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2009年5月10日 (日)

侵攻400周年シンポに参加して

5月9日、沖縄県立博物館で「薩摩の琉球侵攻400年を考える」シンポジウムが開催されたので、参加してきました。参加人数は数百人を超え、臨時に第三会場まで用意するという盛況ぶり。沖縄での関心の高さがうかがえます。

報告者は琉球史研究を牽引する先生方、また本土や奄美からの研究者も参加したそうそうたるメンバーでした。さまざまな切り口から薩摩侵攻についての報告が行なわれました。とくに面白かったのは女性史や民間伝承、精神史の面から薩摩侵攻事件にせまった報告など。これまで考えたことのない新しい視点からの話は、とても興味深いものでした。

さて僕が今回この記事を書くのは、シンポジウムで琉球の軍事的対応をめぐる議論について、報告者の方々の意見に少々疑問を感じたからです。基調報告をされた上原兼善先生は、侵攻事件の経過を説明するなかで、島津軍に対する琉球の軍備は劣弱でしかも火器兵器が装備されていたかったことを、1606年に琉球を訪れた夏子陽『使琉球録』を根拠に主張されていました。またパネルディスカッションにおいても、琉球は軍事組織と呼べるほどの軍団が編成できない状態で、島津軍に対応したとの意見がありました。

琉球の軍事をめぐる問題を調べている僕からしますと、この見方には賛同しかねる部分があります。

まず1609年直前における琉球の武装と火器について。上原氏は夏子陽の「琉球の武器は刀ぐらいで、矛も弓もさほど役立つものではない」とのコメントをあげ、火器について言及されていないから火器は常備されていなかったとしています。しかし1605年の袋中『琉球往来』のなかには、琉球の「那呉ノ館(名護親方か)」の保有する武器照会で、「甲冑300領、弓500張」とともに「銃(テヒヤ)大小200挺」と具体的な武器・武具類が詳細に記されています。『琉球往来』中の文書は実際に発された文書ではありませんが、当時の琉球の状況、風俗・文化などをかなり正確に反映していることから、王府の軍団編成のなかで多数の火器が装備されていたことはほぼ間違いありません(この話は拙稿「琉球の火器について」のなかでも言及しています)。

また上原氏は那覇港口での戦いで「石火矢(大砲)」が使用されたという話を挙げられていましたが、これこそが琉球が組織的な軍事行動で火器兵器を実戦使用していたことに他ならない事実なのではないでしょうか。この事実は、なぜか琉球が火器で武装されていた証拠としては採用されていませんでした。

興味深いのは、『琉球往来』中の「銃」に「テヒヤ」とルビがふってあることです。このテヒヤは「手火矢」だと考えられます。この「手火矢」という用語、実は九州地方での火縄銃の地域的な呼称なのです(宇田川武久『東アジア兵器交流史の研究』)。史料中の「銃」が中国式火器なのか火縄銃なのか不明ですが、少なくとも琉球での銃の呼称が、九州地方での火縄銃の呼称と共通することを確認できます。

また、史料中の銃と弓矢の保有比率からも、琉球の武装の様子がうかがえます。弓500張に対し銃が200挺と、その比率が5:2と弓矢のほうが多いのです。これは琉球の軍隊が少なからず火器で武装しながらも、その主力兵器がいまだに弓矢だったことを表わしています。ちなみに1609年の島津侵攻軍の武装は、弓117張に対し鉄砲734挺と圧倒的に火器が多いことがわかります。

つぎに琉球の軍事組織が、16世紀に奄美・先島を征服したような規模で維持されておらず(つまり軍隊としての能力が100年間で縮小したということでしょうか)、港を守る程度の組織で島津侵攻軍を迎え撃った、というディスカッションでの結論ですが、史料には琉球での軍事組織の改変・縮小を示すような事実が全くないうえに、1571年には尚元王が奄美反乱の鎮圧のため軍隊を派遣しており(『中山世譜』)、外征能力を依然として備えた軍事組織を持っていたと考えたほうが妥当です。

