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2009年6月24日 (水)

三山は存在しなかったのか

琉球王国が成立する前、沖縄島には、中国から「山北(北山)」「中山」「山南(南山)」と呼ばれた3つの大きな勢力に分かれ、覇権を争っていた時代があります。いわゆる「三山時代」です。名称については「山」が「島」を意味することから、「沖縄島のどこの部分」という程度の意味になります。例えば「山北」は「(沖縄)島の北」ということです。ところで、この三山が実は存在しなかった、名ばかりで実体などなかったという意見があります(ナ、ナンダッテー!)。これは本当なのでしょうか。

Photo

【三山の図(クリックで拡大)】

結論を先に述べてしまいますと、この説にはかなり無理があります。

琉球に渡来した明使の路謙は、琉球国内で対立する三山の様子を目の当たりにして明朝廷に報告し、1383年に皇帝から三山の各王へ停戦が勧告されています(『明太祖実録』)。「三山」という称号はもともと中国側が付けたわけですが、沖縄内部の事情をある程度把握したうえでの区分だったのです。停戦勧告はこの時点でまだ入貢していない北山にまで届けられましたが、それは中山・南山以外に対立するもうひとつの勢力が存在していたからこその行動です。

〔追記〕明朝が琉球の政情を正確に把握していたことは、1372年の入貢要求に当たって当時最大の勢力だった浦添の「世の主」察度にまず要請したことからも明らかです。浦添グスクは石積み郭に土塁・水堀を備え、他のグスクを圧倒する4万平方メートルの規模を誇っており、周辺には王墓(ようどれ)、寺院(極楽寺)、人工池(魚小堀)を配置していました(安里進『琉球の王権とグスク』)。三山時代の琉球において、浦添(中山)が他と隔絶した力を持っていたことがわかるかと思います。

三山時代の当時、沖縄各地は戦乱状態で軍事的な対立があったことは、外敵の侵入に備えるための防御機能をもったグスク、またそこから出土する多数の武器類の存在からも明らかです。

また中山王の尚巴志が首里城周辺を整備した際に建立した「安国山樹花木之碑記」(1427年)には

琉球、国分かれて三となり、中山、其の中に都す

と刻まれていて、三山時代当時の琉球においても国内が三分されていると認識されていたことがわかります。これは後世の歴史観が全く入る余地のない、しかも他者ではない当事者の認識であることから、三山が存在したことを裏付ける決定的な証拠です。

ちなみに碑文の起草者は「安陽澹菴(あんよう・たんあん)」。僧侶である可能性が指摘されています。文は「安陽澹菴猊(げい)、寅(つつし)み記す」とあり、「猊(猊下、猊座)」は高僧に対する敬称なので、僧(おそらく禅僧)で確定でしょう。この当時、琉球はすでに「十刹(じっさつ)」という官寺が整備され仏教がさかんだったので、別におかしなことではありません。

というわけで、14世紀後半から15世紀初頭の沖縄島に、政治的に対立する3つの勢力が実体として存在していた事実はまず間違いありません。

このように明々白々な証拠が存在する以上、議論は終了なわけです。自分の欲しい結論をあらかじめ先に設定し、さまざまな史料をその鋳型に強引にはめていく手法をとれば、以上あげた史料を「意図的に作り上げられた陰謀だ」と主張することも、あるいはできるかもしれません。しかし、史料と虚心に向かい合い論理的に考えれば、三山の存在はゆるがない事実と考えていいでしょう。

参考文献:『明実録』、「安国山樹花木之碑記」、高橋康夫「古琉球の環境文化―禅宗寺院とその境致」(鈴木博之ほか編『シリーズ都市・建築・歴史4 中世の文化と場』)、知名定寛「尚巴志王咨文と古琉球仏教」(『沖縄文化』93号)、吉成直樹・福寛美『琉球王国と倭寇』、『琉球王国誕生』

※琉球王「朝鮮系倭寇」出自説については【こちら】を参照。

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コメント

お久しぶりです。

>自分の欲しい結論をあらかじめ先に設定し、さまざまな史料をその鋳型に強引にはめていく手法をとれば、以上あげた史料を「意図的に作り上げられた陰謀だ」と主張することも、あるいはできるかもしれません。

まさに、その通りですね。
学問に限らず、社会全般でも自分の論理に事象を当てはめようとする人は、どこにでもいるものです…。
コマッタモンデスナ~ ┐(´-`)┌

また機会があれば飲りましょう。

投稿: ひさし | 2009年6月25日 (木) 22:19

とらひこさま。
お久しぶりです。


「三山は存在しなかった」説が
どうして出たのか、
不思議ですね


文献資料や出土遺物が証拠って感じだけど…

逆に私達が
思い込んでるのかなぁ

投稿: あまりりす | 2009年6月26日 (金) 00:12

>ひさしさん
どうもおひさです。

最近、琉球史研究では件の説を主張するような一部の論者が気勢をあげています。琉球史の基本を知っていればこんなことはいえないはずなんですが・・・本当に困ったものです。

