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2009年9月10日 (木)

島津侵攻秘話(2)

琉球に贈られた狩野派の屏風

島津氏が琉球へ外交圧力をかけていくきっかけとなったのが、1575年の「綾船(あやぶね)一件」と呼ばれる事件です。島津義久の家督相続を祝う「綾船」を琉球が派遣した際、島津氏が強硬な態度でさまざまな要求を突きつけ、その要求を呑ませようとした事件です。「綾船」とは琉球の正式な使節船のことで、「綾(あや)」とは琉球語で「あざやかな、飾られた」という意味。首里城の坊門(飾りの門)である守礼門が「綾門(あやじょう)」と呼ばれていることからもわかります。

それまでの琉球と島津氏の関係は、基本的に対等な関係でした。ところが、島津氏が南九州を統一し勢力を拡大するようになると、琉球へ向かう船の統制をはかろうとして、琉球王府に島津氏の発行した印判(渡航許可証)を持たない商船を受け入れないよう強制します。しかし、たくさんの商船を招致することで成り立っていた琉球にとって渡航規制をすることは死活問題です。琉球は島津氏のたび重なる要求を黙殺していましたが、「綾船一件」でしぶしぶ島津氏の要求を呑むことになりました。

両者の関係が悪化するなか、島津氏老中の伊集院忠棟は狩野法眼(ほうげん)に直接注文して描かせた屏風を琉球の円覚寺にプレゼントし、円覚寺のほうから琉球国王へその仲を取り次ぐように依頼しました。依頼の手紙と屏風はトカラ列島の海上勢力であった七島衆によって運ばれています。

円覚寺は琉球最大の寺院で、単なる宗教施設ではなく対日外交担当部局としての役割も果たしていました。さらに当時の円覚寺には島津義久が幼少の頃、薩摩で教えを受けていた僧侶もいました。島津氏との個人的な関係も持っていたわけで、こうしたつながりから忠棟は円覚寺へ手紙を送ったのです。

狩野派といえば当時の日本で将軍家や諸大名から珍重された画家の一派です。その絵が琉球の円覚寺にも存在したことになります。残念ながらこの屏風は現存していないので、どのようなものだったかはわかりませんが、伊集院忠棟はこうした高価な美術品を贈ることによって、琉球との交渉の糸口を探ろうとしたのです。

参考文献:深瀬公一郎「十六・十七世紀における琉球・南九州地域と海商」(『史観』157冊)

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コメント

琉球人の側から薩摩侵攻の手引きをした人がいたのかなあ?とか…日秀上人は薩摩で老年期をすごしたのは~仏教僧は薩摩の手先だったのかな~?なんて考えたりします。御著書も楽しみに拝読しています。

投稿: 驢馬 | 2009年9月16日 (水) 20:34

>驢馬さん
明確に薩摩軍の手引きをした人物というのはこれまで確認されていませんが、円覚寺住持の春蘆和尚は島津氏の外交ブレーンだった南浦文之(鉄砲記で有名です)の法弟だったので、何らかの連携プレイがあったのではないかと想定する研究者もいます。

著書はもうすぐ刊行予定です。ご期待ください。

投稿: とらひこ | 2009年9月28日 (月) 21:21

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