島津侵攻秘話(5)
琉球に侵攻した島津軍の強さ
1609年に琉球を襲った島津氏の軍勢。その強さは戦国日本のなかでもトップクラスに入るものでした。ある人は「琉球はたった3000人の軍勢にやられた」と言います。たしかに兵数が勝敗に影響するのはそうなのですが、戦争は単純な数の勝負で決まるわけではありませんし、島津兵3000人が本当に「たったこれだけ」と言えるのかは、検討の余地があります。
琉球侵攻からさかのぼること11年前の1598年。豊臣秀吉の明征服戦争で朝鮮半島へ出兵した島津義弘・忠恒(家久)らは、慶尚道の泗川(サチョン)において明・朝鮮連合軍と激突します。董一元率いる兵数20万と号した明の主力軍です(実際には3万7000ほどだったとも)。対して泗川倭城に籠もる島津軍は5000にも満たない兵数です。しかもこの軍勢は独立した5つの寄せ集め軍団で成り立っていました。
10月、明・朝鮮軍が泗川倭城を攻撃します。義弘らは押し寄せる敵を鉄砲で撃退し、さらに明軍の大砲の火薬が誤爆すると、混乱する明軍の中へ島津軍が突撃しました。義弘・忠恒も自ら敵兵を討ち取る激戦となり、やがて明・朝鮮軍の全面的な敗走となりました。圧倒的に不利な戦況をくつがえしての島津軍の大勝利です。これが有名な「泗川の戦い」です。
この日討ち取られた明・朝鮮軍の兵士は実に3万余にものぼったといいます。この戦いによって明軍の主力を殲滅した島津軍は、明・朝鮮の人々から「鬼石曼子(グイシイマンズ)」と呼ばれ恐れられました。日本でも五大老・五奉行ら豊臣政権の首脳部は、日本軍10万の撤退成功は泗川での島津軍の勝利にあるとして、最大級の賛辞を贈っています。
ちなみに泗川の戦いでは、琉球侵攻軍の大将となるあの樺山久高も参加しています。この時、久高は激戦のなかで身長6尺(180センチあまり)の江南出身の明兵と格闘となりました。豪腕の明兵に対し、力不足の久高は組み伏せられ危険な状態となりましたが、家来の田実三之丞という者が駆けつけ鎗で明兵の顔を突き、ひるんだその隙に久高が明兵の首を掻き斬ったといいます(『本藩人物誌』)。危うく久高は討ち死にするところでした。
島津軍の琉球侵攻にはこうした歴戦の猛者が揃っていたのです。琉球には4000人ほどの軍事組織が存在したとはいえ、戦慣れしておらず装備も劣り、島津兵は3000人でも充分な数でした。
島津軍と琉球軍の戦いを、あえてわかりやすく現代に例えていえば、グリーンベレー・デルタフォースなど米軍の特殊部隊3000人と沖縄の警察官4000人が戦うようなものだったといえます。この場合、「沖縄県警は米軍の特殊部隊たった3000人に敗れた」とは決して言うことはできないように、「島津軍たった3000」とは言えないように思います。
参考文献:山本博文『島津義弘の賭け』、村井章介「島津史料からみた泗川の戦い」(『歴史学研究』736号)