また1606年の夏子陽『使琉球録』には、倭寇来襲の情報に接した王府が毛継祖(豊見城親方)率いる1000人の兵を今帰仁へ派遣したとあり、有事の際には首里・那覇港以外の場所にただちに軍事組織が急行できる体制であったことが明らかです。そもそも夏子陽の「琉球の武装が劣弱である」とのコメントは、あくまでも彼個人がみた印象にすぎない点を考慮しなくてはいけないように思います。さまざまな史料を先入観なしで総合してみれば、琉球は国力相応の軍事力を持っていたとしか評価できず、港の警備隊程度しかなかったとの評価は正しくないと僕は考えます。

では、琉球が軍事組織を持ちながらなぜ島津軍に負けたのかという問題ですが、それは琉球側の軍事組織の運用方法や、島津軍との戦力差(兵数だけに限定されない諸要素ふくむ)という、軍事組織の有無そのものとは別次元の問題であって、「あっけなく負けたから」「激しく戦闘した様子がみられないから」というのは軍事組織を備えていなかった根拠にはなりません。

実際に琉球は那覇に王府直轄軍の兵力ほぼ全てを投入しており、港を守備すれば島津軍の侵攻を防げると考えていたふしがあります。島津側の史料『琉球入ノ記』で那覇港に突入した七島衆の島津軍船が謝名親方3000の軍に「大石火矢(大砲)」で撃退された記事だけでなく、『歴代宝案』には三司官の謝名親方・豊見城親方率いる3000の軍勢が那覇を防御している記述があり、『喜安日記』にも「若き公卿・殿上人は(略)一戦せんとぞ申しける。去程に、夜も漸く明行侭、那覇へ下りぬ」とあります。これまでこの一節は見逃されてきましたが、『歴代宝案』の記述と合致することから、那覇に防衛軍が派遣されたのは間違いないでしょう。

〔追記〕島津軍侵攻を伝える琉球側の史料『喜安日記』は、これまで信頼性の高い史料として、多くの研究者に引用されてきました。であるならば、島津軍と一戦すべく那覇に出動した王府高官たちの記事を軽視するわけにはいかないはずです。つまり、『歴代宝案』の那覇防衛戦を傍証する、ゆるぎない根拠となるのです。

なぜ港に兵力を集中させたかというと、80隻もの島津軍船が安全に停泊・上陸できる場所は、サンゴ礁で囲まれた沖縄島には那覇・運天など限られた場所しかなかったからです。実際に島津軍の船団は港として使用できる運天・那覇をめざし、那覇に防御網があることを知った島津軍は、途中、大湾渡口から上陸しています。ここも比謝川の河口に位置する絶好の船の係留場所でした。

那覇港と別の地点から上陸した島津軍は、琉球の防備の裏をついて王都・首里へ入り勝利を決したため、実際に両軍の主力が正面から激突することはありませんでしたが、戦闘した様子がなかった事実によって琉球の軍事組織が軽微だった、もしくは存在しなかったとの結論にはもっていけません。【軍事組織が存在したこと】と【戦闘を行なったかどうか、勝ったか負けたか】はひとまずは切り離して考えるべきではないでしょうか。

〔追記〕1609年の琉球・島津氏戦争の展開をあえてわかりやすく例えて言うとしたら、第二次大戦時のナチス・ドイツのフランス侵攻をあげることができるでしょうか。ドイツ国境沿いに140キロにわたって構築された一大要塞網のマジノ線を頼みに、総兵力・戦車数ともにドイツと対等以上だったフランスは、部隊を配置していないアルデンヌの森を突破されて背後をつかれ、一気に崩壊します。フランスは第一次大戦時の装備とほぼ変わらない状態であり、ドイツとの装備・兵器運用面の差は歴然だったのですが、フランスの一番の敗因を「フランスの武器が劣弱だったから」「士気が旺盛でなかったから」と主張したら、多くの専門家は首をかしげるのではないでしょうか。またこの戦いで両軍主力が全面的に衝突しなかった(=大規模な戦闘がなかった)ことを根拠に「フランスには軍事組織がほとんどなかった」という結論を導き出したとしたら?琉球史ではなぜかこれがまかり通ってしまうのが不思議です。

