三山は存在しなかったのか
琉球王国が成立する前、沖縄島には、中国から「山北(北山)」「中山」「山南(南山)」と呼ばれた3つの大きな勢力に分かれ、覇権を争っていた時代があります。いわゆる「三山時代」です。名称については「山」が「島」を意味することから、「沖縄島のどこの部分」という程度の意味になります。例えば「山北」は「(沖縄)島の北」ということです。ところで、この三山が実は存在しなかった、名ばかりで実体などなかったという意見があります(ナ、ナンダッテー!)。これは本当なのでしょうか。
【三山の図(クリックで拡大)】
結論を先に述べてしまいますと、この説にはかなり無理があります。
琉球に渡来した明使の路謙は、琉球国内で対立する三山の様子を目の当たりにして明朝廷に報告し、1383年に皇帝から三山の各王へ停戦が勧告されています(『明太祖実録』)。「三山」という称号はもともと中国側が付けたわけですが、沖縄内部の事情をある程度把握したうえでの区分だったのです。
〔追記〕明朝が琉球の政情を正確に把握していたことは、1372年の入貢要求に当たって当時最大の勢力だった浦添の「世の主」察度にまず要請したことからも明らかです。浦添グスクは石積み郭に土塁・水堀を備え、他のグスクを圧倒する4万平方メートルの規模を誇っており、周辺には王墓(ようどれ)、寺院(極楽寺)、人工池(魚小堀)を配置していました(安里進『琉球の王権とグスク』)。三山時代の琉球において、浦添(中山)が他と隔絶した力を持っていたことがわかるかと思います。
三山時代の当時、沖縄各地は戦乱状態で軍事的な対立があったことは、外敵の侵入に備えるための防御機能をもったグスク、またそこから出土する多数の武器類の存在からも明らかです。
また中山王の尚巴志が首里城周辺を整備した際に建立した「安国山樹花木之碑記」(1427年)には
「琉球、国分かれて三となり、中山、其の中に都す」
と刻まれていて、三山時代当時の琉球においても国内が三分されていると認識されていたことがわかります。これは後世の歴史観が全く入る余地のない、しかも他者ではない当事者の認識であることから、三山が存在したことを裏付ける決定的な証拠です。
ちなみに碑文の起草者は「安陽澹菴(あんよう・たんあん)」。僧侶である可能性が指摘されています。文は「安陽澹菴猊(げい)、寅(つつし)み記す」とあり、「猊(猊下、猊座)」は高僧に対する敬称なので、僧(おそらく禅僧)で確定でしょう。この当時、琉球はすでに「十刹(じっさつ)」という官寺が整備され仏教がさかんだったので、別におかしなことではありません。
というわけで、14世紀後半から15世紀初頭の沖縄島に、政治的に対立する3つの勢力が実体として存在していた事実はまず間違いありません。
このように明々白々な証拠が存在する以上、議論は終了なわけです。自分の欲しい結論をあらかじめ先に設定し、さまざまな史料をその鋳型に強引にはめていく手法をとれば、以上あげた史料を「意図的に作り上げられた陰謀だ」と主張することも、あるいはできるかもしれません。しかし、史料と虚心に向かい合い論理的に考えれば、三山の存在はゆるがない事実と考えていいでしょう。
参考文献:『明実録』、「安国山樹花木之碑記」、高橋康夫「古琉球の環境文化―禅宗寺院とその境致」(鈴木博之ほか編『シリーズ都市・建築・歴史4 中世の文化と場』)、知名定寛「尚巴志王咨文と古琉球仏教」(『沖縄文化』93号)
※琉球王「朝鮮系倭寇」出自説については【こちら】を参照。


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