投稿: とらひこ | 2009年6月26日 (金) 00:22

>あまりりすさん
三山の実態があったことは、記事で紹介しましたように明らかです。

なぜこういう説が出て来たかというと、それは三山時代の政体について、琉球側と中国側の認識に齟齬があり、そうした「事実の不一致」が影響していると思います。

この問題は後日、論文をふくめた媒体で論じたいと思います。

投稿: とらひこ | 2009年6月26日 (金) 00:30

はじめまして。
琉球の歴史をしらべるのが好きな私にとって、このようなサイトがあることに感激です。
今回の件と全く違うのですが、長いのですが意見を述べます。「かつて琉球には三山があった」とのことでありますが、その中でも『中山』に勝連城勢力圏は含まれるのでしょうか?
著者名を忘れ、内容もうろ覚えなのですが、「三山とは当時の明国政府から見た琉球国内の政体数であるが、当時の勝連城主は北山・中山・南山と対抗しうるほど独自に繁栄を築き、勢力を形成していた。実態としては”四山”であったのだが、当時琉球に駐留していた朱明府領事官は勝連勢力に対し相当な危機感を抱き、首里王府に手を回し、勝連城主を滅ぼした(=最終的に阿麻和利の征討)」という内容の論文を読んだことがあります。
今のところこの主張を裏付ける重要な資料はないのですが、勝連城下が「ここは琉球の鎌倉だ」と”おもろさうし”に例えられ、その繁栄の礎となったのは奄美地方との交易が盛んであったことが推察されることから、「勝連城下が三山と肩を並べるほどの独自の勢力を築いていた」はあながちデタラメな推理と呼べないと思うのですがいかがでしょうか?
個人的な疑問ですが、阿麻和利が滅ぼしたとされるモチヅキ按司は「なぜ日本人ぽい名前なのだろう?」と気にかかる部分もあります。

投稿: からあげちきん | 2009年7月12日 (日) 15:27

>からあげちきんさん

はじめまして。訪問ありがとうございます。

三山時代の勝連についてですが、「三山のうち、中山という政体に所属する有力按司」ということだろうと僕は思います。

本記事で書きましたように、「三山」という政体は実体として存在したことはもはや確実だと思いますが、では勝連のような事例をどう考えればいいのかということでしょうね。

たしかに三山は強固な「国家」というよりも按司連合政権としての性格が強く(安里進『考古学から見た琉球史』など参照)、各按司がある程度動ける余地があり、そのなかで勝連が強い勢力を持っていたことは事実です。しかし、そのことによってただちに三山に匹敵しうるような政体「四山」であったという風にはいえないと思います。

奄美という地方との交流や朝鮮への単発的な貿易(ただの1度だけ)は確認されるものの、明朝への朝貢貿易というメインストリームには単独で参入することはできていません。明側も勝連を「四山」と認めていません(明朝が琉球側の政情を把握していたことは、本記事以外にも、1372年の入貢要求に当たりまず琉球最大勢力・浦添に要請した事実からも傍証)。また久米村に匹敵するような外交・交易を担う機構や三山のように明から下賜された大型海船、勝連に従属する各按司も確認されてはいません。つまり三山と勝連という権力体において明確な「質」の差があったわけです。

勝連を語る際、よく『おもろさうし』などで繁栄ぶりが強調されていますが、そもそも阿麻和利が首里の尚氏による統一王朝下の傘下にあったことは、護佐丸・阿麻和利の乱でも明らかなように思います。勝連は首里の王への従属下で(ゆるやかではあるけれども)存在していたわけであって、だからこそ阿麻和利は反抗したらただちに潰されたのです。

またご指摘の説は、おそらく太田良博氏の説ではないかと思いますが、まず「朱明府領事官」なる権力者自体が存在しませんし、この説は多くの支持を受けるにいたっていません。当時の久米村は三山全ての外交・貿易活動の実質的な担い手で、独立した港市那覇の勢力でした。ですが久米村はあくまでも明朝にオーソライズされた琉球現地王権のなかではじめて力を発揮できたのであって、首里の王権と強い結びつきがあったものの、王権を華人の傀儡とするまでの力はないように思います。

まとめますと、「三山」というゆるやかな政権の中で、勝連は確かにそれに匹敵する可能性は萌芽していたものの、実体としてそこまでには至らなかった、ということなのではないかと思います。やはり「中山の勢力下にある有力按司」という位置づけで大過ないのではないでしょうか。

なお「もちづき按司」についてですが、一見日本人風に見えなくもないんですが、実はこの「もちづき」という言葉、琉球の高級神女の名前にも登場する美称でして、決して沖縄にはない珍しい名前というわけではありません。なのでこの按司の名前も日本人の名前というより勝連の按司を美称で呼んだもの、と考えたほうがいいように思います。

投稿: とらひこ | 2009年7月12日 (日) 19:04

北山は(ホクザン)、南山は(ナンザン)とのフリガナはわかりましたが、山北、山南はどうフリガナするのですか?

投稿: 髙橋 賢一 | 2016年11月 7日 (月) 09:01

>髙橋 賢一さん
お返事遅れました。

サンホク、サンナンと読みます。

投稿: とらひこ | 2016年11月21日 (月) 10:39

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