが(先学の研究では藩内の三グループの対立が背景にあった)、士気が低いことがただちに戦闘力が落ちる結果にならないのではと思います。実際に接敵した場合には琉球側は各地で惨敗しています。

琉球側は一部で徹底抗戦の動きはありましたが、北部の要である今帰仁グスクも籠城せずに撤退し、首里城包囲された際には攻防戦もほとんどなく一日で降伏していますから、それはやはり全体としては士気は低いと見なければならないと思います。それは王府内もまた派閥対立などの状態にあり、戦闘が継続できる状況ではなかったからです。包囲の際には王を見捨てて城から脱走する高官も続出していました。

ご指摘のように僕も戦闘が長引けば琉球側が守りきる可能性はあったと思いますが、要は琉球がそれをできなかったのです。軍勢の配置についても那覇に集中防備をし中部からの上陸を想定しておらず、戦慣れしていない戦術の未熟さを感じます。

当時の東アジア諸国(明・朝鮮軍)との戦いで見せた戦国日本軍の戦闘力の高さや、また島津・琉球両軍の装備の差なども加味すれば、士気の差が勝敗の決定的な要因になったというよりも(それも一つの要因にはなっていますが)、戦闘における経験や能力の差もかなり影響していたのでは(もちろんそれが全てではないですが)、というのが僕の見解です。

なお島津軍は戦闘が長期化すれば占領をあきらめ撤退する方針でしたし(そもそも当初の目的は奄美奪取で琉球全体の占領ではなかった)、幕府は薩摩藩の琉球出兵には消極的でしたので連合軍を再派兵する可能性はきわめて低いといえるでしょう。幕府の目的は日明講和の仲介、薩摩藩の目的はこの出兵を梃子に藩内権力を一元化することにありましたから(詳しくは紙屋敦之氏の研究を参照ください)。

※先のコメントはこちらのほうで改行させていただきました。

投稿: とらひこ | 2013年3月17日 (日) 14:54

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