今回のシンポジウムは、さまざまな論点と400周年の歴史的意義という大きな話がメインだったため仕方ない面もありますが、歴史学研究においてこれまで軍事史という視点がおざなりになっていたという問題は、琉球史研究にも当てはまるように思いました。

とくに侵攻事件は琉球が直面した対外戦争です。事件の経過をきちんと押さえていくのであれば、まず軍事的な視点から史料を分析することを第一に行なう必要があります。それは、たとえば石高制の問題について研究する際に、まず経済史の視点をふまえて分析するのと同じことではないでしょうか。このような考えが琉球史において認知されることを願ってやみません。

参考文献:上里隆史『琉球の火器について』(『沖縄文化』91号)、「島津軍侵攻と琉球の対応」(『新沖縄県史・近世編』)、宇田川武久『東アジア兵器交流史の研究』

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〔追記〕琉球側の戦術・布陣と那覇港口の戦いを知ることのできる史料に『歴代宝案』(1-18-3文書)があります。

四月初一日、倭寇、中山の那覇港に突入す。卑職、師官鄭迵・毛継祖に厳令して技兵三千余を統督せしむ。兵を披(つ)け鋭を執り、雄として那覇江口に拠りて力敵す。

彼の時、球兵は陸に居りて勢強し、蠢倭は水に拠りて勢弱し。百出して拒敵すれば、倭は其れ左なり。且つ又、倭船は浅小にして武を用い難し。箭もて射れば逃ぐるに難く、鋭〔「銃」に訂正※〕もて発すれば避くる莫(な)し。急処に愴忙し、船は各自連携(つらな)り角(あらそ)いて礁に衝(あた)る。沈斃し及び殺さるるもの、勝(あ)げて紀(しる)す可からず。

詎(なん)ぞ、彼の倭奴の蔵兵継ぎ至り、陸に沿い東北従(よ)りして入るも兵の備禦する無し。虞喇時(うらしー。浦添)等の地方、悉(ことごと)く焚惨を被(こうむ)る。

【現代語訳】

4月1日、倭寇(島津軍のこと)が琉球の那覇港に突入した。わたくし(明朝皇帝に対しての尚寧王の自称)は司令官として謝名親方・豊見城親方に命令して、精鋭の兵3000あまりを統率させた。兵を率いて「鋭(優秀な武器)」をとり、雄として那覇港口に布陣して、つとめて敵に備えた。

その時、琉球兵は陸にあって勢い強く、島津兵は海にあって勢いが弱かった。さかんに出撃して敵を防げば、島津兵は劣勢におちいった。さらに島津軍船は狭小で戦うに困難である。(我らが)弓矢を射かければ逃げることができず、「銃」※を発すれば避けることができない。あわてふためいて狭い場所(港の出口か)に殺到し、各船はぶつかってサンゴ礁に衝突した。溺死したり殺されたりしたものは数えきれなかった。

しかし何ということだろうか、かの島津軍には伏兵(本当はこちらが主力部隊)があり、陸路に沿って東北(ここでは沖縄島中部)から侵入したのだが、そこには我らの兵の防御がない。浦添などの地方はことごとく戦火の被害を受けてしまった。

『歴代宝案』の文書は宗主国の明朝向けであることから脚色がありますが、事件の経過・日時そのものは正確です。おそらく事実をもとに、それらに肉付けしていったと考えられます。いずれにせよ、この史料からは、琉球王府は島津軍船の上陸地点となる那覇港口を決戦場として考え3000の主力部隊を布陣させ、港口の防御は一定の効果があったものの、沖縄島中部に兵を配置しておらず、陸路から侵入した島津軍の動きは琉球の想定外であったことがわかります。

そして注目されるのが「鋭もて発すれば」という部分です※。「鋭」とは「するどい武器、刃物」というほどの意味ですが、ここでの攻撃は弓矢とともに「発する」という、遠距離兵器的な性格を持っていたことがうかがえます。これこそが『琉球入ノ記』でみた「大石火矢」なのではないでしょうか。

