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2009年9月24日 (木)

ゴーレスの正体

大航海時代、ヨーロッパ人たちは琉球を「レキオ」と呼びました。そして「ゴーレス」もまた琉球人を指す名称として知られています。トメ・ピレス『東方諸国記』にはこうあります。

レケオ人はゴーレスと呼ばれる。彼らはこれらの名前のどちらかで知られているが、レキオ人というのが主な名前である。(レキオ人)は7、8日でジャンポンへ行って彼らの商品(小箱など調度品、扇、刀剣)を金や銅と交換する、レキオ人がもたらすもの(金、銅)は全部ジャンポンから来る。そしてレキオ人はジャンポンからの荷をルソン布などの商品と交換する。

このゴーレスという名前の由来はいったい何なのか、これまで明らかにされてきませんでした。しかし近年、歴史研究者の的場節子氏によってこの謎が解明されました(『ジパングと日本』)。的場氏は西欧側の史料を丹念に読み込み、琉球の金の入手先である「ジャンポン」「チャンパン」「ジャボンガ」「ぺリオコ」などが日本ではなく、いずれも東南アジア地域だったこと、16世紀に琉球船もこの海域を訪れて金・銅を入手し、東南アジア貿易を行っていたことを明らかにしています。

そして注目されるのが、氏が紹介した、リスボン国立図書館蔵のモルーカ諸島情報を記した写本の

良質の鉄で作られた原住民の刀剣はゴーレスとよばれる

という記述です。「ゴール」は東南アジアの現地語で「刀剣」を指しており、ポルトガル人はその複数形として「ゴーレス」を用いたのです。つまり、ゴーレスとは「刀剣を帯びた人々」を意味する言葉だったのです。当時の琉球人は日常的に大小の刀剣を腰に差していました。

15~16世紀の琉球は中国や東南アジアに大量の日本刀を輸出していました。日本刀は中国陶磁器とともに東南アジアへもたらされましたが、これらの日本刀は琉球が日本から入手したものとみられています。外交文書集『歴代宝案』では、多種多様の刀剣類が輸出されていたことを確認できます。なお現存する琉球の刀剣「千代金丸」や「治金丸」は刀身が日本製、外装は琉球製であると鑑定されています。おそらく輸出された日本刀は琉球風にアレンジされたものではないでしょうか。

東南アジアでは日本刀が「レケオ」と称されており、アラビア史料には鉄の産地「ゴール島(ボルネオ・セレベス島に比定)」で生産された剣がジャワ語で「リキーウー」と呼ばれていたとあります。東南アジアでは日本刀が「琉球刀」として認知されており、やがて刀剣の代名詞にまでなったわけです。
 
東南アジアへ日本刀を広めたのは、実は日本ではなく琉球だったのです。知られざる琉球の歴史がまたひとつ解明されたといえます。

参考文献:的場節子『ジパングと日本』

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2009年9月17日 (木)

島津侵攻秘話(3)

死刑になった名護親方

1614年、中国(明朝)に向かった琉球の使節は、皇帝にこう述べました。

「名護親方は使命を汚した罪により、死刑にしておきました」

名護親方と言えば当時の三司官、名護親方良豊(馬良弼)のことです。しかも名護は実際には死刑になってはいません。なぜ琉球はこうしたウソをついたのでしょうか。そして名護はいったい何をしでかしたのでしょうか。

1609年に琉球を征服した島津氏でしたが、なぜ琉球を攻めたかというと、それは島津氏のさらに上にいる徳川政権が日明の国交回復を琉球を仲介させようとしたことが一番の原因でした。秀吉の朝鮮出兵で日明の国交は断絶しており、家康はどうにか関係を修復して明との貿易を行いたかったからです。

琉球が征服されると、徳川政権は島津氏に命じて日明関係の回復と貿易の復活を琉球に交渉させようとします。これを受けて島津家久は、明への3つの提案を作成します。その内容は、

(1)どこかの辺境の島で日明が出会い貿易を行う、(2)毎年中国より商船を琉球に渡航させ日明貿易の中継地とする、(3)日明両国が相互に使節船を派遣する。この三つの中から一つを明は選択せよ。もし拒否すれば、中国に日本から軍勢を派遣し、街を破壊し人々を殺戮する。

というもの。完全に脅迫です。

琉球は名護親方が使節となって、1612年にこの書簡を明朝へ提出しましたが、これが大問題となります。この時の琉球使節には日本人(おそらく薩摩の人間)も混じっており、荷物検査に刀をふりかざし反抗するというトラブルも起こしました。明朝は島津軍の征服で琉球が日本に操られていることを見抜き、本来は2年に1度の朝貢のところを、10年後にまた来い、と事実上の朝貢停止措置に出たのです。日本の交渉は失敗に終わりました。

10年後の朝貢を命じられた琉球でしたが、これに慌てた王府は、元通りの朝貢に戻すことをお願いしに明朝へ行きます。実は、名護親方はこうしたなかで、不届きな脅迫文を届けたすべての責任を負わされ、王府は処刑したと報告することで問題の沈静化をはかったわけです。とはいえ、名護親方は実際には何の罪に問われていないので、あくまでも明に向けてのポーズだったことがわかります。

ちなみに琉球は何度も旧来通りの朝貢回復をお願いするついでに、ちゃっかり貿易を行っています。なので結局、実質的に中国貿易は継続して行われていたわけです。したたかな琉球のやり方がよくわかりますね。

