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2009年9月17日 (木)

島津侵攻秘話(3)

死刑になった名護親方

1614年、中国(明朝)に向かった琉球の使節は、皇帝にこう述べました。

「名護親方は使命を汚した罪により、死刑にしておきました」

名護親方と言えば当時の三司官、名護親方良豊(馬良弼)のことです。しかも名護は実際には死刑になってはいません。なぜ琉球はこうしたウソをついたのでしょうか。そして名護はいったい何をしでかしたのでしょうか。

1609年に琉球を征服した島津氏でしたが、なぜ琉球を攻めたかというと、それは島津氏のさらに上にいる徳川政権が日明の国交回復を琉球を仲介させようとしたことが一番の原因でした。秀吉の朝鮮出兵で日明の国交は断絶しており、家康はどうにか関係を修復して明との貿易を行いたかったからです。

琉球が征服されると、徳川政権は島津氏に命じて日明関係の回復と貿易の復活を琉球に交渉させようとします。これを受けて島津家久は、明への3つの提案を作成します。その内容は、

(1)どこかの辺境の島で日明が出会い貿易を行う、(2)毎年中国より商船を琉球に渡航させ日明貿易の中継地とする、(3)日明両国が相互に使節船を派遣する。この三つの中から一つを明は選択せよ。もし拒否すれば、中国に日本から軍勢を派遣し、街を破壊し人々を殺戮する。

というもの。完全に脅迫です。

琉球は名護親方が使節となって、1612年にこの書簡を明朝へ提出しましたが、これが大問題となります。この時の琉球使節には日本人(おそらく薩摩の人間)も混じっており、荷物検査に刀をふりかざし反抗するというトラブルも起こしました。明朝は島津軍の征服で琉球が日本に操られていることを見抜き、本来は2年に1度の朝貢のところを、10年後にまた来い、と事実上の朝貢停止措置に出たのです。日本の交渉は失敗に終わりました。

10年後の朝貢を命じられた琉球でしたが、これに慌てた王府は、元通りの朝貢に戻すことをお願いしに明朝へ行きます。実は、名護親方はこうしたなかで、不届きな脅迫文を届けたすべての責任を負わされ、王府は処刑したと報告することで問題の沈静化をはかったわけです。とはいえ、名護親方は実際には何の罪に問われていないので、あくまでも明に向けてのポーズだったことがわかります。

ちなみに琉球は何度も旧来通りの朝貢回復をお願いするついでに、ちゃっかり貿易を行っています。なので結局、実質的に中国貿易は継続して行われていたわけです。したたかな琉球のやり方がよくわかりますね。

参考文献:渡辺美季「御取合400年―琉球・沖縄歴史再考6」(「沖縄タイムス」2009年2月26日)、上原兼善『島津氏の琉球侵略』

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コメント

我那覇親雲上 ― トカラ衆 ― というルートから、日本事情に明るいと思われる名護親方も、対中工作では妙案が思い浮かばなかったのですね。もっとも、薩摩の者に監視されては家久直々の命を改変する余地など無かったのでしょうが。
時折、中国サイトでは現代になっても向象賢などと共に筆誅を加えられているように見受けられますが、この為なんでしょうか?個人としては太田良博氏の見解に近いのですが、どちらがより愛国者であったか、などという議論は不毛なので控えます。
ところで、沖永良部が二男、与論が三男で、與湾の祖が五男という(自分にとっては妙に納得がいく)伝説は、どこから生まれたのか不思議です。

投稿: 御茶道(豊調越) | 2009年9月22日 (火) 00:59

> 御茶道(豊調越)さん
「三事」の要求が拒絶されて後、家久は尚寧に再び同内容の「福建軍門に与える書」を明へ届けるように命じますが、尚寧は拒否しています。琉球は完全に島津氏の命令を忠実に実行しない選択も可能であったようです。琉球としては明の強硬な態度は想定外だったということでしょうか。

中国サイトで羽地が否定的評価を与えられていることは初めて知りました。

名護に関する伝説については僕はちょっと詳しくわかりませんが、奄美出身の高官というのは興味深いですね。

投稿: とらひこ | 2009年9月28日 (月) 21:27

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