※【再追記】この『歴代宝案』に記載された「鋭」という記述ですが、本ブログの記事「島津氏の琉球侵攻(2)」のコメントにおいてミソタソー専門家を自認される「パンダル50cc」氏からの指摘によって原本を確認したところ、「鋭」ではなく「銃」であることが判明しました。氏は2日間で50コメント以上、1晩で38コメントという熱意あふれる僕へのご批判(というか罵詈雑言が大半)を間断なく展開されましたが、「パンダル50cc」氏のご指摘によって、僕の主張する那覇港での大型火器使用の事実は決定的なものとなり、那覇港口の戦いの蓋然性はさらに高まりました。記して感謝したいと思います。

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コメント

以前、『目からウロコの琉球・沖縄史』を読ませていただき面白かったです。
ことしは400周年ということで本の執筆はされるのでしょうか。

投稿: ryuchan | 2009年5月19日 (火) 17:19

>ryuchanさん
拙著、読んでくださりありがとうございます。

実は400周年に関連した本を刊行予定です。1年に1冊ペースでつらいところですが、頑張って執筆中です。

申し訳ありませんがしばらくお待ちください。ただし時間をかけた分、読んで面白かったと言わせるような内容にできると思っています。ご期待ください。

投稿: とらひこ | 2009年5月21日 (木) 10:36

平和主義でいきたいですが、外敵に圧倒されない軍事力は必要ですね。

投稿: 琉球人 | 2009年6月21日 (日) 02:44

>琉球人さん
島津軍が琉球に侵攻するまでの琉球の対応は、自らが屈しないかたちで外交で何とか解決しよう、ともがいていたように見えます。

琉球は戦争に負けてしまいましたが、朝鮮のようにもう少し粘れば島津軍を撤退させることができたかもしれません。

投稿: とらひこ | 2009年6月26日 (金) 00:17

さすが上里さん冷静な指摘と議論ですね。
著作がんばって下さい。楽しみにしています。

投稿: いしみね | 2009年7月 7日 (火) 16:29

>いしみねさん
ありがとうございます。著作は原稿がようやく完成です。刊行までしばらくお待ちください。

投稿: とらひこ | 2009年7月 8日 (水) 07:50

>1609年の琉球・島津氏戦争の展開をあえてわかりやすく例えて言うとしたら、第二次大戦時のナチス・ドイツのフランス侵攻をあげることができる

ついでに言うならば、太平洋戦争初頭のマレー作戦や蘭印作戦を挙げることもできるかもしれませんね。戦力的に言えば、むしろ連合国軍の方が日本軍を上回っていましたが、日本軍の電撃的な侵攻によって、指揮系統の混乱や訓練不足も相俟って、割とあっさりと降伏してしまっています。

投稿: 御座候 | 2009年7月13日 (月) 13:32

>御座候さん
マレー作戦は「日本版電撃戦」とも呼ばれてますから、そうですね。

かつてシンガポールの英軍司令部壕(バトルボックス)を見学しましたが、迫る日本軍に混乱する英軍内の様子が再現されていて印象的でした。

投稿: とらひこ | 2009年7月14日 (火) 10:38

僕らは小学校の時から「島津は武器の無い平和な琉球を武力で侵略・・」なんて教わって来ましたが。しかし先島や奄美の住民からすれば琉球に武力で侵略されたわけだし・・「琉球の住民も大鍋の煮えたお粥を島津軍に浴びせ勇敢に抵抗・・」なんて話しをあたかも正史のように伝えたれてるのは勇敢というより滑稽な話である。やはり琉球にも軍隊がいたんですね。

投稿: ひで | 2010年6月 3日 (木) 22:23

>ひでさん

コメントされているのに気づきませんでした。大変失礼しました…

僕は決して琉球が軍事大国であったと主張したいわけではありませんが、「それ相応の」軍事組織があったことは見過ごしてはいけないような気がします。

投稿: とらひこ | 2012年4月28日 (土) 11:34

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