参考文献:渡辺美季「御取合400年―琉球・沖縄歴史再考6」(「沖縄タイムス」2009年2月26日)、上原兼善『島津氏の琉球侵略』

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2009年9月10日 (木)

島津侵攻秘話(2)

琉球に贈られた狩野派の屏風

島津氏が琉球へ外交圧力をかけていくきっかけとなったのが、1575年の「綾船(あやぶね)一件」と呼ばれる事件です。島津義久の家督相続を祝う「綾船」を琉球が派遣した際、島津氏が強硬な態度でさまざまな要求を突きつけ、その要求を呑ませようとした事件です。「綾船」とは琉球の正式な使節船のことで、「綾(あや)」とは琉球語で「あざやかな、飾られた」という意味。首里城の坊門(飾りの門)である守礼門が「綾門(あやじょう)」と呼ばれていることからもわかります。

それまでの琉球と島津氏の関係は、基本的に対等な関係でした。ところが、島津氏が南九州を統一し勢力を拡大するようになると、琉球へ向かう船の統制をはかろうとして、琉球王府に島津氏の発行した印判(渡航許可証)を持たない商船を受け入れないよう強制します。しかし、たくさんの商船を招致することで成り立っていた琉球にとって渡航規制をすることは死活問題です。琉球は島津氏のたび重なる要求を黙殺していましたが、「綾船一件」でしぶしぶ島津氏の要求を呑むことになりました。

両者の関係が悪化するなか、島津氏老中の伊集院忠棟は狩野法眼(ほうげん)に直接注文して描かせた屏風を琉球の円覚寺にプレゼントし、円覚寺のほうから琉球国王へその仲を取り次ぐように依頼しました。依頼の手紙と屏風はトカラ列島の海上勢力であった七島衆によって運ばれています。

円覚寺は琉球最大の寺院で、単なる宗教施設ではなく対日外交担当部局としての役割も果たしていました。さらに当時の円覚寺には島津義久が幼少の頃、薩摩で教えを受けていた僧侶もいました。島津氏との個人的な関係も持っていたわけで、こうしたつながりから忠棟は円覚寺へ手紙を送ったのです。

狩野派といえば当時の日本で将軍家や諸大名から珍重された画家の一派です。その絵が琉球の円覚寺にも存在したことになります。残念ながらこの屏風は現存していないので、どのようなものだったかはわかりませんが、伊集院忠棟はこうした高価な美術品を贈ることによって、琉球との交渉の糸口を探ろうとしたのです。

参考文献:深瀬公一郎「十六・十七世紀における琉球・南九州地域と海商」(『史観』157冊)

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2009年9月 3日 (木)

島津侵攻秘話(1)

今年は薩摩島津軍が琉球へ侵攻してからちょうど400周年です。この歴史的事件は比較的有名なのですが、詳細を知る人はあまり多くないと思います。そこで今回から数回に分けて、琉球侵攻事件にまつわるお話を紹介していきたいと思います。

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薩摩の尚寧、東に祈る
1609年、島津軍3000が琉球を襲い、占領しました。尚寧王は降伏し、4月5日に首里城を明け渡すことになりました。やがて島津軍の大将・樺山久高は尚寧王に、「薩摩へ渡って(島津家久に)御礼をしなければならない」と日本へ渡航するよう強制します。琉球の王が他国へ渡るなど前代未聞です。しかし敗れた王にこれを拒否する権利はありませんでした。

5月15日、島津軍とともに尚寧王と供の者100人あまりが鹿児島へ向けて那覇港を発ちました。やがて一行は薩摩の山川港を経て、島津家久のいる鹿児島へ到着しました。鹿児島では新造の屋敷が用意されていて、尚寧王はしばらくそこに滞在していました。

そして年明けて1610年。新年を異国で迎えた尚寧王は、元旦にある祈りを行います。その様子を伝えた『喜安日記』にはこう書かれています。

正月三が日は尚寧王のもとに誰も訪れてこなかったが、朝の御拝を東方に向いて祈られた

この行為は今まで注目されてきませんでしたが、非常に興味深いものです。尚寧王はただ気まぐれに祈っていたのではありません。

古琉球では、元旦に首里城正殿前の御庭で「朝拝御規式(ちょうはいおきしき)」と呼ばれる、王国の年中儀礼のなかで最大のイベントが行われていました。これは御庭に諸官一同・諸山の長老(和尚)が整列し、その年の吉方(恵方)に向かって祈る儀式です(近世には北方に固定)。中国系の音楽が流れ鮮やかな旗・儀仗で飾られた荘厳なものでした。

しかしこの年、王は鹿児島へ連行されていたので儀式が行えません。そこで囚われの王は臨時的にたった一人で祈りを行っていたのです。東方に祈ったというのは、あるいは東方海上に存在すると考えられた別世界「ニライ・カナイ」の方角に向けてのものだったかもしれません。

王は太陽(てだ)の化身とされ、その力は琉球世界を豊穣にすると考えられていました。正月の儀礼は、その年の安泰を祈願する役割もありました。もしかしたら二度と戻ることはできない状況で、尚寧王は遠く離れた異国の地から琉球の幸せを祈っていたのです。

参考文献:『喜安日記』

※【画像】は近世期の朝拝御規式における国王(再現)

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